雄略天皇と百済遷都

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
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『日本書紀』 「雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久…

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コメント

  • 雄略天皇の時代は、外交で一つの画期をなした時代であると言える。『日本書紀』は、雄 略天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使 博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛し、たびたび呉へ使節として派遣してい る。派遣先の「呉」とは、南朝の宋のことであろう。また、朝鮮半島問題にも盛んに関与 している。ちなみに雄略天皇5年(461)、百済の蓋鹵(かふろ)王が弟の昆支(こにき)王 を倭に派遣して大王に仕えさせた。このとき、昆支王は蓋鹵王の子を孕んだ臨月の女性を 同道してきたが、各羅島(かからのしま、佐賀県東松浦郡の加唐島か?)で男子を出産し た。皇子は斯摩(しま)と名付けられた。後の武寧王(在位 501~523)、すなわち我が国 に仏教を伝えた聖王の父である。
    蓋鹵王の乙卯年(475)、高句麗の攻撃を受けて、百済の王都・漢城は落城し、蓋鹵王をは じめ大后、王子らは皆敵の手にかかって殺害された。ただ落城寸前に新羅に救援を求める ために、蓋鹵王は王子の文周に木劦満致(もくらまち)と祖弥桀取を付けて南に行かせて いる。百済が高句麗のために敗れたと聞いて、雄略天皇は久麻那利(こむなり、熊津?) を文周王に与えて百済を復興させたという。さらに、雄略天皇23年(479)百済の文斤王(も んこんおう、三斤王)が薨じると、昆支王の第2子・末多王に兵器を与え、筑紫の兵50 0人に護衛せしめて百済へ送っている。末多王は即位して東城王(在位 479~501)と呼ばれた
  • October 2016 編集されました
    飽田女の伝承には菱城邑の鹿父(かかそ)という人物が登場します。

     菱城邑は大阪府堺市西区菱木に比定されています
    堺市西区といえば、大鳥大社や日部神社が鎮座し、その近くには等乃伎神社も鎮座します。つまりは太陽祭祀に関係する土地なのです。陽祭祀の聖地難波の名を氏族名にしていること、また、大日下王が殺害された時に、大日下王の仕える難波吉士日香蚊がふたりの息子とともに殉死したこと、また、そのことで難波吉士日香蚊の子孫が大草香部吉士(おおくさかべのきし)の姓を授けられたことを『日本書紀』が伝えることからも、難波吉士が太陽祭祀に関わっていた可能性が高いのです。

    等乃伎神社から臨む夏至の朝日は高安山の山頂から昇る

    雄略天皇即位9年春2月1日。
    凡河内直香賜(オオシコウチノアタイカタブ)と采女(ウネメ=氏族が朝廷に仕わせた女性)を派遣して、胸方神(ムナカタノカミ=宗像三女神のこと)を祀らせました。香賜(カタブ)は壇所(カムニワ=神の儀式を行う場所のこと)に至って…
    香賜は舸拕夫(カタブ)と言います。

    まさに事を行おうとするに至って、その采女を犯してしまいました。天皇はそれを聞いて言いました。
    「神を祀って、福(サイワイ)を祈ることは、慎ましくなくてはいけない」
    すぐに難波日鷹吉士(ナニワノヒダカノキシ)を派遣して誅殺することにしました。その時に香賜は逃げて居なくなっていてその場には居ませんでした。天皇はまた、弓削連豐穗(ユゲノムラジトヨホ)を派遣して、あらゆる国郡県を探し求めてついに三嶋郡(ミシマノコオリ)の藍原(アイハラ=摂津国島下郡安威郷=現在の大阪府茨木市大田)で捕らえて斬り殺しました。
  • February 2017 編集されました
     上毛野朝臣(A)
     下毛野(しもつけのの)朝臣と同祖(おなじおや)なり。豊城入彦(とよきいりひこ)命の五世の孫多奇波世(たきはせ)君の後なり。大泊瀬幼武(おほはつせのわかたける)天皇謚、雄略の御世、努賀(ぬか)君の男百尊(むすこはくそん)、阿女の産の為に、聟(むこ)の家に向(むか)ふ。夜を犯して帰る。応神天皇の御陵(みささき)の辺に於いて、騎馬人(うまにのれるひと)に逢ふ。相共に語話(かたらひ)て、馬を換(か)へて別る。明くる日換(か)へし馬を看るに、是、土馬(はにうま)なりき。因つて姓(な)を陵辺(みはかべ)君と負ひき。百尊(はくそん)の男徳尊(むすことくそん)、孫斯羅(まごしら)、謚(おくりな)皇極の御世、河内の山下の田を賜ふ。文書を解するを以て、田辺史(たなべのふひと)と為す。宝字称徳孝謙皇帝の天平勝宝二年、改めて上毛野(かみつけのの)公を賜ふ。今上の弘仁元年、改めて朝臣の姓を賜ふ。続日本紀

     これは「田辺史」の氏姓の由来と、その後を語ったものとして貴重であるが、説話そのものは『日本書紀』雄略九年七月の条が詳しいから、それを次に掲げることにしよう。

     雄略紀九年七月条(B)
     秋七月の壬辰の朔に、河内国、言さく、「飛鳥戸郡(あすかべのこほり)の人田辺史伯孫(はくそん)が女(むすめ)は、古市郡の人書首加龍が妻なり。伯孫、女、児を産めりと聞きて、往きて聟の家を賀(よろこ)びて、月夜に還りぬ。蓬菓丘(いちびこのをか)の誉田陵(ほむだのみささぎ)の下に、蓬累、此をば伊致寐姑と云ふ。赤駿(あかうま)に騎(の)れる者に逢ふ。其の馬、時に獲略(もこよか)にして、龍のごとくにとぶ。あかしまに聳(たか)く擢(ぬけい)でて、鴻(かり)のごとくに驚く。異しき体かとく生(な)りて、殊なる相逸(かたちすぐ)れて発(た)てり。伯孫、就(ちかつ)き視て、心に欲す。乃ち乗れる駿馬(みだらをのうま)に鞭(むちう)ちて、頭を斉しくし、轡(くち)を並(なら)ぶ。爾(しこう)して乃ち赤駿(あかうま)、超(こえの)びてぬけで絶えたること埃塵(くものみちちりのみち)にみえ、驅(はし)りさきだつ迅滅(ときかたちほるもか)にして没(う)せぬ。是(ここ)に、駿馬(みだらをのうま)、後(おく)れて怠足(おそ)くして、復追ふべからず。其の駿(ときうま)に乗れる者、伯孫の所欲(ねがひ)を知り、仍りて停めて馬を換へて、相辞(さ)りて取別(わかれは)てぬ。伯孫、駿(ときうま)を得て甚だ歓(よろこ)び、駿(をどら)して厩(うまや)に入る。鞍を解(おろ)して馬に秣(まぐさか)ひて眠(ね)ぬ。其の明旦(あくるあした)に、赤駿(あかうま)、変りて土馬(はにま)に為(な)れり。伯孫、心に異(あやし)びて、還りて誉田(ほむだの)陵を覓(もと)むるに、乃ち駿馬(みだらをのうま)の土馬(はにま)の間(なか)に在るを見る。取りて代(か)へて、換(かは)りし土馬を置く」とまうす(日本古典文学大系『日本書紀上』による)

    (A)に登場する「百尊」と(B)の「伯孫」とは同一人物で、「河内国飛鳥戸郡」に住んでおり、その娘は古市郡の「書首加龍」の妻になっていた。この伯孫(百尊)が『新撰姓氏録』の河内国諸蕃「飛鳥戸造」の支配下にある百済からの渡来人であることは明らかであり、皇極天皇の御代、「文書」の読解力を評価されて、「田辺史」の氏姓を賜わったという。
     その居住地である河内国の「飛鳥戸郡」は、河内と大和の国境にある地名「飛鳥」に基づくもので、『延喜式』神名帳の「飛鳥戸神社」の所在地である。現在、大阪府柏原市国分の春日神社の境内にある白鳳期の寺院跡は、田辺廃寺と称され、田辺史の氏寺であったと考えられている(文頭の地図「田辺と飛鳥戸神社付近」参照)。
  • May 2018 編集されました
    雄略天皇と吉備、葛城

    天皇家に王権を取り戻すために、雄略は葛城臣氏の次に、葛城臣氏と密接な関係にあった吉備氏の取り潰しを画策する。

    葛城氏と吉備氏は婚姻関係を結ぶような親密な間柄にあった。
    紀に別伝として、「吉備上道臣田狭の妻の名は、毛媛と言う。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の娘なり」 と注がある。そのあとに「天皇は毛媛が美人と聞いて、夫を殺して、毛媛を自分の妃とした」とある。

    仁德天皇頃
    上道の本拠である備前には赤坂郡葛城郷があった。これは仁徳の皇后磐之媛(葛城襲津彦の娘 )が仁徳に願って作った葛城部の一つである。

    後に児島の屯倉を治める長官として葛城氏後裔の分派が田使首という姓をもらって、任じられる
    葛城山田直 端子
    欽明天皇17年 蘇我大臣稲目宿禰らが備前国児島郡に屯倉を置き、端子を田令となし、田使首の姓を賜う
    とある。

    吉備下道臣前津屋の殺害

    雄略の舎人、吉備弓削部虚空の密告を利用し前津屋を焼殺
    吉備弓削部虚空が帰郷したしたところ、前津屋は自分のところにとどめて、幾月も雄略のもとへ帰るのを許さなかった

    吉備上道臣田狭を任那国司に任じ、その間にその妻を奪う

    田狭は任那で稚媛が天皇に奪われたと知り、そのころ大和と敵対していた新羅と組んで天皇に叛くことを考え、新羅に入った。
    これを知って、天皇は田狭の子、弟君と吉備海部直赤尾に命じて、新羅を討てと命じた。
    このとき天皇のおそばにいた西漢才伎(かわちあやのてひと)の歓因知利が「韓国には私より優れたものが大勢います。大和へ召してお使いになると良いでしょう」と申し上げた。
    そこで天皇は弟君に勅書を持って歓因知利とともに百済へ行って優れた才伎(工人)を献じさせることも命じた。

    弟君は軍勢を率いて百済国に至った。時に百済の国津神が老女に化身して、道に忽然と現れた。
    弟君が新羅まであとどのくらい遠いか尋ねたところ、老女が答えて「さらに1ヶ月はかかりましょう」
    弟君は道の遠いことを考え、新羅を討つのをあきらめて、帰ることとした。
    百済の献じた新来の才伎を大島の中に集め、風待ちをすると言いつくろって、そこに留まり、幾月も経った。


    吉備海部直赤尾は田狭や弟君には組せず、雄略の命令を守って、帰国した。
    実はこの時点では吉備上道臣氏はまだ滅んでおらず、雄略死後清寧天皇の時代に稚媛と雄略の間にできた星川皇子が反乱を起こし、そのとき吉備上道臣氏が吉備より応援に駆けつけたが、間に合わずに帰ったとある。
    そして天皇に責められて、山部を献じて許してもらったという。
    現実には何らかの戦闘があって、吉備上道臣氏が敗北し、山部が天皇家のものとなったということではなかろ
    うか?
    この時点で吉備上道臣氏が完全に制圧されたと考えられる。
  • May 2018 編集されました
    健磐龍命の第三子、健岩古命が伊予の国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったという。

    久米の祖となった健岩古命

    応神天皇の時代に、伊予主命が国つくりになったとされる場所、椿神社と愛称で親しまれている伊豫豆比古命神社の主祭神、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命が最初に祀られていた場所で、この二柱の神は、久米氏の祖として祀られていました。ここ高家八幡神社の話をそのまま受け取れば、久米氏の祖は、健磐龍命(阿蘇の神)であり、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命もまた、健磐龍命の祖ということになります。

    伊豫豆比古命神社
    一説には、この時祀られていた場所は、久米部(現在の小野町)の山の上に、久米氏の祖として、伊豫豆比古命と伊豫豆比売命は祀られていましたが、その後大雨で社殿が崩壊し、山の中腹くらいのところに新しい社殿を建て、そこでまた洪水にあいその時に、御神体は別々に流され、伊豫豆比古命は、伊豫豆比古命神社に祀られ、伊豫豆比売命は、日尾八幡神社に祀られ、今も別々の場所で祭られているといいます。この起源からいうと、神武天皇の時代とそう代わりなく、伊豫豆比古命は、阿蘇からやってきた健磐龍命が祀った神と同じということになります。物部氏が祀る、饒速日命、瀬織津姫とは別の神。

    赤人寺(しゃくにんじ)

    東近江市蒲生下麻生 天台宗

    下麻生集落にある。山部神社と隣り合っている。
    蒲生巡礼十九番目の札所である。
    寺伝によれば、万葉歌人・山部赤人の創建で、本尊も赤人の作と伝える。
    観音信仰を核とした村堂「観音堂」が山部赤人との関係を取りざたされ、江戸時代後期に赤人創建の寺という伝説が定着したとされる。
    境内には、鎌倉時代に建てられた石造七重塔は国の重要文化財である。
    寺と神社は同じ方向に建てられており、権現造りといわれるもの。


    寺伝によれば万葉の歌人山部赤人の創建で、終焉の地とも伝える。
    里人の言として同様の伝承が「輿地志略」にも見られる。
    本尊観世音は赤人が田子浦より夢想の告により迎え来て安置した所で、赤人の作とも云うが、事古くして創造時代の史料も存在しない。
    鎌倉末期よりの寄進状は十余通残存しており、これらが観音信仰の盛況さを証明する。
    しかし中世の寄進状には「あかう寺」と記し、又下七板の御堂とも見られる。下板七は下麻生の古い名である。その後、「赤人堂」の表記が最も多くなる。実際には観音信仰を核とした村堂(観音堂)であり、やがて地誌類などを通して山部赤人との関係が取りざたされ、 江戸時代後期には赤人創建の寺という伝説が定着したとされる。
    慶応元年(1865)山部神社境内に建てられた赤人廟碑では「養老年間(717~724)赤人による創建」と刻され、赤人の墓がこの地にあるとされている。近年に入ると歌会なども行なわれるようになる。
  • May 2018 編集されました
    阿蘇と吉備


    『阿蘇と吉備』の関係は「国造」だけでなく、「吉備の伝説」にある『温羅有鬼(有木)』の霊を弔う「阿曾女」なる「巫女の名称」からも窺われ、「和名抄・吉備国賀陽郡」に『阿曾郷』があり、現総社市の『東阿曾と西阿曾』の地域に比定されるが、

     『中世以降「阿曾の鋳物師」の本拠となり、また吉備津神社の釜鳴神事に仕える巫女阿曾女の里としても知られる』(岡山県の地名 674頁)

    『不知火宇城の蒲池神社』の祭神が『阿蘇国造家の母』と伝承され、後世、広く知られる『高橋氏・吉見氏』が『阿蘇』の『国造神社』に祭られることや、『不知火・葦北の国造家』が『伊予、吉備』等の国造家と同系とされ、『伊予』や『奈良』に『香山』の降臨伝説があって、『薩摩』半島に『伊予』の「地名や伝説」が認められ、

    『吉備の「温羅・有鬼」伝説』も、吉備の方々が指摘したように『笠沙の岬の「有木」』と縁がある
  • May 2018 編集されました
    山部氏は久米氏

     文字資料は三つある。

    ≪往古より『皆血脈ヲ以テ相續ス』(神道大系 神社編五○ 182頁)と云われる「阿蘇神社の社家」に、『阿蘇氏、草部(くさかべ)吉見氏、山部氏』と共に、阿蘇山上の社である天宮社の祝に『笠朝臣』があり、重要神事には天宮祝は常に座の中央に着座することになっていた≫(古事記に笠沙が載ったわけ 268頁)というもの。

    景行天皇の18年4月条、『海路より葦北の小嶋に泊りて、進食(みをし)す。時に、山部阿弭古(やまべのあびこ)が祖小左を召して、冷き水(みもひ)を進(たてまつ)らしむ。』(紀上 294頁)

    と、日本書紀で初見となる『山部』氏の、その『阿弭古』なる名は「熊本県上天草市松島町『阿』村」を拠点とした『阿多海人族の小左(をさ・長)』を『祖』とし、『阿蘇の高橋氏』や『阿蘇神官家の山部氏』も歴史的背景は同じだったのではと想像できることにある。

    科野国造の祖の武五百建命と阿蘇氏の祖・健磐竜命とは、異人である。これは村崎氏に同説であるが、記紀編纂時までに科野国造・阿蘇国造が同族とされ多氏族に組み入れられたときに同人化されたことも考えられる

    岸俊男氏の研究によれば、斑鳩がある地は奈良時代は夜摩郷という地名で、もともとは山部氏に因んだ「山部郷」でした。桓武天皇になった山部親王の名を避け、奈良時代に「夜摩郷」と変名されました。

    山部氏は、顕宗天皇より山官の役を賜り、その後山部や山守部を管掌していました。法隆寺が天智紀に全焼し、その後の再建にこの山部氏が関わっていたことは、木の伐採という仕事上からも想像できます。山部氏は法隆寺の後山である平群山に本拠地を構えていました。また、法隆寺の所領地が播磨国にされた理由として、山部氏が雄略天皇時代から播磨国司で億計王・弘計王の発見などに関わっていたことが少なからず関係しているのではないかと考える説もあります。
  • 日本書紀』の神功5年に、葛城襲津彦(かずらぎのそつひこ)が新羅に行って俘人(とりこ)を連れてきたとあり、製鉄や鍛冶の技術は渡来人によって伝えられ
    たと考えられ、この新羅から連れてきた俘人たちが、今の蔦城の地域の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)という4つの邑にいる漢人の祖であるとあります。
    葛上(南葛城)郡・葛下(北葛城)郡のあいだに、忍海郡という小さな郡があり、いま御所市と高田市の間の新庄町あたりになるかと思いますが、そこに製鉄技術者が住みついて、製鉄に従事していました。
    その技術者を部として組織して忍海部と呼んでいたと思いますが忍海部はやがて各地に広がり、製鉄技術を各地に伝えたようです。
    『日本書紀』の清寧(せいねい)2年の条や顕宗(けんぞう)前紀に、播磨の明石郡に忍海部造細目(おしぬみべみやつこほそめ)という人のことが見えます。
  • 日本書紀では
    応神天皇この方朝鮮半島政策は基本的に百済に肩入れして、応神朝では弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝。百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭の馬を阿知吉師(あちきし)に付けて献上した。和邇吉師(わにきし)が論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を持って来朝。手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき、などとあって、新羅からの来朝者もあったが百済からの来朝者が圧倒的に多かった。

    雄略天皇の時代にも「雄略天皇廿年冬 高麗王大發軍兵 伐盡百濟」「同廿一年春三月 天皇聞百濟爲高麗所破 以久麻那利賜汶洲王 救興其國」(雄略20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略天皇は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させた)とあり、大伴金村が「改使而宣勅 付賜物并制旨 依表賜任那四縣・・・或有流言曰 大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣」(使いを改めて宣勅す。賜物並びに制旨を授けて、表(百済の上表文)によりて任那四縣を賜う。ある人つてごとして曰く、大伴大連と哆唎國守穗積臣押山と百済の賂を受けたり)<任那四県割譲事件>とある。

    しかし、出土品から見ると、新羅との交易も多くある。
    応神と雄略期に対半島新策の変更が起きている。
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