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い尾張氏、熱田神宮、天村雲 尾張氏は日本書紀に「天火明命の児、天香山は、これ尾張連らが遠祖なり」とあるようにホ…
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コメント
大須と金山の中間に位置する
由緒書
祭神は、主座「天太玉命」 配祀「天照大御神・品陀和気命」。
「延喜式に尾張国愛智郡日置神社と所載せられた式内社である。中■山城国男山より八幡大神を勧請合祀。永禄3年5月桶狭間の役に際し織田信長公当社に祈誓あり。戦勝後報賽のため松樹千本を神域に植う。■■千本松日置八幡宮と称え奉る。」
天太玉命は日置部の祖先として祀る神であるという(天太玉命は忌部氏の祖神、日置部の祖神は天櫛玉命である。「古史傳」によれば、天太玉命は天櫛玉命と同神とする。)
教育委員会の説明板
「日置の地名、社名は、日置部のあったところから起こったもので、日置部は暦を司った。」
と「日置部は暦を司った」とある。
谷川健一著「四天王寺の鷹」によると、
「・・・・日置氏はおそらく三ノ岳の金銅を採掘する氏族ではなかったかと推測される。長州長登鉱山の労働者たちの中には日置氏の名前が多く見られる。「新撰姓氏録」によれば、「日置造」は高麗国人伊利須意弥より出ず、とあるから、渡来人であろう。
・・・・・垂仁紀39年の条には、五十瓊敷(いにしき)皇子が茅淳(ちぬ)の菟砥(うと)川上宮で剣千本を作らせたとある。それに協力し従事した部民に日置部があるところを見ると、鉄や銅を溶かす鍛冶に関係していた氏族であると考えられる。」
とあり、近くに金山もあることだし、日置氏は、「暦を司った」というより、「鉄や銅を溶かす鍛冶に関係していた氏族」とみたほうがよさそうだ。
信長は桶狭間の時に熱田神宮で戦勝祈願をした、というのは有名だが、その前に、ここ日置神社でも戦勝祈願をしたという。
拝殿の屋根瓦には、「麻の葉」の紋
社殿の西側の森に、「大黒・恵比須社」がある。その隣には廣富稲荷神社もある。
そのほか、龍神社もあった。
「橘社」というのは、「尾張徳川家二代藩主瑞龍院殿光友公を祀る」
継体天皇の母親である振媛(ふるひめ)は埴輪を採用した垂仁の「七世の孫=磐衝別命の後裔」ですが、孝昭の次世代で一旦「孝安と天足彦国押入命」の二つに分かれた血統が、系譜上再度つながるのが開化と和邇氏の娘・姥津媛との婚姻なのです。そして更に重要な点は、
開化と姥津媛との間に産まれた彦坐王と、和邇氏の娘・袁祁都媛の息子が山代之大筒木真若王
その人であり、同王こそ息長足姫尊(神功皇后)、息長宿禰王親子の祖先なのですから、ここで和邇と息長の二つの血脈が合流し、継体が祖と仰ぐ応神朝が花開く道筋が出来上がるのです。また垂仁紀三十九年冬十月条の「一に云う」には和邇氏の別な一面が、次の様に記されています。
長男・五十瓊敷命は茅渟の菟砥の河上に住んでいた。河上という鍛名(かぬちな)を召して、太刀一千口を作らせた。
この時に楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部あわせて
十箇の品部をもて五十瓊敷皇子に賜う。その一千口の太刀をば、忍坂の邑に蔵む。而して後に、忍坂より移して
石上神宮に蔵む。この時に、神、乞して言はく『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。
因りて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり。
名乗っていました。神門臣は親族であると言われています。
日御崎神社の神主家は、天冬衣命を祖としており、富家と同じ出雲臣族の系譜です。
大名持神の伝承地には神門臣とその分家(日置臣、勝部臣、山直、武蔵国造、大伴直、他田日奉直)が見られる
f新撰姓氏録右京皇別下および『日本 書紀』応神天皇 2年 3月条の記事によって, 土形君や榛原君とともに,大山守命を始祖とする同族意識を有していたこと.が知られ る。
したがって,日置氏が,燃料を供給す る榛原や,埴土を出す土地をにぎって,土器生産に関与した可能性がある。
砂 鉄 を 産 す る 地 域 で は , 鉄 生 産 に 従 事 し
た可能性がある。宝剣に関わりをもっ。
御祭神 素盞鳴命 日置宿弥命
〔配祀神〕稲田姫命 武甕槌命 天櫛耳命 大国主尊
御神紋 16枚菊
御由緒
元酒波岩劔大菩薩と称し徳川時代に岩劔大明神、若岩劔宮と称した。日置山という山号があって日置神社と定めたのである。日置神社は式内社で縁起には腹赤の池に大蛇あって人民を悩まし垂仁天皇の時代に素盞鳴命、稲田姫命自現あって退治し給い、其の大蛇の尾より得たる劔を投げて留まりし里に岩劔の神として崇めた。武内宿弥の霊夢により社殿を創建し正徳2年9月に社殿を再建した。日本書紀景行天皇39年の条に五十瓊敷皇子が茅淳○砥川上宮にて剣一千口を作りし時10箇品部を定めて皇子に賜いし時にその内に日置部があった。川上庄内の総社で、明治9年郷社に加列。境内には関白頼道塔という高さ8尺許りの五輪石塔があり、俗に宇治権現と称し毎年2月7日に祭典がある。観応2年若狭三方能登倉見より山手として大般若経第百巻が寄進されている。
本殿・境内建物
〔本殿〕三間社流造正面千鳥破風付 間口三間 奥行三間
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間
〔その他〕
境内社(摂社・末社)
金刀比羅社 八幡宮 天満宮 西宮 山神
それを知って、ミヤズ姫は剣を熱田神宮に納めました。こうして草薙の剣は御神体になりました。
その後、それを新羅の僧・道行が盗みましたが、無事取り返されました。
海部氏の伝承では、大己貴神が多岐津姫命を娶って高光日女命を生んだとされる。また天照国照神と彦火明命が別神で、天照国照神が天香語山命の祖神という。海部氏の伝承で天照国照神と彦火明命が別神で、天道日女命を娶って天香語山を生んだ後に伊去奈子嶽に天降ったとする彦火明命が彦火明命とは別神の天照国照神である
記紀では下照ヒメが天ワカヒコの妻とされている。
天照国照神と高照下照ヒメとの間に天香語山が生まれた?
天香語山の降臨伝承は豊受大神をめぐる伝承ということができる。
それに対して、彦火明命の降臨伝承は出雲神族をめぐる伝承といえる。
伊去奈子嶽の天降りは、大己貴神が多岐津姫命またの名神屋多底姫を娶り生んだ天道日女命、またの名屋乎止女命、またの名高光日女命を娶って天香語山を生んだことが記された後に行われており、凡海嶋への天降りは、火明命が佐手依姫命またの名市杵嶋姫命またの名息津嶋姫命またの名日子郎女神を娶って穂屋姫命を生み、天香語山が穂屋姫命を娶って天村雲命を生んだ後に行われている。天道日女命は大己貴の娘であり、佐手依姫命すなわち市杵嶋姫命であるが、吉田大洋『竜神よ我に来たれ!』では市杵嶋姫は宗像三女神のなかでも一人出雲神族系の竜神とされている。この彦火明命の天降り伝承は、彦火明命と出雲神族の関係を示すとともに、伊去奈子嶽が天道日女命、凡海の息津嶋が佐手依姫命と結びつく場所だったということを意味してるのではないだろうか。「豊受大神當國の伊去奈子嶽に降り坐しし時天道日女命等大神に五穀及桑蚕等の種を請ふ」と當國風土記に在り、というのも豊受大神が天降りした時にはすでに天道日がいたのであり、最も古い神である。
同時に、丹波国は二つに分けられてしまったか
2.「出石心大臣」は饒速日命と「長髄彦(ながすねひこ)」の妹「御炊屋(みかしぎや)姫」の間に誕生した次男「宇摩志麻遅(うましまぢ)」の子孫であり、また兄弟の中で最も若い三男と考えられる。
3.物部氏の家譜とされる「先代旧事本紀」によれば「天香山」が総大将として天下った際に「宇摩志麻遅」はまだ誕生していなかったとの記述がある。したがって両方の子孫には1世代のずれが生じている。
神名由来紀の本でも 伊勢神宮の祭神は 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 また 日向大日霊貴で 脇座に天火明
饒速日命の長男「天香山(あめのかごやま)」からは尾張氏、六人部氏等が、次男の宇摩志麻遅からは物部氏等が生じていく。
大和地方に饒速日命6世の子孫「建斗米(たけとめ)」
「妙斗米(むとめ)」は大王「建斗米」の弟である。
饒速日命の
「天道日女」は后つまり正妻であり、「御炊屋姫」は妃つまり正妻でない。
尾張、六人部
①饒速日命―②天香山―③天村雲―④天忍人―⑤天戸目―⑥建斗米―⑦建多乎
物部
①饒速日命―②宇摩志麻遅―③彦湯岐―④出石心大臣
一之御前神社は草薙神剣の荒魂を祀っている神社となります。
草薙神剣の荒魂とは草薙神剣の荒魂とは出雲建雄神(いずもたけおのかみ)を意味している。
石上神宮の摂社 出雲建雄神社の由緒
摂社 出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇(てんむてんのう)の御代に御鎮座になった由がみえます。 それによると、 布留邑智(ふるのおち)という神主が、 ある夜、 布留川の上に八重雲が立ちわき、 その雲の中で神剣が光り輝いている、 という夢を見ました。 明朝その地に行ってみると、 8つの霊石があって、 神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣されたので、神宮の前の岡の上に社殿を建ててお祀りしたということです。
江戸時代には、 出雲建雄神は当神宮の御祭神 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、そのため 「若宮(わかみや)」と呼ばれていました。
出雲建雄神社は延喜式内社で、草薙剣の荒魂である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしており、 同社縁起によれば、天武天皇の御代に御鎮座になり、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である
出雲建雄神草薙神剣御霊坐 今去千三百余年前天武天皇
朱鳥元年布留川上日谷瑞雲立 上中神剣光放現「今此地天降諸氏人守」宣給即鎮座給
出雲建雄神は草薙神剣の御霊に坐し、今を去る1300余年前天武天皇朱鳥元年(686年)、布留川の上流、日の谷に瑞雲立ち昇る中に、神剣が光を放って出現し、「今、此の地に天降る。諸々の氏人を守ろう。」と宣言され鎮座された。
出雲建雄神社の縁起には、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。云々」と託宣しています。尾張氏の女とは誰でしょう?そう、言うまでもなく宮簀媛命です。宮簀媛命は孝徳天皇の大化3年(647年、或いはその前)大高の地にて奉斎していた草薙神剣を蓬莱の地である現在地に遷座させました。熱田神宮前史として非常に重要な上、下知我麻神社と松姤社も大化3年に鎮座しています。
日本武尊と同時代の人物がなぜ大化3年に出てくるのか疑問もあるでしょうが、「熱田神宮の謎を解く」では宮簀媛命は女性神官(巫女)としての普通名称が宮主媛命であり、と書いています。
草薙神剣は熱田の地に鎮座した後、約20年で朝廷に召し上げられてしまったと理解されます。朱鳥元年(686年)、神剣の現物は尾張氏その他からの強烈なクレームにより熱田の地に戻されました。
それはヤマタノオロチがひとつの神剣を護っている姿でした。
その姿は光り輝き、出雲の国から八重雲にのって布留川の上流の山奥、日の谷へと飛来します。
物部邑智は、さっそく夢のお告げの場所を訪れました。
すると、そこに高貴な姿をした女がいました。
女は、物部邑智を待っていたというではありませんか。
女の傍らには、八つにはじけた岩がありました。
その中心に、剣がささっていました。
女は「この剣を布留の宮におまつりください」と告げると、姿を消しました。
物部邑智は、これはただならないことだと悟ります。
急ぎ御宮に戻ると、立派な装束に着替え、大勢の神官とともに神輿をもって迎えにあがりました。
そして布留の御宮の南の高いところに神殿をつくりました。そこに神剣をおさめたのでした。
ヤマタノオロチが飛来したとされる日の谷。そこではヤマタノオロチを八大竜王として祀られています
◆「日本書紀」の記述
天孫(あめみま)猶(なお)忍ぶ能(あた)わずして竊(ひそか)に往きて之を覘(うかが)う。豐玉姫(とよたまひめ)、方(まさ)に産(こうむとき)に化(な)りて龍と爲す。
つまり、夫のヤマヒコがトヨタマヒメの産屋を密かにのぞくと、龍に変身していたというのである。
◆「ウエツフミ」の記述
ウエツフミでは、お産をするときのトヨタマヒメの姿が、もっと正確に書かれている。
妃の御姿姫御子にませど 頂に角の如成す有り 背平に大なる鱗多に生エ 口広くして 白歯並めしに 剥き出、黒髪五月蠅垂らし 御脚鱗並めて 御眉ハ太く 目隠しなす それ乱れ おどろおどろにありき
大分県竹田市にある「城原(きばる)神社」には、下記の伝承が伝わっている。
「景行天皇によって滅ぼされた八田とは、蛇神族である」・・・・・と。
なった。
闘鶏氏。姓は直だが、允恭朝に忍坂大中姫皇后に不敬があったため、稲置姓に落とされた。
大和国山辺郡都祁。現在の奈良県奈良市の旧都祁村近辺。
闘鶏大山主 …… 仁徳朝の国造。氷室の氷を初めて御所に献上し、以後、氷室の管理者となった。
忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。
母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。
雄神神社【おが】(奈良県奈良市都祁白石町)
鳥居の前に二対の狛犬がある
祭神:出雲健男命【いずもたけおのみこと】
『式内調査報告・第三巻』には、延喜式内社出雲健雄神社の可能性を持つ神社に数えられている。(他、石上神宮の摂社出雲建雄神社とする説、都祁藺生町【いう】の葛神社とする説、不明とする説等がある。)
この建物の奥に本殿は無い。白石の東方にある雄雅山【おがやま】を御神体とする神社だ。
雄雅山は禁足地になっている。頂上には窟があり神使の黒い大蛇が住むという。当社は「三輪さんの奥の院」といわれている。(『都祁村史』)
雄雅さんは蛇であるともいう。(『日本の神々4』)
平成祭礼データ に
国津神社・雄神神社略記
闘鶏国造が置かれていた、古代ツゲ国の中心地、つげ平野の東方・水湧庄の中央丘陵・字神子尻に大きな白い石があり、古代の信仰を集めていた。国つ神として崇敬せられ、社殿を建立、国津大明神と称せられた。 平安時代後期「山内7庄」として興福寺喜多院二階堂の荘園が成立し、その中で水湧庄は最も耕地の反別多く有勢であった。
荘園は2つに分けられ、北側を水湧庄、南側を白石庄と称された。 白石庄とは国津大明神の白い石より名付けられたのである。 水湧白石両庄共耕地は31町大となっている。
平野の東方に聳える2つの山は、雄神山・雌神山として、これ又古代人信仰の中心であった。古来より村人は「ののさん」(信仰神の方言)と言い、野々神岳(雄岳550,6m、雌岳531,5m)と称される。古代信仰の靈山で三輪神社の奥の院ともいわれる。山頂には石室があって白い大蛇がすんでいるといわれている。御神体は雄神山そのものである。したがって拝殿だけで本殿はない。県下はもとより大阪・和歌山・三重などに信者が多い。雄神神社と国津神社の間には、「休んば」と称されている4ヶ所の叢林が残されている。神様が往来に休まれたところと称され神聖叢林である。
都祁山口神社本殿、祭神は大山祗命。神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫、都祁直が闘鶏国造として居住し、闘鶏の国の鎮守、都祁氏の氏神として祀ったのが起源といわれている。
祖先
神八井耳命。神武天皇の皇子で、綏靖天皇の兄。弟に皇位を譲り、神祇の奉斎者となった。
氏族
闘鶏氏。姓は直だが、允恭朝に忍坂大中姫皇后に不敬があったため、稲置姓に落とされた。
本拠
大和国山辺郡都祁。現在の奈良県奈良市の旧都祁村近辺。
「生井、福井(さくい)、綱長井(つながい)、波比岐、阿須波」の五柱の総称が「いかすり」で、同社では、その意について「居所知=いかしり」が転じたものだと解釈しています。
ただ一見して分かるのは「井」つまり「井戸=水」の神様たちが祭神の中核を成している。
『延喜式』(平安中頃、十世紀前半に成立、全五十巻)には、次のような文言が残されています。
凡座摩巫取都下国造氏童女七歳已上者充之、若及嫁時申辨官充替 (「延喜式」三巻、臨時祭)
朝廷は明らかに坐摩神を祀る巫は『都下国造』の娘でなければならないと規定しています。
日本書紀によれば、忍坂大中姫がまだ娘時代、母(弟日売真若比売命)と一緒に暮らしていた頃、たまたま家の近く(傍の徑)を馬に乗って通りかかった闘鶏(つげ)国造が、
皇后に語りて、嘲りて曰く『能く薗を作るや、汝人』『いで、戸母、そのアララギ一莖』
(意訳:『おじょうちゃんに、上手く畑が作れるのかね、作れやしまい』『ところで、あんた、そのアララギを一本、私におくれ』)
とぞんざいに語りかけた禮の無い態度を「心の内に」忘れず留めていた姫が「登祚」(ここでは立后の意味)の年に『昔日の罪を責めて殺そうとした』が、額を土に搶き叩頭して謝ったので「姓を稲置に貶める」ことで許してやったそうなのですが、いかにも在りそうで実は在り得ない話です。先ず、古事記・神武段は彼の息子・神八井耳命が、
意冨臣、小子部連、火君、大分君、阿蘇君(中略)、都祁直‥‥などの祖
オオクニヌシのお膝元、旧簸川郡斐川町直江(銅鐸銅剣の大量出土で有名な荒神谷遺跡の西北西約4㎞ほどの場所)に,御井神社が鎮座しています。この小社は大国主(正確には大穴牟遅命)と八上比売の息子・木俣神を祀っているのですが、社の近くに「生井」「福井」「綱長井」の三泉があって八上比売が子供に産湯を使ったとの言い伝えもあり、近隣では安産の神様として知られています。坐摩の祭神も神功皇后の「安産」にご利益があったそうなので、三つの井戸には「新たな命」を授け、多くの福と長寿を約束する神徳が備わっているのでしょう。家族一族に新しい命が芽生えれば、それは一家の繁栄に他なりません。地中からこんこんと湧き出し枯れることのない清らかな井戸の水こそ、生き物すべての生命の源であると古代の人々も考えていたのでしょう。ところで、祭祀の原点の一つに祖霊への労いの心があるのだとすると、坐摩の神々を祀った凡河内一族の都下国造にとって「波比岐神・阿須波神」の両神が先祖であったに違いありません。
国立国会図書館が収蔵している「諸系譜」の第一冊に納められている『東国諸国造・天津彦根之裔』と題された系図で、始祖・天津彦根命--天目一箇命--意冨伊我都命と続いた後、四代目の三兄弟の内の一人が「彦己曽根命(ヒコオゾネ)」で、注意書きの部分に「凡河内国造、大縣主、都下国造等の祖」とあります。この意富伊我都命の嫡系は「彦伊賀津命--阿目夷沙比止命--川枯彦命--坂戸毘古命」とつなぐ近江の三上祝家(御上神社)ですから、宮中で祀られる坐摩神の斎主が凡河内一族である可能性は高いと思われます。
凡河内直味張は安閑帝の皇后の屯倉に相応しい田を差し出すように求められたが、己の田が惜しくて良田は無いと嘘をついて逃れようとした。
後、この虚偽の申告が明るみに出て、味張は公職を解かれそうになり、多くの田と労働力を提供することになった
手足がわなないて當芸志美美を殺せなかった兄の神八井耳命は、弟(綏靖)を扶けて「忌人」となって仕えた=都祁直は、その子孫である。
坐摩社の正面に建つ三つ鳥居
三つ鳥居を持つ神社は坐摩だけではありません。実は、非天孫族の神様の社だと考えられている大和の大神神社にもあるのです(参道ではなく、拝殿奥の山中にあります)。また、三輪山の北方に鎮座している大神神社の摂社で「元伊勢」の社とも称されている檜原神社にも同じ形式の鳥居が建っています。三輪の神は言うまでも無く大物主ですから、一般的には天孫族の祖先神とは見られていません。一方、檜原の社はアマテラスを初めて祀った社に比定されているのですから当然、天孫族の象徴です。また、形式が少し異なりますが、京都太秦にある木嶋坐天照御魂神社にも三つ鳥居はあって、こちらは「神泉」を思わせる水の中に立てられています(正確には三本の柱で三角形を成している三柱鳥居)。
「応神41年
2月 - 猪名県の佐伯部は、天皇がその声に慰められていた莵餓野の鹿をとって献上したことで咎められ、安芸国渟田に移されたと、伝えられる。」
莵餓野の鹿の話が、『仁徳紀』にある。
仁徳天皇と皇后(八田皇女←磐媛の亡くなった後、皇后になった)は、毎夜、莵餓野より、鹿の声を聞いていた。ある日、鹿の声が聞こえなかった。あくる日、佐伯部が、莵餓野の鹿を献上した。仁徳天皇は、
鹿を愛していたので、佐伯部を遠い安芸の渟田(ぬた)にやった。(→広島県佐伯郡の由来)
聖帝仁徳天皇の慈愛を伝える話として、人々に語り継がれた。
・伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導きの随に中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨、膽駒の長髄を早く征ち罰めよ」とのりたまひ、且、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち【標(しるし)の剣】を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。(中略)
天日別命、此の國を懐け柔して、天皇に復命まをしき。天皇、大く歓びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて、即て、天日別命の封地の國と為し、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき。(或る本に曰はく、天日別命、詔を奉りて、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶる神を殺戮し、まつろはぬものを罰し平げて、山川を堺ひ、地邑を定め、然して後、橿原の宮に復命まをしき。)(『萬葉集註釈』)
神武天皇は大層喜ばれ、詔して
「国の名は国つ神の名を取って伊勢と名づけるがよい」と仰せられ、
やがて、天日別命にその国の統治を任せ、宅地は大和の耳梨の村に賜った。
(ある本にはこういっている。
――天日別命は、勅命を受けて熊野の村から真っ直ぐ伊勢の国に入り、
荒ぶる神を殺し、服従しない者を罰し、山川の堺をたてて、村々を定め、
そうしてから後、橿原の宮に復命した)
伊勢国 風土記逸文『伊勢の国号(一)』
伊勢の国の風土記にいう、――
伊勢というのは、伊賀の安志(あなし)の社においでになる神は、
出雲神の子 出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。
この神は、昔、石で城(防塞)を作ってここにおいでになった。
ここに阿倍志彦神が来襲してきたけれども、勝つ事ができずに還り去った。
それによって名とした。云々。
<播磨国 風土記 伊勢野>
伊勢野(現在の姫路市林田町上伊勢付近)と名付けるわけは、
この野に人家ができるようになると、そのたびに安らかに暮らすことができなくなる。
そこで衣縫猪手(きぬぬいのいて)・漢人刀良(あやひとのとら)らの祖は、ここに住むことにした時、社を山麗に立ててうやまい祭った。
山の峰においでになる神は、伊和大神のみ子の伊勢都比古命・伊勢都比売命である。
これから以後は家々は静かに安らぎ、ついに里ができるようになった。
そこで伊勢とよぶ。
大伴ノ 道臣(ミチノオミ)
大伴ノ日臣・ヒノオミ・「厳媛・イズヒメ」・大来目主・(天ノ忍人・天ノ押人)。ニニギの将・天忍日命の曾孫。天津彦日中咋命の息(刺田比古の息とも)。
東征に従う。久米部を率いる。莵田兄猾を討伐する軍功。戦後に軍功により築坂邑に入植。息に味日命、孫に稚日命。(大伴氏の祖。高倉下も大伴の祖といわれていますので、一門だったのでしょう。高倉下との事績混同が激しい)
大日ノ 腹富(オオヒ フクトミ)
大伴ノ大日腹富。阿遅志貴高日子の曾孫。観松彦伊呂止(もしくは天ノ波与)の息。「16世神」。息に建美奈命。孫に甕男立命。<代々「事代主」と敬称される家柄か。><大国主の子孫に天之日腹大科度美神あり。日臣・ヒトミとも呼ばれる大伴ノ日臣(道臣)との関連が気になります。
・御巫氏曰、伊雑又稱磯部、伊勢國造ノ祖天日別命ノ裔磯部氏、初居度會郡伊蘇ノ郷
英虞郡 餘戸
・荒坂津考云、神武紀、誅丹敷戸畔於荒坂津、先是皇師不利、至是海中遇颶、皇兄稲飯ノ命、三毛入野命、入海而薨、荒坂津ハ今ノ二木島港、荒坂ハ即チ曾根嶺是也、港口、北曰英虞ノ岬、有リ阿古師ノ祠、祀三毛入野命、南曰牟婁ノ岬、有リ室古祠、祀稲飯命、港北有リ峻嶺、曰天倉山、山巓稍平、古有リ高倉下命ノ祠
■『二所太神宮例文』
第四 豊受太神宮 度會遠祖奉仕次第
天牟羅雲命 天御中主尊十二世孫。天御雲命子。
天日別命 天牟羅雲命子。神武天皇御世奉仕。
玉柱屋姫命。(伊雑宮)
建前羽命
大若子命(大神主) 彦久良為命子。垂仁天皇御代奉仕。
乙若子命 大若子命弟也。
爾佐布命 乙若子命一男。神功皇后。應神二代奉仕。
子爾佐布命 乙若子命二男。仁徳天皇御世奉仕。
彦和志理命 爾佐布命子。履仲天皇御世奉仕。
小和志理命 爾佐布命二男。反正天皇御世奉仕。
事代命 爾佐布命子。允恭天皇御代奉仕。
阿波良波命 彦和志理命一男。安康天皇御代奉仕。
大佐佐命(二宮兼行大神主) 彦和志理命二男。雄略天皇御代奉仕。
御倉命 彦和志理命三男。清寧天皇御代奉仕。
佐部支命 阿波良波命一男。顕宗天皇御代奉仕。
乃々古命 阿波良波三男。仁賢天皇御代奉仕。
乙乃古命(件命生子有四柱即別四門) 阿波良波命四男。武烈天皇御代奉仕。
神主飛鳥 乙乃古命二男。継體天皇御代奉仕。
大若子命。(一名大幡主命)
右命。天牟羅雲命 子天波與命 子天日別命第二子彦國見賀岐建與束命第一子彦楯津命第一子彦久良為命第一子也。
越國荒振凶賊 阿彦在(天)不従皇化。取平(仁)罷(止)詔(天)。標剣 賜遣(支)。即幡主罷行取平(天)返事白時。天皇歓給(天)。大幡主名加給(支)。
垂仁天皇即位二十五年(丙辰)。皇太神宮鎮座伊勢國五十鈴河上宮之時。御供仕奉為大神主也。
第12代景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘・宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手元へ留め置いた。日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に置かれているとされ、伊勢神宮に次いで権威ある神社として栄えることとなった。
『東關紀行』に「尾張の國熱田の宮に到りぬ」とある。また同書には、
或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。
— 國民圖書株式會社、東關紀行(校註日本文學大系 3)
この神社に興味深い伝承が残っている。
「日本武尊が東征に向かうとき、この地で休憩され、その土地の人々が旅情をお慰めするために、漬け物をさし上げた。尊はたいそう喜ばれ、『藪に神物』とおっしゃった。これが縁になり萱津神社では、毎年の熱田神宮の祭典の度に漬け物を献上しており、この行事が千年以上の長きに渡り今なお続いている。」
岐阜県山県郡美山町柿野にある柿野神社の社記には、
「日本武尊が牛に乗って大碓命の後を尋ね、乱賊を征伐しながら当地に
やって来たので、のちにその心霊を奉斎したものである。」
と書かれている。『記紀』にあるようなヲウスの残酷さは、この社記からはうかがえない。
オオウスは晩年、愛知県豊田市の「猿投山」で亡くなっている。その場所に猿投神社があるが、社記には、
「景行天皇の五十二年、猿投山中にて毒蛇のために薨ず。御年四十二歳、即ち山上劔葬し奉る。」
とあり、現在猿投山の西峰に墓所がある。蛇足ながらオオウスは左利きだったそうだ。
ここの元宮が同地火上山山頂にあるが、ここが当時の尾張の本拠地だったらしい。
ここでタケイナダネが参軍し、一行は現在の名古屋市緑区鳴海町の「成海神社」から出航しているらしく、成海神社では、ヤマトタケルの出航故事を伝える「御舟流しの祭り」が伝承されている。
最初の上陸地は、静岡県清水市であるらしく、ヤマトタケル軍の武器庫
伝承がある、矢倉神社(清水市矢倉町)が遺跡であるらしい。
野火に囲まれたヤマトタケルは、「草薙剣」で周囲の草をなぎ払い、向
かい火をつけて難を逃れたのであるが、この説話は、焼津神社と草薙神社に伝承されている。
ところが、両神社の位置関係は静岡市をはさんで、東が清水市、西が焼津市であり、あまりに距離が離れているのである。
つまりどちらかが、後から付け加えられた伝承であると言うことだ。
そして、この『野火の難』のときに、もともと「天叢雲剣」と名づけられていた剣が「草薙剣」と呼ばれるようになったらしい。
何とか難を逃れたヤマトタケルは、相模から上総に向かっているのだが、ここでヤマトタケルに従ってきた「弟橘姫」を亡くしている。この説話も『走水の入水』などとして有名である。嵐の中、漂流する軍勢を助けるため、「弟橘姫」は自ら犠牲となって入水したと言う。
現在の上総である木更津市の発音は、ヤマトタケルが「弟橘姫」の死を悼んで、この地方を去ろうとしなかったので「君去らず」と呼ばれ、それが訛ったものらしい。
この後の東征経路は『記紀』の間で相違があるものの、陸奥まで侵攻し、「信濃」・「美濃」を経て「尾張」に帰ってきている。
尾張では、「尾張氏」の娘である「宮簀媛」(みやすひめ)と婚姻し、しばらく滞在したようであるが、荒ぶる神を征伐するため、「草薙剣」を「宮簀媛」のもとに置いたまま、「近江」の伊吹山へ向かう。
ここでヤマトタケルは返り討ちにあってしまうのだが、半死半生で「尾張」にもどったヤマトタケルは、なぜか「宮簀媛」のもとに帰ることをせず、「伊勢」に向かう途中の能褒野で力つき、亡くなってしまうのである。
『熱田太神宮縁起』では、ヤマトタケルに参軍した武将である
『先代旧事本紀』では丹波国国造とある。
タケイナダネの名は、尾張氏の系図である『海部氏本紀』にみることができる。
父は尾張国造乎止与命(オトヨ)、母は眞敷刀婢命(マシキトベ、尾張大印岐の女)で、宮簀媛は妹。妃玉姫(丹羽氏の祖大荒田命(オオアラタノミコト)の女)との間に二男四女。息子尻綱根命(シリツナネノミコト)は、応神天皇の大臣。その下の娘志理都紀斗売は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、品陀真若王の母。更にその下の娘金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)は品陀真若王の妃で、応神天皇の皇后仲姫命及び2人の妃の母。
妃:玉姫(大荒田命の女)
尻綱根命
志理都紀斗売(五百城入彦皇子の妃) 子は品陀真若王
金田屋野姫命(品陀真若王の妃)子は以下3人
1.高城入姫命(応神天皇の妃)
2.仲姫命(応神天皇の皇后、仁徳天皇の母)
3.弟姫命(応神天皇の妃)
景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られている。
『ホツマツタヱ』によると、宮簀媛は結婚した日本武尊との間に武田王(たけだのきみ)と佐伯命(さえきのみこと、佐伯王)の2人を産んだとされている。
氷上姉子神社
宮簀媛命
『日本書紀』では「宮簀媛」の表記で尾張氏の女、『古事記』では「美夜受比売」の表記で尾張国造の祖、『尾張国風土記』逸文では「宮酢媛命」の表記で尾張連らの遠祖とし、いずれの文献でも日本武尊(第12代景行天皇皇子)の妃になったとする
以上3書では系譜を詳らかとしないが、『尾張国熱田太神宮縁記』では建稲種公の妹とし、これら兄妹の父を天火明命十一世孫で尾張国造の乎止与命(おとよのみこと)、母を尾張大印岐の女の真敷刀婢(ましきのとべ)とする。
社名の「氷上姉子」に関しては、『尾張国熱田太神宮縁記』(熱田宮縁記)においてヤマトタケルがミヤズヒメを想って詠んだとする次の歌が知られる。
阿由知何多 比加彌阿禰古波 和例許牟止 止許佐留良牟也 阿波禮阿禰古乎
(愛知潟 氷上姉子は 吾来むと 床避るらむや あはれ姉子を)[3]
— 『尾張国熱田太神宮縁記』
このように『熱田宮縁記』の時点(鎌倉時代初期頃)では「氷上姉子」はミヤズヒメと同一人物とされており、現在においても氷上姉子神社では祭神をミヤズヒメとし、当地の氷上山がミヤズヒメの館跡であるとしている。しかし『新修名古屋市史』では、この歌は本来8世紀頃に尾張南部に伝わっていた民謡であるとし、ヤマトタケル伝説とは無関係であったと指摘している。この「氷上姉子」の原義は必ずしも詳らかでないが、『新修名古屋市史』では氷上の女性神官を指した語としたうえで、これが神格化されて祭神に転化し、さらに尾張氏の手のもとでミヤズヒメと習合してヤマトタケル伝説に組み込まれたと推測している。
氷上姉子神社の祭神の別説としては、日本武尊の姉の両道入媛命に比定する説がある
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『日本書紀』によれば、日本武尊は東征の帰途、尾張へ入り尾張氏の娘宮簀媛を娶って滞在した。やがて近江国の伊吹山に荒ぶる神がいると聞いて、草薙剣を媛の家に残し素手で退治に出かけた。しかし、山道で神が大蛇に化して出現したのを無視したところ、神は氷を降らせて尊を迷わした。このため尊は失神し、山下の泉でようやく正気を取り戻したが、病の身となっていた。そして尊は尾張へ戻るが、媛の家には寄らず、そのまま伊勢に向かったという。『古事記』にも同様の話を記載するが、美夜受比売を尾張国造の祖とし、倭建命は比売の月の障りをおして交わったという。またその結婚は東国へ向かう途中に尾張を通った時に約束がしてあったとする。『尾張国風土記』逸文の熱田社由来および『熱田大神宮縁起』には、日本武尊が尾張連らの遠祖である宮酢媛命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、宮酢媛命にその剣を奉斎することを命じ、そこで建てたのが熱田神宮であるとされる。