尾張氏、熱田神宮、天村雲命

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コメント


  • 奈良県天理市にある出雲建雄神社の縁起には祭神(草薙剣の荒魂)が 「吾は尾張氏の女(巫女)が祭る神である。云々」と託宣されており、これは宮簀媛の事である。

    福岡県鞍手郡鞍手町中山にある八剣神社はヤマトタケルが熊襲討伐の西征の時、訪れた事がある、ゆかりの地でもある事から、ヤマトタケルの妃である宮簀媛と兄の建稲種命も祀っている。
  • 軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん、前の山古墳とも)は、大阪府羽曳野市軽里3丁目にある前方後円墳。現在、宮内庁によって、日本武尊(景行天皇皇子)白鳥陵に治定されています。日本書紀などによると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」と伝えられ、羽曳野市の名前の由来となっている古墳です。
     景行天皇の皇太子となった小碓命(おうすのみこと-倭建命)は、兄を殺害したことにより父より疎まれ、九州の熊襲の平定から東日本相模の平定まで全国平定の旅をしています。しかしながら、一介の皇太子である墓に、陵(大王-天皇の墓)の名が付いているのは…大王に準ずるとして付けられたのか。
  • 武田王(たけだのきみ)は、古代日本の人物。父は日本神話に登場する日本武尊。弟に佐伯命(佐伯王)がいる。尾張国の丹羽建部君の御祖。仲哀天皇の皇弟。

    『ホツマツタヱ』によると、日本武尊が尾張国で後に結婚した宮簀媛(宮津姫)が武田王と佐伯王の2人を産んだとされている。 武田王を奉祀する、愛知県一宮市の宅美神社の由緒書によると、武田王はその土地に御所屋敷を構え、土地を開墾したとされ、山梨県韮崎市にある武田八幡宮では諏訪神社の南西に位置するわに塚の桜の御所を治めた後、薨じてこの地に葬られ「王仁塚」と呼ばれたと言う。

    社伝によれば、822年(弘仁13年)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したのが草創とされる。一方で『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺(南アルプス市)の記録に基づき、同じく822年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源としている。なお、同書では日本武尊の子である武田王が御殿を設けた事が武田の地名の由来であり、武田王が館の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としている。

    甲斐国には石和八幡宮(笛吹市)や窪八幡神社(山梨市)など武田氏により勧請された八幡社が分布しているが、『甲斐国社記・寺記』によれば、清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれた後、武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったという。

    歴代の甲斐国司も造営を行なったとされるが、戦国期に武田晴信(後の信玄)が天文10年12月23日(1542年1月19日)に大檀主として嫡子である武田義信とともに再建したとあるのが、確認されている中で古い造営記録である。この造営は国主となった晴信の最初の事業でもあった。
  • May 2016 編集されました
    佐伯命(さえきのみこと、佐伯王、さえきのきみ)は、古代日本の人物。父は日本神話に登場する日本武尊とされている。兄に武田王がいる。三河国の御使連(みつかいのむらじ)の祖だとされている。

    『先代旧事本紀』では三河の御使連の祖は日本武尊の子である佐伯命とされている(『新撰姓氏録』では気入彦命が応神天皇の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえ、その功績によって御使連の氏姓を賜ったとされている)。

    『ホツマツタヱ』の伝承によると、佐伯王(佐伯命)は日本武尊が尾張国で結婚して、後に妻となった宮簀媛(宮津姫)により、産まれたとされている。

    五百木之入日子命は『新撰姓氏録』左京皇別上の御使(みつかい)朝臣条によれば、気入彦命は応神天皇の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえ、その功績によって御使連(みつかいのむらじ)の氏姓を賜ったという。『新撰姓氏録』右京皇別下にも、御立史(みたちのふひと)が気入彦命の後裔と記されている。
     『古事記』・『日本書紀』の双方には、この皇子の名は見られない。名前の類似点から五百城入彦皇子と同一人物と考えられる。 又、妾(みめ;妃;『日本書紀』には襲武媛“そのたけひめ”とある)の子、豊戸別王(とよとわけのおほきみ)、次に沼代郎女(ぬのしろのいらつめ)とある。

    五十狹城入彦皇子は、景行天皇の6番目の皇子で、 三河長谷部直の祖。別名は、気入 彦命。 当地にあって逆臣を討ち取った 。
  • May 2016 編集されました
    岡崎市の和志取神社社記によれば、祭神の五十狭城入彦皇子は気入彦命とも言われる。祭神は、五十狹城入彦皇子。
    当社の北西300mに西本郷古墳群があり、
    五十狹城入彦皇子御墓とされる前方後円墳もある。

    五十狹城入彦皇子は、景行天皇の6番目の皇子で、
    三河長谷部直の祖。別名は、気入彦命。
    当地にあって逆臣を討ち取ったので、鷲取という地名になった。

    和志取神社社記
    岡崎市西本郷町字御立鎮座

    御祭神 五十狭城入彦皇子
    五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で 勅命によりこの地方の逆臣大王主等を捕えこれより国内治 まり庶民大いに安堵したという
    御墓は当町和志山にあり前方後円墳で前後三十五間面積七 百七十六坪周辺に六基の円墳即ち陪塚がある 明治二十九年 十一月二十八日御陵墓伝説地と指定 その後更に調査の結果昭和十 六年四月十八日御陵墓と御勅定同年五月二十六日勅使御参向 奉告祭が行われた
    本神社は和名抄にいう鷲取郷の総社で延喜式国内百十五座の筆頭 たる旧官社で文政十三年神祇伯より正一位の神階を授け正一位 本郷大明神の扁額を下賜されたという古来上下の尊崇厚く累代 の領主より祭典費を献進があり祈年祭新嘗祭には幣帛を奉り 宝祚無窮稔穀豊饒を祈る例であった
    明治七年五月二十五日教部省令により本神社を延喜式内三 河国二十六座之内和志取神社確定候事との指令を受けた
    明治二十一年四月九日蓮華寺内で和志取神像が発見された  延喜年間の作と伝えられる木製の座像で本神社に鎮め祀って ある
    大正五年十二月二十八日郷社に列せられた
    昭和二十一年一月十日由緒上県社と認められたが戦後社格は級 社と変わり七級社として現在に至っている
    拝殿祝詞殿神饌殿透塀等氏子及び特別崇敬者よりの浄財と延 二千六百余人の勤労奉仕により三ヶ年の歳月を費し昭和三十年 竣工した
    御末社 神宮社 御鍬社 社口社 稲荷社

    -境内案内板-

    岡崎の矢作川河畔が矢を作る矢竹の産地であり、日本武尊は武器調達のためこの地で矢竹を採集した。もう一つは、賊を打ち倒したのですが賊は意外と近く、岡崎市東公園や市民病院のある丘あたりをおそらく高石山と呼び、東三河への交通を妨害していたものと思われます。

    尾張北部の古墳の埴輪は大和盆地北部由来の特徴を持っており、尾張南部および西三河地方は大和盆地東南部由来の特徴を持っているそうです。そこから志段味、熱田から岡崎の矢作地区にまたがる氏族は大和盆地東南部の三輪地区と関連性をもった氏族が居住していたと考えられるのです。一方尾張北部にはヤマトタケル神話の伝承がほとんど無いことからも、もともとこの神話の原点は4世紀に発生した大和盆地東南部の勢力が持ち込んだ伝承であった可能性は高いと思われるという。

    愛知県の現在の豊川市、国府地区にある白鳥という地名です。そこには4世紀から5世紀にかけて矢作地区にあった豪族が東へ進出し、その付近にクニを作った形跡があるという。

    三河総社案内
    ■住所
    豊川市白鳥町上郷中1
    ■交通
    ・名鉄名古屋本線「国府駅」下車 徒歩約10分
    ・東名高速「音羽蒲郡IC」より車で約10分
  • May 2016 編集されました
    宮道(みやじ)天神社 豊川市赤坂町宮路1120番地
    宮道天神社の祭神は、建具児王、大山咋命、草壁皇子で、毎年8月第3土・日曜日に行われる歌舞伎道中や山車、神輿渡御などが出る、雨乞いまつり の祭礼で有名。 
    本宮(奥の院)は宮路山 の山頂近くにあり、天候に恵まれれば拝殿の前から富士山を眺めることもでき、元旦の朝はご来光を拝む人も多い。
    本殿に向かって右手前には、宮路山からの伏流水と銘打っている 宮水 がある。
    御由緒
    「国内神名帳」に正五位下宮道天神とあり、日本武命の皇子建具児王が宮道別の祖で宮道の別宮道君という宮道を氏とする。一條天皇の時、大江定基、三河国司に任ぜられた際、赤坂の長者宮道弥太次部長富の娘力寿をめとる。(今、長福寺の山頂に基がある)この弥太次郎、日吉大社を勧請大山咋命を合祀する。文治6年(1190)12月、源頼朝上洛の帰途安達盛長に代参させ、鞍馬の装束を奉納し、武運を祈る。元亀2年(1572)領主松平左京亮盛次社殿を嶽の社地に、拝殿を麓に造営する。元禄8年(1695)再建にあたり徳川幕府代官太田弥太郎金参拾両を献進した。明治13年3月23日、宮道天神社と改め、同年8月村社に列し、同40年10月26日、供進指定をうけ、大正14年10月9日、郷杜に昇格した。神徳〝雨乞い。

    白鳥の地名のある国府の場所の北に位置する。
  • 能褒野神社(のぼのじんじゃ)は、三重県亀山市田村町にある神社。旧社格は県社。

    主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
    配祀神 建貝児王(たけかいこのみこ)弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)
    歴史

    『古事記』や『日本書紀』によると、日本武尊は能褒野(能煩野)で死去したという。墓は『延喜式』諸陵寮にも「能襃野墓」と見えるが、後世に所在不明となった。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年(1879年)に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳(現在の能褒野王塚古墳)が、内務省によって「能褒野墓」に治定された。
  • 能褒野神社と宮道天神社の建貝児王は、日本武尊の御子である。

    主祭神の建貝児王(たけかひこのみこと)ですが珍しい神様だと思いませんか?ヤマトタケルの子供で吉備臣建日子(きびのおみたけひこ)の妹、大吉備建比売(おおきびたけひめ)を娶りできた子供です。この建貝児王を主祭神としてお祀りしている神社は讃岐の讃留霊王神社と三河のここ、宮道天神社だけだそうです。しかも古事記には建貝兒王(タケカイゴノミコ)が「宮首(道?)之別等之祖」と記されています。しかも不思議なことに讃留霊王神社のあるところは鵜足郡井上郷玉井村(現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)という場所で「ウタリ」という地名が入っています。そういえば、宮道天神社の東南に8km行ったところに菟足神社(うたりじんじゃ)という神社もあり、「ウタリ」つながりも見られることから何らかのかかわりがあったと思われます
  • 讃岐の佐伯直は播磨の佐伯直の分岐ですが、これについては、『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます
  • June 2016 編集されました
    「朱鳥官符」に書かれた熱田大明神とは天照大神ではなく草薙神剣で、宮簀媛命(宮主媛命で、氷上姉子神社の巫女と考えられ、特定の個人を指すものではなく巫女を意味する普通名詞)がこの時点で草薙神剣を氷上姉子神社から熱田に移したと考えられます。

    要するに、熱田神宮の創建は宮簀媛命が蓬莱の地である熱田台地に草薙神剣を遷した孝徳天皇の大化3年(647年)となるのです。裏付けとなるのは二次資料ですが名古屋都市センターの研究報告書(23P)に以下の記事があります。

    宮簀媛命は、日本武尊から託された神剣を守るために氷上邑(ひかみむら、尾張氏の本拠地・現在の名古屋市緑区大高町火上山)に熱田神宮の元宮となる氷上姉子神社を創建した。その後、年齢を重ねてきたことを憂えた宮簀媛命は、神剣を末永く祀るにふさわしい地を尾張一族に諮り、大化3年(647)、かねてから尾張氏の斎場であった蓬莱の地(現在の名古屋市熱田区神宮一丁目)に移され、名称も改められた(「熱田神宮」が正式とされたのは明治元年)。 宮簀媛命は尾張国造乎止世命の娘であったことから、この地方に土着して勢力を持ってい た尾張氏一族は、神主や祝(はふり)などといった神職を司り幾世代もこの神社を守り続けたのだった

    氷上姉子神社
    石碑です。

    倭武天皇皇妃 尾張国造之祖 宮簀媛命宅址と彫られていました。驚いたことに、日本武尊が天皇で宮簀媛命は尾張国造の祖と言う立場で記載されています。横に小さく熱田神宮宮司従五位角田忠行謹書とあります。熱田神宮としては関係する神をできるだけ大きく見せたかったのでしょう。その意味は熱田神宮の本宮訪問の際に詳しく検討してみます。
  • 『海道記』には「熱田の宮の御前を過ぐれば」とあるほか、『東關紀行』に「尾張の國熱田の宮に到りぬ」とある。また同書には、

    或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。

    — 國民圖書株式會社、東關紀行(校註日本文學大系 3)
  • 当社創建に関連した公的記録として
      ・書紀天智7年条(668)に、当社神剣盗難事件についての記述があること(下記)、
     また、これに関連して、名古屋都市センター研究報告書(ネット資料)に
      ・宮簀媛命は、日本武尊から託された神剣を守るために氷上邑(緑区大高町火上山)に熱田神宮の元宮となる氷上姉子神社を創建した
      ・その後、年齢を重ねてきたことを憂えた宮簀媛は、神剣を末永く祀るに相応しい地を尾張一族に謀り、大化3年(647)、かねてから尾張氏の斎場であった蓬莱の地(熱田区神宮1丁目・現鎮座地)に移され、名称も改められた
    とあることから、7世紀の創建が推測されるが、それを裏付ける史料はない。

     当社創建時期が推測できる確実な史料として
     ・古語拾遺(807)景行天皇条--草薙剣は今尾張国の熱田社に在り。未だ礼典(マツリ)に叙(ツギ)ておらず(熱田社は草薙剣を祀る社なのに奉幣に与っていない)
     ・日本後記・弘仁13年(822)6月条--尾張国熱田神に従四位下を奉授
     ・続日本後紀・天長10年(833)6月条--尾張国に坐す従三位熱田大神に正三位(従三位の誤記か)を奉授、並びに封15戸を納む
     ・文徳実録・嘉祥3年(850)10月条--尾張国熱田神に正三位を奉授
     ・三代実録・貞観元年(859)正月条--尾張国正三位熱田神に従二位を奉叙
     ・  同     同    2月(860)条--尾張国従二位熱田神に正二位を奉叙
     ・日本紀略・康保3年(966)3月条--尾張国言上、正一位熱田大明神、今月1日より3ヶ日、社中鳴、太鼓乱声の如し
    などがあり、9世紀初頭にあったことは確かといえる。
  • 『熱田国風土記』が、ヤマト
     タケルが忘れていった剣としながらも、

    「剣、光きて神如し、把り得たまはず、即ち宮酢姫に謂りたまひしく、
     『此の剣は神の気あり、斎奉りて吾が形影と為よ』とのりたまいひき。因りて社を立てき、郷に由りて名と為しき。」

    というように、神となす剣を熱田神宮を立てて祀っていたのです
  • January 2019 編集されました
    建稲種命の墳墓の可能性が高いのが
    愛知県犬山市大字犬山にある「東之宮古墳」古墳時代前期の前方後方墳。
    銅鏡11面のうち、三角縁神獣鏡4面はそれぞれ同笵鏡が日本国内の古墳から出土している。4面ある人物禽獣文鏡は日本製で、濃尾平野のみに分布する特異な図像の鏡である。

    出土遺物は全てこの竪穴式石槨から出土しており、銅鏡11面(三角縁神獣鏡4面、斜縁同向式二神二獣鏡1面、方格規矩倭鏡1面、四獣形鏡1面、人物禽獣文鏡4面)、石製品(石釧3点、車輪石1点、鍬形石1点、合子2点)、玉類130点(硬玉製勾玉3点、碧玉製管玉127点)、鉄製品として鉄剣4点、鉄刀9点、鉄剣鉄槍17点、鉄鏃6点、短冊形鉄斧3点、有袋鉄斧3点、針筒1点、Y字方鉄器2点、釶があった。これらの石槨内出土遺物は国の重要文化財に指定され、京都国立博物館に保管されている

    東之宮古墳の築造年代については 副葬品などの従来の年代観からすると4世紀が妥当であるが、調査報告書の作成者の1人である赤塚次郎は最近の東海地域での土師器の編年の年代観から3世紀後葉を提示している。
  • 熱田社家
    世襲制度の社家で尾張氏の首長を中心に社家の七姓、田島氏、馬場氏、守部氏、大喜氏、粟田氏、長岡氏、大原氏などの氏姓が歴代の熱田神社をお守りする祭祀の家として約一千二百年綿々とお仕えしておりました。明治維新によって熱田神社が熱田神宮に改編され国家管轄になって社家が離散します。
  • September 2019 編集されました
    氷上姉子神社、宮簀媛

    大御食神社の祭神は日本武尊と宮簀媛だが、祭典には宮簀媛のことを「五郎姫」と著したのぼりを立てる。

    社伝記の中で、「吾は日本武尊なり、尾張ノ国なる厳郎女(いついらつひめ)と共に住まむ。迎えませよ」とのことば、「いついらつひめ」を、氏子らは「 五(いつ) 郎女(いらつひめ)」と記した。

    大御食神社から分かれた「五郎姫神社」が近郷に数ヶ所有りますが、中には御祭神が解らないとする神社もある。

    郎女(いらつめ) とは、「い(熟) ら」+「つ(区分)」+「め(女・姫)」であり、いつ は、文字通り「厳」だ。

    だから、「神社の称号となっている「姉子」はいま使われているような「姉御」のことではなく、「夫のない乙女」の意味で、宮簀媛命を指す」…とも。
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