関東の養蚕と織物の一族、鳥の忌部

March 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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常陸国の三蚕神社 蚕影神社(こかげ)つくば市神郡豊浦 養蚕神社(こがい)日立市川尻町豊浦(近くに蚕飼浜) 蚕霊…

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コメント

  • 太田亮氏の姓氏家系大辞典では、
    石城直について、「多珂、石城の両国国造家が同族にして、もと石城国造家は多珂国造家から分かれたものなれば同一氏姓(石城直)」と考えると記しており、出雲臣と天津彦根の末裔のどちらかであるかは記していない。

    宝賀寿男氏は、出雲臣と天津彦根の系譜は共に、天孫族として同一氏族と説くが、富家の伝承では実際は国津神の系譜、事代主命の末裔であるという点が違っています。

    高国造は、志賀高穴穂朝(成務朝)に彌都呂岐命の孫の彌佐比命がなっており、彌都呂岐命は
    出雲の神門臣家人であったと言い伝えられています。要するに、彌佐比命の出自はタケミナカタの系譜では無いという事になりますが、
    出雲臣とタケミナカタ系の系譜を隠すために、出雲の神門臣系の系譜をつなぎ合わせた
    可能性が高いです。

    高国造の祖を祀る神社は、日立市川尻町豊浦の 養蚕神社(豊浦誌によると明治までは、於岐都説神社として事代主命、彌佐比命、稚日女尊を祀っていた。)として存在していました。
    於岐都説神社は、日本三代実録において仁和元年(885年)に「於岐都説神」が従五位下に叙されたという記事が見え、この「於岐都説神」は東国三社の神栖市の息栖神社と言われています。日立市の於岐都説神祭祀は、この神栖市から勧請したものであると考えられます。

    息栖神社は、古くから出雲臣族の祖・久那戸神を祀る神社であり、神主家は猿田家であった。
    息栖神社の鎮座地は古くは、下海上国の領域であり、一方下海上国内には、下海上国造とその末裔と考えられる猿田氏が祀った猿田神社があった。
    下海上国は下総国海上郡となったが、この海上郡司の管轄下にあった猿田神社は、もっと古い時代に下海上国造の祖久都伎直の親である海上五十狭茅宿禰が、猿田彦神を祀っていました。

    海上五十狭茅宿禰が神功皇后の勅令で神戸の生田神社に稚日女尊と大海神社として猿田神を勧請した事が、生田神社と猿田神社双方に伝承が残されています。
    息栖神社には、神功皇后から賜ったと伝わる、栗の古木による硯が現存しています。
    海上五十狭茅宿禰が神功皇后から賜ったのでしょうか。

    この猿田神社の社家は、猿田姓を名乗っており神主家以外は猿田姓を名乗る事は許されなかった。現在の猿田神社の猿田家には、伊勢津彦命の伝承が残っています。

    垂仁25年、銚子の海岸に猿田彦大神が降臨した事になっているが、社家の伝承では伊勢津彦が流れ着いたという。

    猿田氏は、下海上国造の祖である伊勢津彦命の伝承を伝えている事から、相武国造同様、諏訪神の系譜に現れる猿田直と下海上国造の末裔である海上氏と近しいと考える事が出来ます。

    こういった事情から、高国造が祀ったと考えられる於岐都説神は、下海上国造らの神を勧請したものであり、高国造の祖彌佐比命は、下海上国造らと同様に、伊勢津彦やタケミナカタの系譜と考えられます。

    石城直、那須直、猿田直が同じ諏訪の大臣の系譜である一方、出雲臣の同一系譜であった

    高国造も石城国造も、石城直を名乗っていたのは、諏訪神の系譜を有していて、土着系出雲臣として同族であったという事を示していていると考えます。
    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/GALLERY/show_image.html?id=16535380&no=2
  • 関東の出雲

    中田憲信氏の諸系譜

    富家の伝承である神門臣家の八束水臣津野命(意美豆努命:祖の位置づけ)が残っており、神門臣家が保身のために穂日家の祖の二人(天穂日命と天夷鳥命)を系譜に上書きしているのが良く分かる。

    東国の諸国造の系譜は、神門臣家の系譜と、タケミナカタの諏訪大社上社祝の系譜を繋ぎ合わせたもので、上記の中田氏の系譜で、東国系の繋ぎ目となる美都呂岐命以降は、タケミナカタの系譜の人が美都呂岐命の娘を娶ったか、養子になったかして神門臣家の一員になった可能性がある。
    タケミナカタの系譜は富家の系譜である。

    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/GALLERY/show_image.html?id=16560282&no=1
  • 吉田大洋『謎の出雲帝国』『竜神よ、我に来たれ!』によれば、常陸国などの東国はクナトノ大神が開拓したところで、香取神宮の主祭神(普都の大神)ともなっており、香取神宮では出雲大社の神門の「亀甲に花菱」や出雲神族の「亀甲に並び矛」紋とおなじ「亀甲」を神紋としているという。オオクニヌシの子には香取神とよく似た名の剣の神ワカフツヌシがある。ちなみに、香取神宮の鎮座する場所は亀甲山とよばれる。また、富家の伝承ではトミノナガスネ彦は神武に反撃したが抗しきれず、出雲に退きそこで他界したが、その時天孫族は出雲神族の分散という和平条件を持ち出し、出雲神族は遠く関東から東北にまで追われたという。東国に出雲系の国造や神社が多いのはこういうことにより、国造は24人中11名、神社は全体の34%にものぼり、特に下野国の約64%、武蔵国の約45%が群を抜いているという。
  • 香取神宮祭神のフツヌシとイハヒヌシの関係について、谷川健一編『日本の神々 11』で、大和岩雄氏は『日本書紀』の一書の二では香取神宮の祭神は斎主(斎の大人)とあり、武甕槌と経津主が鹿島神宮・香取神宮の祭神として文献に現れのは大同二年(807)の斎部広成による『古語拾遺』であるという。そして、藤原氏のかかわる『日本書紀』『続日本後記』『文徳実録』などの正史や『延喜式』の春日祭祝詞では「伊波比主命」であるのに、斎部広成の『古語拾遺』や物部氏系の『旧事本紀』では「経津主神」としており、正史が香取神を「イハヒヌシ」と書いても、斎部(忌部)氏・物部氏らはそれを認めなかったのであり、また香取の神は物部氏が祭祀していたことを示すためであろうとする。ただ、『先代旧事本紀』には香取神を斎主とする『日本書紀』一書の二と同じ文章が書かれており、そこではやはり斎主を「今東国楫取地に在す。」と記してあり、香取神宮の祭神としてフツヌシだけを認めてイハヒヌヒを認めていないというわけではない。
  • 国造本紀」によれば、天の穂日の子孫とされるのは、伊勢津彦を祖とする相模・无邪志(むさし)・胸刺(むさし)の他、阿波(安房)・上海上・下海上・伊甚・高国で、新治国造も阿波国造と同族なのではないかとされるが、近江雅和『隠された古代』によれば、武蔵国造家系図に伊狭知の名があり、伊狭知は五十狭茅とも書かれ、神功皇后紀に海上五十狭茅として出ており、海上とは海上国のことであるという。これら、穂日を祖とする国造は、出雲神族の国造が弾圧を避けるために穂日の子孫を名乗ったのではないだろうか。日本書紀に安閑天皇の時、真珠を上総の夷隅に求めたが、夷隅の国造は京に出てくるのが遅く、国造らを捕ら縛ってわけを質すと、後宮の寝殿に逃げ隠れたて春日皇后を驚かせてしまったので、罪を償うために皇后のためにやはり屯倉を献上したという話が載っている。同じ、安閑天皇のときに、武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵が国造の地位を争っていたが、小杵が上毛野小熊に助力を求めて使主を殺そうとしたので、使主は京に逃げて朝廷に訴え、朝廷の裁断で使主は国造とされ、小杵は誅されたので、国造使主は恐懼感激して黙し得ず、四ヶ所の屯倉を献上したとある。伊甚国は上総国夷隅郡とされるから、夷隅国造は伊甚国造で、安閑天皇の時屯倉を献上したのはどちらも出雲神族の国造と考えられる
  • 神奈川県西部にあった師長国造は建許呂を祖とするが茨城国造と同祖とあり、建許呂を祖とする国造に須恵・馬來田・道奥菊多・道口岐閉・石背・石城があるが、胸刺国造は岐閉国造と同祖とある。岐閉国と道口岐閉国であるが、大野七三校訂編集『先代旧事本紀』では、岐閉国は石城郡苦麻村(大熊町熊周辺)、道口岐閉国は多珂郡道口郷とあり、別の国とされているが、『常陸風土記』の多珂郡に、成務天皇のときに出雲臣と同族の建御狭日命を多珂国造に任じ、今多珂・石城といっているのがこれであるとあり、建御狭日命は久慈郡との堺の助川をもって道前(みちのくち)とし、石城の郡の苦麻の村を道後(みちしり)としたとある。これをみると、岐閉国と道口岐閉は多珂国と重なり、岐閉国造・道口岐閉国造・多珂国造は同じとも考えられ、そうすると馬來田国造もまた出雲神族ということになるのかもしれない。
  • 常陸における多氏関係とされる古墳の年代をみてみると、大洗磯前神社近くの磯浜古墳群が五世紀前半、水戸市の那賀国造の墓とされる愛宕山古墳が五世紀後半から六世紀初頭、大生神社近くの大生古墳群が六世紀後半から七世紀後半でその主要な古墳は七世紀のものといわれている。また、鹿島神宮近くの宮中野古墳群の多くは七世紀後半から八世紀はじめのものといわれる。
  • 『続日本紀』の承和二年(835)三月の条に陸奥鎮守将軍外従五位下勲六等物部匝瑳連熊猪が連を改めて宿禰を賜うとあって、そのなかに、熊猪の祖である物部の小事大連が坂東を征した功勲によって下総国に匝瑳郡を建てたとあり、「天孫本紀」に物部小事連について志陀連らの祖とあり、この「志陀連」を太田亮は「信太連」とみるが、香取郡の西北に常陸国信太郡があり、これは白雉四年(653)物部河内と物部会津が請願して筑波国造と茨城国造の土地をさいて設けたものであり、物部小事を祖とする物部匝瑳連の匝瑳郡と物部信太連の信太郡にはさまれて香取郡があることからみても、香取神宮が物部氏とかかわることは否定できないという
  • 天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。

    信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。
    『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、 大神に献上する文布(しず)を織った神で、倭文氏の祖神。 ちなみに倭文宿禰の祖は神魂命、倭文連の祖は神魂命の子・角凝魂命。

    天棚機姫神と共に機織の神として祀られる。

    神綺日安命の別名とする説もある。また天日鷲命の弟神あるいは御子とする説がある。

    天羽槌雄神 を祀る神社

    倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754
    倭文神社 鳥取県倉吉市志津209
    倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮6051
    倭文神社 群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380
    倭文神社 静岡県富士宮市星山1
    倭文神社 兵庫県朝来市生野町円山字下代201
    本宮倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町柳平3195
    靜神社 茨城県那珂市静字帝青山2
    鍬戸神社 静岡県三島市長伏字石原1
    服部神社 石川県加賀市山代温泉18-7-丁
    鹿島神宮 境内 高房社 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
    大洗磯前神社 境内 静神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890
    坐摩神社 境内 繊維神社 大阪府大阪市中央区久太郎町4-3
    笹御霊神社 小田巻神社 兵庫県朝来市納座字笹山409
    濱名惣社神明宮 境内 天羽槌雄神社 静岡県浜松市北区三ケ日町三ケ日大輪山122
  • 星神

    倭文神社 (富士宮市)
    創祀年代は不詳。

    中世末期には「嶽王子」、江戸時代には「星山大明神」と呼ばれた神社。
    富士本宮浅間神社の摂社であったが、戦後、独立分離した。

    当社は、古代、倭文部によって奉祭された神社で、「延喜主計式」によれば、駿河国と常陸国のみが、調として倭文布31端を納めていたという。

    星山の地は、神代、香々背男が支配し、中央に叛いたため、当社祭神・健羽雷神によって討たれ、後、健羽雷神によって、織物・製紙などの産業が発展した地。

    『日本書紀』によれば、大化改新の一年前に、大生部多という人物が、虫(蚕?)を祀るよう村民を扇動したため、秦河勝によって討伐されたとあり、大生部多が倭文部であったと思われる。

    二つの話が、同一の事件を語っていると考えると、香々背男=大生部多、健羽雷神=秦河勝となるが、織物に関連すると思われるのは、大生部多であり健羽雷神である。
  • 天津族のカカセオが常陸にやって来たのは、東征に先立って、ニギハヤヒがヤマトの大国主の下へ送り込まれてその娘婿となり、ミシマミゾクイが摂津に送り込まれて、娘のセヤダタラヒメを大国主の息子の事代主の妻にしたのと同じ頃のようです。「この国の王位に野心を持って復命しなかったニギハヤヒ」は東征軍によって殺されたようですが、常陸で東国の盟主となったカカセオも結局は天津族によって激しい戦いの末に悲惨な運命を辿ることになったようで、21世紀の今も大甕倭文神社で「宿魂石」に封じられて武葉槌命に見張られ、香取神宮では毎年、カカセオが決して甦ることの無いように「星鎮祭」が行われているのです。
  •  茨城県小美玉市に所在する玉里舟塚古墳は

    1965年から5次にわたって明治大学考古学専攻の調査団によって発掘調査され、特殊な二重の箱式石棺と大量の埴輪が出土した。埴輪は大型かつ多彩で、関東を代表する埴輪のひとつとして知られている。近年、明治大学博物館が行った再整理の結果、横座り方式の乗馬を示す大型の馬や柱付の家、まわしをしめた力士、特殊な線刻を施した円筒埴輪などの存在が明らかとなり、まさに「王」の埴輪ともいえる豊富な内容をもつことが判ってきた。今回の展示では、明治大学博物館と茨城県立歴史館と小美玉市玉里史料館、古墳の所有者である山内氏宅に分散収蔵されている埴輪群及び伝資料も含めた副葬品等約400点を初めて一堂に集め、霞ヶ浦北岸に君臨した「王」の実像に迫った。

    (3)展示構成
    (1)玉里舟塚古墳とは
     茨城県小美玉市に所在する6世紀前半に位置づけられる玉里舟塚古墳の概要について紹介。1965年から5次にわたった発掘調査の成果とその評価について述べた。
    (2)玉里舟塚古墳以前の埴輪
     玉里舟塚古墳以前に周辺に築造された大型古墳の埴輪を展示し、玉里舟塚古墳との違いを示した。東日本第2位の規模をもつ巨大前方後円墳の舟塚山古墳の朝顔形円筒埴輪をはじめ、行方市三昧塚古墳、かすみがうら市富士見塚1号墳、小美玉市玉里権現山古墳の円筒埴輪・形象埴輪など比較的小型で稚拙なつくりのものから、玉里舟塚古墳の埴輪が飛躍的に巨大化し技巧的にも高度になることを示した。
    (3)玉里舟塚古墳の円筒埴輪
     全国的にも珍しい約120~80cmの巨大円筒埴輪24本を中央ステージに配置し、往時の埴輪配列の状況を復元した。墳丘上に見上げるように設置されていた様子を来場者に実感してもらうため、高さ40cm・60cmのステージに2段にわたって並べ、またできるだけ近づいて観察できるよう露出展示とした。玉里舟塚古墳の円筒埴輪の巨大さと高い規格性、そして埴輪を並べることで古墳の外と内を区画する円筒埴輪の性格を実感できるよう工夫した。
    (4)玉里舟塚古墳の形象埴輪
     武人・女子・家・馬を中心とする大型の形象埴輪群について、茨城県立歴史館他蔵品と、明治大学博物館で今回復元したものをあわせて陳列した。これまで知られていなかった馬形埴輪や力士の埴輪、そして高床式の家形埴輪など、関東でも屈指の規模を持つ形象埴輪群であることが明らかとなった。また、あわせて形象埴輪列の配列復元を行った結果、継体大王の墓と目される大阪府今城塚古墳との共通性がうかがわれ、近畿の中央政権とのつながりをもつことが判明し、埴輪研究のうえで重要な資料を提供することとなった。
    (5)埋葬施設と副葬品
     1960年代に明治大学が調査した折に出土した資料と、茨城県立歴史館所蔵の伝玉里舟塚古墳出土の資料をあわせて展示し、金銅装の大刀をはじめとした膨大な鉄製武器類、またガラスや青銅製の装飾品類など数々の豪華な副葬品と復元レプリカから被葬者像を推定した。特殊な構造で知られる後円部の埋葬施設をほぼ実物大のタペストリーにしてケース背面に展示し、円筒埴輪列の奥に埋葬施設がある位置関係を想起できるような配置とした。
    (6)その他
     古墳の地主である山内氏宅に保管されていた調査の様子をまとめたアルバム(大塚初重名誉教授が調査時に作成)の複写のほか、調査時のスナップをまとめたスライドを上映し、当時の調査の雰囲気と出土状況を理解する一助とした。
  • 天日鷲命の別名は、神武天皇の東征を助けた金鵄である。天日鷲命の子は大麻比古命、天白羽鳥命(長白羽命)、天羽雷雄命(武羽槌命)となる。忌部の祖神・太玉命と同神となる。太玉命の御魂は、阿波忌部の進出により日本各地に運ばれ祀られた。良質の麻を殖産するが故に、天日鷲命は日本の弓矢の創始神として崇められた。また、麻・榖を扱ったが故に天日鷲命は製紙の祖神として祀られた。忌部は麻だけでなく絹織物にもたけていた。結城市小森には養蚕と絹織を伝播させた伝承が残されている。麻と絹との混交織物が倭文(しずり)織であり、それは天羽雷雄命として記録された。
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