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奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史…
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また、日本書紀にて、{崇神天皇は紀伊の国の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とほつあゆめまくはしめひめ)を妃(側室)として豊城入彦命、豊鍬入姫命を生んだ。あるいはこの妃は、大海姫の娘の八坂振天某辺とも謂う。}となっており、豊鍬入姫命の母は八坂振天某辺であるとされています。
孫天村雲命
亦名天五十楯天香語山命、於天上生神也
母穂屋姫命也、以天眞井之水、天降于
日向國竟(境)、后遷坐于丹波國、灌其水
於久志比之眞名井(丹波國眞名井三處、久志比・矢原・伊去奈子是也)
乃和其水、以炊供奉豐受大神之神饌矣
天村雲命のまたの名は「天五十楯天香語山命」と書かれています。
天香語山命は、天村雲命の父で、前半の「天の五十楯」は「いだち・いだて」だと思われます。
『勘注系図』によれば、その天村雲命こそが、丹波國に「天の眞井之の水」をもたらしたのだそうです。
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、 之を吉佐宮(よさのみや)と申して一緒にお祭り致しました。
その後天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って當社は元伊勢と云われております。
両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め元伊勢の社として、又丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました。
と、書かれています。
『勘注系図』によれば、その彦火明命が大和国及び丹後・丹波地方に降臨し、二代目が天香語山命で、『先代旧事本紀』によれば、「尾張連等の祖」となっています
この地は御器所台地の中央に位置していて、昔は「村雲(むらくも)の里」とも呼ばれていたそうです。
『尾張誌』という本に「此地は古熱田神宮御神領にて、神事に用いる土器を調進する故に御器所と名つけたるよし」と書かれています。つまり、熱田神宮に献ずる土器を作っていたところから「御器所」という地名がつけられたというのです。
熱田神宮の御神体は、天照大御神が天孫降臨の際に授けたとされる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))」なのです。この剣は「八咫鏡(やたのかがみ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と合わせて「三種の神器」と呼ばれているものの1つです。
この剣を持って東国を制覇していったのが、日本武尊なのですが、「村雲の里」と呼ばれたのもこの剣の名前による
御器所近くにはなんと「村雲小学校」「御劔(みつるぎ)小学校」という学校もある。
また天五田根(あめのいたね)、 天五多手(あまのいたて)とも。
タカクラシタとユリ姫 (イスキヨリ姫) の子。
アメオシヲの父。
新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦、彌彦神社摂社、武呉 (タケクレ) 神社
香川県高松市一宮町、田村 (タムラ) 神社
徳島県吉野川市山川町村雲、天村雲 (アメノムラクモ) 神社
京都府城陽市水主宮馬場、水主 (ミズシ) 神社
『旧事』この命は、阿俾良依姫(アヒラヨリヒメ) を妻とし二男一女を生む。天忍人命、天忍男命、忍日姫命。
〒791-3163愛媛県伊予郡松前町徳丸387
主祭神
高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)
配 神
天忍日女命(あめのおしひめのみこと)
天忍人命(あめのおしひとのみこと)
天忍男命(あめのおしおのみこと
日子波限建鵜葺草葺不合命がお生まれになる折のお話ですが、日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡られている際に、妻神が急に産気づかれて近くの海岸で産屋を建てて、お産をされることになったのです。
そこで、鵜茅(ウガヤ→茅ではなく産屋を指す言葉だとする説もある)で産屋を葺いてその中でお産をされるのですが、海からたくさんの蟹がはい上がってきて産屋まで入り大変な難産になりました。豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えられると高忍日賣大神が顕現され、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされ、天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛ばさせ、天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をおさせになりました。
これにより始めは難産だった豊玉姫も安産され、産屋が葺きあがらないうちに無事男のお子様をお産みになりました。そこで、日子穂穂手見命は、お子様を日子波限建鵜葺草葺不合命と命名されました。この神話から、当社の御祭神は産婆・乳母の祖神、また、箒の神として多くの人々から崇敬されています。皇室のお産の折には、当社に安産御祈祷のご依頼があります。
高忍日賣神社の御鎮座がいつのことだったかは明らかではありません。
当社は、伊予国伊予郡(現在の伊予郡とは多少異なる)にあって、南は山地や丘陵地帯、北は平野で水に恵まれ、早くから開けていたようで、大小の古墳群や大規模な祭祀遺跡、集落跡なども発掘されています。これらのことは、伊予郡に有力な指導者がいたことを証明しています。
当社の御祭神もその有力者だったと考えられます。
当社は、往古より皇室のご崇敬殊の外篤く、ご出産の際には勅使が差遣されたと伝わっています。『伊予国風土記逸文』には聖徳太子道後行啓の折に伊予郡を巡られたとあり、当社に参詣して「神号扁額」を奉納されました。
奈良時代には、当社が開発領主となって付近一帯を開墾して神社の前を三千坊、後ろを千坊と称して境内八町余に及び、広大な神域を形成していました。また、神職の中には国府の役人を兼ねる者がおり、中央とも盛んに交流がなされ、伊予郡の文化的拠点ともなりました。
平安時代には、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九・十(延喜式神名帳)に国がお祀りする神社(官社)が記載されており、当社の名前も記されました。このような神社は延喜式内社または式内社と呼ばれ、現在でも格式ある神社として重視されています。また、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも称され、勅使・国司の参向が度々ありました。
鎌倉時代には、高忍日賣若宮八幡宮と称して武家の信仰を集めました。特に、征夷大将軍源頼朝公から幕府繁栄・安産の加護のため、神領76町を寄進されました。また、神社の北東(鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子(えびす)社では月3回の市(三斎市)が開かれ、多くの人々で賑わいました(この夷子社のことを上市夷子、下市夷子と呼びました)。社家は大神主・大宮司を中心に武士団を形成して幕府御家人として活動し、朝廷にも重視されていました
『先代旧事本紀』には天忍人命が二柱見える。天忍男命と兄弟に当たる天忍人命が尾張連の遠祖の一になっているようだ。
★『旧事天忍男命は、葛木の剣根命の娘の賀奈良知姫(かならちひめ) を妻とし二男一女を生む。即ち尾張連の祖の瀛津世襲命、建額赤命(たけぬかあかのみこと)、世襲足姫命。
■天忍人と同一人物と思われる。
神武の時代
椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。
『神武紀』から見える事は、葛城は銅が産出する地であること。銅鐸の製造の痕跡は出ていないが、銅鐸祭祀の氏族が住んでいたのかも知れない。銅鐸は長柄から出土している。銅鐸祭祀氏族を鴨氏の源流と云ってもいいのかも知れない。朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家付近には銅を採取した痕跡が残っていると云う。幕府直轄領であった。現在、山は堺屋太一氏の実家の所有と云う。
剣根を葛城国造とした記事があるが、国造の制度はもっと後世のものであり、要は葛城のボスを追認したと云う意味であって、記紀を作成した王権の見栄だろう。
剣根命の後裔として現れる氏族を『新撰姓氏録』から。
大和国神別 葛木忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
河内国神別 葛木直 高御魂命五世孫剣根命之後也
和泉国神別 荒田直 高御魂命五世孫剣根命之後也
未定雑姓左京右京 大辛 天押立命四世孫劒根命之後也
(未定雑姓摂津国 葛城直 天神立命之後也)
『古代豪族系図集覧』によれば、剣根命の系譜は以下の通り。
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)
また陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。
天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。http://www.kamnavi.net/ny/ikari.htm
では何故この神が當麻の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。ここでは違う説を建てます。イカリの神は丹後ににに鎮座していました。これは、大三元さんのサイトで分析されている『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。http://www.dai3gen.net/tango.htm
現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。
天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。 出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。
ここに葛城の勢力と丹後、但馬の勢力との連携の姿が見えるようです。系譜の中に倭宿禰命の名も見えます。椎根津彦のこと。長尾市は倭直の祖でもあり、伊加里姫の子に倭宿禰命がいるのもそう云うこと。
『勘注系図』注記、抜書き
出典:神道大系編纂会、編集発行 神道大系 古典編 十三
①始祖彦火明命
亦名天火明命亦名天照國照彦火明命亦名天明火明命亦名天照御魂命此神正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊第三之御子、母高皇産靈神女栲幡千々姫命也、彦火明命坐於高天原之時、娶大己貴神女天道日女命、生天香語山命、天道日女命者、亦名屋乎止女命、(大己貴神娶多岐津姫命亦名神屋多底姫命生屋乎止女命亦名高光日女命)、上天到于御祖許、然后降座于當國之伊去奈子嶽矣、(丹後國者、本與丹波國合爲一國、于時日本根子天津御代豊國成姫天皇御宇、詔割丹波國五郡、置丹後國也、所以號丹 波者、往昔豊宇氣大神天降于當國之伊去奈子嶽坐之時、天道日女命等、請於大神五穀及桑蠶等之種矣、便於其嶽、堀眞名井、灌其水、以定水田陸田、而悉植焉、 則大神見之大歓喜、詔阿那邇恵志面植彌之与田庭、然后復大神者、登于高天原焉、故云田庭也、丹波本字田庭、訓多爾波、在當國風土記、)爾火明命娶佐手依姫命、生穂屋姫命佐手依姫命者、亦名市杵嶋姫命、亦名息津嶋姫命、亦名日子郎女神也、天香語山命娶穂屋姫命、生天村雲命、然后、天祖乃二璽神寶(息津鏡及邊津鏡是也、副賜天鹿兒弓天羽〃矢)、授于火明命、而詔汝宣降坐于葦原中國之丹波國、奉齋此神寶、而速修造國土矣、故爾火明命受之、降坐于丹波國之凡海息津嶋、(所以其號凡海者、古老伝曰、往昔治天下、當大穴持神与少彦名神、到坐于此地之時、引集海中之大嶋小嶋、小嶋凡拾以成壹之大嶋、故名云凡海矣、在當國風土記、)爾火明命、然后遷坐於由良之水門之時、乃其神寳分授(邊津鏡是也、)于 香語山命、詔汝宣奉齋此神寳、而速修造國土矣、彦火明命、亦名饒速日命、亦名神饒速日命、亦名天照國照彦天火明櫛玉饒速日命、亦名膽杵磯丹杵穂命、統八州 也、已而速日命則乗天磐船、登於虚空、降坐於凡河内國、然后遷坐於大和國鳥見白辻山、而遂娶登美屋彦之妹登美屋姫、而生可美眞手命、於是乃其弓矢及神衣帶 手貫等授之、於其妃而復天翔、遷坐于丹波國、而留坐于凡海息津嶋矣、于時大寳元辛丑年三月己亥當國地震、三月不己、此嶋一夜蒼茫変而成海、(漸纔嶋中之高山二峯與立、神岩出海上今號常世嶋、亦俗称男嶋女嶋、毎嶋有神祠、所祭者、彦火明命與日子郎女神也、在當國風土記、)故爾彦火明神與佐手依姫、共養老三己未年三月廿二日于籠宮天降給矣、(凡 海息津嶋瀬坐日子社、祭神彦火明命、凡海坐息津嶋社、祭神佐手依姫命)(正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊娶栲幡千々姫命、而生天津彦火々瓊々杵尊、次生天之杵 火々置瀬命、次生彦火明命、次生彦火耳命、或云、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊、娶萬幡豊秋津姫命、而生天火耳命、次生天杵火々置瀬命、次生天照國照彦火明 命、次生天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊、凡四柱、栲幡千々姫命、亦名天萬栲幡千幡姫命、亦名萬幡豊秋津姫命、高皇産霊尊、或云、高木神女也、)
②兒天香語山命
亦名手栗彦命、亦名高志神彦火明命、於天上生神也、母天道姫命、亦名屋乎止女命、亦名高光日女命、亦名祖母命也、爾天香語山命與天村雲命従父火明命、天降 坐于丹波國之凡海嶋、而欲以神議修造國土、率百八十軍神、而到于当國之伊去奈子嶽之時、逢母道日女命、因問天降于此地其由、母答曰、欲造坐此國土、雖然此 國豐受大神之所在國也、故不齋奉大神、則難成成國也、故以神議定齋清地、而與汝懇奉齋此大神、則成國、故祖命乃其弓矢授于香語山命、而曰、此則是大神之意 者、汝宣發之、而随其(ママ)清地行矣、故香語山命取其弓矢發之、則其矢致于当國加佐郡矢原山而留、即時生根枝葉青々、故名其地云矢原、(矢原訓屋布)爾香語山命致南東、則有荒水、故于其地建神籬以遷祭大神、而始定懇田、(当巽方三里計、湧出霊泉、故天村雲命灌其泉、稱眞名井原之荒水、以和其水、故亦稱眞名井、)於 是春秋耕田施稲種、恩頼遍于四方、則人民豐故、名其地云田造也、爾香語山命、然后率百八十軍神退之、而到于由良之水門之時、逢父火明命、有詔命欲奉齋其神 寶、以速修造國土、覓其地行、而遂到于当國余社郡久志備之濱之時、逢御祖多岐津姫命、因問居于此地其由、祖命答曰、斯地者、國生大神伊射奈岐命、自天降坐 之地也、甚清地也、故参降而待汝来矣、於是香語山命、知地速連天、通於天眞名井水、乃起天津磐境、始其神寶奉齋而于其地遷、祭豐受大神(分霊齋奉於矢原山)於是則成國矣、其時于此地湧出鹿泉、爾天村雲命、汲天眞名井之水、而潅此泉和其水、以爲神饌之料、故名此泉云久志備之眞名井也、今世謂此沼之眞名井者訛矣、(眞名井、亦云宇介井、)此時於磐境傍、生天吉葛、天香語山命採其匏、汲眞名井之清泉、乃調度神饌、而嚴祭奠、故曰匏宮(匏訓與佐、)亦久志濱宮也(此郡所以號匏者也在風土記)爾香語山命、然后遷坐於木國熊野、而娶大屋津比賣命、生高倉下矣、道日女命者、與多岐津姫命留于此地、而齋仕豐受大神焉
③妹穂屋姫命
母佐手依姫命亦名市杵嶋姫命
④弟可美眞手命
母登美屋姫命
⑤孫天村雲命
亦名天五十楯天香語山命、於天上生神也、
母穂屋姫命也、以天眞井之水、天降于
日向國竟(境)、后遷坐于丹波國、灌其水
於久志比之眞名井(丹波國眞名井三處、久志比・矢原・伊去奈子是也)
乃和其水、以炊供奉豐受大神之神饌矣、
此命坐日向國之時、娶阿俾良依姫
命、生天忍人命、次生天忍男命、次生天忍日
女命、而遷坐於丹波國之時、娶伊加里
姫命、生倭宿禰命、亦名天御蔭命、次生
葛木出石姫命、亦名角屋姫命也
⑥弟熊野高倉下
母大屋津比賣命
⑦倭宿禰命(三世孫)
亦名御蔭命、亦名天御蔭志楽
別命、母伊加里姫命也、神日本磐余
彦天皇【神武】御宇參赴、而獻從祖神傳
來天津瑞神寶(息津鏡・邊津鏡是也)以奉仕
矣(彌加宜社、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也)此命遷
坐於大和國之時、娶白雲別神女豐水
富命、生笠水彦命、(笠水訓宇介美都、)
⑧葛木出石姫命(妹)
亦名角屋姫命、母伊加里姫命
⑨笠水彦命(四世孫)
母豐水富命、亦名井比鹿也
神渟名川天皇【綏靖】御宇、以
天御蔭之鏡爲神寶、以奉
仕矣、此命娶笠水女命、
亦名與志美別、生笠津
彦命矣、(笠訓宇介、)
御蔭之神事、今俗稱葵神事
⑩笠津彦命(五世孫)
母笠水女命也
此命娶笠津姫
命、生建田勢
命矣
⑪建田勢命(六世孫)
笠津彦命之子 一本云、小登與命
一云建登米之子 亦名大諸過命云云
亦名高天彦命 亦名大宇那比命
母笠津姫命也、大日本根子彦太瓊【孝霊】
天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰
以奉仕、然后移坐于山背國久世
郡水主村、故亦云山背直等祖也、
后更復移坐于大和國、而娶葛木
高田姫命、生建諸隅命(一云、次生和多津見命)矣、
⑫建諸隅命(七世孫)
亦云、建日潟命 亦名彦由麻須命
亦云 建日方命 一云、丹波縣主由
碁理命 母葛木高田姫也、
稚日本根子彦大日日天皇【開化】御宇
於丹波國割丹波郡與余社郡、
被置竹野姫之屯倉、于時此
命奉仕、故亦名曰、竹野別后
爲郡名矣、此命娶大諸見足
尼女諸見己姫、生日本得魂命、
次生 大倭姫命(一云、次生依網吾彦男垂見宿禰)矣、
⑬日本得魂命(八世孫)
亦名川上眞若命 母諸見己姫也、御間城入彦五十瓊殖天皇【崇神】
御宇壬戌年春三月、豐鋤入姫命戴天照大神、從大和國笠
縫里、移坐于丹波國余社郡久志比之眞名井原匏宮、奉齋
天照大神與豐受大神於同殿、而此命等奉仕(同丙寅年秋七月復遷坐
于大和國伊豆加志本宮)、此時以地口之御田奉、更建校倉、藏其穀實
也、故名曰阿勢久良奠、其倉以稱御田口之祠矣、同天皇
御宇、當國青葉山中有土蜘、陸耳御笠者、而其状賊人
民、故日子坐王奉勅來而伐之、于時此命等奉仕、到于余
社之大山、遂誅之矣、大初瀬幼武天皇【雄略】御宇戌午年秋
七月、匏宮遷坐于伊勢國度會郡山田原矣
御間城入彦五十瓊殖天皇【崇神】御宇拜祭大神宮、亦名倭迹迹日女千〃姫
⑭川上眞稚命(一四世孫)
亦名建倉五十建命 一云
大難波宿禰 亦 名大使主命
稚足彦天皇御宇【成務】乙亥年秋
九月、令諸國被立長矣、此時
賜楯桙等、爲大縣主、以奉仕
矣、葬于(竹野郡将軍山)、一云(熊野郡甲山)
⑮丹波國造大倉岐命(十六世孫)
亦名大楯縫命 稚足彦天皇御宇【成務】
癸丑年夏五月、桑田郡大枝山邊有大蛇、
而人民爲被害矣、則此命愁之、
率群臣將伐之時、大山咋命現形
而助之、乃與群臣斬之、此時憐撫於
孤獨窮口之状、達天聴、故賜楯桙
等、而定賜于丹波國造矣
葬于加佐郡志楽郷長谷山、
⑯丹波國造建振熊宿禰(十八世孫)
息長足姫皇后征伐新羅國之
時、率丹波・但馬・若狹之海人三
百人、爲水主以奉仕矣、凱施(旋)之
后、依勳功、于若狹木津高向宮
定賜海部直姓、而賜楯桙等、
國造奉仕、品田天皇【応神】御宇、故
海部直亦云丹波直、亦云但馬直矣、
葬于熊野郡川上安田、
⑰丹波國造海部直阿知(兒)
亦云、稲種命 一云明國彦命之子
穴穂天皇【安康】御宇、市邊王子等
億計王與弘計王來于當國之
時、此命等潛造宮以奉仕、然
后奉移之与佐郡眞鈴宮矣
葬于加佐郡志託之大川邊
ーーー
奥書 系譜成立の経緯
ーーー
『一本云、本記序曰、丹波國造海部直等氏之本記者、元號曰丹波國造本記、豐御食炊屋姫天皇御宇、國造海部直止羅宿禰等所撰也(伝伝)、歴三世至于養老五年、國造海部直千嶋祝並弟千足・千成等、更修撰之、(一云、于時養老六年壬戌秋八月伝伝)、號曰籠宮祝部氏之本記(伝伝)、至于貞觀年中、海部直田雄祝等奉勅、撰進本系、號曰籠名神社祝部氏系圖(伝伝)此系圖者、雖所因循養老本記、而新録奏數代之歴名、不載神代之記並上祖之歴名、不爲本記之體也(伝伝)、是仁和年中海部直稲雄等、更修録自往古所傳之本記、號曰丹波國造海部直等氏本記(伝伝)、以爲一軸(伝伝)、此序者可爲後序乎(伝伝)』
『一本云
氏之本記一巻者、仁和
年中、海部直稲雄祝等
修録之、于今相傳以爲
最奥之秘記、永世相承
不可許他見(伝伝)』
『本記一巻者、安鎭於海神胎内、
以極秘、永世可相傳者也(伝伝)
海部勝千代敬寫之』
次の系図は『勘注系図』と尾張氏系図の初期の部分の比較である。
天天火明から天村雲までは同じである。三世孫倭宿禰から異なる系譜をたどる。
そして建田勢命の時代になって、丹波は本家とも言うべき尾張氏の直轄支配地になるようである。
『勘注系図』では本家とも言うべきこのあたりの尾張氏系譜も一部記す。
天村雲命と阿俾良依姫の児、三世孫天忍人命や天忍男命に続く系譜を三~四世代記す。これは先代旧事本紀が尾張氏系譜として記す系譜である。
『勘注系図』は五世孫笠津彦命の次を六世孫建田勢命とするが、直接の親子関係には無いと考えられる。『勘注系図』でも注記の中で笠津彦命之子とするが一云建登米之子という別伝も記す。建登米之子であれば先代旧事本紀尾張氏系譜と同じである。
建田勢命は、孝霊の時代丹波の宰(みこともち)として丹波に赴いたとする。元々は尾張氏の本拠地葛城高尾張の人である。この時代丹波は尾張氏の直接支配地と成ったようである。
建田勢命が府を置いたのは現在の京丹後市久美浜町海士とされる。
そしてその子供建諸隅命が府を置くのが、京丹後市丹後町である。何れも丹波の支配者ではあるが、尾張氏の当主でもある。本拠地は葛城高尾張である。
出典は、http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/11-1bunngi.html
弥栄町と峰山町との境にある太田南古墳群の一つである「5号墳」からは、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。今年(2002)6月になって、東京国立博物館の鑑定により、個人蔵の鏡に同年号のあることが確認され、全国で青龍三年銘の鏡は3面となった。
4世紀後半、古墳時代前期後半の前方後円墳で墳丘長約200メートル、全国35位の規模。国の史跡に指定されている。
丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置し、網野銚子山古墳(京都府・京丹後市)、蛭子山古墳(京都府・与謝郡)とともに日本海沿岸三大古墳と呼ばれる。
葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されている。出土品は、近隣にある「古代の里資料館」に展示されている。古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなったと思われる。
4世紀後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現していることが判明している。
近くに関連が疑われる竹野神社がある。
茶臼ヶ岳古墳群
久美浜町橋爪。茶臼ヶ岳古墳群は矢田八幡神社境内に1~3号墳、北西に4号墳、久美浜高校南の尾根上の5号墳からなっていましたが、国道312号線改良工事の事前調査で5号墳周辺から新たに6、7号墳、8、9号墓が発見され、調査されています。5基は、細長い尾根上に階段状に築かれ、下から9、8、5、6、7号墳の順に並んでいます。9、8号墓はいずれも弥生後期の墳墓で9号墓は木棺2基、8号墓は3基を検出しました。5~7号墳は古墳前期の古墳でいずれも墳丘は不明確。主体部は木棺、土器棺など複数あり、墳丘上に破砕された土器が置かれていました。この支群は弥生後期から古墳前期にかけての丹後地方伝統の墳墓を築き続けた一族の墓域といえます。
生抜権現 (海部村)
芦原小字イケノりの地に二段より形造られ周囲に濠を繞してゐる円塚がある。此の古墳が芦高神社となつてゐる。
当社は一にハウヌキ権現と云はれ地の底より生抜いてゐていかなる大地震と雖も少しも動かぬそうである。
近年拝殿建築工事中発掘した石剣等に依り古代古墳と云はれ地方では丹波道主命の妃川上麻須郎女の陵だと云ひ伝へてゐる。
芦高神社古墳(あしたかじんじゃこふん)
所在地:久美浜町芦原小字池のり
立地:川上谷川中流域右岸の平地
時代:古墳時代中期~後期
現状:半壊(神社)
遺構
芦高神社古墳は、川上谷川中流右岸に形成された台地裾の平地に位置する。その名の通り墳丘上に神社が祀られており、現状では直径約25m、高さ約3mの円墳状を呈する。地元では古くから前方後円墳と伝えられており、1970年代に同志社考古学研究会により行われた現地観察では、墳丘北側裾に広がる水田畦の平面が前方後円状を呈していることから、前方部を失った前方後円墳である可能性を指摘されている。その場合全長約50mの前方後円墳となると考えられている。埴輪,葺石などの外表施設は確認されておらず、内部構造も不明である。
遺物 古墳に関わる出L遺物はない。
意義
芦高神社古墳は、川上谷川中流に築かれた古墳である、築造時期は、立地から古墳時代中期と推定されている。神社建築などにより改変を受けているが、川上谷川流域における大型古墳であり、島茶臼山古墳に続く時期の首長墳と評価できる。
京丹後市久美浜町の湯舟坂二号墳 、6世紀後半
この古墳は、東に延びるなだらかな丘陵の先端部に営まれた、古墳時代後期の円墳である。ながい年月の開墾などにより、地表面には古墳らしい面影をほとんどとどめていなかったが、昭和五六年にほ場整備事業に関連して発掘調査が実施され、地下から当初の姿をよく残した壮大な横穴式石室と数多の出土品が発見された。
墳丘の大きさは径約一八メートル、高さ約五メートルで、西側には幅三・五メートル、深さ一メートルの周溝を掘り、裾部には自然石を数段に積み上げた列石がめぐらされていた。
古墳の中心にある横穴式石室は、巨大な花崗岩を積み上げて造った墓室で、東南東方向に開口している。その規模は、全長一〇・六メートル、玄室長五・七メートル、玄室最大幅二・五メートル。玄室の床面には大小の自然石が一面に敷き並べられていた。
石室の内部から、金銅装環頭大刀・銀装圭頭大刀・三輪玉・直刀・刀子・石突・鉄鏃・靭・金環・管玉・土玉・轡・鐙・シオデ・鉸具・革金具・飾金具・棺金具・鉄釘・銅椀・須恵器・土師器などの豊富な副葬品が発見され、日本古代史界の大収穫とまで評された。とくに、柄頭に二対の龍を配した金銅装環頭大刀は、その特異な意匠に加えて表面全体を飾る金銅(銅に鍍金したもの)の保存状態も良く、作られた当時の姿を彷彿とさせる貴重な資料である。
この古墳が築かれたのは、今から約一四〇〇年前、六世紀後半代のことである。その当時、当地方一帯を支配し、金銅装環頭大刀に象徴されるように、遠く大和政権とも関りのあった、大豪族の家長とその家族がこの古墳に葬られたものと推定される。
昭和五七年六月
京丹後市教育委員会
大田南古墳群、南へ続いて大田古墳群、さらに古天王古墳群へと竹野川に沿うように下流(北)へと続いていく。
なぜこの位置に「王家の丘」があるのだろう
大田南古墳群 (おおたみなみこふんぐん)
平成6年の春、5号墳(3世紀後半)から出土した「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう:国重要文化財)」は、青龍三年(西暦235年)の年号がある日本最古の紀年銘鏡です。
大田南古墳脾は、大小の円墳・方墳からなる総数25墓の古墳群である。平成2年以降合計12基の古墳の調査を終了しその結果、この古墳は竹野川流域における古墳時代前期の、有力者の墓域てあることが明らかとなっている。
丹後地方と中国大陸・朝鮮半島との交流が検証できる遺跡として、貴重な成果も数多くあげられている。
(2号墳)
22mX18mほどの方墳で、埋葬施設に舟形の木棺をもっていた。主な副葬品として、棺内から銅鏡1面(画文帯環状乳神獣鏡)、棺外から鉄剣が一振り出土している。被葬者の頭付近(鏡の周辺)には朱の痕跡が認められた。
出土した鏡は中国後漢時代(2世紀後半)に華南地方て製作されたと考えられるもので、鈕に龍の文様をもつことが大きな特色である。同様の鏡は、中国・朝鮮半島て出土例が知られている以外は国内で初めての出土てあり、現在京都府の指定文化財とされている。
ここでは2号墳が最古とされていて3世紀中葉、のちの山城で壊されていてわかりにくいというが、だいたい長さ22m×幅18mの方墳、あるいは南隣りの3号墳を含めての前方後方墳かといわれる。墳丘中央部に、長さ8m×幅3.6mの埋葬施設1基を配置する。埋葬施設は二段墓壙で、下段に長さ2.3m×幅0.6mの舟底状木棺を持っていた。舟底状木棺はこの当時の丹後の王墓とされる。
直径14.5㎝の「画文帯環状乳神獣鏡」の出土。
被葬者の頭部右側付近で大きく二つに砕けた状態で出土した。故意に割ったものでなく、埋葬後土圧によって砕けたものと判断されている、鏡は布で包まれて鏡背面を被葬者の顔に向けてほぼ直立して状態で副葬されていた。
2世紀後半か3世紀前半の後漢時代四川製作と見られている。鈕(真ん中の握り)に龍文があるほかに類例がないという鏡である。一般に神獣鏡は権威ある宝物と見られているそうで、耶馬台国の公孫氏経曲による一元的な入手を想定されているという。これも注目の鏡である。
(4号墳)
26m×16mほどの方墳であり、長大な組合せ式木棺の頭部と推定される側の棺外に、大型の壺がおかれていた。
(5号墳)
18.8mX12.3mの方墳で、組合せ式石棺を埋葬施設としていた。棺内から出土した副葬品には、紀年銘鏡としては、日本最古となる方格規矩四神鏡や、幾重にも布に巻かれていた鉄刀などがみられた。この銅鏡は絹織物にくるまれておりおそらくは木箱に収められた状態で棺内に副葬されたと考えられる。 銅鏡の銘文中に刻まれた年号は、中国・魏の年号「青龍三年」(西暦235年)である。これは 魏志倭人伝に、卑弥呼が魏に使節を送ったと伝えられている、景初三年(西暦239年)の4年前に当たるものであり大変注目を受けた。なお、現在この鏡は国の重要文化財に指定されている。
魏の年号「青龍三年」(235)を持つ紀年銘鏡で、直径17.4㎝、重さ570gを測る。扁平な鈕に長方形の紐孔をもち、鈕孔内に鋳張りが残っている。「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石候王」の銘文があるという。特に「青龍三年」の年号を必要とした意味がないような、魏皇帝から特別に下賜されたとも思えないような、ありきたり的な銘文のように見えてくる。青龍三年銘鏡は、その後、安満宮山古墳(大阪府高槻市)より同型焼が出土し、さらに関東にも出土地不詳の同型鏡1面があることが判明した(同じ鋳型で作られたか、あるいは踏み替えしで作られた鏡同士だという)。福知山広峯15号墳出土景初四年鏡
紀年鏡は全国から13面しか出土していない。青龍三年はその中で最も古い年号であり、丹後王国内と思われる古墳からは紀年鏡は3面も出ている。中国製説、日本製説があるが、もしかすると「卑弥呼の鏡」の1面かも知れないともする。
(いまのところ紀年銘鏡は全国で13面しか出土していない。魏の年号を記した鏡が9面で、青龍三年銘方格規矩四神鏡が当墳と高槻市安満宮山古墳ともう1面出土地不明のものが発見されている。景初三年銘三角縁同向式神獣鏡が和泉市黄金塚古墳と島根県加茂町神原神社古墳から、景初四年銘斜縁盤龍鏡が福知山市広峯15号墳↑と伝宮崎県西都原市持田古墳群から、正始元年(240)銘三角縁同向式神獣鏡が豊岡市森尾古墳、→ 群馬県高崎市柴崎蟹沢古墳、山口県新南陽市竹島古墳から出土している。豊岡森尾古墳出土正始元年鏡同時代の呉の鏡が2面あり、赤烏元年(238)銘対置式神獣鏡が山梨県
中国三国時代(220~265)魏の年号「育龍三年」(235)を持つ紀年銘鏡で、直径17.4㎝、重さ570gを測る。扁平な鈕に長方形の紐孔をもち、鈕孔内に鋳張りが残っている。青龍三年銘鏡は、その後、安満宮山古墳(大阪府高槻市)より同型焼が出土し、さらに関東にも出土地不詳の同型鏡1面があることが判明した。2号墳出土の画文帯環状乳神獣鏡とともに3世紀の日本を考察する上で貴重な資料である。
(6号墳)
径約30mの円墳である。墳頭部に掘られていた墓壙は、縦9.6m・横6.5m・深さ2.5mという巨大な規模をもっていた。埋葬施設は、小石を丁寧に敷きつめ、ベンガラや朱をほどこした礫床を持つ、大きな組合せ式木棺である。木棺の内部にもベンガラが塗られていたと考えられる。副葬品として石釧が2点出土したほか、刀子やヤリガンナなどの鉄製品も多数出土している。
副葬品して石釧(石製の腕輪)や鉄製品が出土しており、町教委などでは 「墓穴の中心に棺が納められ、その周囲で埋葬儀礼をするために広いスペースが必要だったのではないか」と推測している。
大田南古墳群は同町から峰山町矢田にかけての丘陵にあり、小規模な円墳と方墳が二十三基確認されている。五号墳(方墳)からは九四年三月、青龍三年(二三五)の銘が入った方格規矩四神鏡が出土。また、二号墳(縦二十二㍍、横十八㍍)からは、鈕(つまみ)に龍の文様を刻んだ中国・後漢時代(二世紀)の画文帯神獣鏡が国内で初めて出土している。
六号墳を含めた三つの古墳は数十年の間に相次いで築造されたと考えられ、大陸と交流があった丹後の有力者が継続的に活躍していたことを裏付けた。
石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話
「人の背丈よりも深い古墳の墓穴は、国内ではほかに例がないのではないか。日本より深く埋葬する傾向があった中国の思想の影響が入っているのかもしれない」
湧田山古墳群は、竹野川西岸、峰山町丹波と矢田の字境となる低丘陵上に立地する、総数 42 基からな
る古墳群です。古墳群中最大の規模となる湧田山 1 号墳は、北西に突出する前方部をもち、前方部の短 小な、全長約 100mを測る前方後円墳です。昭和 56 年実施された分布調査により初めて前方後円墳であ ることが確認され、その後昭和 58~60 年に同志社大学考古学研究会が測量調査を実施し、昭和 63 年、 京都府の史跡に指定されて現在に至っています。今まで発掘調査は実施されておらず、詳細な築造年代 については、諸説あるところです。
測量調査によると、後円部は正円形でなく、丘陵主軸に平行し長軸をもつ、基底部で 92×73m、高さ 12~14mの楕円形であり、後円部に取り付く前方部は前端までの長さ 28m、高さ 4~6mを測ること、段 築は後円部のみに存在し、前方後円墳の墳丘の上に円形壇を乗せたような構造になっていること、埴
墳丘全長約200メートルの巨大古墳で、神明山古墳・蛭子山古墳と合わせて「日本海三大古墳」と総称される。
日本海を見下ろす丘の上に築かれており、造られた当時はすぐ間近まで潟湖が迫っていたとみられている。墳丘は前方部を北東に向けた3段構築の前方後円墳で、全長198メートル、後円部の直径115メートル・高さ16メートル、前方部の幅80メートル・高さ10メートル。葺石がふかれ円筒埴輪の列が巡る。埋葬施設については不明である。 築造時期は古墳時代前期末から中期初頭(4世紀末〜5世紀初)とみられている。
陪塚として寛平法皇陵古墳・小銚子古墳の二つの古墳があり、ともに国の史跡に指定されている。