吉備国の平定、吉備津彦、温羅、孝霊天皇

December 2018 編集されました カテゴリ: 吉備
image吉備国の平定、吉備津彦、温羅、孝霊天皇

孝霊9年 九州地方南部の球磨国・日向国には神武天皇の孫に当たる建磐竜命を派遣した。 孝霊45年 皇太子であった…

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コメント

  • 吉備津神社縁起等によると、温羅は、足守川上流の、足守、大井地区を地盤として、
    総社市西阿曽(妻の出身地)も支配したらしい。温羅の本名を検索すると、百田大兄命
    と言い、吉備津彦命妃となった百田弓矢比売命の父であり、足守川上流の大井神社に祀られて
    いるとあった。


    御船(みふね)氏と熱田氏が、大井神社に最も近い場所に集まっておられる。
    太田亨氏は、御船氏を、「百済族にして船連の後也。
    百済貴主王より出ず」とする。百済王族である。

    島根県雲南市加茂町の岩倉遺跡。
    出雲神宝の銅鐸が、大量に埋納されていた聖地。その周辺にあって、封印しているのが熱田氏。

    百済王一族の上表文に、「応神朝、百済に人を求めた時、百済王貴須王の孫、辰孫王が、倭国に派遣された。
    辰孫王は、皇太子の師となり、その子孫は、葛井、船氏等となった」とある。
    ここに登場した貴須王は、百済国13代王。
    しかし、6代王も、貴須王と呼ばれていた。在位は、214年~234年。倭国女王卑弥呼の時代である。

    http://tsurugine.blog.fc2.com/blog-entry-120.html
  • 吉備中県(中縣)国造は吉備中県国(現・岡山県井原市)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると崇神天皇(10代)の時代、神祝命(かみむすびのみこと、神魂命)の十世孫である明石彦(あかしひこ、阿加志毘古命)を国造に定めたことに始まるとされる。同じ吉備の名を関する国造であっても吉備一族とは異なった祖先伝承を有することから、吉備一族の権力の衰退に伴う周辺首長の自立・並存が窺い知れる。また神祝命は神魂命と同視する見方もあり、この系統が関西以西に偏っていることからも久米氏系とする見方もある。

  • 崇神朝、吉備津彦命が、吉備に攻め込んだときに、娶ったのは、高田媛。
    上高田にある鼓(つづみ)神社は、高田媛を主神とし、
    高田媛の父や吉備津彦命、吉備武彦命等を祀る
  • 利波臣は吉備氏族

    古事記の中で、太安麻呂は、「日子刺肩別命は、高志利波臣・・・の祖なり」と断言している。

    <砺波の首長は交代した>
    成務朝になると、武内氏(宗我)勢力が、三国国造(越前)、伊弥頭国造(越中)に任命され、北陸に進出してくる。

    吉備勢力が後退する事件が起きた。仲哀天皇の後継を巡って、香坂王、忍熊王を支持する
    勢力と、息長・武内・和邇勢力の戦いが始まった。

    二王の母は、吉備氏系王族の大中津比売。古事記は、祖父景行天皇が、吉備氏出身の大后、
    稲日大郎女の妹を娶り、大兄王を生んだと明記する。

    大江王と異母妹の間に、大中津比売が生まれた。大中津比売が、香坂王、忍熊王の母。
    吉備氏の血が濃厚な比売。

    しかし、古事記・日本書紀ともに、二王が吉備氏系と、すぐにわからないように、系譜を混乱させている。

    吉備氏が、本当の戦いの相手であった。
    後に応神天皇が、妃の兄媛(吉備氏)から吉備に戻りたいという願いを受けた時に、即座に受け入れた逸話も、これを知れば理解できる。

    日本書紀は、二王の身内を記載していない。母(大中津比売)、外祖父(大江王)、そして外曾祖母(稲日ワカイラツメ)まで、抹消したと見る。

    これは、垂仁朝の反乱事件と同じ処理。
    皇后サホヒメの母(サホオオクラミトメ)、外祖母(タケクニカツトメ)が抹消されている。
    そして、ミマツヒメとサホオオクラミトメが姉妹であったことを、わからなくしている。

    http://tsurugine.blog.fc2.com/blog-entry-105.html
  • 秀真伝

    阿蘇都媛命。 
    コエクニ(肥国)のタケイハタツの娘。 ユナ(斎餞)としてホホデミに奉られ、内后となる。
    熊本県阿蘇郡一の宮町宮地字宮園、阿蘇 (アソ) 神社

    温羅は、鳥の仮面で踊る1人の娘と出会います。
    その美しくやさしい姿。仮面をとった娘の、更に輝くばかりのの美しさ。
    名前は「阿曽媛(あそひめ)」、吉備の国の長(おさ)の娘でした。
    二人は、いつも一緒にいたいと思うようになり、結婚します。
    たくさんの鉄の道具も、家々にそなわりました。
    よその国から、道具を買いに来る人たちがやってきて、
    吉備の国は賑わい、くらしも豊かになりました。

    温羅の伝承
    吉備津神社の鳴釜神事の説明によれば
    http://kibitujinja.com/about/narukama.html

    温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むこと がありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それ でも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに 鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』

    とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。

    お釜殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。鬼の城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷 の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕す るのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました。
    この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがって います。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた 玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断します が、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。
  • May 2016 編集されました
    健磐龍命。 
    秀真伝によれば
    肥国の国守。アソツヒコとも言うらしい。 
    ホホデミの内侍・アソ姫の父。
    ホオテミは九州の開墾に勤め、北東部は『豊の国』と呼ばれるほどに豊かになったが、阿蘇国の土地はまだ肥えなかった。そこで宮を造り、魚を入れて土を肥やしたところ豊かな地となったので『肥国(コエクニ)』と改名する。仰天した国守のタケイワタツは娘のアソ姫を斎餞としてホオテミに奉る


    アマテル─オシホミミ─ニニキネ(内宮アシツヒメ)ーホオテミ(豊玉毘売)ーウガヤ波限建鵜葺草葺不合命 (内宮玉依姫)ー神武天皇

    アシツヒメ 葦津姫。 
    コノハナサクヤ姫(子の花咲肥姫)。子安神。浅間の神。
    マウラの娘。サクラウチの曾孫。 
    ニニキネの内宮。

    ホノアカリ (斎名:ムメヒト)、ホノススミ (斎名:サクラギ)、ヒコホオテミ (斎名:ウツギネ) の三つ子を産む。ニニキネが八島巡りの途中に髪挿していた木の枝 (梅・桜・卯の花) が、三つ子の胞衣に紋として浮かんだことから、こうした斎名を付ける。
    自らの乳で三つ子を養したので『肥やす守・子養す守 (子安神)』。

    神日本磐余彦尊。 
    初代神武(じんむ)天皇。日向頭殿。斎名:タケヒト。カンタケ (神武) は、『カンヤマトイハワレヒコ』+『タケヒト』の略。
    ウガヤとタマヨリ姫に生まれた二番目の子。コモリの曾孫にあたる。ウガヤにとってはヰツセ (ヤセ姫)、ミケイリ (タマヨリ姫の連れ子)、イナイイ (タマヨリ姫) に次いで4人目の子となる。l


    賀茂建角身命。鴨武津身命。賀茂のタケスミ。タケツミヒコ。
    「カモ」は地名で、「かわあい(川間・河合)」の意。
    ハテスミの息子。トヨツミヒコ・トヨタマ姫の弟。オトタマ姫の兄。タマヨリ姫の父。

    ウガヤフキアエズ
    内宮はタマヨリ姫。内侍のヤセ姫によりヰツセがうまれ、タマヨリ姫によりミケイリが連れ子され、イナヰイとカンヤマトイハワレヒコを生む。

    三毛入野命。
    タマヨリ姫が白羽の矢によって生んだ子。初めイツモの御子と呼ばれた。玉依姫の父は、賀茂建角身命。
    タマヨリ姫と共に宮内に召されウガヤの子となる。 
    神武東征に随伴し、イワタテの沖で遭遇した暴風雨にて死亡。

  • 神武天皇━神八井耳命━武宇都彦命━武速前命━敷衍彦命 ━武恵賀前命(健磐龍と兄弟)ー武諸木[多臣祖]

    秀真伝のアソ姫の父である建磐龍命は、古いのです。
    吉備の阿曽姫は、吉備津彦の時代なので、相当ののちの時代。
  • May 2016 編集されました
    “キビ王国のフト二王の勢力は、伯耆町の宮原からさらに北に進んだ。尾高から後世に吉備式土器が出土したのは、キビの兵が残したものであろう。竜神が住むという赤松の池の北方に、コニーデ型の丸山があった。フト二王の勢力それをぐるっと回って、その東北の宮内(大山町)に留まり住んだ。フト二王は、孝霊という諡(死後の贈り名)となった。それでコニーデ型の丸山はフト二王にちなんで、後世には孝霊山と呼ばれた。”
        斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)より   

    ※ フト二王…第七代天皇 孝霊天皇のこと。
    和風諡号は、日本書紀では、「大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこ・ふとにのすめらみこと)」、古事記では、「大倭根子日子賦斗邇命」と記述されている。
  • 吉備津神社
    ■ 本宮社

     元々、本宮社には吉備津彦の父・天倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)と母・大倭玖邇阿禮比賣命、それに孝元天皇の母(孝霊天皇の妃)・細比売命を祀っていた。吉備津彦の妃・百田弓矢姫命は内宮社に、吉備武彦は新宮社に祀られていたが、明治の時代に新宮社と内宮社は本宮社に合祀された。御崎宮(祭神は犬養健神,温羅神,眞布留神,宇慈香比古神)も本宮社に合祀されている。
     吉備武彦は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と共に蝦夷遠征を行い、日本武尊の実母は吉備武彦の妹で、妃は吉備武彦の娘。吉備津彦の弟・稚武吉備津彦が吉備武彦の父(祖父とも云う)。吉備武彦は吉備津神社において重要な祭神。
  • 建日別

    吉備の児島。
     岩山宮の祭神は「建日方別命(たけひかたわけのみこと)」。古事記によると、伊邪那岐・伊邪那美が8神(大八島(おおやしま))を産み、次に続けて産んだのが、建日方別(瀬戸内海の吉備児島)。

     吉備津彦と建日方別は記紀上では全く関わりないが、吉備津神社に祀られていることから、吉備津彦(or温羅)が瀬戸内海の制海権(児島が拠点)に深く関わっていたことが伺われる。吉備津彦神社にも、建日方別命を祀る岩山神社(石祠)が遺っている。
  • May 2016 編集されました
    7代孝霊は吉備津彦の父、8代孝元は吉備津彦の異母兄弟、9代開化は孝元の子、10代崇神は開化の子となる。実在の可能性があるのは崇神のみで、2代から9代までを纏めて欠史八代といい、天皇としては実在しないとみられている。

    ところで、相殿に祀られる7代から9代の天皇名は次の通り。
    7代孝霊 おおやまとねこひこふとにのみこと
    8代孝元 おおやまとねこひこくにくるのみこと
    9代開化 わかやまとねこひこおおびびのみこと
     天皇名に『やまとねこひこ』は6代以前には全く見られず、7代からの3名は同族を匂わせる共通な名として『やまとねこひこ』が連なる。


    その後の『やまとねこ』は、ずっと後世で、41持統から44元正までの諡号に連続して現れる
    41代持統 おほやまとねこあめのひろのひめ
    42代文武 やまとねことよをぢ
    43代元明 やまとねこあまつみしろとよくになりひめ
    44代元正 やまとねこあめたかみつきよたらしひめ
  • 備前国東部
    上道国造 かみつみち 多佐臣(応神天皇期) 上道氏(臣) 備前国南東部
    三野国造 みぬ 弟彦命(応神天皇期) 三野氏(臣) 備前国南西部
    備中国 笠臣国造 かさのおみ 笠三枚臣(応神天皇期) 笠氏(臣) 備中国南東部
    加夜国造 かや 中彦命(応神天皇期) 香夜氏(臣) 備中国東部
    下道国造 しもつみち 兄彦命(稲建別)(応神天皇期) 下道氏(臣) 備中国中部
    吉備中県国造 きびのなかつあがた 明石彦(崇神天皇期) 三使部氏(直) 備中国東部

    備後国
    吉備品治国造(吉備風治) きびのほむち 大船足尼(成務天皇期) 品治氏(君) 備中国南部
    吉備穴国造 きびあな 八千足尼(景行天皇期) 備中国北部
  • 備後国 吉備品治国造(吉備風治国造)が政務天皇の時代に置かれる。
    ここ以外の吉備は、まだ大和と独立か?
    吉備津彦の一族の支配から、分国されて崇神天皇の国造配置に変わったか。
  • July 2016 編集されました
    氣比神宮の祭神と末社 擬領神社
    越前国一宮・北陸道総鎮守、氣比神宮の祭神は、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)を主祭神として 7 柱を祀る。仲哀天皇(ちゅうあい)・神功皇后(じんぐう)・応神天皇(お
    うじん)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・玉姫命(たまひめのみこと)・武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)である。
    末社に擬領神社がある。擬領神社の祭神は武功狭日命(たけいさひのみこと)である。
    武功狭日命は吉備臣祖稚武彦命の孫である。稚武彦命(わかたけひこのみこと)で吉備国と直結する。

    擬領神社の擬領(おおみやつこ)
    「おおみやつこ」とは、「大領」のことである。

    擬領神社[おおみやつこ]
    社記に武功狹日命(たけいさひのみこと)と伝え、一説に大美屋都古神(おおみやつこの
    かみ)又は玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも云う。
    『奮事紀』には「蓋し當國國造の祖なるべし」と載せてある。


    『日本国語大辞典第二版第 2 巻』
    おお‐みやつこ【大領】〔名〕律令制の郡司(ぐんじ)の長官。少領、主政、主帳を指揮する。
    大郡、上郡、中郡に設置。
    『日本国語大辞典第二版第 8 巻』 たい-りょう【大領】〔名〕(「だいりょう」)とも。令制で郡司の長官。 在地の有力豪族を任用する。おおきみやつこ、こおりのみやつこ。郡司。
  • July 2016 編集されました
    稚武彦命
    稚武彦命は孝霊天皇(こうれい)の皇子で、子に吉備武彦命(きびのたけひこ)がいる。記
    紀に下記の記録がある。
    『古事記』
    孝霊天皇段

    「大吉備津彦命と若武吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)とは、二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、針間を道の 口として、吉備国を言向け和したまひき。」
    故、此の大吉備津彦命は、吉備の上つ道臣の祖なり。次に若武吉備津日子命は、吉備の下つ道臣の祖。

  • July 2016 編集されました
    化氣神社
    吉備国に化氣神社がある。「氣比神宮」の「氣比(けひ)⇒化気(けぎ)」、「比⇒化」、「角鹿(つぬが)⇒鹿角」と変化している。化氣神社は備前国津高郡上田村案田(岡山県加賀郡吉備中央町案田)化気山に鎮座している。創建は養老年中(717~723)である。祭神は大和漆上郡春日大明神4柱「武甕槌神、齋主神、天兒屋根神、比賣大神」と伊奢沙和氣神の5柱である。第十代崇神天皇の十年孝霊天皇の皇子大吉備津彦命四道将軍の一員として吉備国に派遣。異母弟若日子武命と共に針間(播磨)国から本宮山の峯に来られた。化気山山上に御食津神(伊奢沙和氣神)を祀られた。氣比神宮の主祭神である。化氣神社に鹿の角の彫刻が多くある。本宮山への登山道に「旭川源泉」の湧水がある。

    豊原北島神社の境内摂社 氣比神社
    『岡山県神社誌』に収録されている氣比神社は、豊原北島神社(瀬戸内市邑久町北島)の境内摂社のみである。祭神は応神天皇・神功皇后・比め大神・豊原北島神である。
    境内摂社・氣比神社の説明に「祭神 足仲彦神(たらしなかつひこ・仲哀天皇)・保食神。この地が北方とも交流があったことや、朝廷との結びつきがしのばれます。」とある。氣比神社の祭神名を保食神と品陀和気命(応神天皇)の父、足仲彦神(仲哀天皇)としている。
  • 大和出発 孝霊53年 175年後半
    播磨道口での祭祀 孝霊53年 175年後半
    吉備国上陸 孝霊54年 176年前半
    温羅退治 孝霊54年 176年前半
    吉備上道平定 孝霊54年 176年前半
    孝霊天皇吉備中山到着 孝霊54年 176年前半
    高梁川流域平定 孝霊55年 176年後半
    石蟹魁師荒仁退治 孝霊56年 177年前半
    孝霊天皇伯耆国へ 孝霊56年 177年前半
    旭川流域平定
    美作国平定
    児島周辺平定 孝霊64年 181年前半
    讃岐の百襲姫訪問 孝霊65年 181年後半
    伯耆国大倉山平定 孝霊68年 183年前半
    伯耆国鬼住山平定 孝霊68年 183年前半
    小田川流域平定 孝霊70年 184年前半
    備後国平定(吉備国平定完了) 孝霊72年 185年前半
    鬼林山平定 孝霊72年 185年前半
    出雲振根平定 孝霊73年 185年後半
    伊予国平定 孝元
    土佐国平定 孝元
    熊曽との戦い 開化10年 220年
    死去
  • May 2017 編集されました
    吉備と角鹿国造

    稚武彦命(若武彦)と吉備武彦との関係は
    『記』『紀』ともに明瞭ではないが、おそらく後者は前者の子か孫にあたるのであろう。したがって「国造本紀」に出てくる建功狭日命は、吉備武彦の子か兄弟にあたることになる。だからといって、これらのことを史実とみるものではない。「国造本紀」の記事は、『紀』の日本武尊説話から導き出されたものであろう。しかし、少なくとも吉備臣の祖某が越国の鎮撫に赴いたという伝承のあったことは認めねばなるまい。

     問題はこうした伝承が成立した時期である。角鹿国造の出現時期としては、一つの目安として向出山一号墳(敦賀市)の築造時(五世紀末ごろ)が考えられる。だがこのころ、吉備地方の大首長としての吉備氏はすでに衰退期にあり、自家の伝える説話を『記』『紀』に反映させることは、困難となっていたと推定される。それゆえ、吉備武彦と越国との説話は、もう少し古い時期に成立していたのではないかとも考えられる。
     
    敦賀の国造として、より蓋然性をもっているのは角鹿海直であろう。これは『記』孝霊天皇段に、「次に日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣・五百原君、角鹿の海直の祖なり」としてみえる。これだけではこの氏が国造であったかどうか判然としないが、一般に「直」は国造に多い姓である。また奈良時代の史料に、角鹿直・敦賀直と称する人名がみえる。すなわち角鹿直綱手は、天平三年(七三一)、敦賀郡少領であり(公二)、敦賀直嶋麻呂は、天平神護元年(七六五)、藤原仲麻呂の乱における戦功により外従五位下に叙せられている(編二一〇)。また平安時代に入ってからも、角鹿直福貴子・角鹿直真福子などは、宮廷に仕え五位に任ぜられている(編三七九・五〇二)。これらの人びとは、おそらく敦賀郡の豪族で、国造家の後裔と考えられる。したがって、かつての角鹿海直、のちの角鹿直が国造に任ぜられていた可能性は強い。もっとも、両者を別にとらえる説もあり、角鹿海直を丹後の海部直や吉備の海直と関連的に考察する視角も残しておきたい(『敦賀市史』通史編上)。なお、角鹿海直と吉備臣との関係については不明であるが、両者ともに孝霊天皇を祖とする同族関係の伝承があることは注目すべき事象である。

  • June 2017 編集されました
    吉備の一宮、中山

    地域名は同地域内の大字一宮に由来し、同地はかつて備前国の一宮である吉備津彦神社の門前町であったことが、その地名の起源である。
    現行の行政地名において、一宮、一宮山崎を除き、旧町村名は大字としては残されていない。中学校は下記の一宮全体を学区とする中山(ちゅうざん)中学校一校が存在している。

    中山(ちゅうざん)旧・一宮村に相当する。

    一宮(いちのみや)
    尾上(おのうえ)
    西辛川(にしからかわ)
    辛川市場(からかわいちば)
  • June 2017 編集されました
    吉備津彦命(若日子建吉備津彦命、稚武彦命) - 大吉備津彦命の弟または子。
    なお、一般には「吉備津彦命」といえば主祭神の大吉備津彦命の方を指す。
    孝霊天皇 - 第7代天皇。大吉備津彦命の父。
    孝元天皇 - 第8代天皇。大吉備津彦命の兄弟。
    開化天皇 - 第9代天皇。孝元天皇の子。
    崇神天皇 - 第10代天皇。開化天皇の子。
    彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) - 大吉備津彦命の兄。
    天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) - 第5代孝昭天皇の子。
    大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) - 大吉備津彦命の姉。
    大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) - 大吉備津彦命の妹。

    楽御崎神社2社・尺御崎神社2社は本殿の周囲四隅に鎮座する。祀られる4神は大吉備津彦命の平定に従ったと伝えられる。

    楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ)
    祭神:楽々森彦命(ささもりひこ)
    本殿向かって右手前に鎮座。

    楽御崎神社
    祭神:楽々与理彦命(ささよりひこ)
    本殿向かって左手前に鎮座。

    尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ)
    祭神:夜目山主命(やめやまぬし)
    本殿向かって右奥に鎮座。

    尺御崎神社
    祭神:夜目麿命(やめまろ)
    本殿向かって左奥に鎮座。

    楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
    当地出身の家臣で智将といい、桃太郎における猿のモデルとされる。その出自は県主であったともいい、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだともいう。

    温羅側
    温羅(うら)
    「吉備冠者」「鬼神」とも。鬼ノ城を拠点とした鬼。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等の逸話が伝わる。
    出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。

    阿曽媛(あそひめ)
    温羅の妻。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝の娘。

    王丹(おに)温羅の弟。
  • 朝日宮
    夏至の日に正面鳥居から日が差し込んで祭文殿の鏡に当たる造りになっている。吉備津彦神社の「朝日の宮」の別称はこれに因むという

    吉備の中山には多くの古墳や古代祭祀遺跡が残り、古くより神体山としての信仰がなされていたと考えられている。最高峰の北峰・竜王山(標高175m)山頂には吉備津彦神社の元宮磐座や摂末社の龍神社が鎮座し、中央の茶臼山(160m)山頂には大吉備津彦命の墓とされる古墳が残っている
  • 鯉喰神社

    旧社格 村社
    ご祭神 夜目山主命
    夜目麻呂命(やめまろ)
    狭田安是彦(???)
    千田宇根彦(???)
    ご祭神について 夜目山主命:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人
    夜目麻呂命:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人
    狭田安是彦:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人
    千田宇根彦:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人

    創建 -----
    由緒 吉備国の平定の為、吉備津彦命が来られた時、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていたという。吉備津彦命は、そんな温羅と戦に臨むが、中々勝負がつかなかったという。すると、天より声が聞こえ、命がそれに従うと温羅はついに矢つき、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れたという。そして、命は、すぐさま鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食したと言われる。それを祭るため村人達が建立したのが当社となる。社殿は元禄14年(1701年)4月、天保13年(1842年)3月に造営し現在に至っている。大正6年(1917年)4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。大正6年(1917年)10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。
    所在地 (〒701-0105)岡山県倉敷市矢部109
    最寄り駅 ●JR吉備線「吉備津」駅より徒歩約33分
    電話番号 086-287-6014

    当社では、その御神体が包丁と俎板とも言われており、地元では、温羅を捕えた後に夜目山主命が鯉を料理して命をもてなしたという伝承もある。
  • September 2018 編集されました
    温羅の妻は阿曽姫である。
    吉備は阿蘇を支配したようです。



    ≪往古より『皆血脈ヲ以テ相續ス』(神道大系 神社編五○ 182頁)と云われる「阿蘇神社の社家」に、『阿蘇氏、草部(くさかべ)吉見氏、山部氏』と共に、阿蘇山上の社である天宮社の祝に『笠朝臣』があり、重要神事には天宮祝は常に座の中央に着座することになっていた≫(古事記に笠沙が載ったわけ 268頁)というもの。

    景行天皇の18年4月条、『海路より葦北の小嶋に泊りて、進食(みをし)す。時に、山部阿弭古(やまべのあびこ)が祖小左を召して、冷き水(みもひ)を進(たてまつ)らしむ。』(紀上 294頁)

     と、日本書紀で初見となる『山部』氏の、その『阿弭古』なる名は「熊本県上天草市松島町『阿』村」を拠点とした『阿多海人族の小左(をさ・長)』を『祖』とし、『阿蘇の高橋氏』や『阿蘇神官家の山部氏』も歴史的背景は同じだったのではと想像できることにある。

    雄略天皇没後、子である「清寧天皇」の「2年11月」条には、『播磨国司山部連先祖伊与来目部小楯』(紀上 506頁)との記録がある。

     その次の「顕宗天皇元年4月」条には、関連するように『伊与来目部小楯』が『山官(やまのつかさ)』である『山部連』を賜姓された理由(紀上 510頁)まで載せられている。

     「理由」と言うのは、『顕宗天皇』は「雄略天皇」によって『父』を殺された。「顕宗天皇」兄弟は「雄略天皇」を恐れて逃げ回っていたが、

     兄弟を助けて守り抜いたのが『舎人・日下部連使主と吾田彦』の親子で、雄略帝の死後、

     『伊与来目部小楯』が「国守」として赴任した「播磨」で、『吾田(あた)彦』が守り抜いていた『顕宗天皇』を発見して「天皇位に就かせた」のであった。

     『顕宗天皇』はそれに報いて『来目部の小楯』を『山部連』に任じた、と載せてある。
  • 記紀は、難波の吉師氏の祖は、仲哀天皇の長男忍熊王(おしくまのみこ)の腹心の部下で、応神&神功の軍に攻められて一緒に入水自殺した、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)としている。この人は、天穂日命→天夷鳥命の子孫で、出雲国造(出雲大社社家、祭神:大国主命)・土師連(菅原氏・大江氏)、武蔵国造(氷川神社社家、祭神:素戔嗚尊)と同族だ。しかしながら、この阿倍氏の系図によると、大彦命の子に、波多武日子命(はたたけひこのみこと)という人がいて、この方が難波吉士(なにわきし)三宅人の祖となっている。

    阿倍氏と吉師の関係を結ぶのは「難波」の地だ。難波の住吉のすぐ側に、何故に阿倍野の地名があるのか? 古事記は五十狭茅宿禰を「難波の吉師部の祖」とハッキリ書いている。子孫には、三宅吉師の祖となった、三宅入石もいる。五十狭茅宿禰が吉師部の祖で、それを統率したのが阿倍氏なのだろうか? 阿倍氏の部民としてしまうには、出雲国造と同祖の五十狭茅宿禰は名族の出過ぎる。それに、この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。とすると、吉師氏の五十狭茅宿禰と阿倍氏の波多武日子命は同一人物なのだろうか? そうでないとしても、かなり近い間柄だと言えるのではないだろうか。

    ところで、神功皇后が三韓遠征の凱旋帰路、皇位を狙って忍熊王の軍が、住吉で待ち構えていると聞き、迂回して難波に向かった。この時、いくつかの神社の遷祀を行っているのだが、その中の一つ、稚日女尊(わかひるめのみこと・天照の幼名or妹)を、生田神社(兵庫県神戸市生田区)に祀らせた海上五十狭茅(うなかみいさち)という人がいる。名前からして海人系だが、この人、吉師氏の五十狭茅宿禰の息子なのである。
  • October 2018 編集されました
    岡山県岡山市北区に大井神社

    百田大兄命とその娘の百田弓矢比売命が祭られている。

    吉備津日子(若武彦の方だと思う)は、温羅の娘を后にしたそうでその姫の名前は百田弓矢比売命だそうです。戦闘の最中になくなったそうですが。まあ、父親を殺した相手と、うまくいくはずもないですけど。
    http://achikochitazusaete.web.fc2.com/kiki/sujin/momotaro.html

    「ちなみに吉備津神社には、温羅、百田弓矢比売(温羅の娘で大吉備津彦の妃)も祀られてある」http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-14.html

    という事は、温羅の本名は百田大兄命であったと言えましょう。地名にも百田とかあります。
    総社の宮山古墳の麓の神社は、百射山神社といい天武の命名だそうです。

    総社市三輪の 宮山 古墳(墳丘墓)はきわめてデリケートな存在である。最古式の前方後円墳といわれる箸墓古墳(奈良桜井)の頭頂部から発見された特殊器台はこの宮山古墳の名を持つ宮山型特殊器台である。器台から器台形埴輪へうつる最後の変節点で「古墳」なのか「弥生墳丘墓」なのか議論のわかれるところらしいが、形は前方部をもついわゆる前方後円墳(これだと古墳?)である。
    ここの三輪山という地名も箸墓を見下ろす三輪山とどう関係するのか解明したいところだが希望的仮説にしかならない、しかしあえて加えるならこの三輪の地の高梁川をはさんで向こう側(やや北西)は正木山(古代祭祀遺跡のある)でその麓が「秦」で秦氏の本拠地である。ひるがえって奈良の三輪山の川をはさんだ西側には二上山がありその麓に秦氏の信仰対象である葛木倭文座天羽雷命神社(かつらぎしずりにいますあまはいかづちのみことじんじゃ)があるというのは興味をそそる。ちなみに総社三輪山山頂にある天望台、三笠山の両前方後円墳は正木山の方角を指して造営されている。
  • October 2018 編集されました
    「古事記」にみえる開化天皇の孫。菟上王(読み)うなかみのおう
    大俣王の子。比売陀(ひめだ)氏の祖。垂仁(すいにん)天皇の皇子で口のきけない本牟智和気王(ほむちわけのおう)(誉津別命(ほむつわけのみこと))に随行して,兄の曙立王(あけたつのおう)と出雲(いずも)大神の参拝にいく。帰途,皇子が口をきいたので,よろこんだ天皇の命令で出雲にひきかえし,神殿をつくったという。

    祖父日子坐王(ヒコイマス王)…開化天皇(9代)の皇子。
    祖母山代の荏名津比売(エナツヒメ)…別名は苅幡戸弁(カリハタトベ)。
    親大俣王(オオマタノミコ)
    配偶者配偶者の名前は見られない。
    よって大俣王(オオマタノミコ)の性別は不明。
    曙立王(アケタツノミコ)…品遅部君(ホムヂベノキミ)・伊勢の佐那造(サナノミヤツコ)の祖先
    菟上王(ウナカミノミコ)…比売陀君(ヒメダノキミ)の祖先

    子孫 比売陀君(ヒメダノキミ)

     『古事記』では、垂仁天皇の最初の皇后サホビメが生んだ皇子ホムチワケは成長しても言葉を発することがなく、出雲大神の宮を訪ねることで口がきけるようになった、とあります。

    この時ホムチワケの供をしたのが曙立王(アケタツの王)と莵上王(ウナカミの王)の兄弟でした。

    『常陸国風土記』の久慈郡薩都(さつ)の里の条には、莵上命(ウナカミノミコト)が土雲を誅した、とあります。

     この莵上命が莵上王と同一人物なのかどうかはわかりませんが、莵上という名は、常陸の莵上郡(海上郡)に関係していると考えてよいでしょう。

    『古事記』は、

     「アメノホヒの子建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)は、出雲国造、无邪志国造、上莵上国造、下莵上国造、伊自牟国造、津島縣直、遠江国造等の祖」

    と、記しており、上莵上国造と下莵上国造は出雲国造と同じアメノホヒ系になるのです。

     莵上王を祀る神社は、実は三重県にあります。いなべ市の莵上神社と四日市市の菟上耳利神社(うなかみみみとし神社)がそれです。

     四日市市の神社の名前が莵上耳利とあるのは、明治時代に耳利神社が合祀されたためで、それまでは莵上神社でした。どちらの神社も祭神は莵上王です。

     なお、愛知県豊川市に鎮座する莵足神社の祭神莵上足尼命を莵上王のこととする意見もありますが、よくわかりません。
  • 孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天皇だという。

    原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。
    雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。

    雀部家系図

    神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┌─武五百建
    神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┼─健磐龍命
    神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁 └─武恵賀前──孝元天皇
    神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦──(崇神朝)
     この系図には矛盾がいくつかある。
    健磐龍命は神八井耳命の子で神武天皇の孫である。武恵賀前が崇神朝の頃の人物であることははっきりしているので、孝元天皇の父が武恵賀前であることはあり得ないことである。
    ところが、愛知県犬山市の大縣神社には武恵賀前命は神八井耳命の孫とされている。この神社の伝承の通りならば、年代的に一致する。しかし、武恵賀前命が崇神朝の人物であることは他の資料からも明らかなので、ここでは、孝元天皇の父の武恵賀前命は武速前の間違いであるとする。名前もよく似ていたので誤って伝えられたのであろう。あるいは、孝元天皇の兄にあたる敷桁彦命は彦恵賀前の別名を持っており、彦英賀前の弟が子に誤って伝えられたのかもしれない。

    雀部家推定系図
    (彦八井)┌─健磐龍命┬─速瓶玉─志貴多奈彦─建緒組
    神八井耳┤─武宇都彦└─健稲背──健甕富命(金刺氏)
    神八井耳│─武宇都彦──武速前─(彦英賀前)
    神八井耳│─武宇都彦──武速前─(彦恵賀別)
    神八井耳└─武宇都彦──武速前┬─敷桁彦命┬─武五百建(科野国造)
    神八井耳──武宇都彦──武速前│─敷桁彦命└─武恵賀前──建借馬(多氏)
    神八井耳──武宇都彦──武速前│─敷桁彦命└─武恵賀前──建借馬
    神八井耳──武宇都彦──武速前└─孝元天皇──開化天皇──崇神天皇

     この系図は原田常治氏が雀部家の人から直接聞き出されて、その著書「上代日本正史」の中で公開された。
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