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神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天…
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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/nagasune/nagasune1.htm
長髄彦は、登美の那賀須泥毘古、登美毘古(『記』)とも記される。「長髄」とは、神武即位前紀にも記すように、その居住する「邑の本の号」であり、これを以て人の名としたものである。神武のイワレヒコ(磐余彦)と同様に、ある地域の首長・君長としての呼称であり、髄(脛)が長いという意味での身体的な特徴を呼んだものではない。そのことは、妹が長髄媛、三炊屋媛とも鳥見屋媛とも記されることに対応する。
記紀は長髄彦の出自についてなんら記述しないが、鈴木真年翁は、「醜類ニ非ス」として、「大和国城上郡登美ノ人、長髄モ同所ノ邑名、飛鳥事代主神ノ子」と記される(『史略名称訓義』)。丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には、物部の祖・饒速日命の子の麻斯麻尼足尼命(ウマシマチのこと)の右註に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記される。長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったということであり、早くに太田亮博士も、「磯城彦は即ち三輪氏に外ならず」と指摘した。
神武軍に対処した兄磯城・弟磯城のうちで、倭国造の祖・珍彦の計略が奏功して斬られたほうの兄磯城も、長髄彦かその近親にあたり、磯城郡の居住地にも対応する。長髄彦は饒速日命(実際には、その子のウマシマチ)によって殺害されたというから、記紀の兄磯城は長髄彦とは別人で、その一族にあたる。神武に降伏したほうの弟磯城の名は黒速で、建国後の論功行賞で磯城県主に任ぜられたが(神武紀)、この人は三輪氏の系図に天日方奇日方命(またの名を櫛御方命、鴨主命といい、三輪君・鴨君の遠祖)と記される者に対応する。その妹が神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命(伊須気余理比売)であり、事代主神の娘であった(『書紀』の一書)。
磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。このように、長髄彦を一介の賊酋や土蜘蛛の類だったと考えるべきではない。とすれば、長髄彦の「長」は蛇を意味する「ナーガ」にあたるが、「スネ」はソネ(曽祢)かスワ(諏訪)にも関係するものか。
大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほうであったが、添下郡のほうも無縁ではなく、長髄彦の勢力範囲であった。この二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡の等弥神社、添下郡の登弥神社があげられる。後者は富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。
同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。
長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。諏訪のほうでは、「長髄彦」という名は伝えなかったのだから、これは敵方のほうから呼ばれた名称なのであろう。上記のように、四国の阿波・土佐方面でも「長髄彦」という名は伝えなかった事情にある。
建御名方命の後裔については、同神を遠祖神として、その子の伊豆早雄命(出速雄神)兄弟が中心となって三河・遠江を経て東国遷住をしたものであろう。この一族は「諏訪神族」と呼ばれ、信濃南部の諏訪地方を中心に古代中世の信濃におおいに繁衍したほか、経路地域も含めて長く勢力を保持した。
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建御名方命を祀る式内社が阿波国名方郡にあることをあげたが、その子の八桙神を祀る式内社も阿波国那賀郡にある。
八桙神社という名で、徳島県阿南市長生町宮内に鎮座しており、『特撰神名牒』なども祭神を八桙神(建御名方命の子、あるいは曾孫)とする。その由緒には、「八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す」とあるから、建御名方命の子の八桙神が長国造の遠祖でもあった。この所伝からも、「建御名方命=長髄彦」ということになる。長生町からも銅鐸出土の伝えがある。
諏訪の「神氏系図」には伊豆早雄命の弟に「八杵命」と見える者があり、これが阿波国の「八鉾命」にあたるとする指摘が『大日本史』神祇志や飯田好太郎の著述に見える。また、『諸系譜』第六冊所載の「長公系図」には、弟の意味「イロト(色止・伊呂止)」を名にする「伊侶止命」(すなわち長髄彦)の子に「八上乃命」があげられており、これが「八桙神」にあたるとみられるから、諸伝が符合する。同系図では、八上乃命の子の代に阿波の長国造系統と土佐の都佐国造系統に分かれたと見える。
信濃
一宮諏訪神社そして二宮小野神社の主祭神社である建御名方命ですが、「みなかた」とは「水方・水潟」の意味ですから、もともとは「水の神様」だったわけです。 ここで美努包光に話を戻します。「美努」は「みぬ」と読みます。もともとは古代の河内豪族三野県主(あがたぬし)の裔で、天武13年(685)に連(むらじ)の姓を賜り、美努連(みぬのむらじ)となりました。 美努連一族は、岡麻呂が遣唐使、浄麻呂が遣隋使、同じく浄麻呂が『懐風藻』に、石守(いわもり)が『万葉集』に歌をのこすほど、外交・文学におおきく貢献しています
・別名、
天照国(地)照彦火明櫛(奇)玉饒速日命
饒速日命、火明命、櫛玉命、天照国照彦
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天火明尊、
天照国照彦天火明尊、饒速日尊
火明命(ほあかりのみこと)
・妻を御炊屋姫
宇摩志麻治命、またの名を味間見命、可美眞手命
・古事記では
正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子を
天明命、神武天皇東征中に邇藝速日命として登場する。
妻は登美夜毘賣であり、
その子を宇摩志麻遅命と記す。
・日本書紀では、
天照国照彦天火明命、後には櫛玉饒速日命、また?芸波椰卑と云う。
妻は三炊屋姫、またの名を鳥見屋姫、また長髄姫、
子を可美真手命、またの名を于魔詩莽耐と記す。
旧県社。祭神は積羽八重事代主命・下照姫命・建御名方命、葛城賀茂社・下津賀茂社・加茂明神などと呼ばれ、大神(三輪)神社の別宮ともいわれている、『延喜式』には「鴨都味波八重事代主命神社二座」とあって、二座ともに名神大社、月次・相嘗・新嘗の各祭に際して官幣にあずかった。創祀については崇神天皇の代に賀茂積命(大田田根子の孫)が葛城の地に奉祀したと伝える。『出雲国造神賀詞』に「大穴持命の申し給はく…事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐せ…皇御孫命の近き守神と貢り…」とある。同系の「高鴨神社」の創祀起源もこの文中にある。事代主神は一般に商売繁昌豊漁守護の「夷神」として有名であるが、本神社の近隣にある「葛城一言主神社」(御所市森脇)や「金剛山葛木神社」(同市高天)だと祭神名を一にしており、古代の賀茂氏一統の地であった葛城地方では、むしろ神名から言霊にかかわる神のイメージが強い。雄略天皇の葛城山中における『古事記』『日本書紀』の説話や、高鴨の神を土佐国から召還する記録(『続日本紀』天平宝字八年)などを総合すると、賀茂氏の主要な祭神であったことがわかる。大同元年(八〇六)に神封八四戸を充てられ、貞観元年(八五九)には従一位に叙せられた、なお、この葛城山系一帯には「葛木御歳神社」「葛木二上神社」「葛木坐火雷神社」「葛木倭文坐天羽雷命神社」などがあって、それぞれ古い創祀の神社である。
-『神社辞典』-
参河國一宮
御祭神 大己貴命、
二宮社 事代主、三宮社 建御名方命
愛知県一宮町(現豊川市)にある。
神門をくぐると、境内で、左手(北側)に二宮・三宮を祀る三河えびす社。
二宮社(事代主命)、三宮社(建御名方命)。その東側に本社社殿がある。
祭神 一座 広田明神〔天照大神の荒魂である〕。
御脇殿には御主神に由縁深き住吉大神、八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神を祀り古くより広田五社と称せられて居ります。
右の脇殿は、第一脇殿(住吉大神)・第二脇殿(八幡大神)。
左の脇殿は、第三脇殿(諏訪建御名方神)・第四脇殿(高皇産霊尊)。
『日本紀』にいう。神功皇后が新羅を征された翌年、忍熊王が兵を起し、住吉に駐屯した。
皇后はこれを聞いて、務古水門に還りトしたところ、天照大神が誨えて言った。我が荒魂は皇后に近くいてはならぬ。御心を広田の国に居らせるのがよい、と。そこで山背根子の女、葉山媛に祭らせた。
貞観元年(八五九)、広田神を正三位に任じた〔初めは従三位勲八等であった〕。同十二年(八七〇)、従一位とする。ある説に、広田社を五座としていう。
一 住吉
二 広田〔天照大神の荒魂である〕
三 八幡
四 南宮〔大山咋神である〕
五 八祖神〔高皇産霊尊〕
四社は後人の勧請である。
御鎮座御由緒
大祭天石門彦神社 通称 三宮神社
御 主 祭 神 手力男命
配 祀 神 建御名方命
石見の国三宮にして創立年代不詳なるも阿波忌部族が第十 五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請と伝えら れ延喜式内社である建御名方命は仁明天皇の承和二年十二 月信濃国諏訪神社より勧請後鳥羽天皇文治年間に正一位三 宮大明神の称を許されている。武将の祈願信仰もあり朱雀天 皇の朝右近衛少将小野好古卿西下し藤原純友の乱を平定に 際し祈請奉幣の事あり、又毛利吉川の祈請奉幣あり社領も三 十六石三斗六升があり古来より信仰の篤い神社である。明治 六年五月県社に定められ三の宮として国司の巡拝の信仰か ら庶民信仰が生まれたのは鎌倉時代の十二、三世紀の出来ごと である。現在島根県神社庁より特別神社に定められたいる。
石見の三宮
三宮で知られている浜田市黒川の大祭天石門彦神社は あめのいわと主祭神手力男命、配祀神建御名方命 二神を祭祀する社で浜田川の河畔三つ子山の麓にある 神社でこの山には高さ四間幅六間余りの大きな岩石 があって、本殿はその前に建っている。
又本殿の西側には烏帽子岩がある。
主祭日
例大祭 十月 十九日
新嘗祭 十一月二十六日
贄狩祭 一月二十五日
祈年祭 二月二十六日
特殊神事
贄狩祭往古十二月一日から翌年一月二十五日迄山狩をなし 獲物の鹿を供え村内を始め近郷四十ヶ村の平隠繁栄を 祈願した。ちなみに鹿足郡は鹿の足を供え美濃郡は「みの」を 献した慣習からその地名が生じたと伝えられている。
-境内案内板より-
天背男命は天壁立命の子、宮部造の祖。
饒速日命の天降りに随伴した三十二人の防衛の一人。尾張中嶋海部直等の祖。
『先代旧事本紀』第三巻天神本紀の山背久我直等祖の天神立命に関して、 『先代旧事本紀訓註』(大野七三著)の本文には天背男命とあるが、 巻末の概説では天神立命とある
弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』では、神別(天神)に「斎部宿禰」として、高皇産霊尊の子の天太玉命の後裔である旨が記載されている。
尾張の大国魂神社は、大国主命の荒魂尾張大国霊神を祭神とし、国府にあって国府宮および尾張総社と称された。仁寿三年(853)官社に列し、延喜の制では小社、『国内神名帳』には「従一位国玉大明神」とある。
その社領は、中世後期に百七十貫文があり、近世の黒印領は百五十石であった。
尾張大国魂神社の例祀りは五月六日で、旧暦一月十三日の直会祭は、悪魔払いをはかる男子の勇壮な奇祭で、世に「裸祭」と呼ばれている。
尾張大国魂神社の神主は、天背男命を祖とする中島海部直の後裔という中島連が務めた。系図によれば、清嗣は久田を称し、その孫元政が神主を務めたとみえる。以後、代々が神主を務め秀守に至って野々部を称している。その後、秀富のときに姓を橘としている。
ところで、当社の権神主職に蜂須賀正光の名がみえる。清和源氏足利氏の一族斯波氏の後裔を称し、正光の父は小六正則であり、兄に小六正勝がいたことが系図から窺われる。蜂須賀小六といえば、豊臣秀吉に仕えて秀吉の覇業を援け阿波において近世大名となった、あの小六がいる。
神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。後に久田氏を名乗りましたが、暦応二年(約620年前)に久田弥四郎崇政が夜討ちに遭い、伝来の古記録宝器等皆な散逸したといいます。その子元政が神主となって世襲しますが、永正年間(約450年前)に久田氏を改めて野々部氏と称し、累代正神主として社家を統率しました。その下に権神主蜂須賀氏、中臈として広瀬氏、川口氏、水野氏、野々部氏、近藤氏、大津氏、加藤氏、服部氏の八家や、神子座、神楽座等十四家が、夫々所役をもって奉仕し、幕末に至りました。
神武天皇 即位前紀 戊午年夏四月
乃還更欲東踰膽駒山 而入中洲 時長髓彦聞之曰 夫天神子等所以來者 必將奪我國 則盡起屬兵 徼之於孔舎衞坂 與之會戰
神武天皇 即位前紀 戊午年十二月
饒速日命 本知天神慇懃 唯天孫是與 且見夫長髓彦稟性愎佷 不可敎以天人之際 乃殺之 帥其衆而歸順焉 天皇素聞饒速日命 是自天降者 而今果立忠效 則褒而寵之 比物部氏之遠祖也
上記資料から次の一文を紹介する。[ ]内は筆者の記載。
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
『神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
このことは、大国主神と大物主神は別神であることを示している。極めて重要な示唆であり、前に述べたとおり、出雲の国譲りと神武東征の登場人物を明確に区分けしなければならない。