十種神宝、石上坐布留御魂神社、物部

December 2018 編集されました カテゴリ: 大和王朝
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島根県の物部氏は、邇芸速日命の子「宇麻志摩遅命」を総氏神にしていた。 神剣は王権の徴(しるし)であり、これを奉…

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コメント

  • 物部氏と経津主との関係
    『古事記』にはそもそも経津主の名が見えないが、『日本書紀』や物部系とされる『旧事本紀』をみてもそれほど明確ではない。物部氏と経津主を結び付けているのは、物部氏の関係する石上神宮の祭神であるフツノミタマと経津主を同一視することによっていると思われる

    タケミカヅチによって高倉下に与えられた剣であるフツノミタマと結び付けられているのは、『古事記』でも『先代旧事本紀』でもタケミカヅチでる。
    イザナギがカグツチを斬ったところでも、『古事記』では建御雷之男神の亦名として建布都神・豊布都神があげられ、『先代旧事本紀』でも前述したように建甕槌之男神の亦名として建布都神・豊布都神と記されたている。

    フツノミタマと物部氏との関係
    「天孫本紀」に宇摩志麻治がその勲功により神武天皇より与えられたものとされているだけである。『日本書紀』ではフツノミタマはタケミカヅチによって高倉下に授けられた剣ではあるが、タケミカヅチ自身が建布都神・豊布都神であるという記載さえない

    『日本書紀』では、垂仁天皇の条に石上神宮のことがあり、五十瓊敷命が茅渟の菟砥の川上宮で一千口の剣を造らせて石上神宮に納め、後に石上神宮の神宝を掌せられたが、老いたので妹の大中姫にその役目を譲ろうとしたが、大中姫は物部十千根大連に授けて治めさせたとあり、一説として、五十瓊敷皇子が太刀一千口を造らせたとき、楯部・倭文部など合せて十種の品部を賜り、一千口の太刀 を忍坂邑に納めたが、その後忍坂邑から石上神宮に移し、この時神が春日臣の一族の市河という者に治めさせよといったので、市河に命じて治めさせたともある。

    どちらにしても、石上神宮とフツノミタマとの関係そのものが語られていない。

  •  『新撰姓氏録』の大和皇別の布留宿祢の条に、「大鷦鷯天皇御世。達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地」とある。
    布留宿祢は物部氏ではなく天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後で春日臣や小野氏・大和和邇氏と同族とされ、天足彦国押人命は古事記によれば孝安天皇とともに孝昭天皇と尾張連の祖奥津余曾の妹余曾多本毘賣の間に生まれた子で、布留宿祢も物部氏より尾張氏・海部氏・和邇氏に近い氏族である。経津主は物部氏というよりは尾張氏・海部氏・和邇氏と関係する神とすべきかもしれないのである。

    葦原中国の平定にタケミカヅチとフツヌシが活躍しているが、タケミカヅチは藤原氏が後から割り込ませたもので、もともと経津主一人だったともいわれ、そうすると高倉下に剣を授けたのも経津主だったということにもなるが、経津主が尾張氏・海部氏と関係するなら、尾張氏・海部氏の祖の一人である高倉下が経津主によりフツノミタマの剣を授けられ、その剣を尾張氏・海部氏と関係の深い春日臣の市河がフツヌシ神社即ち石上神宮で祀るということで、話が一貫することになる

  • 忍坂
    五十瓊敷入彦命は自ら指揮して茅渟の菟砥川上宮で作り上げた「剱千口」を忍坂邑に蔵(おさ)めて、国の軍備を盤石なものに為したと伝えられて来ました

    忍坂と帝室を直接結びつける「物証」、それが、国宝の隅田八幡人物画像鏡

    「意柴沙加宮」という文言が「おしさか」に存在した「宮(貴人の住む大きな建物)」を表したものだと考えられています。また「癸未年」を443年と仮定した場合には、その頃の大王として允恭(?~453)が該当し「男弟王」には皇后忍坂大中姫命の兄弟である「意富富杼王」(継体帝の祖先)をあてることが出来るとする見方があります。
    鏡が作られた時代と銘文に登場する様々な人物の実像について、未だ全てが解明されたという訳では無いのですが、大和の忍坂が古代において政権の一拠点となっていた可能性が十分ありそうだ、という事か
  • 中、那珂の謎

    垂仁天皇の皇后である日葉酢姫命との間に生まれた娘の名を大中姫命と言い、五十瓊敷入彦命が石上神宮の祭祀を任せたいと願った相手が妹の大中姫命でした。息長氏で最も有名な人物と言えば外国遠征譚で知られる息長帯比売命(神功皇后)だと思いますが、彼女の夫の先の妃の名前も大中媛命と言い、彼女の父親は皇后と同様に息長系統に属する人物でした。そして、今回取り上げている允恭帝の皇后が息長の血脈を受けた『忍坂大中姫命』なのですから三人の大中姫という存在自体が何らかの意図を以て記紀の中に演出された可能性があります。また、日葉酢媛命という女性は伝説の彦坐王と天御影命の娘・息長水依姫の孫娘に当たり、父親は丹波道主王でした。つまり帝室と息長家は天津彦根命系と和邇日子押人命系の二流で複雑な婚姻を重ねて深遠な閨閥を生み出している訳です。更に、応神の皇后の名が仲姫命であったことも偶然とは考えられないでしょう。
  • 伝えられた系譜を信用するなら、垂仁は叔父の孫娘と結婚したことになりますが、当時の平均寿命が三十代であったことを考慮すれば、通常有り得ない婚姻形態だったと言えるでしょう。崇神帝の名に含まれている「瓊」を「大変美しく大きな玉=皇統」の意味だと捉えるなら、本来、垂仁の跡を襲うべき皇子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)であったはずで、オシロワケの名を持つ皇子は後世の加筆造作が加えられた人物の名称ではないか
    http://www.ten-f.com/inishikiirihiko-to-udo.html

    西暦925年に完成を見た「延喜式」諸陵寮に、

    宇度墓  五十瓊敷入彦命、在和泉国日根郡、兆域東西三町、南北三町、守戸二烟

    阿蘇ピンク石を使った古墳は岡山、大阪、奈良、滋賀に点在しているのですが、今回取り上げた「宇度(うど)墓」が何故、遠く離れた特別な石材産地と同じように呼ばれているのか??

    吉備にいた市川臣と九州の宇土を支配した吉備国造が、阿蘇ピンク石に関与し、宇度墓の築造に関与したのではなかろうか?

    天津彦根命の子孫が「櫛努古理命」の世代で幾つもの家に分岐、そのうちの一家が「加志岐弥命」を祖とする白根造であり、彼の本業が「鍛冶」だったと記されています
    鳥取之河上宮(古事記)で剱を作るため皇子は『河上という名の鍛(かぬち)』を呼び寄せたと垂仁三十九年冬十月条にありますが、この「河上」が上の系図に見える白根造でした。そして大王は、剱を一旦忍坂邑(おしさかのへき)に収めた皇子に「楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部」の拾箇の品部を下賜したとも紀は「一書」の形で伝えているのです。凡そ、古代王権の成立に軍事力が不可欠なものであったとするなら、この時、皇子は全ての兵器(剣、弓、矢、楯)を与えられ、加えて「神器」製造の一部(玉作)も行い、行政面では人々の懲罰権も掌握(刑部)していたと見做せます
  • 古事記  

    大国主神----鳥鳴海神----国忍富神----速甕之多気佐波夜遅奴美神----甕主日子神----多比理岐志麻流美神----美呂浪神----布忍富鳥鳴海神----天日腹大科度美神----遠津山岬多良斯神

    三上氏  

    天津彦根命----天御影命----天麻比止都禰命----意富伊我都命----彦伊賀都命----天夷沙比止命----川枯彦命----坂戸毘古命----国忍富命----天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)----鳥鳴海命----八倉田命----室毘古命
  • 出雲国造は『神賀詞』の中で、自分たちの遠祖である天穂日命は、国譲りに際して、

    おのれ命の兒、天の夷鳥の命に布都怒志命をそえて、天降し遣わして、荒ぶる神どもを撥い平げ、国作らしし大神(大穴持命)をも媚び鎮めた

    と明言しています
  • 『新撰姓氏録』大和国皇別、布留宿禰(ふるのすくね)の条によれば、
    柿本朝臣(かきのもとのあそみ)と同じき祖、天足彦国押人命(あめたらしひこくにのみこと)の後なり。男(こ)、木事命(こごとのみこと)の男(子)、市河臣、大鷦鷯(おほさざき)天皇の御世(みよ)、倭(やまと)に出でまして、布都努斯神社(ふつぬしのかみやしろ)を石上(いそのかみ)の御布留村の高庭の地に賀(いは)ひまつりて、市川臣を以って神主と為(し)たまふ。四世孫、額田臣・武蔵臣なり。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣(そがのえみしのおおおみ)、武蔵臣を物部首(もののべのおびと)、ならびに神主首(かむぬしおびと)と号(な)づけり。茲(これ)によりて臣(おみ)の姓(かばね)を失ひて、物部首と為れり。男(こ)、正五位上日向(しゃうごいのじゃうひむか)、天武天皇の御世、社(やしろ)の名によりて、布留宿禰(ふるのすくね)の姓(かばね)に改む。日向(ひむか)の三世孫は、邑智等(おほちら)なり。
    とある。この訓読文は、佐伯有清が『新撰姓氏録の研究』考証編第二に示したものである
  • 千田稔・著、中公新書『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』
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    ・「斉明天皇の大工事」の段落(75頁)
     斉明天皇が香具山の西と石上山を結んだ運河「狂心の渠」の大工事について、
    『私は舒明から続く息長氏の血統が斉明女帝によってより強く意識され、遠祖をまつる石上の地から石を飛鳥に運ぶことによって飛鳥に石上の遠祖の霊を導こうとしたと考える。』
    と独自の推測を表明しています。そしてその推測を傍証させるのは、この運河によって運ばれた石が天理砂岩で、天理市の豊田・石上から採れたものという岩石学の結論が得られたことによっています。
     しかし、斉明天皇が石上の遠祖を飛鳥に魂移しして祭祀を行ったという伝承があるのでしょうか?
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    ・「「神宮」から「神社」へ―石上神宮の場合」の段落(76頁)
     日本書紀に石上神宮とある表記が、延喜式(石上坐布都御魂神)、続日本紀(石上神)、日本後紀(石上社)とあるのを挙げて、桓武朝には石上神宮というよび方がうすれて、平安時代には神宮とは伊勢神宮のみを指すようになったと説明。そして、天武二年ころに斎王の制度が整えられたことと、天武三年に忍壁皇子に石上神宮の神宝を磨かせて神庫の宝物を諸氏に返還させたことを理由にして、
    『天武朝の初頭に伊勢神宮が制度的に整備されたと思われる』と主張されています。

     斎王制の確立が伊勢神宮の整備の裏付けになることは理解できます。しかし、石上神宮の神宝返還が伊勢神宮の整備の裏付けになるとするのは、もっと説明が必要ではないのでしょうか?
     また、この主張に至る前には、忍壁皇子を石上神宮の神宝を磨かせに派遣した理由を、石上神宮と息長氏とのつながりがあった為としています。その説明を、『研究者の間でその解釈が一定していないが』と前置きしながら、
    「オサカベ」は息長氏に関係する人物の領有民のことで、『忍壁皇子はオサカベ氏によって養育されたためにそのような名をもつと推定される』としています。
     つまり、息長氏の部民=オサカベ=忍壁を前提とされています。
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