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熊野大社 島根県松江市八雲町熊野2451 出雲の国一之宮。 出雲国風土記には熊野大社と杵築大社(現出雲大社)の…
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さらに、驚くべきことに野城大神は、祀られる神社さえ失っているのです。
このことは、『出雲国風土記』では名前が出はしたものの、何らかの動向があって実体は消失させられた、ということではないでしょうか。かろうじて、野城大神という名前と、能義(野城)神社という神社。
その信仰圏が安来あたりをおおっていたという。
八上比売(やかみひめ、八上姫)は、日本神話に登場する因幡国八上郡の姫。大国主神の最初の妃。大国主神との間に木俣神を儲ける。
売沼神社(鳥取県鳥取市)
都波只知上神社(鳥取県鳥取市)
島御子神社(長崎県対馬市)
美しい八上比売(やかみひめ)の結婚相手に選ばれたため、兄弟に殺され二度も蘇生した大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)は、根之堅洲国(ねのかたすのくに/根の国)にいる須佐之男を訪ねることを大屋毘古神(おおやびこのかみ)に勧められます。根之堅洲国で須佐之男から出されたいくつもの難題を、娘の須勢理毘売命(すせりびめのみこと)の助けで解決した大穴牟遅は、根之堅洲国の武器を奪って逃走し、その武器で兄弟たちを追い払い、大国主神(葦原中国(あしはらのなかつくに)の主人たる神)になりました。その葦原中国の支配権を、天照大御神が欲しがります。
八上比売を祀る
鳥取 米子市 阿陀萱[あだかや]神社
大国主神と八上比売の娘、多岐喜姫[たぎきひめ]を祀る
事代主
美保神社 祭神は、事代主神と三穂津姫命[みほつひめのみこと]
鳥取 倉吉市 波波伎[ははき]神社
事代主神が天逆手[あめのさかて]を打って槇垣[まきがき](青柴垣[あおふしかき])に籠ったとされる地
また偉かった(人々の信仰を集めていた=より古い神様を祭っている)ことについて見て来ましたが、その証拠の一つに、神様を伊那佐(いなさ)の浜に迎えにゆくとき、竜神さまの一行が必ず立ち寄る場所があり、地元の人たちは、何の変哲もないその場所のことを『一の宮』と呼び習わしていることがあげられるでしょう。つまり、竜神が立ち寄らねばならないのは、イズモよりも格式の高い一の宮=熊野大社なのです。多分、これは、熊野大社のカミサマに大切な儀式に使う道具を授けてもらうのと同様、これから行う儀式の事前報告をしているのだと考えられるのです。
松江市八雲町熊野
祭神
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)
火の発祥の神社として知られ、「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれています。
『日本書紀』に「出雲国造をして厳神の宮を作らしむ」との記載があります。
伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
『出雲国風土記』には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。現代では櫛御気野命と素戔嗚尊とは本来は無関係であったとみる説も出ている
紀伊国の熊野三山も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている
摂社、末社
稲田神社 - 祭神:櫛名田比売命、足名椎命、手名椎命ほか6社合祀。
伊邪那美神社 - 祭神:伊邪那美命他十九社合祀。元々は上の宮の社殿。
荒神社
稲荷神社
亀甲紋を使う神社 出雲大社
山陰地方に鎮座する須佐神社、佐太神社、美保神社、八重垣神社、神魂神社そして熊野大社なども全て亀の紋所なのだ。
奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。
出雲大社の御祭神・大国主命は、丹波・亀岡の出雲大神宮から勧請されたと書かれているのです。
是歲、命出雲國造(闕名)修嚴神之宮。狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去、
又狗嚙置死人手臂於言屋社。(言屋、此云伊浮瑘。天子崩兆)
(現代語訳)この年、出雲国造に命じて神の宮を修造させられた。狐が葛(宮造りの用材)をかみ切った。また、犬が死人の腕を揖屋神社に置いて行った。天子崩御の前兆である。
揖屋神社(言屋社・いうやのやしろ)とは熊野大社や神魂神社などと共に意宇六社の一社。
意宇は「おう」と読みますが、一部地名では「いう」とも呼ばれるようです。揖屋神社が出てくることから、修造を命じられた「神の宮」とは意宇の熊野大社であって、出雲大社(杵築)ではないと思われます
北島家に残る「北島国造家沿革要録」
続日本紀元正天皇霊亀2年(716)2月丁巳、出雲国造外正七位上出雲臣果安、斎竟わり神賀詞を奏し、神祇大副中臣朝臣人足、その詞を以て奏聞す。この日百官の斎焉、果安より祝部に至り一百一十余人に位を進し禄を賜う。各差(しな)あり。伝に云わく、始祖天穂日命斎を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移すと云う。
この意宇六社を巡拝する「六社まいり」と称する行事が 明治以前から続いている。
意宇六社
熊野大社 島根県松江市八雲町熊野2451
眞名井神社 島根県松江市山代町字伊弉諾84
揖夜神社 島根県松江市東出雲町揖屋字宮山2229
六所神社 島根県松江市大草町496
八重垣神社 島根県松江市佐草町字八雲床227
神魂神社 島根県松江市大庭町
熊野大社 祭神
出雲国造神賀詞には加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と奉称し、国造奉斎の神の首座に座し、出雲風土記の意宇郡出雲神戸の条に「伊弉奈枳の麻奈子に座す熊野加武呂乃命と(中略)二所の大神等に依し奉れり」とあり。
意宇一郡を神戸とせられ、又名神大社として朝廷の崇敬も篤く、出雲国の一の宮としての尊崇を捧げられた。大正五年国幣大社に列した。(神社本庁別表神仕)
真名井神社
祭神は伊弉諾尊、天津彦根命(山代直の祖) 当社は出雲国風土記にいう「真名井社」延喜式に記す「真名井神社」。背後の山は神名樋山で出雲国内四神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す
揖夜神社
御祭神 伊弉冉命 大己貴命 少彦名命 事代主命
配祀 武御名方命 経津主命
境内に 韓國伊太氐神社 素盞嗚命 五十猛命
古事記には「故其所謂黄泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也」とあり、イザナミの黄泉の国への入口が当地にあるという。
六所神社、八重垣神社
御祭神 伊邪那岐命 天照皇大神 月夜見命 伊邪那美命 素盞鳴尊命 大己貴命
出雲国府跡にある。出雲国総社。
意宇六社の一社。意宇六社とは、神魂、熊野、揖夜、真名井、八重垣、六所神社。
当社は六柱の神を祀るが、「六所」は六柱の神ではなく、「録所」つまり神社の管理・統括する社であるとする説もあり、各地に「六所」と称される総社が存在する。
社伝によると、当社は元、佐久佐神社といい、式内社・佐久佐神社であるという。
よって、かつての主祭神は青幡佐久佐彦命であったという。中世になって、青幡佐久佐彦命は
境内社・丁明神社に祀られるようになったらしい。
だが、八重垣の社号を捨て切れず、大正十一年、八重垣神社と社号を戻して県社に昇格、陰暦十月の神有月には、全国の神々が、まず当社に集い、その後、佐太神社へ移られるという。
神魂神社
御祭神 伊弉冊大神 伊弉諾大神
島根県松江市、風土記の丘近くにある。案内が出ているので迷うことはない。「神魂」と書いて「カモス」と読む。
社伝によると、天照皇大神の神勅を奉じ、天穂日命が大国主命に出雲国奉還を促した時、大庭釜ケ谷に天降り、出雲大神・出雲国総産土大神として祀ったという。よって、大庭大宮と称された神社。
出雲国造家の大庭における祖神の斎場として機能していたようだ。
由緒に
「出雲国造の大祖天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕され、大社移住後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のため参向されている。」
境内社の坐韓國伊太氐神社
出雲の式内社に同名と思われる社が、意宇郡に三社、出雲郡に三社、合計六社。意宇郡はすべて「同社坐」、出雲郡は「同社」とあり、すべて他の神社境内にあるという記述が興味深い。
意宇郡・玉作湯神社、 同社坐韓國伊太氐神社
意宇郡・揖夜神社、 同社坐韓國伊大弖神社
意宇郡・佐久多神社、 同社坐韓國伊太弖神社
出雲郡・阿湏伎神社、 同社神韓國伊大弖神社
出雲郡・出雲神社、 同社韓國伊大弖神社
出雲郡・曾枳能夜神社、 同社韓國伊大弖奉神社
境内は広く綺麗。本殿左右に境内社がある。出雲の神社はほとんどこの形態
カモスと読むのは珍しいが、一説によると、神霊の鎮まり坐す所の「神坐所」(かみますどころ)がカンマスになり、さらにカモスとなったと言われている。イザナミノミコトを主祭神として祭る神社で、通称”大庭の大宮さん”と呼ばれている。
イザナミノミコト(伊弉冉尊)、合祀 イザナギノミコト(伊弉諾尊)
出雲風土記にも『延喜式神名帳』にも神魂神社の記載がない。この謎を解く鍵は隣接する出雲国造家の屋敷跡だという説がある。出雲国造家とのつながりが深く、神魂神社は私的な斎場だったと推測されている。
この神社の神紋には「有」という字が使われている。神様が集まる神在月(かみありづき)の十月の字の十と月を合わせたものとされている
出雲国風土記に玉造湯社と記されている古い神社で式内社。
櫛明玉神、大名持神、少毘古那神の三柱を祀り、合殿に五十猛神を祀っている。
神紋
二重亀甲に丸玉管玉勾玉
境内に古代住居を模した収蔵庫があり、玉作跡から出土した玉類をおさめている。近くに玉造温泉がある。
『出雲国風土記』意宇郡条に在神祇官社として「玉作湯社」と「由宇社」の2社が記載されており、それぞれが『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に記載されている「玉作湯神社」と「同社坐韓国伊太氐神社」に対応するものと考えられる。近世には「湯船大明神」「湯姫大明神」などという呼称もあった。明治に入り「玉作湯神社」の社名となった。
近代社格制度のもとでは村社となり、その後昭和3年(1928年)に県社に昇格した。
太玉命の率いる五神(天日鷲命:阿波忌部の祖、手置帆負命:讃岐忌部の祖、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇:筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱。
伊耶那岐神の子。高魂命の孫とも伝へられ、玉作連、玉祖連の遠祖と仰がれる神。
天照大御神が天岩戸に隠れた時、八坂瓊之五百箇御統曲玉をつくり大神を慰めた。
天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
櫛明玉神 を祀る神社
玉祖神社 山口県防府市大字大崎1690
櫛玉命神社 奈良県高市郡明日香村大字真弓字宮山51
玉造湯神社 島根県松江市玉湯町玉造
玉諸神社 山梨県甲州市塩山竹森3048
玉作神社 静岡県沼津市黒瀬町6
板井神社 鳥取県鳥取市気高町奥沢見1292
日前國懸神宮 および境内社 和歌山県和歌山市秋月365
三宅神社 宮崎県西都市三宅3415
駒形根神社里宮 宮城県栗原市栗駒沼倉字一の宮7
建部大社 滋賀県大津市神領1-16-1
大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
船路八幡宮 山口県山口市徳地船路2617
門僕神社 奈良県宇陀郡曽爾村今井733
籠神社は元伊勢と呼ばれる。20以上の地を転々とし、現在の伊勢市に伊勢神宮が存在する。
籠神社は籠目と関係があるか。籠目紋とは六芒星の事である。籠の中には龍がいる。
出雲の「女月神」の場合、女性の月神らしい。
『三代実録』に記事のある出雲の女月神とは、貞観七年と同十三年にそれぞれ、従五位、正五位に昇階された『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に登載のある小社、賣豆紀(ひめつき/めつき)神社の祭神である(『出雲国風土記』の「賣豆貴社」)。
賣豆貴社 めづき
【所 在】 島根県松江市雑賀町1663
【祭 神】 下照比賣命
【例 祭】 10月3日
創祀年代等の由緒は不明だが、『出雲国風土記』には「賣豆貴社」とあり、意宇郡条の記載順序では、48社中3番目とかなり社格が高い。『延喜式神名帳』では、出雲国意宇郡に登載のある小社、「賣豆紀神社」である。
本文中でも触れた貞観十三年の神階記事では、当社とともに能義神、佐草神、揖屋神、御澤神、阿式神等といった出雲の神社も、ともに正五位に昇階している。いずれも錚々たる名社であり、こうした神社と並んで、当社が早くから中央に名を知られていたこと示している。
丹波一宮で社格も高く、もとは広大な神域を持つ大神宮だった。
出雲大神宮の御神体は背後にある山(御蔭山)で、国常立尊のことだというが、元は拝殿もなかったらしい。原始的な信仰を伝える神社なのだ。主祭神は大己貴神とその妻である三穂津姫命であり、社伝では和銅二年(709年)に大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷した。そのため現在の主神は独り取り残された三穂津姫命であるが、あくまで本来の出雲はこの地であったという。そのため神社では「元出雲」と称している。
出雲大神宮の最初の拝殿ができたのは、大神の遷座と同じ和銅二年(709年:2009年には創建千三百年祭)という。
丹波の古伝に
昔丹波が湖だった頃、大己貴神が大山祇神(おおやまつみのかみ)と協力して、湖の端を切って保津川に水を落とし、現在の丹波盆地を作ったという伝説がある。
「播磨国風土記」に
「昔出雲の大神が神尾山に住んでいて、出雲の人が通りかかると、その半数を取り殺した」という伝承が伝えられている。
男神だけが一人で来て、姫神は遅れて来たので、男神の方は待ちきれずに一人で行ってしまった。遅れてやってきた姫神は、一人でその山にいるという。そのため、いつも不機嫌なのだそうだ。残念ながら、その姫神の名は分からない。
出雲大神宮が伝える「大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷した」という伝承は、神をその本来の居処から追い出したという話か。
日本書紀の第二の一書によると、
1. 国譲りの後、妻であった三穂津姫命は、高皇産霊尊のすすめで大物主神の妻となった。
2. 大物主神と事代主神は、最初に天孫族に帰順したという。
本文では、事代主神は大己貴神の息子であり、大己貴神に先立って去ってしまった(つまりすでに死んだ)のだが、こちらでは国譲りの後も生きていたことになる。
古代天皇の項でも書いたように、日本書紀では神武天皇の妻姫蹈鞴五十鈴媛を事代主神の娘としているのに、古事記では大物主神の娘としている。古事記では、事代主神は世を去った後には登場しない。
白河本旧事紀では高皇産霊尊が大己貴神の妻にしたという話になっている。
「国を譲ったといっても、今後国津神の娘を娶るなら、まだ逆心があると考えるぞ」と脅したのであり、日本書紀で大物主神に言った言葉とよく似ている。大己貴神と大物主神を日本書紀では別の神として書かれており、本文にはないが、第二の一書では大己貴神が国譲りして隠れた後(ここでは事代主神は隠れない)で、この結婚話が持ち上がっている。ただし三穂津姫命がそれ以前に大己貴神の妻だったということは書かれていない。
この名で呼ばれる神は他にも存在する。白河本旧事紀では孝霊天皇六年、天の御影神が出現したので野洲の三上山に祭ったという。これは天目一箇神であり、製鉄か製銅かは分からないが、金属精錬の神だ。ただ多くは御影神と言えば大己貴命のことである。出雲大神宮のご神体山が御蔭山と呼ばれている
出雲国風土記・現代語訳:意宇郡
原文
熊野大社 夜麻佐社 賣豆貴社 加豆比乃社
由貴社 加豆比乃高守社 都俾志呂社 玉作湯社
野城社 伊布夜社 支麻知社 夜麻佐社
野城社 久多美社 佐久多社 多乃毛社
須多社 真名井社 布辧社 斯保彌社
意陀支社 市原社 久米社 布吾彌社
宍道社 賣布社 狭井社 同狭井高守社
宇流布社 伊布夜社 布自奈社 同布自奈社
由布社 野代社 野代社 佐久多社
意陀支社 前社 田中社 詔門社
楯井社 速玉社 石坂社 佐久佐社
多加比社 山代社 調屋社 同社
以上卅八所。並在神祇官。
宇由比社 支布佐社 毛禰乃上社 那富乃夜社
支布佐社 國原社 田村社 市穂社
同市穂社 伊布夜社 阿太加夜社 須多下社
河原社 布宇社 米那為社 加和羅社
笠柄社 志多備社 食師社
以上一十九所。並不在神祇官。
<<前 次>>
現代語訳
※箇条書きで記載します。
・熊野大社(くまの):熊野大社(松江市八雲町熊野)
・夜麻佐社(やまさ):山狭神社(安来市広瀬町上山佐)
・売豆貴社(めづき):賣豆紀神社(松江市雑賀町)
・加豆比乃社(かづひの):勝日神社(安来市広瀬町広瀬 富田八幡宮境内)
・由貴社(ゆき):由貴神社(松江市馬潟町)
・加豆比乃高社(かづひのたか):勝日高守神社(安来市広瀬町富田)
・都俾志呂社(つへしろ):都辨志呂神社(安来市広瀬町広瀬)
・玉作湯社(たまつくりのゆ):玉作湯神社(松江市玉湯町玉造)
・野城社(のしろ):能義神社(安来市能義町)
・伊布夜社(いうや):揖屋神社(松江市東出雲町揖屋)、韓国伊太?神社(揖屋神社境内)、三穂津姫神社(揖屋神社境内)
・支麻知社(きまち):來待神社(松江市宍道町上来待)
・夜麻佐社
・野城社
・久多美社(くたみ):忌部神社(松江市西忌部町)
・佐久多社(さくた):佐久多神社(松江市宍道町上来待)
・多乃毛社(たのも):田面神社(安来市伯太町安田)
・須多社(すた):須多神社(松江市東出雲町須田)
・真名井社(まない):眞名井神社(松江市山代町)
・布弁社(ふべ):布弁神社(安来市広瀬町布部)
・斯保弥社(しほみ):志保美神社(安来市伯太町井尻)
・意陀支社(おだき):意多支神社(安来市飯生町)、愛宕神社(松江市外中原町)
・市原社(いちはら):市原神社(松江市東出雲町上意東)、磐船神社(安来市広瀬町西比田)
・久米社(くめ):熊野神社(比婆山久米神社)(安来市伯太町横屋)
・布吾弥社(ふごみ):伊邪那美神社(松江市八雲町 熊野大社境内)に合祀
・宍道社(ししぢ):石宮神社(松江市宍道町白石)、大森神社(同町佐々布)
・野代社(のしろ):野白神社(松江市乃白町)、野代神社(同浜乃木)
・売布社(めふ):賣布神社(松江市和多見町)
・狭井社(さい):佐為神社(松江市宍道町白石)、出雲路幸神社(安来市西松井町)
・同狭井高社(おなじきさいのたか)
・宇流布社(うるふ):宇留布神社(松江市八雲町平原)
・伊布夜社
・由宇社(ゆ):玉作湯神社(松江市玉湯町玉造)
・布自奈社(ふじな):布志奈大穴持神社(松江市玉湯町布志名)
・同布自奈社(おなじふじな)
・野代社
・佐久多社
・意陀支社
・前社(さき):伊邪那美神社(松江市八雲町 熊野大社境内)に合祀
・田中社(たなか):伊邪那美神社(松江市八雲町 熊野大社境内)に合祀
・詔門社(のりと):伊邪那美神社(松江市八雲町 熊野大社境内)に合祀
・楯井社(たてい):伊邪那美神社(松江市八雲町 熊野大社境内)に合祀
・速玉社(はやたま):伊邪那美神社(松江市八雲町 熊野大社境内)に合祀
・石坂社(いわさか):磐坂神社(松江市八雲町西岩坂)
・佐久佐社(さくさ):六所神社(松江市大草町)、八重垣神社(同佐草町)
・多加比社(たかひ):鷹日神社(松江市東津田町)
・山代社(やましろ):山代神社(松江市古志原町)
・調屋社(つきや):筑陽神社(松江市東出雲町意東)
・同社
〔以上四十八所はいずれも神祇官社(じんぎかんしゃ)。〕
・宇由比社(うゆひ):宇由比神社(松江市宍道町西来待)
・支布佐社(きふさ):支布佐神社(安来市吉佐町)
・毛弥乃社(もみの):毛社神社(松江市八雲町東岩坂)
・那富乃夜社(なほのや):那富乃夜神社(松江市八雲町東岩坂)
・支布佐社
・国原社(くにはら):宇留布神社(松江市八雲町平原)
・田村社(たむら):田村神社(松江市八雲町西岩坂)
・市穂社(いちほ):市穂神社(松江市東出雲町上意東)
・同市穂社(おなじいちほ)
・伊布夜社
・阿太加夜社(あだかや):阿太加夜神社(松江市東出雲町出雲郷)
・須多下社(すたのしも):須多神社(松江市東出雲町須田)
・河原社(かわら):河原神社(松江市八雲町東岩坂)
・布宇社(ふ):布宇神社(松江市玉湯町林)
・末那為社(まない)
・加和羅社(かわら):高良神社(松江市八幡町)
・笠柄社(かさえ):笠柄神社(松江市八雲町東岩坂)
・志多備社(したび):志多備神社(島根県松江市八雲町西岩坂)
・食師社(みけし):食師神社(安来市飯生町 意多伎神社境内)
〔以上一十九所はいずれも不在神祇官社(ふざいじんぎかんしゃ)。〕
出雲大社の社伝では、創建は、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営
吉田大洋著「謎の出雲帝国」によると、「霊亀二年(716)に建てられ」それまでは出雲大社は熊野にあったそうです。
祭神の大国主は出雲人の祖神ではなく、ホヒ族(注)が殺した大国主の祟りを恐れ、封じ込めただけ、だそうです。富氏によると、ホヒ族が出雲族と婚姻関係を結んだため、大国主命も自分達の先祖だといって、祀るようになったそうです。
大国主を殺しておいて、御先祖だから祀るというのは、やっていることが訳が分からないそうです。
(1)スサノオ(饒速日・徐福?)の侵略
(2)ホヒ族の侵略 (ホヒ族は九州から船で攻めて来た天孫族。)
このあたり「謎の出雲帝国」による
出雲族は稲佐浜で破れ、王位を天孫族に譲り、コトシロヌシは入水自殺
大国主はウサギ峠のウサギ穴に閉じ込められ殺された
ミナカタトミノ命は越に後退し、後に信濃に第二出雲王朝を築く。
富氏によると、正王 大国主 は徐福=饒速日の部下の「海童」に拉致監禁されて枯死させられ、大国主の捜索に出た。副王の少名彦も同様に拉致監禁され殺される。
饒速日から婚姻の申し出があり、受けた。(話の前後は不明)h
その後、出雲族はホヒ族とうまく行くようになっていた。
(2)神武の侵略
その後、神武の侵略があり、勢力を回復していた出雲族は穴門(長門)に向かえ撃った。
ヤタガラスが神武についた。
王のトミナガスネ彦は、大和を神武に譲り、出雲に退き亡くなった。
(3)ヒボコ族の渡来と抗争
ヒボコ族は出雲に侵入しようとしたが出雲族に撃退される
神武朝末期、鉄を狙い吉備に侵入(吉備王国誕生)
ヒボコ族は同じ牛族のスサ族(饒速日・徐福の物部氏)と同化
再び、出雲を狙う
【出雲神宝騒動】
「崇神天皇60年7月には、天皇が「天穂日命の子で武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))が天から持って来た神宝が出雲の大社【当時は熊野大社】に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じたところ、飯入根(いいいりね)【ホヒ族】が、当時の当主で兄の出雲振根【ふるね・出雲族】に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)(wikiより抜粋)
実態は「熊野大社に安置していたクナト大神の神宝、勾玉を天孫族が奪った」(富氏)
「物部、ヒボコ族の軍勢が出雲に攻め込んだ。弓が浜に拠点を置き、高志人がハガネを採らせていた、出雲人を討伐し、神宝を天孫に献上した」(神魂神社の宮司で物部の直径、秋上氏)という伝承が残っているそうです。
【ヒボコ族が出雲に侵入】
吉備王国を築き、力を付けたヒボコ族は、天孫族(物部・神武系)と手を結び、物部を将として、吉備から侵略
クナト大社(熊野大社)に安置する宝石(勾玉)を奪って行った。
出雲族は祭祀を停止し、出雲族が各地で反乱を起こした。困った天孫族は、祭祀を再開して欲しいと頼んだが、出雲族は拒否
ホヒ族が代行するも、国中が乱れた
当時の出雲族は、出雲から伊勢にかけてかなりの勢力を持っていた。
天孫族も内乱が起こり、天孫族は伊勢に攻め込んだ。
王のイセツ彦はミナカタトミノ命の信濃に逃れた。
天孫族は神魂神社に最前線基地を置き、出雲族の監視を始めた。
ホヒ族(出雲国造、千家・半島渡来人)は代が代わると、出雲の熊野大社に赴き、神火神水の儀式を受けることになっていたが、神宝事件以降、儀式は神魂神社で行われることになったそうです。
儀式を奪われた熊野大社と神魂神社は犬猿の間柄だそうです。奪われた出雲神族の勾玉は、出雲大社の命主社から出たものでしょうか?
命主社から出土した勾玉は、大石の下から発掘されたものです。
出雲大社の神紋、亀甲に花菱は出雲族の「亀甲に並び矛紋」とホヒ族の「花菱紋」の合わせ。