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神剣を熊野の高倉下が神武天皇に渡す 神倭伊波禮毘古命は、熊野村に着かれた時に、大熊が髮から現れ、姿を消した。 …
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コメント
「新撰姓氏録」物部氏族条の左京神別上には真神田曽祢連(まかみたのそねのむらじ)。神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命(けつわけのみこと)の後なり。とあります。
「崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。」と記載あります。
ここにも、物部氏と三輪氏の祖である太田田根子との関係が見て取れます。やはりこうした事情が反映して真神田氏のありようが物部氏と出雲族の三輪氏系に分かれたように思えます。
熱田神宮は宮簀媛命が草薙神剣を熱田の地で祀ることから始まっています。よって熱田大神とは、天照大神ではなく草薙神剣の神霊を意味していると考えて間違いなさそうです。
石上神社によれば
出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)
摂社 出雲建雄神社
延喜式内社で、草薙剣の荒魂である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
天武天皇朱鳥元年(686)、一振りの剣が布留川を流れて布に留まった。(依りてこの地を布留という)この剣を草薙剣の荒魂と仰ぎ奉斎したのが摂社出雲建雄神社である。
出雲建雄神の草薙の剣について
大化の改新後、次々と政治の刷新を図ってきた天智天皇は、皇位継承の神器に「鏡」と並んでもう一種「剣」を加えようと考えた(「勾玉」が加わるのは持統天皇以後)。ところが尾張氏のもとに奉斎されている。
神剣のが盗まれる事件(実際には仕組まれた)を契機に朝廷に召喚された草薙剣が、天武天皇のときに、石上神宮にわざわざ摂社出雲建雄神社を建てて奉斎されたということである。
出雲建雄神とは素戔嗚尊のことである。彼は「建(武)雄」呼ばれたようで、愛知県武豊町の武雄神社など全国にもかなりある。
石上神宮には布都斯御魂大神ふつしもたまのおおかみ・スサノオ(素戔嗚尊が八俣大蛇を退治したという天羽羽斬剣あめのははぎりのつるぎ(十拳の剣))と共に、布留御魂大神ふるみたまのおおかみとしてニギハヤヒも祀られている。
当時石上神宮は、日本の開祖・スサノオと大和朝廷の始祖・ニギハヤトと国平むけの神剣・布都御魂剣を祀る日本最高の神宮であった。
朱鳥元年(686)6月10日、天武天皇の死の3か月前、勅命によって急遽尾張に返還されている。
召喚されたのが天武天皇6年(677)、祀られたのが9年後の朱鳥元年(686)まで鎮座していたことになる。
草薙剣は、天武天皇の頃には石上神宮にあって、布留剣と呼ばれていた。草薙剣と命名されたのは、天武天皇死後のことである。
布都御魂大神は出雲の国譲りの交渉に高天原から派遣された建武雷之男神が帯びていた剣であり、後に神武東征の折、熊野の神の毒気から蘇らせ(神武天皇はその霊剣を一振り、二振りされたときフッと神霊は流れた)、邪気をたいらげる。神武天皇がその功績を称えて高倉下命たかくらじのみことの兄弟である宇摩志麻遅命うましまじのみことに命じて宮中に祀らせていた。それを崇神天皇が、伊香色雄いかがしこおに命じてこの地に移し、祭祀の始まりという。
高倉下とウマシマジは、兄弟か?
宇摩志麻遅命は饒速日命と御炊屋姫命との間に生まれ、神武東遷の際の功によって神剣霊剣を賜り、神武即位に際しては五十串を樹て、 霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈った。これは鎮魂祭の起源である。
その後、宇摩志麻遅命は天香具山命とともに物部の兵を率いて尾張、美濃、越国を平定し、天香具山命は伊夜彦神社(弥彦神社)に鎮座したが、宇摩志麻遅命はさらに播磨、丹波を経て石見国に入り、都留夫、忍原、於爾、曽保利(いずれも川合周辺)の兇賊を平定、厳瓮を据えて天神を奉斉し、安の国と名付けた
この天武天皇朱鳥元年(686年)は草薙神剣の盗難事件に関連する年なのです。
「日本書紀」によれば、天智天皇7年(668年)僧道行が草薙神剣を盗み、新羅に向かって逃げたものの、嵐に遭い、迷って帰ってきたとされます。草薙神剣はなぜか熱田神宮に返還されず宮中に収められ、天武天皇が神剣の祟りによって病気となり崩御したため、朱鳥元年(686年)に熱田神宮に返還されました。
この年に、高座結御子神社が創建されたことになる。
そして素戔嗚を祀ったならば、その御子は誰か
出雲建雄神社の縁起には、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。云々」と託宣しています。尾張氏の女とは誰でしょう?そう、言うまでもなく宮簀媛命です。
『ホツマツタヱ』によると、宮簀媛は結婚した日本武尊との間に武田王(たけだのきみ)と佐伯命(さえきのみこと、佐伯王)の2人を産んだとされている
『ホツマツタヱ』によると、日本武尊が尾張国で後に結婚した宮簀媛(宮津姫)が武田王と佐伯王の2人を産んだとされている。 武田王を奉祀する、愛知県一宮市の宅美神社の由緒書によると、武田王はその土地に御所屋敷を構え、土地を開墾したとされ、山梨県韮崎市にある武田八幡宮では諏訪神社の南西に位置するわに塚の桜の御所を治めた後、薨じてこの地に葬られ「王仁塚」と呼ばれたと言う。
とすれば、祀られている御子は、武田王か佐伯王かもしれない。
これ以前のことです。尾張国司守(オワリノクニノミコトモチノカミ)の少子部連鉏鉤(チイサコベノムラジサヒチ)は山に隠れて自殺しました。天皇は言いました。
「鉏鉤(サヒチ)は功のある勇ましい者だ。罪も無く、どうして自殺したのか。隠された謀(ハカリコト)があるのではないか」
鞍手地方は、日本武尊、宗像三女神、筑紫物部、神功皇后伝説等、ことかきませんが、宗像三女神が降臨されたとされる六ヶ岳麓周辺には、今だ神仏習合の祭祀を行う妙見社、筑紫物部氏伝説の鞍橋君の祭祀された鞍橋神社があります。
鞍橋神社(くらじさん)と鞍手の地名について
伊藤常足の太宰管内誌に日本書紀を引用した鞍手の地名考があり、それによりますと欽明天皇の時、百済を救援に行った筑紫国造が強弓の使い手で、敵の騎馬兵の鞍の骨を射抜くほどであった。その働きにより敵の包囲から脱れた百済の威徳王がその功を称えて鞍橋君の尊称をおくった。鞍橋は矩羅膩(くらじ)と読んで鞍骨のことで、この「くらじ」が訛って「くらで」というようになった、と記されています。
長谷の飯盛山にその鞍橋君を祀る鞍橋神社があり、土地の人は「くらじさん」と言っています。
長田彦ろは誰か
紀一書の三に、「すなはち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降りまさしむ。今、海の北の道の中にます。なづけて道主貴(みちぬしのむち)とまうす。これ筑紫の水沼(みぬま)君等が祭る神、これなり」とある。宇佐嶋すなはち宇佐である。
六ケ岳神社の縁起に、「養老三年、宇佐宮の禰宜(ねぎ)辛嶋(からしま)氏、社に詣で、長田彦の裔孫室木国彦に会い、此宮、吾が宇佐宮にひとしければ、日本三所の姫大神の御廟なるべし、宜しく第二宮と称し奉るべしとて、第二宮室木六岳神社と唱え来しという」とある。六ケ岳神社は宇佐神宮と同一の神を祭る神社だというのである。以来《第二宮室木六岳神社》と呼ぶようになった。「室木國彦」は六ケ岳神社の宮司。『白鳥伝説』に「小狭田彦の四代の孫の天賀那川王は新北ならびに室木の神官に任ぜられた」とある
天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと))と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
父の五十猛(徐福の長男で後の名を天の香語山)と母親の大屋姫とともに 紀の国へ移住した
大屋姫は出雲王朝第八代主王ー大名持の八千矛王の孫娘である。
また彼女は八千矛王(記紀では大国主と書き換えられた)が徐福らに拉致監禁され殺された後 大和へ移住した八千矛王の長男味鋤高彦の娘姫でもある。もっとも大屋姫は晩年を大和葛城に大勢で移住した出雲族とともに過ごし その地には「大屋」の地名が残る。
九州物部家「彦渚武王」の長男物部五瀬(もののべのいつせ)が紀の国に上陸した後 高倉下の一族に毒矢で戦死させられ 家臣たちにこの地に葬られた墓地とその地に建てられた竈山神社(かまやまじんじゃ)を訪ねる事である。
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伊達神社(いたて)、射矢止神社(いやと)、大屋津姫神社(おおやつひめ)
伊達神社(いたてじんじゃ) 和歌山市園部 1580
の系譜を伝える「賀茂氏系図」
「先代旧事本紀」も『天櫛玉命は鴨縣主らの祖』(「天神本紀)と記す。
この名を持つ神様は天津彦根命に他なりません。
神武に先駆けてヤマトを治めたと云われるニギハヤヒが「櫛玉」という神名を冠しているのも、同じ氏族に属しているからだと見られます。更に、この香久山山頂付近には「天常立神」を祀る社が建てられているのですが、この神様が若し「天底立命(天津彦根命の別名)」と同神であれば、帝室の祭祀の本質が何処に在ったのかを知る大きな手掛かりになりそうです
後半の「マチ」に着目すると、物部氏の祖・饒速日命の二人の息子が「天香語山命(亦の名、高倉下命)」と「宇摩志麻治命」であり「アメノカゴヤマ」「ウマシマチ」の名称で呼ばれている類似性がとても気になる処
櫛真智= ウマシマチ か
『延喜式』神名帳の伊予国風早郡に、「国津比古命神社」
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
宇麻志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命が配祀されています。
国造本紀に、風速国造は応神朝に伊香色男命の四世孫の阿佐利を任じたといい、『続日本後紀』承和六年十一月癸未条には、善友朝臣の姓を賜った伊予国人の風早直豊宗らは天神饒速日命の後裔であるとされています。
当地の国造が、物部氏族を称していたことがわかります。
国津比古命神社は、この国造一族によって奉斎されたものでしょう。
『延喜式』神名帳の伊予国風早郡に、「櫛玉比売命神社」
国津比古命神社と向かい合う形で境内を接しています。
ひとつの境内に複数の神社が並祀されているといったほうがいいかもしれません。
祭神は、天道姫命。御炊屋姫命を配祀します。
『旧事本紀』によれば、どちらも“櫛玉”饒速日尊=天火明尊の妃神です。
『文徳実録』斉衡元年三月壬辰条に、伊予国の櫛玉姫神が従五位下の神階に叙せられたことがみえます。
社殿は古墳を一部削平して建っています。
墳丘全長75メートル、後円部径42メートル、前方部幅39メートルの前方後円墳です。
鞍橋ノ君は日本書紀にも記載されている弓の名手で、磐井の乱のあと、百済救済の戦に参加して功績を挙げた勇士である。弓の名手で、百済の支援軍に参加し、百済の聖明王は戦死するが、その子の余昌を救出するという手柄をたてている。
この鞍橋(クラジ)の君の本拠地が鞍手町であることが、その新北熱田神宮に伝わる文書からわかった。
糟屋の屯倉を献上して命をながらえた磐井葛子は鞍橋の君の兄であるという。
宮司さんの家に伝わる金川文書に、磐井葛子の弟「鞍橋ノ君」が住んでいたという古文書があるという。
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2011/11/blog-post_05.html
この神社は古賀の天降神社との縁も深く、天降神社には鞍手(新北)の丹比氏から寄贈された梵鐘が残っている。
この新北の丹比氏と鞍橋の関係は不詳だが、あそらく鞍橋氏の一族であろう。
金川文書では、磐井は孝元天皇の長子の大彦の血を引く筑紫国造であるという。その磐井の子に、葛子と鞍橋の君の兄弟がいたことになる。
小狭田彦の孫小磐削こいわけノ御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘常磐津姫の間に生れた人である。
父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を頂いたほどである。
御剣王は帰国の後『兎角に父の尊の慕わしくて、尺ノ岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ云々』とある。」
「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王を嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那川かながわ彦ノ王を新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳(尺岳)日本武尊小狭田彦御剣王合祀の神主となし、御子玉御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山戸部ノ王を聞(企救)の司となし、御弟羽羽戸部ノ王を高羽(田川)の主とし、御弟八ツ田大戸部ノ王を暗崎(黒崎)の村主となし玉ふ』云々とある。」
右の香月文書の中に、日本武尊の孫「賀那川彦王」が「新北の神主」となったという、記紀には見えない現地伝承のあることは重要この上ない。なぜなら、「新北村剣大明神縁起」が熱田神社に伝わり、この宮の宮司こそ「金川」氏であるからだ。ちょうど、筑後の風浪宮の宮司が「安曇」氏であるのと同様だ。熱田神社の祭神は、美夜受比売。尾張の熱田神宮と同じだ。
そうすると、「熱田」もやはり「熟田」「贄田」「新北」と同じく「にぎた」と呼ばれた可能性が高いのである。ニギハヤヒはもう述べた。
日本武尊と美夜受比売とは、ここ鞍手町新北の地においてこそ、より自然な夫婦神でいらっしゃるのだ。
鞍手には、その語源に関わって、鞍橋君くらじのきみがいた。
欽明天皇紀に、十五年(五五四)に百済の聖明王が新羅と戦って戦死した。この時、援軍に来ていた筑紫国造の鞍橋君が、敵軍に囲まれた皇太子の餘昌を、その強弓で敵の騎馬兵を射落とし、助け出した。餘昌は後に即位して威徳王となった。
とある。この鞍橋君を祭ったとされる鞍橋神社祠が鞍手町長谷(新北の南)の飯盛山頂上にある。都合三度も登って、参詣した。先の新北の神官、金川家の家譜には闇路公くらじぎみの文字が見えている。また、現在の鞍橋神社祠は修復され、鞘堂に覆われているが、側の修復記念の碑には、熱田神社宮司の金川明敏氏の名が刻まれている。また、直方市下新入の剣神社々記には、「往古は倉師くらじ大明神と御神号を称した」とあるそうだ。鞍手の地に鞍橋君は眠っている。
四世紀後半の神功皇后の三韓征伐と同じように、六世紀半ばの鞍橋君もまた、ここ新北より直接、朝鮮半島に船で渡ったようである。
最後に、少し前後するが、「磐井の乱と新分(新北)物部の参戦」という項を紹介する。
「香月文書によると小狭田彦の四代の孫、天の賀那川王は新北及び室木の神官に任ぜられたが、三世の孫大満子おおみつこは香月家の本家をつぎ、香月ノ君となった。その養嗣子倭男人やまとのおひとは継体天皇の二十五年(五三一)十一月『物部麁鹿火を助けて磐井を誅せらる時に云々』とあり、またこの時磐井の子の北磐津きたのいわつが赦しを乞うたので、倭男人はこれをあわれんで奴僕としたとある。これによると、当時鞍手の壮丁、すなわち新北物部が倭男人の輩下として参戦したということになる。」
http://www.ne.jp/asahi/tokfuruta/o.n.line/mate/on-kaiin/frtnws893.htm
建稲種命(たけいなだねのみこと)という人物が記される。
建稲種命は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国平定に従ったとされる。ところが帰る途中、愛知県の三河湾あたりで水難事故に会い水死する。
建稲種命の妹に宮簀姫(みやずひめ)と云う人物がある。
宮簀姫は日本武尊の妃になったとされる人で、愛知県の熱田神宮は、宮簀姫が日本武尊の形見である草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀つつた事に始まるとされる。
そして応神の時代になって建稲種命の遺児、尻綱根(しりつなね)命が尾張国造となる
忍山宿禰とタケイナダネ
知多半島の対岸である三重県亀山市には「忍山神社」があり、祭神こそ
スサノオ尊ですが、神社は「押山宿禰」に祀られており、娘は「弟橘媛」
であったという噂もあります。
『海部氏勘注系図』はタケイナダネについて、驚くべき記述を残しております。
それは、 「またの名を須佐之男尊」 であると。
『勘注系図』を手放しで信じられない理由の一つになっていますが、
タケイナダネが「草薙剣」を手にしていたこと、
『熱田国風土記』が、「尾張国」名を、ヤマタノオロチの尾を割って出て来た剣に由来している、と記してあることから、全然信じられないと言う話でもありませんが、歴史ロマンに留めておきたいと思います
参拝のあと、宮司さん宅で系図を見せていただきました。
金川宮司家は現在79代目。77代の方が書きしるしたものが残っていました。
その一部です。
磐井ナル-葛子-鞍闇君-初メ 新分鄕 新延 鞍闇君の戦功に依りて賜ハル
系図の空いた場所には「○鞍闇君は葛子の弟なり?」とメモ書きされていました。
系図の書き方を何度も見なおしましたが「鞍闇君は葛子の子」として大丈夫でしょう。
鞍闇君とは「くらじのきみ」と読み、他の書き方に鞍橋君、暗路君、倉師などがあります。
同じ鞍手には北磐津の名があります。
北磐津(きたのいわつ)は磐井の子です。ですから、葛子の兄弟にあたります。
磐津(きたのいわつ)が鞍闇君の可能性はないかと思って、系図にその名を探しましたが、それはありませんでした。
系図には鞍闇君は「筑紫国造」と書かれている。
http://lunabura.exblog.jp/22277202/
丹比氏は、たじい氏、あるいは、たじ氏といわれますが、丹比連の他に丹比君の名が『古事記』や『日本書紀』に見られます。
こちらの丹比君は、28代宣化天皇の皇子エハ王を始祖にする、と記されています。
『古事記』は、宣化天皇と河内の若子比売(ワクゴヒメ)との間に生まれた恵波王(エハノミコ)が多治比君(丹比君)の祖である、とし、『日本書紀』は、宣化天皇と橘仲皇女(タチバナノナツヒメノヒメミコ)との間に生まれた上殖葉皇子(カミツウエハノミコ)が丹比公(註:公は君のこと)の祖、と記します。
橘仲皇女(仁賢天皇2年(489年)以前-没年不詳)は宣化天皇の皇后。古事記には橘之中比売命(たちばなのなかつひめのみこと)とある。父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女(雄略天皇の皇女)。石姫皇女(欽明天皇の皇后、敏達天皇の母)の母。
安閑朝から宣化朝にかけて大和朝廷がめざましく発展していることが明らかになっている。そして、二朝並立の混乱のなかでそのような発展があったとみない方がより妥当であるから、継体天皇から欽明天皇までの皇位の継承は平和な形で行われたとするみかたが有力になっている。
継体の皇后「手白香皇女」、安閑の皇后「春日山田皇女」、宣化の皇后「橘仲皇女」の三妃はすべて市辺押磐皇子の皇子、仁賢天皇の皇女なのである。
欽明は押磐皇子系であり、皇后の「石姫」は宣化の皇女であるから、「近越・尾張」系である。
宣化崩御後は、宣化の皇子「上殖葉皇子」(かみつうえはのみこ)が嗣ぐものであったと思われる。
しかし、宣化の皇子による世嗣ぎができなくなってしまった。
それは、『継体紀』に引用されている『百済本紀』のおなじみの一文からである。
「辛亥年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」
この一文は、『継体紀』に記述されてはいるものの、これは宣化のことではないだろうか。皇太子とは、「上殖葉皇子」のことであろう。辛亥年(531)に、宣化と皇太子が亡くなってしまったため、押磐皇子系の皇子が欽明として即位したのであろう。
仁賢は押磐天皇の皇子である。また継体の正妃「手白香皇后」も仁賢の皇女であった。
つまり、継体・安閑・宣化・欽明の四代は、本来の皇統と雄略の後、 継体を擁した新たなる皇統とを、何とか一本化しようという努力が見てとれる。
仁賢天皇は旧ヤマト勢力であり、仁賢の側近らは、「大伴氏」の政策に追従できず、「大和」を20年もの長きにわたり占領し、あるいは
「磐井の乱」の片棒を担ぐことにもなったが、天皇家(大王家)は、皇統の維持につとめていたようである。
皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ、宣化天皇皇女)
箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ、八田王)
渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと、敏達天皇・押坂彦人大兄皇子父)
笠縫皇女(かさぬいのひめみこ、狭田毛皇女)
妃:稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ、『古事記』に小石比賣命。宣化天皇皇女。)
石上皇子(いそのかみのみこ、上王)
妃:日影皇女(ひかげのひめみこ、『古事記』になし。宣化天皇皇女?)
倉皇子(くらのみこ。『古事記』に宗賀之倉王として、母は糠子郎女)
妃:堅塩媛(きたしひめ。蘇我稲目宿禰女)
大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)
磐隈皇女(いわくまのひめみこ、夢皇女) 伊勢斎宮
臘嘴鳥皇子(あとりのみこ、足取王)
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇)
椀子皇子(まろこのみこ、麻呂古王)
大宅皇女(おおやけのひめみこ)
石上部皇子(いそのかみべのみこ、伊美賀古王)
山背皇子(やましろのみこ、山代王)
大伴皇女(おおとものひめみこ)
桜井皇子(さくらいのみこ、桜井之玄王) 吉備姫王父
肩野皇女(かたののひめみこ、麻奴王)
橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)
舎人皇女(とねりのひめみこ、泥杼王) 当麻皇子妃
妃:小姉君(おあねのきみ。蘇我稲目宿禰の女)
茨城皇子(うまらきのみこ、馬木王)
葛城皇子(かずらきのみこ)
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ) 用明天皇皇后・厩戸皇子(聖徳太子)の母・田目皇子の妃
穴穂部皇子(あなほべのみこ、須賣伊呂杼・天香子皇子・住迹皇子)
(宅部皇子)→宣化天皇の皇子か
泊瀬部皇子(はつせべのみこ、長谷部若雀命・崇峻天皇)
妃:糠子(ぬかこ。春日日抓臣の女)
春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)
橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ、麻呂古王)
石上郷
『和名類聚抄』の伊曽乃加美は、山城国山邉郡と備前国邑久郡のみである。
物部守屋(?~587 年)の時の崇・廃仏闘争により物部一族は滅亡した。しかし、物部一 族は石上氏として存続する道をたどった。石上麻呂(640~717 年)は物部氏の居住地であ る石上郷に因み「石上朝臣」と改称した。
『続日本紀 巻五 元明天皇』の和銅三年(710 年)秋七月丙辰に「左大臣舎人正八位 下牟佐村主相撲・瓜。」との記録がある。左大臣舍人正八位下牟佐村主相摸とは、吉備国の牟 佐の住人と読むべきである。左大臣舍人とは、石上麻呂の舍人(家来)の意である。
備前国石上郷は、石上皇子(542 年?~没年?)と石上部皇子縁の場所である。根拠は欽 明天皇の皇后の名前、石姫皇女の石を石上の地名の由来と考えたい。石上部皇子の母は蘇 我堅塩媛(きたしひめ)であり、蘇我稲目の娘である。石上麻呂が壬申の乱(672 年)で 大友皇子(弘文天皇)につき敗れたにも関わらず赦された背景である。
糠子の子が、春日山田皇女
讃岐の春日山田皇女 山田神社
山田神社
国道11号線十三塚の交差点を、観音寺市街に北上1.5kmほど進んだところに鎮座する神社。
讃岐の延喜式内二十四社の一社といわれている。
境内地は広く、社叢も発展途上
由緒(香川県神社誌)
延喜神名式に「讃岐国刈田郡小山田神社」とありて、式内當国二十四社の一とす。
往古より柞田一郷の大社にして、ふるくは當村中河原の地に鎮座ありしが、後現今の地に遷座せらしものにして、旧地には今猶神事に用ゐられし井戸を存す。 柞田村は奮作田郷にして、黒淵、山田尻、北岡、大畑の四村これに属し、當社は黒淵村に鎮座ありて、黒淵村は古く山田村と稱されしことは黒淵村の後なる村を山田尻と云へるによりて明らかなり。
山田村の名は山田皇女の御名代地たりしを以て起こりしものならむと云ふ。配市の山田大娘神は、即ち春日山田皇女にして安閑天皇の皇后にましまし。大日本神明辞書に、御子なきを以てその名の亡びむことをいたみ匝布屯倉を賜ひて御名を表す云々。
讃岐国三豊郡柞田村に山田神社あり此の命を祀ると見ゆ。又少名毘古那命は元小山明神と稱へられ同村に鎮座ありしを合せ祭れるものとす。
山田大娘命は、安閑天皇の皇后である春日山田皇女。
「日本書紀」安閑天皇2年の条によれば,同年設置された26か所の屯倉のうち火国春日部屯倉が見える。この春日部屯倉は皇后春日山田皇女に由来するものであって,春日という地名とともに近くに山田という地名も残っている。この地は,豪壮な前方後円墳が最も多く存在するように古くから開け,また国府に近いこととも合わせて屯倉の所在地と考えられる(神埼町史)。
火国の春日部の屯倉は、日本書紀安閑天皇二年の条に記されている。同年に設置された二十六か所の屯倉の中の一つである。春日部の名は皇后の春日山田皇女の名代としての部民を置いて設けられたことに起因するものであろう。春日部屯倉の所在地については、熊本市春日町付近や熊本市国府付近(昔の託麻郡三宅郷)に推定する学者が多い。それらの学者のこれに関連する意見には、春日部屯倉と建部(軍事団の一つ)の設置によって、当時宇土半島の基部あたりに本拠地をもっていた火国の国造火君や白川上流の阿蘇国の国造阿蘇君は大和朝廷の大きな圧力を受け、火君は本拠地を八代地方に南遷させるに至ったと説き、しかも一方では、筑紫国造磐井の反乱の際は、火君は朝廷側に味方し、その功労によって乱後は北九州にも進出したと述べる学者が多い。
春日部屯倉の設置は磐井の反乱の時の継体天皇の次の安閑天皇の代のことと伝えられる。その伝えが事実で、春日部屯倉が火君の本地という後の肥後(熊本県)であるならば、功績のあったものに対する処置としては過酷である。そのような観点からも肥後地方以外の火国、すなわち肥前地方に春日部屯倉の所在地を求めることには意義がある。
肥前国における春日部屯倉の所在地としては、現在の佐賀郡大和町の春日地区(旧春日村)と藤津郡嬉野村の吉田地区(旧吉田村)の春日の二つがあげられる。前者は律令政治時代に長く肥前国衙(国府)が置かれた土地であり、隣接の川上地区(旧川上村)には山田の地名も存在し、佐嘉県とも重複する土地であり、蒙壮な前方後円墳が最も多く散在する地方でもある。藤津郡の吉田の春日は、隣接地の鹿島市鹿島町の琴路神社は安閑天皇を奉祀しているといわれるが、この付近は古墳はほとんど発見されていないばかりでなく、水田にもあまり恵まれない地域である。
安閑天皇が二年目で崩御し、その同母弟である宣化天皇が即位します。その年(西暦536年か)の五月条の書紀の記述にて、那津官家の成立を示しています。那津官家の設置理由として、筑紫・肥・豊の三国の屯倉が遠く運搬に不便な場所にあり、穀物を一箇所にまとめて貯蔵する必要があることを挙げています。実際に、福岡市博多区の比恵遺跡にて大型倉庫群の遺構が発見されております。那津官家がこの福岡市博多区に実在していた
書紀の記述における那津官家設置の目的は、非常の事態に備えて民の命を守るためとあります。そして、翌年十月条には任那・百済救出のために大伴磐・狭手彦の兄弟が筑紫へ派遣されたあたり、軍事行動のための拠点として設置されたことも考えられます。このとき、磐が筑紫に残留して「政を執」ったとあることから、那津官家が九州における地方支配の拠点であるか。