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March 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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  • 百済王敬福

    大阪枚方市の百済王神社は百済王敬福が創建したと言われる。敬福は、百済最後の国王、義慈王の王子禅元(善光)の曾孫であるが、百済が滅亡したときに豊璋とともに日本に来た。豊璋は百済復興運動で百済に戻るが、禅元は日本にとどまって、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の姓をたまわって難波に生活した。

    敬福が陸奥守として赴任していたとき、聖武天皇の東大寺大仏鋳造のために陸奥で産出した金を献上し(749)、その功績によって氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を百済寺の隣に建立した。百済寺は焼けてしまい、今は礎石を残すだけであるが、伽藍配置は新羅の感恩寺に似ていると言われる。両者とも丘陵の上にあり、百済王敬福の権威がうかがい知られるが、さらに、百済寺の発掘調査によって 百済王氏が有力氏族であったことが改めて確認された。


    陸奥国小田郡=遠田郡涌谷町の黄金山産金遺跡

    陸奥の守である百済王敬福(くだらおうきょうふく)が小田郡から日本で始めて産出した黄金九百両(約38キログラム)を献上した。

    百済は、新羅という国と中国の唐の連合軍によって660年に滅ぼされています。
    百済の王族たちは、友好国であった日本に逃げてきていた。

    敬福は、この頃、陸奥国の長官である陸奥守に任命されて多賀城に赴任していた。
    金の産地は、現在の宮城県遠田郡涌谷町黄金宮前にある黄金山神社の周辺です。
    神社のすぐ下を流れる小川では、今でも少量の砂金を採集することができます。
    ここで産出された金は、陸奥国の政庁である多賀城にまず運ばれ、奈良の都に運ばれていって、大仏の表面に塗られることになったのです。
    752年、大仏は完成し、大仏の眼をいれる開眼供養がおこなわれました。
  • 664年(天智3)   禅広が朝廷に仕え難波に居所を賜る
    693年(持統7)   百済王の姓を賜り多数が五位以上となる
    749年(天平21)  敬福が陸奥の黄金900両を大仏建造の為献上
    750年(天平勝宝2)敬福が従三位宮内卿兼河内守に昇進
                これを契機に一族は交野郡中宮に移住
    790年(延暦9)   桓武天皇が後宮を渡来系氏族にも解放
                「百済王等は朕の外戚なり」と詔を下す
    797年(延暦16)  調・庸・雑徭(律令の主要な税負担)を免除
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