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玖賀耳之御笠とは、崇神天皇の頃、日子坐王に退治された、丹後の青葉山の賊である。 青葉山は陸耳御笠の拠点と伝説は…
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このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しい。こ れによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追っ て蟻道郷(福知山市大江町有路)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。 この戦いであたり一面が血の原となったのでここを血原と呼ぶようになった。 陸耳御笠は降伏しようとしたが、日本得玉命が下流からやってきたので、陸耳 御笠は急に川をこえて逃げた。そこで日子坐王の軍勢は楯をならべ川を守った。 これが楯原(蓼原)川守(河守)の地名の起こりである。陸耳御笠は由良川を 下流へ敗走した。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳 御笠を追い、由良港へきたがここで見失った。そこで石を拾って占ったところ、 陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかった。そこを石占 (石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀った。これが船戸神であるという 内容である
また日子坐王(ヒコイマス王)が母の妹の袁祁都比売命(オケツヒメ命)を娶って産んだ子供が大筒木真若王(オオツツキマワカ王)、比古意須王(ヒコオス王)、伊理泥王(イリネ王)の三柱です。
日子坐王(ヒコイマス王)の子供は合わせて11王です
丹波道主は河上麻須の子、河上麻須郎女(かわかみますろめ)を娶る。その子供の一人が垂仁の妃に成る日葉須姫(ひばすひめ)命で、景行の母である。
『勘注系図』では川上眞稚を、碁理(ゆごり)の子とする。
また八世孫日本得魂彦命のところで、日本得魂彦命の亦の名を川上眞若とするが、同一人物とするのは誤りであろう。共に由碁理の子で異母兄弟くらいであろう。
興味深いのは川上眞稚の妹として竹野媛とう名を記し、その人を大比昆(おおひこ)命妃とする。
この大比昆命が『記紀』伝承に登場する四道将軍の一人、大彦命であればやはり崇神時代の人である。
勘注系図および旧事本紀(天孫本紀)には
「水主氏・雀部氏・軽部氏・蘇冝部氏・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ、ホアカリ9世の孫)の裔」
との注記があり、ここでいうタマカツヤマシロネコ命とは、由緒にいう山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ)と同一神という(由緒に10世孫とあるが、系図では9世孫)。
また、同系図の建田勢命(タケタセ、ヤマシロネコの曾祖父、旧事本紀には海部直の祖とある)の脚注には
「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ・地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(当地)に移り座す。云々」
とあるという。
この一族が丹波国から当地へ移ったのはタケタセ命の頃か後の世代かは不明だが、3代後のヤマシロネコ(ヤマシロオオクニタマ)の後裔氏族が当地一帯に多いことから、この世代までには移っていたと推測され、由緒が“山背大国魂命(玉勝山代根子命)にいたり山背に移り、云々”というのは、これをうけたものであろう。
城陽町史(1969)に、
「水主氏とは、栗隈の大溝の入口に設けられた水門(井堰)の管理を司った」
とあり、栗隈大溝が、仁徳紀12年条にいう“南山城の栗隈県(クリクマノアガタ・現宇治市大久保付近という)に作られた大溝”とすれば、仁徳朝の頃に創建されたともとれるが、それを証する史料はなく、また古墳中期とされる仁徳期に常設の神社があったとは思えない。
祭神
天照御魂神(アマテルミムスヒ・アマテルミタマ=火明命・饒速日命) ・天香山神(アメノカグヤマ) ・天村雲神(アメノムラクモ)
天忍男神(アメノオシオ) ・建額赤命(タケヌカアカ) ・建筒草命(タケツツクサ) ・建多背命(タケタセ) ・建隅命(タケモロズミ)
倭得玉彦命(ヤマトエタマヒコ) ・山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ=玉勝山代根子命)
これらの神々は、勘注系図(および旧事本紀)に記す遠祖・アマテルミムスヒ神(ホアカリ命)から直接の祖・ヤマシロオオクニタマ(ヤマシロネコ命)までの祖神10座を祀ったもので、中でも、アマテルミムスヒ・ヤマシロオオクニタマ2神は延喜式に“相嘗祭に預かる”との注記があり、この2神が重要視されていたことを示している。
相殿神の大縫命(オオヌイ)・小縫命(オヌイ)とは、本殿に祀られている衣縫神社(キヌヌイ)の祭神で、上記由緒には
「天地ひらけ豊組野尊(古事記の豊雲野尊トヨクモノ-神代七代の一柱か、神格不詳)のご神託にして、天照大神の時より衣類の女神の仕業として世に備れり。
左右に座する二柱の神達は、神代天香語山命の御子・天村雲命より九世の孫にして、成務天皇の御宇、淡路国志賀の高穴穂の宮に仕え奉り、糸縫針の職業を主宰し給う。故に末代の今に至るまで、其職たる人達は此の大神を祖神として敬い奉り給う」
とある。
水主神社
当地方を開発した水主氏の始祖・天照御魂神(アマテルミタマ)以下10柱の神々を祭神とする式内大社。
崇神天皇の頃創建されたという伝承は別としても、仁明天皇の御代(833~50)に神階を叙せられたというから、古くから当地方の鎮守社として崇められた社であろう。
アマテルミタマ神はアマテラスの孫・火明命(ホアカリ)の一般的呼称ともいわれ、“天照”を冠するように日神的性格をもつ。とすれば、木津川を挟んで月神と日神が祭られていたことになる
山城国綴喜郡 樺井月神社
『水主神社』(ミヌシ・ミズシ、式内大社)の境内にある祠社だが、古く、延喜式神名帳・山城国綴喜郡十四座のなかの式内大社で、月次新嘗の奉幣に与る古社であり、古くは、それなりの結構を構えていたと思われる。
同じ月読命を祀る月読神社(京田辺)からみて北東、木津川の対岸(右岸)に当たる
「祭神は月読命。延喜式神名帳に山城国綴喜郡 樺井月神社とある式内社で、文武天皇の大宝元年(701飛鳥末期)に神稲を賜り、清和天皇の貞観元年(859平安前期)に従五位上に叙せられた。元は木津川をはさんだ対岸の綴喜郡樺井に鎮座していたが、度重なる木津川の氾濫により寛文12年(1672江戸前期)に当水主神社の境内に遷座した」という。
大宝元年の神稲奉祀は、当社がそれ以前からあったことを示すが、その創建時期についての資料は見当たらない。月読神社(京田辺)とあまり違わない頃かとも推測されるが、大住郷に居住する大隅隼人と阿多隼人が、それぞれ別の月読社を構えたのかもしれない。
また当社の旧社地・樺井の場所も不明。大住郷の高台にある月読神社(京田辺)の北東方・木津川べりの低地にあったのでは、という(木津川の中州にあったともいう)。また、月読神社と水主神社を結ぶ線を延ばすと、日神を祀る水度神社(ミト)から神奈備山・鴻巣山山頂に至り、この線は夏至の日の出の方角という。ここから樺井月の旧社地は“この線上の何処かにあった”と推定されている(大和岩雄「水主神社・樺井月神社」)。
由緒は続けて、
「仁明天皇の承和12年(845平安前期)8月、京畿の地に疫病が流行し綴喜相楽両郡の牛馬が多数斃死したとき(二蝱虫-アブの類-が多発し、牛馬がこれに咬まれて斃死相次いだ。占うと樺井神道祖神の祟りと出たので、ともいう)、勅使が当社に奉幣祈願したところ忽ちにして治まった。以来、牛馬の守護神として朝野の崇敬をうけた」
という。牛馬の疫病とは季節の変わり目(夏の終わり頃)に多い疫病の流行だろうが、人間への影響は記されていない。
綴喜郡大住郷に、同じ隼人族が祀る月読社がそれも近接して2社あるというのも珍しいが、その一社が遷座するにあたって、同じ月神を祀る月読神社(京田辺)ではなく、対岸の久世郡にある水主神社境内に鎮座したのは、それなりの理由があったらしい。
千歳車塚古墳
前方後円墳の形が窺い知れる。
それと国の重要文化財である最寄りの出雲大神宮。
“国史跡”指定を受けた丹波地方に現存する最大の前方後円墳で、出土した埴輪から6世紀前半・古墳時代中期の築造と推定されている。
しかし本古墳の最大の特色は、墳丘・周壕とも左右対称にはならない、いびつな前方後円墳。
前方部が西北を向き、全長80mほど、後円部は直径約41m・高さ約7.5m、前方部の幅45.5m・高さ6mほどの精美な姿を残している。
外形では築段が認められるほか、後円部の直径に比べて前方部は幅が広く、くびれた部分の方形の造り出しを持つ。
本古墳の被葬者は“倭彦王”との説が有力視されている。
『日本書紀』によれば、6世紀の初め、皇位継承者の途絶えた朝廷が、天皇の血筋にあった“倭彦王”を迎えようとしたと記されている。
しかし丹波の亀岡にいた倭彦王は、迎えの兵に驚いて逃亡したため、その後、朝廷は、越前から継体天皇を迎えたとされている。
本古墳の最近の発掘調査で、構造が二重の濠を持ち、前方と後円の中間のくびれている部分から6世紀前半の埴輪が出土したと云う。
本古墳は、高槻市の第21代・継体天皇陵と黙されている、“今城塚前方後円墳”と構造・時期共全く同じで、更に出土した埴輪が高槻市の埴輪工房造りと云うことで、本古墳の被葬者は、継体天皇と強い関わりがあった、倭彦王の墓説が有力視されているわけ