吉備武彦、庵原君臣、静岡の庵原国造

December 2018 編集されました カテゴリ: 吉備
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庵原氏は廬原国造の家系である。日本書紀の伝えるところによると景行天皇の時代、日本武尊東征の際の副将、吉備建彦が…

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  •  『駿河竜爪山由来』という古写本のなかに『竜爪山由来のこと』という話がある。

    この古写本は作者不明であるが、江戸時代の半ば過ぎ宝永を少し下った頃、一人の僧によって綴られた。古来の言い伝えを潤色して纏めたものである。同由来のことには、
     「そもそもこの竜爪山の由来を詳しく尋ね奉るに、人皇第7代孝霊天皇の御宇5年、天地振動し富士山現れ、近江の国に湖水湧き出づるとかや、この竜爪山も同年同日に現はれ云々」と書かれている。これは富士山と琵琶湖が一夜のうちに出来たという、世に流布されている昔話に、竜爪山を加えたものである。歴史的には竜爪山は太初から聳えていたことであり、それは当然のことであるが、霊山故にこのような話も付加して、形をつくったものであろう。
     ついでながらこの物語はそのあとに、「この旨(湖水が湧き出たこと)帝都へ注進しければ、その頃いまだ国号もなかりけるに
    おうみ
    や、近江の国に湖水湧きける故、帝都に近き江なりとて、その国を『近江の国』と名付けしなり。また東国より湖水湧き出づる
    とおとうみ
    と奏しければ、これは都に遠き江なりとて『遠  江の国』と名づけ給ひけるとかや」と、これまた世に流布された、『近江』と『遠江』の国名の由来が述べられている
  • 駿河 竜爪山 穂積神社

    慶応4年9月に、竜爪神官から藩の役所へ提出された文書がある。小島藩はすでに房総の桜井に転封されて、竜爪山は、徳川宗家の藩領になっていた。文書は、地頭替わりに堤出されて、身分の安堵を願い出たものである。前文を省略して、後尾のみを載せてみよう。
    「前略
    1、 今般御領主様御替りに付き、恐れ乍ら願上げ奉り候儀は、前書是迄の通り、私共神職相続罷り有り候様、当御掛り御役所様へ願上げ奉り候処、何卒御慈愛を以て、右願の通り、御聞済し下し置かれ候はば、一同神職相続仕り、有り難き仕合わせに存じ奉り候。」
    慶応4年9月駿河国庵原郡吉原村之住
     竜爪山神主 滝 伊勢
    駿河国庵原郡布沢村住
     竜爪山祠官 滝 能登
    駿河国庵原郡平山村住
     竜爪山祠官 滝 大和
    駿河国庵原郡清地村住
     竜爪山祠官 望月 伊予
    駿河国庵原郡中河内村住
     竜爪山祠官 望月 隼人
    駿河国庵原郡布沢村住
     竜爪山祠官 望月 信濃

     となっている。
     この6人の神官達は、今まで通りの「神職の相続」を、お上に嘆願したのであった。しかし幕府存続の間は身分は保証されたが、間も無く新政府となり、身分適合せずということで、免職となった。そして新神官として高田宣和が任命される。このことは先に見たところである。
  • 竜爪山
     『駿河国新風土記』にいわく。「奥の院といふは大 名 持命(大 己 貴命)を祭りしといふ。其所より四五町下の方に本社あり。此神、元禄年中のころより異霊ありしとて、此郡の人はさらにもいわず、国中の人詣るもの多し。3月17日に神事あり。云々」
  • 彦狭嶋王にも同じ名前の彦狭島命が孝霊天皇の子にあり、越智氏の伝承では伊豫皇子ともいわれ、吉備氏の祖で、海童女の和気姫との間に三人の子があり、その末子が小千の御子と称し越智氏の祖とされる。嫡子と第二子であるが、三人の子は三艘の小舟で海に放たれ、『予章記』と『越智系図』では、逆の関係になっているが、一方は駿河國清見崎に流れ着き諸山積大明神となり、他方は三宅氏の祖となったという。

    駿河國清見崎は庵原あたりとされ、諸山積大明神は三嶋大社のことのようである。「国造本紀」では、廬原国造の祖は吉備武彦命となっているが、これは、彦狭島命と同じ母から生まれた稚武彦命の孫とされている。宇佐氏の伝承では神武と菟狹津媛の間にできた宇佐稚屋が越智宿禰の女を奪って産ませた子が宇佐押人、後の応神天皇で、宇佐氏と越智氏は敵対関係にあった。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』では、越智氏などは大山祇神を氏神とするが、三島神社の元の神紋は亀甲に三文字で美保神社と同じであり、大山祇族は出雲神族や物部氏に合併・吸収されたとする。
  •  日高見国をめぐって蝦夷を平らげ、常陸を過ぎ甲斐国酒折宮で夜を迎えたとき、日本武尊は侍者に「にいばり、つくばをすぎて、いくよかねつる」と訊ねられた。侍者たちが答えられないでいると、

     時に秉燭人(ひともしびと)有り。王歌(みうた)の末に続けて、歌して曰さく、
    「日日並(かがな)べて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日(ひ)には十日(とをか)を」
    即ち秉燭人の聡(さとき)を美(ほ)めたまひて、敦(あつ)く賞みたまふ。則ち是の宮に居しまして、靫部(ゆきべ)を以て大伴連の遠祖武日に賜ふ。
    とあって、秉燭人の当意即妙の返歌に感心され、大伴連遠祖武日に靭部を賜わったことが語られている。
     つまり、この秉燭人とは大伴武日命であったのだ。古事記ではもともと大伴武日命が日本武尊に随行していないので、秉燭人は「御火焼(みひたき)の老人(おきな)」となっている。この老人が返歌をして賞せられ、「東国造」(あづまのくにのみやつこ)に任じられることになった。甲斐酒折宮の出来事として、古事記と日本書紀ではまったく異なる伝承が記されている。
     大伴神社社伝に言う「景行天皇四〇年鎮座」とは、大伴武日命が日本武尊に靭部を与えられた誇らしい事跡を暗に語っているのである。
  • 矢集郷は、『和名抄』ではほかに駿河国駿河郡にもあるが、同郡は駿河(珠流河)国造の本拠である。駿河国造の祖・片堅石は、「天孫本紀物部系譜」の系譜では十市根命の子におかれるが、大新河命の子で小市(越智)国造の祖とされる大小市宿祢と同人であって、実は大売布命の子に位置づけられる。駿河にも矢田部があり、益頭郡八田郷に関係する(『姓氏家系大辞典』)。
     大小市宿祢の兄弟の大小木宿祢は、遠江国造の祖・印岐美(志貴県主の祖でもあり、「天孫本紀」では片堅石の兄弟とされる) にあたり、隣国の久努国造の祖・印播足尼は世代的・地域的にその子にあたるとみられる。この辺の「天孫本紀」の系譜記事には大きな混乱があるが、久努直・ 佐夜直や志紀県主の祖先という観点などから、同人異名が分かってくる。古代には同人異名の例が多くあることに注意して、人名検討が必要であることをここで も実感する。
  • 越智国造は駿河国造と近親関係にあります。「国造本紀」に見るように、駿河国造の祖は須堅石命で大新川命の子とされており、越智国造の祖・大小市命も大新川命の子ですから兄弟となりますが、私は実際には同一人で、越智国造は大小市命の子の子致命(実名は若伊香加)に始まると考えています。
  • 式内 久佐奈岐神社

    鎮座地 清水市山切字宮平一〇一番地
    御祭神 日本武尊
    合祀 弟橘媛命 吉備武彦命
    大伴武日連命 膳夫七掬胸脛命
    由緒
    庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原 古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。
    当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦一一〇年、約一八八四年前)に詔勅により 皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。
    創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が 後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し 日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した 姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
    文献上の記録では風土記に第十三代雅足彦(成務天皇)の元年(西暦一三三年、約一八六一年前)に官幣を奉ると あり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦八五九年、一一三五年前)久佐奈岐神社従二位を 授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則) 神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、 式内社であります。
    昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東久佐奈岐大明神等と称えら れたこともありましたが、明治六年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
    御神体
    本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜った貴重なもので 開披してはならないとの言伝があります。
    境内社
    稲荷社 宇迦之御魂命
    白髭社 武内宿弥
    天満宮 菅原道真
    雨之宮 天之水分神 国之水分神
    津島社 須佐之男命 稲田比女命
    金刀比羅社 金山彦命 大国主命
    今宮社 素嗚命 稲田比女命
    九万八千霊社 東征軍の御供の諸神
    事比羅社 金山彦命 大物主命 少彦名命
    雨之宮社 志那都比古命 志那都比賣命
  • May 2016 編集されました
    穂見(ほずみ)神社
    平成20年都市計画道路の建設に伴い、隣接地に移築された。
    毎年11月末の土・日曜日に沼津市東熊堂の高尾山穂見神社・熊野神社で行われる「高尾山祭典」は
    160年以上の歴史を持ち、また年末の風物詩としても親しまれている。
    商売繁盛の神様として、境内と神社周辺に熊手を販売する出店をはじめ数多くの出店が並び、
    夜通し行われるこのお祭りには市内を始め近隣市町の人々が訪れる。


    道路建設予定地にある古墳の存続をめぐって静岡県沼津市が揺れている。

    「沼津市金岡地区は3種の古墳を見る事が出来るんですよ。長塚の前方後円墳、足高の上円下方墳、そして高尾山の前方後方墳。道路建設も良いが、遺跡も大事です」

    2008年に市内で発掘された「高尾山遺跡」は、3世紀前半に築造された大型前方後方墳だ。出土した埋葬品などから、ヤマト政権と主従関係にある「古代スルガの王の墓」ではないかと見られる。
    日本考古学協会や保存を願う住民は保存を求めているが、市は都市計画通り道路建設を進める方針だ。市議会は取り壊し費用を含む補正予算案を2015年6月30日に可決している。
    今のところ古墳は完全破壊を免れている。しかし、予算が執行されれば全面発掘調査を名目に墳丘全体が削り取られ、その跡に道路が整備される。
    古墳の規模は墳丘長62.18メートル、高さ約5メートル。築造年代は邪馬台国の卑弥呼と同じ古墳時代最初期で、当時の東日本では最大級だ。
    日本考古学協会は「日本列島における古墳文化形成を解明する上できわめて重要。駿河の古墳時代最初頭の重要遺跡で、歴史・文化的重要性を知る起点」と主張している。


    丸子神社は沼津市内では由緒ある古い神社であります。当神社は第六十代醍醐天皇の延喜式神名帳に所載する『式内神社』であり第十代崇神天皇の御代に創建されたといわれております。
  • May 2016 編集されました
    高尾山古墳の被葬者は、駿遠二国における氏姓国造(珠流河、遠淡海・久努の駿遠三国造と、それに加えて常陸の久自国造)の大始祖的位置づけをもつ人物と推され、静岡県で被葬者が推定されそうな最古の者の墳墓とみられます。現代の静岡県民は、こうした地域の大始祖的存在が葬られた貴重な墳墓を破壊する愚を犯すようなことは許してならないと思われます。

    長い間、同古墳の墳丘上にあった熊野神社や高尾山穂見神社は、同古墳を保護してきたが、その被葬者を示唆するものであるばかりか、熊野神社は駿河・甲斐・信濃にもあり、穂見神社も駿河・甲斐・信濃に同名社が合計十余社も分布していて(これらの祭祀を行った後裔氏族も同様に三国に分布する)、これら地域の関係社の本源的な位置づけの一つを有するものでもあって、古代氏族や祭祀の探究の意味でも、同古墳及び墳丘上の神社の原型保存は強く望まれるものであります。

    ○ 第13代 成務天皇の時代
    遠淡海 (トオツアウミ) 国造(静岡県浜松市周辺)
    物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の子の印岐美(イキミ)命

    珠流河(スルガ)国造(静岡県富士川下流、富士市・沼津市・裾野市)
    物部連の先祖の大新川(オオニイカワ)命の子の片堅石(カカシ)命
  • 高尾山古墳

    築造時期等について異論もあるものの、古墳時代最初頭(三世紀)頃とする見方が上記の発掘調査で打ち出され(この検討は後述)、その概要については、①墳丘全長62.2Mという、この時期としては日本列島屈指の規模をもち、②初期古墳の多くが丘陵上に築かれるのとは異なって平地に構築されたために墳丘盛土がよく保存され、③埋葬施設の朱塗り木棺から後漢末の青銅鏡や鉄槍・鉄鏃・鉄ヤリガンナ・石製勾玉など豊富な副葬品が出土した、④墳丘や周溝から北陸や近江系の土器が出土して他地域との交流が確認できる、という諸点から、畿内の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長墳と考えられる、と日本考古学協会では整理する。

    高尾山古墳がいつ築造されたかの問題が先ず出てくる。先に見た評価は、同墳及び周溝から出た土器や副葬品から判断されたものと思われる。青銅鏡や鉄槍・鉄鏃・鉄ヤリガンナ・石製勾玉という副葬品は、古墳時代の初期ないし前期頃としてよいと思われる。後漢末とみられる青銅鏡破砕片の副葬は、三角縁神獣鏡がおおいに入れられた時期(私は景行・成務朝の四世紀中葉頃とみているが)より前の時期としてよいが、これが更に三世紀代まで遡るかどうかはむしろ疑問がある。
     おそらく、関係者が三世紀代とした主な理由が、周溝等から出土の土器が庄内式ないし布留式の併行期としてみられ、庄内式土器が三世紀初頭頃からという見方に基づいているであろう。これが、現在の考古学界主流派の見方かもしれないが、やはり遡上しすぎの感もあり、従来からの見方である庄内式土器は三世紀後葉頃からということでよさそうである。しかも、東海・東国系の土器について、畿内の庄内式・布留式との対応関係も、東海・東国系のほうを若干遡上させすぎという感もある(赤塚次郎氏の土器編年では、廻間Ⅰ式の開始が庄内式の開始とパラレル、廻間Ⅱ式末葉~Ⅲ式前葉が布留式の開始とパラレルとされるというが、この対応関係には相対的に東海系のほうにやや年代遡上があるのではないかとみられる。現に、東海地方の土器編年関係でも研究者はマチマチで、赤塚編年は古く見積もりすぎとの見方もあるという)。
     具体的には、周溝からは、古墳時代前期初頭(年代遡上論は、土器にも及んでおり、この立場では西暦二三〇年頃との見方がある)の東海地方西部の濃尾平野の土器型式(廻間Ⅱ式。ないしⅢ式ともいう)をもつ高杯・器台が出土し、主体部(埋葬部)の棺上からは古墳時代前期(同、西暦二五〇年頃)のものとみられる土器が出たとされる。この結果、古墳時代の初頭(同、二三〇~二五〇年頃)に造られた前方後方墳だと沼津市教育委などから評価されている。
     棺のなかから出た鉄鏃の一部には、矢が抜けないよう「逆刺(かえ)り」の細工をもつ当時の最新式の鉄鏃が含まれていて、奈良県のホケノ山古墳や長野県松本市の弘法山古墳で出土した鉄鏃よりも後の時代のものだと判明した事情もある。ホケノ山古墳の年代評価については、布留0式ないし1式とされており、一方で三世紀代とみる見方があるとともに、他方、四世紀前葉頃という見方もある。橿考研編集の最新報告書『ホケノ山古墳の研究』(二〇〇八年)では、「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C年代測定」(奥山誠義氏執筆)でその中心年代は四世紀前半と改定されている事情もある。
     だから、土器や古墳の考古年代観にもよるが、高尾山古墳が二五〇年頃の築造という考古年代評価は、あくまでも年代遡上傾向にある立場からの見方だということに十分留意される。
  • 高尾山古墳の「前方後方墳」という古墳形態は、出雲などの特定の地域を除いては、古墳時代前期という短期間だけに集中して築かれた傾向がある。総じて、前方後円墳に対して小規模なものが多い。分布は出雲及び吉備・毛野に多いが(出雲は全期にわたり、後二者では前期前半に限定)、これら地域を例外的なものとして、畿内や東国では、前方後方墳は四世紀中葉の特定の一時期(垂仁・景行・成務朝頃で約四十年間とみるのが私見)に限って、おおいに現れる。この型式の古墳に副葬される鏡には、重圏文鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡、キ鳳鏡などのほか、三角縁神獣鏡があるとされ、三角縁神獣鏡が副葬鏡の主体とされないから、同鏡の盛行期よりも若干早い(垂仁・景行朝頃が主か)、とみられる。巨大な前方後方墳が畿内大和に集中すること(全長百M超の規模で見ると、大和に五基を数えるほか、両毛に計三基、越中・美濃に各一基とされる)にも留意される。
     前方後方墳の起源については、近江とか東海ないし東国とかみる説もあるが(東海地方起源説は赤塚次郎氏ら。白石太一郎氏は狗奴国の系譜とみる)、これは疑問が大きい。規模の大きい前方後方墳は上記のように大和に集中してあり、他の地域に比べ大和でとくに築造時期が遅いとはみられないから、大和を中心とする前方後円墳体系のなかでの古墳型式としてよいと考えられる。都出比呂志氏は墳形と規模から前方後方墳は前方後円墳体制という政治秩序の中では少数派的なあり方だと考える。
     わが国最大規模の前方後方墳は、特異形態の西山古墳(後述)を除くと、奈良盆地東部の大和古墳群の波多子塚古墳であり、全長が約一四五M、周濠から都月型(特殊器台型)という古型式の円筒埴輪片が出ている。
  • 静岡県で言うと、富士市の浅間古墳を最大規模として、ほかに駿河では静岡市清水区(旧清水市)庵原町の牛王堂山三号墳(墳長七八M)、遠江では磐田市の小銚子塚古墳(墳長四六M)、浜松市井伊谷の北岡大塚古墳(墳長四六M)、袋井市の蔵王権現神社古墳(墳長四九M)などがあげられる。
     このうち、牛王堂山三号墳は廬原国造の領域にあり、墳長七八Mで三角縁神獣鏡を出土して、それが三重県桑名の出土と伝える鏡と同笵(同型)とされるから、倭建命東征に関与した廬原国造初祖の墳墓の可能性がある(被葬者や粘土槨・木棺等の点で、富山県氷見市で最近発見の柳田布尾山古墳との関連性もありそうである)。「国造本紀」には、この国造は成務朝に「吉備武彦命の児、意加部彦命」が定められたと記される。
     浅間古墳のほうは、増川古墳群1号墳ともいい、愛鷹山西南麓の高台にあって駿河湾を一望できる位置にあり、内部発掘調査がなされないため詳細は不明だが、周濠の痕跡があり、葺石・円筒埴輪の存在が認められる。その墳長が九八Mほどで(かつては一〇三Mという数値がとられた)、後方部頂上に浅間神社が祭られる(浅間神社は沼津市域にも多く、七社ほどある)。前方部は比較的未発達で、前期形式の墳丘とされ、これまでは四世紀の後半ないし末頃に築かれたとみられてきたが、これに続くのが近隣の東坂古墳で、これとの関係から考えると、時期はもう少し早めでも良い。なお、浅間古墳から北西一キロほどの地に琴平古墳(直径三一Mの円墳)があり、ここでも墳丘上に琴平社が鎮座する(大古墳の近傍の円墳は、所伝等から見て、主墳の妻あたりの女性が被葬者、と拙考ではみている事情もある)。
     東坂古墳のほうは墳長六〇Mほどの前方後円墳で、倭製内行花文鏡鏡・四獣鏡や玉類・琴柱形石製品・石釧、鉄剣・鉄刀などを出土した。この組合せは下池山古墳にかなり似ているが、これら副葬品からは四世紀後葉頃ではないかとみられる。この古墳に遅れる五世紀代とされる沼津市の神明塚古墳(墳長五四M)でも、墳丘上に神明社がある。
     原秀三郎氏は、「浅間古墳は珠流河国造初代の物部片堅石連公の墳墓とみるべきと考える」として、『旧事本紀』の「天孫本紀」に駿河国造の祖と見える物部片堅石連公(十市根大連の子と記載)、「国造本紀」に成務朝に設置の珠流河国造に定められたと見える片堅石命(同、大新川命の児)を、この古墳の被葬者に想定する(『地域と王権の古代史学』)。この見方は妥当であろう。

  • 駿河國服部連(はとりむらじ)

    古代初期の記録が無く中世の頃の記録として静岡市では阿部川を北西に15キロ程遡ると羽鳥の地名あり。これが古代の羽鳥郷と思われる。現静岡市葵区羽鳥、羽鳥大門町、羽鳥本町が古代服部郷と決定できる。
    残されている記録は阿部郡に服織村(はとりむら)服織庄は服部郷を継承する東羽鳥庄、西羽鳥庄は中世に服織庄となる。等が記録として残されています。

    浜松市豊町、豊西町、恒武町、常光町の広域に古代の機織りの羽鳥郷があった記録はあるが詳細な情報はありません。
    現在地は天竜川を北に20キロ程遡ると左岸に豊、豊西、の地名があります。

    静岡県に二箇所の古代羽鳥郷
  • August 2016 編集されました
    備前車塚古墳からでてきた三角縁神獣鏡のうち、四枚は、京都府の椿井大塚山古墳から出土した鏡と、同笵(型)関係にある。そして、椿井大塚山古墳が、崇神天皇のときに反乱をおこした武埴安彦と無関係でないであろうことは、まえに論じた。『古事記』『日本書紀』その他の文献の伝えるところによれば、吉備の武彦も、武埴安彦も、ともに、第七代孝霊天皇の孫にあたり、ほぼ同時代の人である。
    備前車塚古墳は岡山県の湯迫(ゆば)にある。これは吉備津彦神社などに近い。
    出典
    http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku331.htm
    備前車塚古墳は、吉備の武彦の墳墓であろう
    (1)『日本書紀』の記載によれば、吉備の武彦は、備前車塚のある地が属した吉備の上つ道の臣の祖である。
    (2)いま、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の、中部および関東での出土状況を、日本武の尊の東征経路にしたがう形で見てみよう


    まず、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡が、静岡県小笠郡小笠町の上平川(かみひらかわ)大塚古墳から出土している。日本武の尊は、『日本書紀』によれば、吉備の武彦とともに、駿河の国に至っている。駿河の国は、静岡県の中部である。駿河の国にいたるためには、当然遠江の国(静岡県の西部)を通ったはずである。地図 にみられるように、上平川大塚古墳の、すぐそばの地を通ったはずである。上平川大塚古墳のある小笠町は、むかしは、遠江の国の城飼(きこう)郡に属していた。
    また、『新撰姓氏録』の「廬原(いほりはら)の公」の条に、つぎのような記事がある。
    「吉備の建彦の命は、景行天皇の御世に、東方につかわされて、毛人(えみし)また荒ぶる神たちを平定し、阿倍の廬原の国にいたり、復命をしたとき、廬原の国を与えられた。」
    そして、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の弟の成務天皇の時代に、吉備の武彦の子の思加部彦(しかへひこ)の命を、廬原の国造に任じたという。
    廬原の国は、駿河の国の廬原郡の地である。
    このように、吉備の武彦の子孫が、東国と中国地方の吉備との両方で栄えたことは、文献的にもたどることができ、同笵鏡の双方での出土というように、考古学的にも裏づけることができる。

    (3)備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡はまた、神奈川県平塚市大野町真土(しんど)の大塚山古墳からも出土している。『古事記』によれば、日本武の尊は、相模(さがみ)の国(現在の神奈川県の大部分)で、その地の国造(くにのみやつこ)を攻め滅ぼしたという。また、『古事記』『日本書紀』によれば、相模の国から東京湾口の浦賀水道をわたって、上総(かみつふさ)(千葉県の房総半島)に船でわたろうとしたという。
    駿河(するが)(静岡県)から、浦賀水道へ出ようとするばあい、大塚山古墳のある平塚市のあたりは、とうぜん経路となる。
    さらに、日本武の尊が、浦賀水道をわたろうとしたとき、暴風にあい、海神の心をしずめるために、日本武の尊の妻の弟橘媛(おとたちばばひめ)が入水したという。『古事記』によれば、七日ののち、弟橘媛の櫛が海辺に流れよったので、その櫛をおさめて、陵(はか)をつくったという。

    (4)備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡は、山梨県東八代郡中道(なかみち)町の甲斐銚子塚古墳からも出土している。日本武の尊は、甲斐では、酒折(さかおり)の宮にいたという。酒折の宮は、甲府市の洒折の地といわれ、甲斐銚子塚古墳の地にかなり近い。

    (5)備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡は、また、群馬県富岡市の北山茶臼山古墳や、同じく富岡市の三本木古墳からも出土している。
    『日本書紀』によれば、日本武の尊は、碓日(うすひ)の坂にのぼっている。
    吉備の武彦は、碓日の坂で日本武の尊とわかれて越(こし)の国におもむき、美濃の国で、日本武の尊と再会し、そのあと、日本武の尊の病気を、景行天皇に奏上したという。碓日の坂は、現在の群馬県碓氷郡や安中市の地で、富岡市のすぐとなりの地である。

    (6)以上のように、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡と同笵の鏡が出土する中部・関東の五つの古墳は、いずれも、日本武の尊にしたがった吉備の武彦が歩いたとみられる経路の近くに存在している。
    そして、それらの古墳の地を領していたとみられる国造などはいずれも、日本武の尊のほぼすぐあとの時代に、任命されたことになっている。
    備前車塚古墳の被葬者を、吉備の武彦とすれば系譜上の年代からいって、ほぼ同時期の被葬者をもつとみられる備前車塚古墳と椿井大塚山古墳とから、三角縁神獣鏡の同型鏡が出土することになる。
  • 廬原国造(いおはらのくにみやつこ・いおはらこくぞう)は駿河国西部を支配した国造。五百原国造とも。

    祖先
    『新撰姓氏録』によると孝霊天皇の皇子稚武彦命で笠氏と同系。
    『古事記』では孝霊天皇の皇子日子刺肩別命の子で利波氏・国前氏などと同系。
    氏族
    廬原氏。姓は君(公)。後に朝臣を賜った者もいた。
    本拠
    廬原国(後の駿河国)廬原郡。現在の静岡市清水区を中心として、富士川と大井川に挟まれた範囲。
    氏神
    不明。
    子孫
    廬原臣 …… 天智朝の武人。白村江の戦いで阿倍比羅夫らとともに水軍を指揮したが敗れた。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/廬原国造


    庵原国造を祖とする庵原氏(吉備氏族)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/庵原氏
    庵原氏は廬原国造の家系である。
    日本書紀の伝えるところによると景行天皇の時代、日本武尊東征の際の副将、吉備建彦が蝦夷征伐の功によりこの地(駿河国)に封ぜられる。
    廬原国造の祖、意加部彦は吉備建彦の子、建彦は日本武尊の外舅なり、とある。以後永くこの地を治め、倭国の将としても度々歴史上に登場する。
  • May 2017 編集されました
    白村江(はくそんこう)の戦いに「万余」の精鋭部隊を引き連れ、従軍した将に
    庵原(いおはら)君臣(きみのおみ)(別名:臣足(おみたり)がいる。(「日本書紀」)


    庵原君臣の子と孫は、この一族の系譜である「庵原公系図」によれば、子の大蓋(おおがき)が大山上(のちの正六位上 相当)の位階をもち、「国造(くにのみやっこ)に任ぜられ、孫の首麻呂(おびとまろ)は、庵原郡大領(だいりょう)となり、神護景雲3年(769年)に駿河国の祭祀(さいし)をつかさどる律令制下の新国造となっている。

     国造制は遅くとも6世紀には成立しており、「隋書」倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭ごろには約120の「国」(=国造)が存在し、「国」の下に10の稲置(いなぎ)が属していた。
     また、平安時代初期に編纂された「旧事本紀(くじほんぎ)」には、各地の「国造」の履歴が書かれた「国造本紀(こくぞうほんぎ)」という部分があり、静岡県内の国造として、6国造が、任じられた治世およびその祖とともに書かれている。

    静岡県の6国造(くにのみやっこ)とは、
    (1)素賀(そが)国造(神武天皇・美志印(うましいに)命
    (2)遠淡海(とおとうみ)国造(成務天皇・物部氏の祖、伊香色雄命の子、伊岐美命)
    (3)珠流河(するが)国造(成務天皇・物部氏の祖、大新川命の子、片堅石命)
    (4)庵原国造(成務天皇・池田・坂井君の祖、吉備武彦命の子、意加部彦命)
    (5)久努国造(仲哀天皇・伊香色男命の孫、印播足尼)
    (6)伊豆国造(神功皇后・物部連の祖、天蕤桙(あまのぬぼこ)命の8世の孫、若健命)
    以上の6国造である。

     古墳群の分布の検討から上の6地域は、
    (1)原野谷(はらのや)川・逆川(さかがわ)流域
    (2)磐田原台地西南部
    (3)富士・愛鷹山麓
    (4)清水平野
    (5)太田川流域
    (6)伊豆半島
    ??
  • September 2018 編集されました
    吉備武彦

    出自について『日本書紀』に記載はない。『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子とする。

    子については、『日本書紀』景行天皇51年8月4日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。
    また『日本書紀』応神天皇22年9月10日条・『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、子として浦凝別(苑臣祖)・御友別(吉備臣祖)・鴨別(笠臣祖)・兄媛(応神天皇妃)らの名が記されている

    応神天皇22年9月6日条では、天皇が吉備の葉田葦守宮(岡山市足守付近か)に行幸した際、御友別は兄弟子孫を膳夫として奉仕させた。その功により、天皇は吉備国を割いて御友別子孫を次のように封じた。

    長子の稲速別 - 川島県に封ず。下道臣祖。川島県はのちの備中国浅口郡に比定。
    中子の仲彦 - 上道県に封ず。上道臣祖・ 香屋臣祖。上道県はのちの備前国上道郡に比定。
    弟彦 - 三野県に封ず。三野臣祖。三野県はのちの備前国御野郡に比定。
    弟の鴨別 - 波区芸県に封ず。笠臣祖。波区芸県はのちの比定地未詳(笠岡市付近か)。
    兄の浦凝別 - 苑県に封ず。苑臣祖。苑県はのちの備中国下道郡曾能郷か。
    兄媛 - 織部を賜う。
    そして、こうした縁で彼らの子孫は今も吉備国にいると記している

    御友別の子孫として、『公卿補任』では吉備真備が九世孫と記されている

    また『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条によると、播磨の印南野臣の祖の人上(馬養人上/印南野人上)が御友別命十一世孫であったといい、子孫が「笠朝臣」の改賜姓を得ている。

    『日本書紀』では御友別を吉備臣の祖とする。
    また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
    右京皇別 吉備臣 - 稚武彦命孫の御友別命の後。
  • September 2018 編集されました
    倉敷の古名は「阿知」

    倉敷総鎮守の阿智神社
     日本書紀応神記(4世紀)に「阿知使主(あちのおみ)が韓国より17県の人達を率いて帰化してきた」とあり、阿知使主の一族がこの地に住み着いて、養蚕・絹織・縫製・鉄文化等の先進技術を伝え、広め、大いに栄えたことに由来している。
     また、社記には神功皇后三韓征伐の途中、暗闇に航路を見失われ宗像三女神に祈願された時に、三振りの剣が雷鳴と共に天空から明るく輝いてこの地に降ったため、応神天皇の御代に妙剣宮(妙見宮)と称してこれを祀ったと記されている。
     古来この一帯は吉備の穴海と称され、内海深く湾入し社地は内亀島という小島であったため、海の交通交易の守護神である宗像三女神を奉斎したとも伝えられている。
     室町末期、慶長、元和の頃から祭祀は当地草分けの有力者の木綿襷組(ゆふだすきぐみ)が交代執行し、江戸中期に観竜寺の別当が管理し、神仏混淆して明治に至ったが、同2年神仏分離令により妙見宮を阿智神社に復号した。
     当社は倉敷の中心部、美観地区の鶴形山の頂上にあり、広い境内には蓬莱思想に基づいた日本最古の鶴亀様式の古代庭園とも伝えられる天津磐境の他、盤座・磐境が点在し、中腹の斎館の風雅な庭には陰陽の盤座のほか水琴窟もある。また、能舞台、絵馬殿、芭蕉堂等もあり、本殿北側の「阿知の藤」は曙藤では日本一大きく古く、倉敷市の市花でもあり、県の天然記念物に指定されて、毎年5月5日の藤祭には多くの人で賑わう。

    阿智神社

    美観地区の一角にある鶴形山の山頂に鎮座する創祀1700年を超える古社。
    古くは島で、神功皇后の西征の際、海の守護神として鎮り、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖、阿知使主(あちのおみ)が祀ったと伝えられ、境内には日本一古い蓬莱様式の磐坐(いわくら)や日本一大きい曙藤「阿知の藤」等がある。
    秋祭りには倉敷名物“素隠居”が出る時代行列の御神幸があり、“三女神の舞”や“獅子舞”等が奉納されます。
  • September 2018 編集されました
    足高神社 帆下宮
    式内小社で、旧社格は県社。祭神は大山津見命、配神は石長比賣命・木之花佐久夜比賣命で、また一説に葦那陀迦神とする。

    社伝によれば崇神天皇の時代にこの地に勧進されたとされている。平安時代の延喜式神名帳に「窪屋郡 足高神社」の名が記載されている。

    「小竹島」または「笹島」と呼ばれていた島であった頃、島の周囲は潮流が激しく渦が巻いていたといわれている。ここを通る船はすべて帆を下げ、足高の神に航海の安全を祈願したことから「帆下げの宮」と呼ばれるようになった。

    倉敷市中心部の南部に位置する標高67メートルの足高山山上に鎮座する。現在は陸続きとなっているが、かつては「小竹島」または「笹島」と呼ばれる瀬戸内海(吉備の穴海)に浮かぶ島であった。他にも戸島、藤戸島、吉備の小島、奥津島などとも呼ばれていたという。

    足高山は桃山時代から江戸時代前期の間に干拓され陸続きとなった。江戸時代を通じ岡山藩の支藩である鴨方藩の祈願所となり藩主が替わるたびに参拝した。現在、山上の神社周辺は足高公園となっており、春には桜の花見客で賑わう。

    葦那陀迦神(あしなだかのかみ)は、日本神話に登場する女神。

    古事記において国忍富神の妻として登場する。亦の名を八河江比売という。
    大国主神の子鳥鳴海神の子である国忍富神の后神で、速甕之多気佐波夜遅奴美神を生む

  • September 2018 編集されました
    神神社(みわじんじゃ)は、岡山県総社市八代にある神社。
    高梁川西岸、県道80号線で、神在小学校から小道を進む。八代大池の近く。

    『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備中国 下道郡「神神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

    創祀年代は不詳。通称は三輪山明神。主祭神は大物主命であり、おそらくは奈良大神神社と関係する社だと考えられる。平安時代、文徳天皇の御代、嘉祥4年(851年)正月に正六位上。清和天皇の御代、貞観元年(859年)正月に従五位下に叙せられた。
    『備中誌』によると、古代、高梁川の東岸である三輪の地に鎮座していたが、後、西岸の現在地に遷座したという。

    現在、その三輪の地には、やはり式内社である百射山神社が鎮座している。江戸時代前期に遷座したもの。百射山神社は、宮山とも呼ばれた三輪山にあったと考えられる三輪神社を合祀している。

    とすれば、その三輪神社も式内社「神神社」の論社になりそうだが、あまり有力な説にはなっていないようだ。
    また、なぜか総社市真壁の嚴島神社が参考社になっている。もっとも、式内社「神神社」は当社でほぼ確定していると考えられる。

    旧地の三輪には、三輪山の古墳群や、宮山型特殊器台と飛禽鏡(ひきん)が出土した宮山古墳が知られる。当社草創と関わりがあるか。
    さらに、これらの祭器の同型が、大和でも検出されており、当地から大和に移入されたともされる。そうなると、当社こそが大神神社の本宮、との可能性も出てくる。
  • September 2018 編集されました
    倉敷の百射山神社

    由緒
     当社は、平安時代(794~1185)に完成した「延喜式」(えんぎしき)にも名を残している古社で、元は福山(倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの山)に奉斎されていたが建武年中の福山合戦(1336)にて社殿を焼失した。
     後に隣山の幸山(こうやま)に遷座されたが、更に江戸時代の始め藩主池田光政公の命により寛文12年(1672)現在の宮山の麓へ移され今日に至っている。
     創建は不明であるが、御祭神の大山積命は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子で、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の后妃木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)の御父神であり、第1代神武天皇の御代に伊予国(愛媛県)大三島に御鎮座された大神様である。

    後の御代に命の御神裔五田守国勝長狭命(ながさのみこと)と宇津命(うつのみこと)が、水軍を率いて吉備の島々の賊を平らげ、滞在地の百射之山島(福山)に御祖神(みおやがみ)大山積命を奉斎したのが当社の始まりと伝えられている

    事勝国勝長狭に関し、北部九州で「勝」 の字が付くのは、安曇氏の勢力圏の志賀島の勝馬、津屋崎の勝浦、宮地嶽神社の祭神(主神 神功皇后、従神 勝村大神 勝頼大神)。

    ニニギ命が最後に宮を建てた国が刺国であった。津屋崎の地名由来は神功皇后の伝説で神功皇后がこの地で杖をついて休まれたことから「杖刺し→津屋崎」となった。刺国大神とは、事勝国勝長狭であり、宮地嶽神社の勝村大神、勝頼大神である。
    宮地嶽神社の勝村、勝頼両神は秦氏の一族で、織物を司る勝部であり、津屋崎の縫殿神社(福津市奴山)で勝村、勝頼の両神を通じて、阿部氏(安曇氏)と秦氏、勝部氏、吉師が重なる。縫殿神社の傍には「酒多神社」。少彦名命と秦氏の秦酒公には「酒神」が欠かせない。この辺りは、宗像氏の勢力圏でもあり、古墳群(新原・奴山古墳群)があり、アマツヒタカミヒコホホデミノミコトの墓がある。ミコトの母は宗像氏の娘、木花咲耶姫、妻は安曇氏の娘、豊玉姫である。そして宮地嶽神社の主祭神、「阿部丞相」は神功皇后の三韓征伐従い功があったという。
  • 静岡県の6国造(くにのみやっこ)とは、
    (1)素賀(そが)国造(神武天皇・美志印(うましいに)命
    (2)遠淡海(とおとうみ)国造(成務天皇・物部氏の祖、伊香色雄命の子、伊岐美命)
    (3)珠流河(するが)国造(成務天皇・物部氏の祖、大新川命の子、片堅石命)
    (4)庵原国造(成務天皇・池田・坂井君の祖、吉備武彦命の子、意加部彦命)
    (5)久努国造(仲哀天皇・伊香色男命の孫、印播足尼)
    (6)伊豆国造(神功皇后・物部連の祖、天蕤桙(あまのぬぼこ)命の8世の孫、若健命)
    以上の6国造である。

     古墳群の分布の検討から上の6地域は、
    (1)原野谷(はらのや)川・逆川(さかがわ)流域
    (2)磐田原台地西南部
    (3)富士・愛鷹山麓
    (4)清水平野
    (5)太田川流域
    (6)伊豆半島
    として対応を考えている
  • 天智2年(663年)の白村江(はくそんこう)の戦いに「万余」の精鋭部隊を引き連れ、従軍した将に
    庵原(いおはら)君臣(きみのおみ)(別名:臣足(おみたり)がいる。 (「日本書紀」)

    庵原君臣の子と孫は、この一族の系譜である「庵原公系図」によれば、子の大蓋(おおがき)が大山上(のちの正六位上 相当)の位階をもち、「国造(くにのみやっこ)に任ぜられ、孫の首麻呂(おびとまろ)は、庵原郡大領(だいりょう)となり、神護景雲3年(769年)に駿河国の祭祀(さいし)をつかさどる律令制下の新国造となっている。

     こうした履歴からみれば、臣もまた後の駿河国庵原郡に居をかまえていた豪族であり、庵原国造の血をひいた存在とみてよいだろう。
  • 清水市豊由気神社

    式内論社・郷社 豊由気神社

    文献の徴すべきものなきも、総國風土記に盧原(或伊穗奈原云々小府有大)豊積紳壮(或止由氣神社)日本武尊祭之地也、國中之二宮也云々とあり、社家の按する所によれば日本武曾御東征の砌此の地に豊受大神を祭らせ給ひ同時に安倍郡神部神社に天照大神を祭らせ給ひ、即ち両宮を盧原安倍の両地に祭り給ひしを以て二の宮と称したのであらう。初め日本武尊御東征の副將軍たりし吉備武彦命の子意加部彦命庵原國造として當社の祭祀を司りしが、延暦17年國造子孫相襲で任仕することを冤ぜられて神社も自然衰微せしものの如くであるといふ。舊除地高2石を有し、明治8年2月郷社に列し、同時に相殿一宮は村社に列し、後40年6月21日神饌幣帛料供進社に指定された。
  • October 2018 編集されました
    神明山古墳群は独立した小丘陵上にある5つの古墳からなり、1号墳と4号墳が現存しています。1号墳は全長約70mの古墳時代前期の前方後円墳で、発掘によって、奈良県の箸墓古墳の四分の一の設計で造られていたことがわかりました。4号墳は約11mの古墳時代後期の円墳で、全長10.5m、最大巾1.9mの横穴式石室が良好に保存されています。川原石を積んで造った横穴式石室からは、青銅製の馬鈴などの馬具、鉄製の兜や鎧(甲冑)、勾玉、丸玉などのアクセサリー、さまざまな器類(須恵器)が見つかりました。古代の庵原地域を治めていた有力豪族によって築かれたことが想像できます。
     1号墳と4号墳は県の史跡に指定されています。


    神明山古墳群は神明山と呼ばれる独立丘陵上に築かれた古墳群である。かつては5基の古墳が存在したが、現在は1号墳と4号墳の2基が残る。

    1号墳は古墳群の中核を成す墳丘長69mの前方後円墳である。形状が箸墓古墳に相似しており、3世紀後半に築造されたと推定される県内最古の前方後円墳である。

    4号墳は1号墳の北東部に隣接して築造された直径約18mの円墳で横穴式石室を有する。築造時期は6世紀から7世紀初頭と推定される。玄室からは、馬具や武器、装飾品などの副葬品が出土した。

    静岡県指定史跡
    (説明看板および静岡市のHPより)
     URL: http://www.city.shizuoka.jp/000_002438.html
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