日月星神、三光の神

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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日月星「三光の神」とは、 日 →(天照大御神) 月 →(月読神) 星 →(天之御中主神) 青麻神社(あおそじん…

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  • 膳部(かしわて)とは皇太子のもとで天文観測を補佐する官階であった。その名の如く、つねに客星彗星の位置を「かしわて」で測るところから、倭人が名付けた職名であった。

    後に天神に五穀豊穣を感謝し、その供物膳部を申餔(しんぽ)の刻、即ち日ざしが最も強く、空が最も明るい時にささげる祇官もかねることが多く、やがては宮中の日夜の食を調達することになった。
    (眞鍋大覺による)
  •  日本書紀、顕宗三年二月、「阿閉臣事代、命を銜けて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて曰はく、『我が祖高皇産霊(タカミムスヒノミコト)、預ひて天地鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神を奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒樔田を以ちてす。歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り。壱岐の県主の先祖押見宿禰、祠に侍へまつる。」並びに、同年四月、「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく、『磐余の田を以て、我が祖高皇産霊(タカミムスヒノミコト)に献つれ』とのたまう。事代、便ち奏して、神の乞の依に、田十四町を献る。対馬下県直、祠(ほこら)に侍へまつる。」という記事があり、この記事の「日神」は、千田 稔著「伊勢神宮」(中公新書)では、太陽の神で、対馬の阿麻弖留神社の祭神ととみてよいとしています。
  • 高御祖神社
    たかみおやじんじゃ
    長崎県壱岐市芦辺町諸吉仲触
    十六菊
    式内社 壹岐嶋壹岐郡 高御祖神社
    御祭神 高皇産霊神 伊弉諾尊 伊弉册尊
    相殿 天日神命(天照皇大神) 天月神命(月讀大神)
    壱岐の東側、印通寺から芦辺町役場へ通じる道(23号線)の途中。
    創祀年代は不詳。

    延宝の式社査定以前は、熊野権現、熊野三所権現と称しており、熊本という地に鎮座していた。『特撰神名牒』によれば、紀州田辺の熊野権現を勧請したもので、田部権現とも称していたようだ。
    それが、どうして式内・高御祖神社とされたのか。箱崎八幡宮に同所別座で祀られていた高御祖神社の社号をこの熊野権現に付けたため、式内社と解されたようだ。

    高御祖神社
    一、 御祭神
    高皇産霊大神 (何事にも其の本と坐ます大神)
    伊邪那岐大神
    伊邪那美大神 (夫婦和合。縁結。子孫繁栄の神。安産の神)
    相殿 天日神命(天照皇大神)
    天月神命(月讀大神)
    一、 御由緒
    當社は棚恵熊野三所大権現と奉称し社なり。延宝年中に高御祖神社と改め らる。(一千年以上の社なり)嵯峨天皇弘仁二年延喜式巻十神名帳に、壱岐國壱 岐郡高御祖神社と所載あり。壱岐國式内大社なり。一村一社で諸吉総氏神である。
    最初は今の村甲の地熊本山に鎮座ありしを中葉今の社地に移し奉る。
    寛永廿年十一月宝殿再建あり國主鎮信朝臣なり。
    同寛文八年十一月拝殿再建  鎮信朝臣
    天保八年八月拝殿再建源熙朝臣なり。  再建毎度白銀五枚國主より 奉納し給う。旧例なり毎歳九月十四日宵大神楽十五日國司代参奉幣儀式 ありて中原に神幸浮殿に浦相撲田楽流鏑馬等催し畢て還幸なし奉る。 大正十四年一月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
    大祭日 諸吉郷中より亦芦辺浦より壱岐最大の御幟御神幸あり芦辺 囃子奉納あり。
    例大祭日 旧九月 十四日宵大神神楽
    十五日大祭神幸祭
    -境内案内-
  • アメノヒボコの渡来伝承に呼応して、韓国には延烏郎と細烏女の渡海伝承があります。『三国史記』と並ぶ朝鮮半島の古い

    一然(いちねん)著『三国遺事』
    延烏郎と細烏女の条を要約してみましょう。


     昔、東海の浜に、延烏郎と細烏女という夫婦があった。ある日、延烏郎が倭国に渡って、その王になった。そこで

    細烏女も夫の後を追って倭国に渡り、再会して貴妃になった。


     ところがその後の新羅では、日月が光を失ってしまった。そこで王が使者を倭国に派遣して、二人の帰国を求めた。

    しかし二人は帰らず、代わりに細烏女の織った絹を使者に渡して、これで天を祭るようにと言った。使者の報告を聞

    いて王がその通りにすると、日月に光が戻った。その絹は国宝になった。天を祭った地は迎日県といい、また都祈野という。

    『三国遺事』によれば延烏郎は、新羅の8代阿達羅王の4年に、倭国に渡ったとされます。阿達羅王の修正前の在位(154~184)は、一見、イザナギの時代と重なるように見えます。しかし、半年暦によって修正した在位(255~270)は、イザナギの時代とは一致しません。それではなぜ阿達羅王の4年に延烏郎の記事を置いたのか。それが問題です。その答えは、
    『三国史記』の阿達羅王の記事の中にありました。

    阿達羅王の20年の条によれば、倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させたとあります。この年を年代修正すると265年になります。したがって卑弥呼は台与の誤りとすることは、すでに書きました。『三国遺事』の作者は、卑弥呼の記事の前史として、延烏郎の伝承をとらえたのではないか。そのために、年代不詳だった延烏郎の記事を、阿達羅王の治世の初め(4年)にしたようです。
  • 淮南子のはじまり、「原道訓」から。

    『淮南子』。
    『夫道者、覆天載地、廓四方、柝八極、高不可際、深不可測、包裹天地、稟授無形。原流泉浡、沖而徐盈。混混滑滑、濁而徐清。故植之而塞於天地、之横而彌于四海。施之無窮、而無所朝夕。舒之幎於六合、卷之不盈於一握。約而能張、幽而能明、弱而能強、柔而能剛、横四維而含陰陽、紘宇宙而章三光。甚淖而滒、甚纖而微。山以之高、淵以之深、獸以之走、鳥以之飛、日月以之明、星曆以之行、麟以之遊、鳳以之翔。』(『淮南子』原道訓)
    →かの道とは、天を覆い地を載せ、四方をめぐり八極に開け、その高さは限りなく、その深さも極まりがない。天地を包みながら無形を授ける。泉から湧き出るかのように、空虚より出でてゆったりと満ちていく、こんこんと溢れながらその濁りは清らかになっていゆく。これを立てると天地は塞がり、これを寝かせると四海に行き渡り、昼夜を問わずはたらき続けて尽きることがない。。伸ばせば六合を覆い、纏めると一握りにも満たない。小にして大、暗にして明、弱にして強、柔にして剛、四方を支えてそこに陰陽の氣を孕み、宇宙をつなぐ綱として日月星辰の光を明らかにする。甚だしなやかであり、微細であるが、山はこれによって高く、谷はこれによって深く、獣はこれによって走り、鳥はこれによって飛び、日月はこれによって輝き、星々はこれによって巡り、麒麟はこれによって大地を遊び、鳳凰はこれによって天空を翔る。

    宇宙
    『淮南子』の冒頭、のっけから「道(Tao)」について語られています。老子や荘子からの引用も多く、途中で『荘子』のように、「宇宙」「六合」といった時間や空間の概念の言葉も載っています。その後「俶真訓」で始まりと終わりを、「天文訓」で天文を、「堕形訓」で地理を、「時則訓」では時間について展開されていくわけです。

    参照:『荘子』と『淮南子』の宇宙。
    http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5186/

    六合。
    「六合(りくごう)」というのは、いくつかの意味がありますが、今回は「上下と四方(東西南北)」の空間として読みます。

    「堕形(地形)訓」にはこういう文章が載っています。
    『淮南子』。
    『八殥之外、而有八紘、亦方千里、自東北方曰和丘、曰荒土。東方曰棘林、曰桑野。東南方曰大窮、曰衆女。南方曰都廣、曰反戸。西南方曰焦僥、曰炎土。西方曰金丘、曰沃野。西北方曰一目、曰沙所。北方曰積冰、曰委羽。凡八紘之氣、是出寒暑、以合八正、必以風雨。』(『淮南子』堕形訓)

    『淮南子(えなんじ)』地形訓 八紘、八極。
    ・・・あまりにも長く抽象的な文章なので、省略したうえに図を載せておきますが、九州という中心があって、そこから幾何学的に表現できる地名が並んでいます。「八極」の内側に「八紘(はっこう)」という区画がありますね。

    参照:中国哲学書電子化計画 淮南子 堕形訓
    http://ctext.org/huainanzi/di-xing-xun/zh

    時代は下りまして、三国志の時代のちょっと後。4世紀初頭に、左思という人が書いた「三都賦(さんとのふ)」という文章が流行しました。三国志の時代の魏の国の都・鄴(ぎょう)、呉の国の都・建業、蜀の国の都・成都の三都市の歴史や風俗、産物等々が綴られたもので、当時の人々がこぞってこれを回し読みして写本をしようとしたために洛陽の町の紙の価格が高騰し、「洛陽の紙価を高からしむ(洛陽紙貴)」という故事ができたほどの人気ぶりでした。元々は漢代の張衡が書いた「二京賦」の三国志バージョンなんですが、これも『文選』に収録されて早い段階で日本に渡来しています。

    洛陽紙貴。
    『有西蜀公子者、言於東吳王孫、曰「蓋聞天以日月為綱、地以四海為紀。九土星分、萬國錯跱。崤函有帝皇之宅、河洛為王者之里。夫蜀都者、蓋兆基於上世、開國於中古。廓靈關以為門、包玉壘而為宇。帶二江之雙流、抗峨眉之重阻。水陸所湊、兼六合而交會焉。豐蔚所盛、茂八區而菴藹焉。」』(『文選』より「蜀都賦」左思著)

    →西蜀の公子なる者、東吳の王孫に曰く「天は日月をもって基準とし、地は四海をもって紀とすると聞きます。九州は、星座に対応するようにそれぞれの国があり、崤山や函谷のある場所には帝王の都があり、黄河や洛水のほとりには王の都があるそうです。蜀の都は太古の世を礎として、中古において国が開かれ、都城の前は霊関の山を開いて門とし、後ろは玉塁の山を抱いて屋根としており、二つの河が帯のように巻かれ、険しい峨眉山に向かっております。水路と陸路の要衝であり、六合の交わりあうところでもあります。土地も豊かで、土地の八方で作物がのびのびと育つのです。

    『東吳王孫囅然而咍、曰「夫上圖景宿、辨於天文者也。下料物土、析於地理者也、古先帝代、曾覽八紘之洪緒。一六合而光宅、翔集遐宇。鳥策篆素、玉牒石記。烏聞梁岷有陟方之館、行宮之基歟。」』(同「呉都賦」)
    →東呉の王孫は大笑いしていわく、「天を見て星座を観察するから、天文を語り得るし、大地を観察しているから、地理を分析できるのです。古の帝王の時代、八紘の果てまで見聞する大事業の末、六合(天地四方)を一つの家とし、帝は方々を飛ぶように行幸されたのです。(以下略)」

    『爰初自臻、言占其良。謀龜謀筮、亦既允臧。修其郛郭、繕其城隍。經始之制、牢籠百王。畫雍豫之居、寫八都之宇。鑒茅茨於陶唐、察卑宮於夏禹。古公草創、而高門有閌。宣王中興、而築室百堵。兼聖哲之軌、并文質之状。商豐約而折中、准當年而為量。思重爻、摹大壯。覽荀卿、采蕭相。僝拱木於林衡、授全模於梓匠。遐邇悦豫而子來、工徒擬議而騁巧。闡鉤繩之筌緒、承二分之正要。揆日晷、考星耀。建社稷、作清廟。』(同「魏都賦」)
    →魏王(曹操)が初めてこの地に足を入れたときに占ったところ、亀によっても筮竹によっても吉と出たので、内や外の壁を修繕して、城砦を修復した。この計画は、百王の制度に倣い、長安や洛陽の都や、八方の都市の構造を写した。かつて堯が萱を切りそろえなかったことや、禹が低い宮殿を建てたこと、周の草創期には高い門を備えておき、宣王による中興の後に百堵の部屋を築造したこと等々、聖賢の時代の軌跡を鑑み、素朴さと華やかさ、豊かさと節約を折衷して、当代の時節を考慮した。『易経』にある「大壮」の卦や、荀子、蕭何の言葉も参考にした。大木を集め、都市の全体図を示すと、地元の民衆は喜んで手伝いをするように集まってきた。職人たちはコンパスや墨縄を持ちながら議論して、春分と秋分の太陽を基準に方角を見て、太陽と星の位置を測って、土地神や先祖を祭る廟を建てた。
    ・・・それぞれの三国志の時代の「魏」「呉」「蜀」のそれぞれの都市のなりたち

    8世紀の『日本書紀』に表れます。

    神武天皇と太陽のカラス。
    『三月辛酉朔丁卯、下令曰、自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未清、餘妖尚梗、而中洲之地、無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素。巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時。苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山。東南橿原地者、蓋國之墺區乎。可治之。是月、卽命有司、經始帝宅。』(『日本書紀』巻第三 神日本磐余彥天皇 神武天皇)
    →紀元前六六二年三月七日、令を下して曰く「私が東征に出てから今年で六年となった。天神の御威光のおかげもあってか、凶徒は誅殺された。いまだ周辺に平定されていない土地もあり、残る災いはあるけれども、中洲之地(うちつくに)での騒乱はない。
     皇都をひらきひろめて御殿(大壮)を建造するべきである。今はまだ若く暗いが、民の心は純朴である。人々は巣や穴に住んていてこの風習が当たり前のように生活している。そもそも大人(聖人)が制(のり)を立ててこそ、道理が行われる。人民の利益となるならば、どのようなものであろうとも聖人が行うものとして妨げはない。今、山林を開いて払い、宮室を造って、謹んで高い位を示してこそ、人民は鎮められるのである。
     上は乾靈授國(あまつかみのくに)を授けられた徳に応え、下は皇孫の正義を養われた心を広めよう。そしてその後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を覆って宇(いえ)とすることはまた、素晴らしいことではなかろうか。見れば、かの畝傍山(うねびやま)の東南の橿原の地は、思うに国の真中(もなか)だろう。ここに都を造ろう。」
     この月、役人に命じて帝宅(みやこ)を造りが始まった。


    荘子 Zhuangzi。
    『且吾聞之古者禽獣多而人少、於是民皆巣居以避之、晝拾橡栗、暮栖木上、故命之曰有知生之民。古者民不知衣服、夏多積薪、冬則煬之、故命之曰知生之民。』(『荘子』盗跖 第二十九)
    →「聞いたところによると、その昔、人よりも獣の方が多くて、人間様は、トチの実や栗の実を拾って食い、夜には木の上で眠っていたそうじゃねえか。「有巣氏の民」とかいうそうだ。その昔、人間様は衣服すら知らず、夏のうちから薪をかき集めて、冬の寒さに備えていたそうだ。これを「知生の民」というそうだ」。
  • 四方八極、九州 ≪天文訓≫一

    天地日月星辰

    陰 陽   陰  陽
    清 濁   天  地
    易 難   天  地
    熱 寒   陽気 陰気
    火 水   日 月
    天→日月星辰
    地→雨水塵埃
    萬物→天地「精気」、陰陽、四時
  • 日本書紀、顕宗三年二月、「阿閉臣事代、命を銜けて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて曰はく、『我が祖高皇産霊(タカミムスヒノミコト)、預ひて天地鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神を奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ』とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒樔田を以ちてす。歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り。壱岐の県主の先祖押見宿禰、祠に侍へまつる。」並びに、同年四月、「日神、人に著りて、阿閉臣事代に謂りて曰はく、『磐余の田を以て、我が祖高皇産霊(タカミムスヒノミコト)に献つれ』とのたまう。事代、便ち奏して、神の乞の依に、田十四町を献る。対馬下県直、祠(ほこら)に侍へまつる。」という記事があり、この記事の「日神」は、千田 稔著「伊勢神宮」(中公新書)では、太陽の神で、対馬の阿麻弖留神社の祭神ととみてよいとしています。
  • 有明海沿岸部は後世の干拓によって海岸線が遠のき、かっての海人族関連の遺跡や神社などの殆どが内陸部に取り残された形となった。
    それらの神社やお宮には今なお伝統的祭事が伝えられているのであるが、その起源を考える上で非常に重要なことがいくつか判明してきた。これも古代史を考える上での一つの謎解きである。

    古代の海人族の本拠地として、あるいは軍事の棟梁物部氏族との結合が成された特別な地域として上げられるのが、現在の福岡県みやま市瀬高町太神地区がある。
    ここには「こうやの宮」同様に、古代の歴史情報が随所に残されている地域でもある。
    太神の部落内にある釣殿宮の祭事の先頭に繰り出されてくるご神体は、幡のかたちをしている。
    それは紅白のご神幡であり、いわゆる日月の幡といわれていて、後世の錦の御旗の原型ともいうべきものである。
    もともとは海人族の船に掲げられた旗印のそれであり、古代より海人祭祀のご神体であったことは明白である。
    この釣殿宮の幡のユニークな点は、釣針状のものが幡の下部に描かれていることである。
    はじめて目にする人は、その単純な形からすぐさま釣針をイメージするであろう。
    これは海洋生活者としての海人族の祭祀そのものに関係することもあるが、釣針状の図案が意味するものは、実は豊漁祈願はもとより古代の海人が航行するときの方角を確かめる天文上の北斗七星をシンボルとして図式的に表わしている。
  • 紀元前二世紀に編纂された『准南子』天文訓

    「天地の襲精は陰陽となり、陰陽の専精は四時となり、四時の散精は万物となる。積陽の熱気は火を生じ、火気の精は日となり、積陰の寒気は水となり、水気の精は月となり、日月の淫かれて精となるものは星辰となる。
    天は日月星辰を受け、地は水潦塵埃を浮く。・・・」と記されていることでも、古代中国の日月星辰伝説の出典の核心部分に触れることが出来る。

  • ある時、玄微という道教の術使いの家に十名もの乙女が宿を借りにきた。十八夷という老女に会いにいく途中だという。
    ところが、都合よくその夜十八夷が玄微の家にやってきたのであるが、その乙女らのうちの阿措という娘が、あやまって十八夷の服に酒をこぼしてしまい彼女を酷く怒らせてしまった。
    乙女達は、十八夷の方術で暴風を沈めてもらおうというと願ってやって来たのだが、そうした不手際があったために面と向かってそれが出来なくなってしまった。そこで玄微に代わりに尋ねてもらうことにした。
    さっそく玄微が十八夷に尋ねてみたところ、赤い幡を作ってそれに日月五星を描き、庭の花園の東に立てるだけでよいということだった。
    玄微が言われたとおりに幡を立ておいたところ、その日暴風が吹いたが不思議なことに花園だけは無風だった。
    そのことがあってはじめて、乙女達は皆花園の花の精であって、老女の十八夷は風の神であることに玄微は気付いた。 後に乙女たちは礼にやってきて、食べると歳をとらないという桃や李をおいていった。
  • 『消された星信仰』によると、
    栃木県の太平山神社のある大平山は三光山とも称し、天長十年(833)に慈覚大師円仁が開山して山頂に大平権現を祀り、神体山男体山(日光)の前山にしたという。大平山権現は三光天子であり、三光とは日、月、星を意味するといい、本地仏は虚空蔵菩薩であるが、日、月、星を仏教的に置き換えたものであるという。山上にはもう一寺星住山松樹円通寺があった。また、淳和天皇の下野国の霊峰三輪山に天下太平を祈る社を造営せよとの詔により、「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りするために太平山神社が造営され、もともと此地でお祀りされていた神は奥宮に鎮座されたともいう。すなわち、「三輪山之大神之社」は奥の宮の神として、「剣之宮」と共に鎮座なされ(禁足地)、日月星の「三光の社」は現在の処に太平山神社として御造営されたという。日蓮も日月星信仰と関係が深いようであるが、日蓮と関係する千光山金剛宝院清澄寺も、宝亀2年(771)不思議法師が虚空蔵菩薩を刻み開創、桓武天皇の勅願所で慈覚大師が承和3年(836)中興したと伝わる。
     慈覚大師は師最澄が尊信していた三輪神社を祭る大平山に入山しようとしたといわれ、『太平山開山記』では慈覚大師円仁は何年にも渡り入山を拒否されていたが、淳和天皇の勅額を奉じて天長4年(827)入山に成功したと記されているという。日光の星信仰はそれより少し遡るようである。『消された星信仰』によれば、日光市上鉢石町にある磐裂神社は通称「星の宮」といわれ、日光を開山した勝道上人の伝説では、明星天子の教導によるもので、開山の後にその恩を謝して星宮を祀った所で、その創建は天平宝字元年(757)であるという。明星天子の本地は虚空蔵菩薩とされているが、それがさらに拡大されて太平山では虚空蔵菩薩は日月星の三光天子の本地仏とされているわけである。

     もし、太平山においてもともとあったのが「三輪山之大神之社」と「剣之宮」で、太平山神社は慈覚大師円仁により創建され、その日月星三光信仰も慈覚大師によって持ち込まれたものだとすれば、もともとの「三輪山之大神之社」や「剣之宮」の信仰は日月星信仰と関係がなかったということになる。ただ、太平山神社に香々背男が祀られているということは、「三輪山之大神之社」や「剣之宮」の信仰は星信仰とは結びついていたと考えられる
  • 『消された星信仰』によると、

    神奈川県の寒川神社の八方除のお札には、太陽を上にしたの日月星の神紋が刻印されており、寒川神社も日月星の三位一体の形態を残しているという。寒川神社の祭神はタテミナカタであるという伝承が諏訪の語り部にはあったようであり、寒川神社のある相模国の国造はやはり出雲神族とされる伊勢津彦の子孫であるから、寒川神社は出雲神族とも関係があると考えられる神社である。
  • 籠神社の絵馬に日月を描いたものがあるという(http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/rokubousei3.htm)。絵馬を見ると、右側に三日月と日が六芒星の中に描かれ、その下に十種神宝・生命御守護と書かれており、右側には三つ巴紋の下に丹後国一の宮・元伊勢籠神社と書かれ、真ん中には船に乗った天照国照彦火明命(饒速日尊)と市杵島姫命が描かれている。六芒星が日本の古代において星として意識されていたのかどうか分からないが、もしそうならそれは日月星を表し、籠神社には日月星信仰があるとも考えられるわけである。ただそれが出雲神族によるものか、彦火明命系の海部氏によるのかは分からない。十種神宝の字の上にあるということは六芒星と日月は彦火明命系と関係するとも考えられるが、真名井神社の石碑の神紋はかつては六芒星が刻まれ、現在は三つ巴紋が刻まれているが、どちらも真名井神社の神紋ともいえ、そうすると出雲神族に由来するとも考えられる。
  • 北野天満宮は菅原道真を祀ることで知られているが、それより以前から天神を祀っていた(続日本後記)。この天神信仰は三光信仰といい、日月星をお祭りしていたのだ。三光信仰からすると門に日・月・星のシンボルを施さなくてはならないが、ここの門には星のシンボルがない。このことから「星欠けの三光門」として北野天満宮の七不思議に数えられている。

    ※ちなみに三種の神器は日月星の象徴(鏡=日、勾玉=月、剣=星 ←七星剣を想起)です。

    星が欠けている理由だが、北野天満宮のHPでは以下のように説明されている。


    本殿前の中門は三光門と呼ばれ、神秘的な「星欠けの三光門」伝説が残っています。それは、門の名は日・月・星の彫刻に由来しているけれども星は天上に輝く北極星のことで、実際には刻まれていないという説。平安時代、御所の場所は現在とは異なり当宮を北西に臨む千本丸太町に位置し、帝が当宮に向かってお祈りをされる際、三光門の真上に北極星が輝いていたからだと伝えられています。
  • October 2018 編集されました
    9月13日 神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。[高良玉垂宮縁起]



    壱岐氏の居館跡
    月読神社の御祭神「月読命」の子孫押見宿禰は壱岐氏(壱岐県主)の遠祖である。
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