太宰府と太宰帥

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
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太宰 大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば…

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コメント

  • 太宰府天満宮の本殿の東、鬱蒼とした樹叢に覆われた域に摂社、末社群が鎮座している。
     最も奥の山中には、櫛田の大幡主神、武内宿禰、玉依姫命、素盞雄命などの祠、天穂日命、天照大神のやや大きな社(やしろ)が並ぶのであるが、中央の一際、大きな社には「大物主神(大国主命)」が祀られている
  • 筑紫大宰について

    筑紫大宰に関しては、609 年の『日本書紀』の記事が初見である。 さらに宣化元(536)年に外国使節が去来する関門である筑紫にあって、(飢饉等の)非 常に備えて那津官家を設置したとする記事も重要である。通説的理解ではこの那津官家が 大宰府の起源と考えられているからである。それは翌二年の記事を関連事項と捉えられて いるからである。その内容は、新羅による任那侵略に際して、大連大伴金村に任那救援を 命じて、その子の磐と狭手彦を筑紫に派遣したとされ、狭手彦は渡海したが、磐はその地 に留まり国政を執って三韓に備えたと記されている。こうした半島情勢を睨んだ筑紫の地 域支配が、おそらくは那津官家で執行されたとみられることから、軍事・外交を視野に置 いた大宰府の内政機能と通底すると考えられている。 このように大宰府の前身官衙を那津官家に位置付け、その長官を筑紫大宰と考えられて いる。筑紫大宰の名称は 7 世紀を通じて登場する。頻繁に登場するのは白村江敗戦以後 のことである。筑紫大宰に対する外国使節の応接機能や防衛機能の強化と考えられる。ま た、大宰という地方官の制度は筑紫だけでなく 7 世紀末頃には、吉備・周防・伊予にも 設置されていた。これが大宝律令施行後は、筑紫大宰府のみ存続したと考えられる。 さて、筑紫大宰は官司あるいは職名であろうが、後には筑紫総領とも呼称される。この 総領は天武・持統朝期を通じて、筑紫以外に東国や吉備・周防・伊予・播磨の地方にも登 場する。筑紫とともに総領と大宰が設置されたのは吉備である。唐や朝鮮半島との外交で は、第一線の筑紫だけでなく、畿内から筑紫へと通じる瀬戸内地域の安定確保が重要であっ たことはまちがいない。筑紫・吉備大宰は広域行政だけでなく軍事的な権限も付与されて いたと考えられている。 この吉備大宰・吉備・周防・伊予総領が置かれた地域と古代山城の関わりも近年クロー ズアップされてきた。このうち岡山県鬼ノ城山城は発掘調査の結果、7 世紀後半~ 8 世紀 初頭の存続が確実となってきた。また、鬼ノ城で完成した角柱の掘立柱式門礎が同じ瀬戸 内の山口県石城山城・香川県讃岐城山城・兵庫県播磨城山城でも出土し、寸法も一致する など城門構造で設計と築城時期が関連していることを示唆する。 一方で九州北部の神籠石式山城もその多くが立地条件や城壁構造などで一致し、その配 置が大宰府を中心にして四方に延びる官道沿いに配置されていることは、筑紫大宰との関 連性が窺われる。この吉備と筑紫の大宰そして総領制は、律令制の国司制度が整備される 中で廃止され、筑紫大宰のみが律令制の大宰府へと引き継がれていった。
  • 650 年頃にはどのような対外的な動きがあったのだろうか。

    対新羅との関係では『日本 書紀』白雉二(651)年条に「于時巨瀬大臣奏請之曰、方今不伐新羅 於後必当有悔。其 伐之状不須挙力、自難波津至筑紫海裏、相接浮盈艪舳、召新羅問其罪者、可易得焉。」の 記事が注目される。新羅は 648 年に唐との間で軍事同盟を結んでからは、礼服の制度な ど各種の唐の制度や文化を取り入れ、650 年にはついに自国の年号をあらためて永徽の年 号を採用するなど、唐風化政策を推進した。そして 651 年に新羅使が来朝したおりに唐 服を着用していたことを不快として追い返し、先のような新羅に対する軍事的存在感を示 して、新羅を詰問しようと考えたのである
  • October 2017 編集されました
    536 宣化 1 5
    那津官家の整備が行われる 「官家(みやけ)を那津のほとりに建てよ」 日本書紀宣化天皇元年五月
    (注)那津官家とは、当時緊迫していた朝鮮半島情勢に対応することを目的に設けられた軍事基地兼食料備蓄基地であったと考えられる。なお、後の太宰府との関係に於いては太宰府前身説と筑紫太宰の駐屯地説などある。

    609 推古 17 4
    筑紫太宰(つくしのおおみこともちのつかさ)が奏上した(「筑紫太宰」の名称はこれが初見)
    日本書紀推古天皇十七年四月

    643 皇極 2
    筑紫の太宰府から早馬で伝えて「百済国王の子、調使と共に到着しました」
    日本書紀皇極二年二月二十一日
    643 皇極 6 筑紫の太宰府から早馬で「高麗が使いを送ってきました」と伝えた 日本書紀皇極二年六月十三日

    661 斉明 7 5 斉明天皇出征し築紫朝倉宮(福岡県朝倉町)を本営とする  日本書紀斉明七年五月九日
    7 斉明天皇、朝倉宮で崩御 日本書紀 斉明七年七月二十四日

    半島では
    百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。

    新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
  • 朝倉宮の伝承

    660年、斉明天皇は百済救援のために筑紫の「朝倉の橘の広庭宮」に遷都した・・・と、日本書紀にあります。

    朝倉のある越智郡は古代伊予の豪族・越智氏の本拠地であり、伊予の国府が置かれていた瀬戸内海の交通の要衝でもある。今治の島嶼部には来島海峡(くるしまかいきょう)を挟んで大島・伯方島(はかたじま)・大三島などの芸予諸島(しまなみ海道)が連なり、越智・河野・村上氏の奉祭した”和多志の大神”大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)が鎮座する。また天智天皇の治世に因むと考えられる西条市河原津(かわらづ)の永納山(えいのうさん)山城遺跡も近く、この地の朝倉の伝承には看過できないものが多く含まれている。全国的にはあまり知られていないが、この地が斉明天皇661年の「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に因む土地であった可能性があるという。
  • (孝徳紀白雉四年)
    是歳、太子、、奏請して曰さく、「冀はくは倭の京に遷らむ」とまうす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉り、併て皇弟等を率て、往きて倭飛鳥河辺行宮に居します。

    (孝徳紀白雉五年)
    冬十月の癸卯の朔に、皇太子、天皇病疾したまふと聞きて、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉りて、併て皇弟・公卿等を率て、難波宮に赴く。

    上記の孝徳紀における「皇弟」は誰を指すのか?
    孝徳には、系譜上弟はいない。皇太子(中大兄)の弟とするには、孝徳紀であるからして無理がある。
    皇太子の弟については、『日本書紀』の中に、「弟王」と記述されている例がある。つまり、「皇弟」と「弟王」とが区別されて使用されている。
    大海人皇子は、『日本書紀』においては、孝徳の甥とされているから、「皇弟」が大海人であるとすることは容認できない。

    大芝氏は、上記の問題を解決するためには、「もう一人の天皇」の存在を想定し、その「皇弟」と考える以外に、『日本書紀』編述者の意志を満足させることはできない、とする。
    つまりは多元的な王朝の存在である。
    『旧唐書』には、「日本は倭国の地を併す以前は小国であった」と、倭国と日本国とが別の国として記されている。
  • 650年(白雉元年)
    穴戸(長門)国より献上された白雉により改元。
    651年(白雉2年)
    難波長柄豊碕宮へ移る。
    652年(白雉3年)
    班田終わる。戸籍作成。
    653年(白雉4年)
    第二次遣唐使として吉士長丹らを唐へ派遣。孝徳天皇と中大兄皇子との対立深まる。中大兄皇子らが飛鳥河辺行宮へ移る。
    654年(白雉5年)
    第三次遣唐使として高向玄理らを唐へ派遣。孝徳天皇、難波宮で没する。
  • 太宰府市内山の竈門神社の入口の石段を上がる途中の右側には、大きな礎石群が確認できます。この礎石群が竈門山寺跡と考えられています。
    調査の結果、南北8列、東西6列の礎石列からなる7間5間の総柱式建物の遺構が確認され、平安時代後期(A.D.11世紀)のものであることが分かりました。また、この近辺からは8世紀初頭にあたる鴻臚館式軒丸・軒平瓦も出土しており、既に奈良時代に寺院があったことを示しています。
    延暦22年(803年)閏10月23日には、遣唐使船に乗り唐へ向かおうとしていた最澄は、遣唐使船四隻の平安を祈って大宰府竈門山寺で薬師仏四躯を彫りました。その寺の跡がこの場所であると考えられています。
    その後、古代から中世にかけて竈門山寺は、大山寺、さらには有智山寺と名称も変わっていき、竈門山寺の最盛期、平安時代末から鎌倉時代にかけては、内山・南谷・北谷に三百七十の坊舎があり、そのうち三百坊は学問をもっぱらにした衆徒方、七十坊は修行をもっぱらにした行者方であったと伝えられています。
    また、竈門神社の近くの寺には、近年建てられた伝教大師最澄の銅像もあります。
    (森 弘子『宝満山歴史散歩』より
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