乙訓、山城の古墳

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image乙訓、山城の古墳

寺戸大塚古墳は、桂川右岸の向日丘陵上に位置する古墳時代前期の北山城を代表する前方後円墳 の一つです。寺戸大塚…

Read the full story here


タグ付けされた:

コメント

  • 奈良時代の山背國というのは、だいたい巨椋池付近までで、それより北は主として秦氏や栗隅氏が開発したのだという。平安京は秦氏の土地に営まれたわけである。平安京の最大の神社は賀茂大社であって、「鴨一族が入り込んで山背を平定した」という話になっていることが多いのだが、実はそれより古く、土師氏が住んでいたそうだ。

    当時の山城の国には愛宕(うたぎ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人物が多数住んでいた。その場所は愛宕山からだいぶ離れている。現在の京都市内で、北区、中京区を含むという。同志社大学付近には遺構があるらしい。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにある。愛宕山も現在は京都と亀岡の境ぐらいにあるが、かつては丹波の勢力圏で、朝廷が直接統治する場所ではなかったのではなかろうか。
  • http://kumoi1.web.fc2.com/CCP014.html
    「寧楽遺文(ならいぶん)」に神亀三年(726年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳」、同じく「雲下里計帳」が掲載されている。そこに出てくる人名は、ほとんどが「出雲臣」という姓なのである。

    天平五年(733年)の八月に「一廿日符壹道」として、「国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣廣嶋追状」の記載があり、「以八月廿五日到国」とある。それまで住んでいたところから、その任地に到着したのである。これが風土記を書いた廣嶋と同一人物かどうかは分からないが、風土記末尾の記載と、官位は完全に一致している。ただ風土記は「天平五年二月三十日勘造」とある。すると「到国」の半年前に書いたことになる。それぞれの章を、各地方役人に書かせているわけだ。出雲国風土記の記述が何だか客観的で冷静な(自分の国を飾り立てて書こうという気がない)ように見えるのは、彼の生国ではないからかもしれない。
  •  京都盆地南西部の式内社の祭神で 、古文献にいち早く登場する確実な例は、『続日本紀』の大宝元年(701年)四月三日の条にみえる波都賀志神(はつかしのかみ)であり、ついで大宝二年七月八日の条に記す乙訓郡の火雷神である。

     波都賀志神(はつかしのかみ)については、大宝元年四月三日の勅に「山背国葛野郡月読神、樺井神、木嶋神、波都賀志神らの神稲は、今より以降、中臣氏に給へ」とあるのがそれであり、乙訓郡の火雷神(石作氏・六人部氏らの奉斎した神)については、大宝二年七月八日の条に「山背国の乙訓郡に在る火雷神、旱(ひでり)ごとに雨を祈るに、頻(しきり)に微験あり、冝く大幣及び月次の幣例に入るべし」と記述されているのがそれである。

     まず波都賀志神(羽束師神、はつかしのかみ)の例からながめてみよう。大宝元年四月三日の勅にいうところの葛野郡月読神とは、『延喜式』にいう「葛野に坐す月読神社」であり(葛野郡)、樺井神とは『延喜式』の「樺井月読神社」であり(綴喜郡)、木嶋とはやはり『延喜式』にみえる「木嶋に坐す天照御魂神社」である(葛野郡)。

     乙訓に関係があるのは波都賀志神であり、『延喜式』が乙訓郡内の大社として記す「羽束師に坐す高御産日神社」がそれである。
  •  延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 向神社(ムカヘ)』とある

    式内社だが、同じ式内社・『乙訓坐大雷神社(オトクニニマス オオイカツチ・乙訓坐火雷-ホノイカツチ-神社とも書く・以下「火雷神社」と記す) 名神大 月次新嘗』を併祭している。なお式内・乙訓坐大(火)雷神社には、論社として角宮神社(スミノミヤ・長岡京市井ノ内 )がある。
     現在の社名・“向日”は“ムコウ”と読むが、参詣の栞の祭神名には向日神・“ムカヒ”とルビが振ってある。

     阪急京都線・西向日駅の北西約800mに鎮座。駅西側から大極殿通りを北へ、大極殿交差点を左(西)へ、五辻交差点を右(北)へ、旧西国街道(現アストロ通り・府道67号線)を進んだ左側に鳥居が立つ。

     当社が鎮座する向日山は、南北に延びる向日丘陵南端の尾根にあたり、付近一帯は弥生中・後期の集落跡といわれ、当社の北に隣接して、京都盆地で最古といわれる元稲荷古墳(前方後方墳・全長約94m・前方部巾約46m・高さ約3m・後方部約52m・高さ約7m・実線南北方向・3世紀末~4世紀前半)があり、その墳丘部が勝山公園として残されている。

    ※由緒
     当社の創建年次は不明だが、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に、“正六位上向神を従五位下に進む”とあり、9世紀前半以前からの古社であることは確かといえる(この時、乙訓火雷神も正五位下から従四位下に進んでいる)。

     当社の創建由緒について、向日二所社御鎮座記(879)には
     「神スサノヲの御子・大歳神(オオトシ・大年神)と神イクスビ命の娘・カヨヒメとの御子である御歳神(ミトシ・御年神)が、国を作り堅め終わって住むべき国を求められた時、此の峯に登って、朝日直指(タダサ)す地、夕日の日照る天離る向津日山は、吾が欲する地なり。永く此の国に住もう、と謂われた。
     神名加豆戸辺(ナカヅトベ?-葛野連等の遠祖〉が御田を奉り、社殿を造り奉って朝夕奉仕した」(漢文意訳・大意)
    とあり(式内社調査報告・1979)、

     当社参詣の栞は、これを簡略化して
     「向神社の創立は、大歳神(オオトシ)の御子・御歳神(ミトシ)がこの峰に登られたとき、これを向日山(ムカヒヤマ)と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神(ムカヒノカミ)と申しあげることになった。社伝によると、養老2年(718)である」
    という。

     栞末尾によれば、当社創建は養老2年のともとれるが、当社旧聞抄との古文書に、
     「養老元年に社殿大破、同2年仮殿から上社(向神社)の御樋代(ご神体)を新社に遷し奉る」
    とあり(式内社調査報告)、社殿再建時期を創建時期と誤認したものらしい。

     併祭されている火雷神社について、参詣の栞は
     「神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まわれたとき、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祀られたのが創立である。
     両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。養老2年(718)社殿改築遷座の折、火雷大神の妃神・玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭し、建治元年(1275・北条執権期)、下ノ社社殿荒廃により上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず、上ノ社に上記4神をお祀りし、向日神社として今日に至っている」(大意)
    というが、この弊祭の経緯について、旧聞抄によれば
     「向神社と火雷神社とは本来別社であったが、承久の変(1221)に火雷神社の神主六人部(ムトベ)氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫が丹波に隠棲した。曾孫氏貫の代に至り、建治元年(1275)旧里に戻ったが、社殿の頽廃はげしく、向神社の神主葛野義益の建議によって、火雷神社の樋代を向日神社に納めた」(大意)
    という(式内社調査報告)。

     火雷神および火雷神社については、別稿・乙訓坐大雷神社参照。

    ※祭神
     当社祭神・向日神は御歳神(御年神)のことという。御年神とは古事記のみに登場する神で、系譜的にはスサノヲ命の御子・オオトシ神、その御子・ミトシ神と続き、オオトシ神・ミトシ神いずれも穀物守護の神とされる。

     大年神・御年神の“大”・“御”は尊称で、両神の本姿は“年神”(歳神・トシガミ)である。
  • 【大枝神社】(京都市西京区)
     阪急京都線・桂駅の西約4kmに鎮座する。
     桂駅西側のバス停から西5・桂坂中央行(時間2本)に乗車、桂坂口下車。すぐ横の交差点を西へ、府道142号線を約5分ほど行った右側(北側)山麓に鳥居が立つ。社名は“オオエ”と訓む。

    ※由緒
     創建由緒・年代等の詳細は不明だが、社頭に掲げる案内(大枝神社奉賛会)によれば、
     「康保4年(967)施行の延喜式には、神社の名前として『乙訓郡 大井神社』と記載されている。
      現在の祭神は高美計神(タカミケ神)である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている」
    とあり、式内・大井神社の後継社と称している。
     ただ、神社覈録(1870・明治初年)には、
     「山城志(1734・江戸中期)に、“沓掛村に在り、今千兒明神(チゴミョウジン)”と云ふ。然れども他書にかくいへるものなく、もとより地名なるべきに、此辺に大井てふ名の残れる所もなければ、今従はず」
    とあり(式内社調査報告)、式内社であることに疑問を呈している。

     当社の祭祀にかかわった大枝氏とは、新撰姓氏禄(815)に、
     「右京神別(天神) 大枝朝臣 土師宿禰同祖 乾飯根命七世孫大保度連之後也」
        (土師宿禰--右京神別 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也)
    とある氏族で(渡来系氏族との説あり)、伝説的人物・野見宿禰(垂仁紀)を出した土師氏(ハジ)から別れたという。

     一族から桓武天皇の母・高野新笠(タカノニイカサ、?--790・光仁天皇中宮、母方が土師氏)が出るに及んで、続日本紀(797)桓武天皇・延暦9年(790)12月1日に、天皇の詔として
     「朕は即位して10年になるが、亡くなった人を追尊して称号を贈ることをしなかった。そこで、母方の祖父・高野朝臣乙継と祖母の土師宿禰真琴にそれぞれ正一位を追贈する。
     また祖母の氏である土師氏を改めて“大枝朝臣”とするように。・・・」
    とあり、同年12月30日条には、
     「正六位土師宿禰諸士(モロジ)らに『大枝朝臣』の氏姓を賜った。
     その土師氏にはすべてで四つの系統があり、中宮(高野新笠)の母親の家は毛受(モズ)の系統に属していた。そこで、毛受の系統の土師氏には“大枝朝臣”を賜い、その他の三つの系統の者には“秋篠朝臣”や“菅原朝臣”を名乗らせた」
    とあり、桓武の母・高野新笠が出た系統が大枝氏という。

     その大枝氏が当地に居たことを証する直接的な史料は見えないが、
     ・当社一帯の地名に“大枝”を冠すること
     ・当社の西約300mほどに“高野新笠大枝陵”があること(宮内庁管理)
    などから、当地が大枝一族の根拠地であったこと、当社が大枝氏奉斎の神社であったのは確かであろう。
     なお大枝氏は、後に同じ読みの“大江”と改姓している(866)。

     以上からみて、当社が相当古い神社であるとはいえるが、当社を式内・大井神社とするのは、並河誠所(1668--1738、江戸中期の国学者、当時、既にわからなくなっていた畿内の式内社を調査検証し、式内社として比定したという)が編纂した山城志のみで、そこには比定根拠が記載されておらず、何を以て式内社としたかは不明。

     なお、山城志には「今、千兒明神と云ふ」とある。
     チゴ明神とは、曾て、当社に聖徳太子幼児像が祀られていたことからの呼称で(奉祀由緒など不明)、今は分離して、当社の東約900mの大枝塚原町に遷り、兒児神社と称している(分離時期不明)。

    ※祭神
     今の祭神は高美計神(タカミケ)というが、記紀等にその名は見えず出自・神格等は不明。
     ただ古く、タカミケの“ミケ”が食物を意味したことから、嵐山の大井神社の祭神・ウカノミタマと同じ神格とみられ(タカは尊称)、大枝氏あるいは在地の人々が、五穀の豊饒を願って祀ったのであろう。
     しかし、当社が大枝氏の氏神社であるとすれば、氏の祖(土師氏の祖や高野新笠など)を祭神とするのが順当とも思われ、現祭神が創建当初からのものかどうかは不詳。

    ※社殿等
     道路脇からの石段の上に鳥居が立ち、参道を進んだ先のやや急な石段を登った上が境内。
     背後に山が迫る境内の中央に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に朱塗りの柱・白壁の本殿覆屋(流造・瓦葺)が建つ。
     覆屋内の中央に一間社流造・檜皮葺の本殿が鎮座し、その右に社名・祭神名不明の小祠がある。

    大枝神社/鳥居
    大枝神社・鳥居 大枝神社/拝殿正面
    同・拝殿正面 大枝神社/拝殿
    同・拝殿
    大枝神社/本殿覆屋
    同・本殿覆屋 大枝神社/本殿
    同・本殿
     社殿右に稲荷社が、左に末社合祀殿(八幡社・天満宮)が、境内左手に山の神を祀る小祠があるが、いずれもそ勧請由緒・年代など不明。
  • August 2017 編集されました
    長岡京市の勝龍寺 (青龍寺)

    平安時代、806年、空海(弘法大師)が開基ともいう。当初の「青龍寺」の寺名は、空海が学んだ唐(現在の中国西安市)の青龍寺に由来したという。当時は、観音堂を始め99坊の堂宇が林立していたという。
     962年、大干ばつ、飢饉の折、第62代・村上天皇の命により、住職・千観(せんかん)上人の雨乞いの祈祷が行われた。雨が降り、龍神に勝ったということから「勝龍寺」と改名されともいう。
     室町時代、1336年、焼失している。境内が勝龍寺城に隣接していたため、たびたび焼失した。
     安土・桃山時代、1582年、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の戦いで焼失している。
     現在の寺は、専勝坊の法灯を継いでいるという。
    ◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず大宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。

    ◆仏像 本尊は鎌倉時代の「十一面観音」(重文、京都国立博物館)、ほかに鎌倉時代の「聖観音立像」、「十一面観音立像」、「二天王立像(持国天像、多聞天像)」はいずれも長岡京市指定文化財。ほかに、「ぼけ封じ観音」など。
    ◆鐘 当寺にあった鎌倉時代、1319年鋳造の銘がある梵鐘は、その後持ち出されたという。現在は真如寺(大阪府能勢町)に現存し、大阪府指定文化財になっている。
  • ◆藤原三守 平安時代初期の公卿・藤原三守(ふじわら の ただもり/みもり、785-840)。南家藤原真作(まつくり)の5男。母は御井氏。第52代・嵯峨天皇に仕え重用される。809年、従五位下叙され、右近衛少将に任じられる。811年、蔵人頭、814年、従四位下、816年、参議に任ぜられ公卿に列す。821年、従三位・権中納言。823年、中納言、828年、直接大納言。830年、『弘仁格式』編じた。833年、従二位、838年、右大臣に昇る。没後、従一位が追贈された。
     難航していた最澄の大乗戒壇設立に尽力した一人とされる。空海に私邸を譲り、空海は綜芸種智院を創設した。
  • 和名抄、筑前鞍手郡内六郷
    ① 新北 爾比岐多 にひきた
    ② 金生 加奈生  かなふ
    ③ 二田 布多多  ふたた
    ④ 生見 伊無美  いむみ
    ⑤ 十市 止布地  とふち 
    ⑥ 粥田 加郁田  かゆた
    都市は十市で止布地です。隣の宮田町に都市八幡社がある
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。