伊予の越智国造、小千命、三島大社、河野氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予

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  • October 2018 編集されました
    伊予
    「矢矧やはぎ神社」―朝倉大谷の地にある。ここにも『伊予不動大系図巻二十五』と言う古文書(巻物)が遺されている。これに記されている伊予の古代の大族越智氏の祖・小千天狭貫(おちのあまのさぬき)王を、この神社の祭神としている。「天のなにがし」であるので、海峡国家「九州王朝」との関連を見ることができる。また、神社紋は「梅の花」、九州王朝のにおいがする。
     合田氏は、王称号に注目。他の越智氏関連の系図には見られないことから、天国(あまくに)の王族による伊予への「降臨」ではないか、と言っている。
     本殿入口には、南北朝の戦乱をかいくぐったと言われている相当古い門守神像一対が鎮座していた。

    社伝によると、二名の州の主で越智氏の祖、小千の天狭貫王の廟として祀られ、往古には朝倉宋廟本社と号していた。斉明天皇(37代天皇)朝倉へ御幸の時ご参拝あってその時に朝倉の宮と改める。弘仁11年(820)八幡宮を御勧請、その後、清和天皇(56代天皇)の御代に朝倉宋廟八幡宮と改められる。 
     以前は八幡ヶ窪に御鎮座、社地八丁四方を有し(本郷・宮の窪・立丁・新田等の地名が残る)高縄山城主河野公の祈願所となり祭礼も盛大に行われていたが、天正10年(1582)の戦乱の被害により古文書等損失、社殿も荒廃して維持が困難になり慶長18年(1613)現鎮座地に奉移、八幡ヶ窪も元禄6年(1693)田地となる。相殿の矢番大明神は、元岡氏が上総国箕島より迎えて祀ると云う。
     延宝5年(1677)矢矧神社と改め今治城主松平公の祈願所となる
  • 合田氏は 今治市朝倉について
    「朝倉は「越智王国の都・王家の谷・聖地」である。「永納山古代山城」はこの朝倉の地を守るために築かれた。また、『日本書紀』に舒明天皇が「伊予の温湯宮に幸す」とあり、五ヶ月も伊予に滞在していたと記している(六三九年十二月~六四〇年四月)。そしてまた『伊予国風土記』逸文(『万葉集註釈』所載)に、舒明天皇とその皇后(宝皇女、後の皇極・斉明天皇)が伊予の湯に來湯したことを記している。更に『日本書紀』には斉明天皇が「白村江の戦い」に参戦する途次(六六一年)、「伊予熟田津(にぎたつ)宮の石湯(いわゆ)の行宮(あんぐう)に泊る」とあるが、現在の道後(地名命名は奈良時代)には「温湯の宮・熟田津宮」などの遺跡も、行幸伝承もない。温泉というとすべて道後に比定するのはおかしい(道後温泉は石湯とは言えない)。朝倉にも温泉があったのである(風呂のもと・湯場城・湯の口の地名遺存)。この温泉は天武天皇七年十二月(六七八)と同十三年十月(六八四)の二度にわたる大地震で、温泉の湧出は止まった。また同時に、越智王国の都・朝倉の古谷(こや)が、この地震により壊滅したことから、都を今治市側新谷(にいや)、その後古国府に移したようである。と。そして、このようなことから『日本書紀』舒明紀・斉明紀の伊予の行幸地について、当時の「越智王国」の都は、まだ朝倉古谷にあり、遺跡や伝承及び『国造本紀』にある伊予国内の国々や古代豪族の支配地域などの政治状況を鑑みると、両天皇(当時は大王)の道後來湯を全く否定することはできないが、行幸の主要舞台は朝倉であつた可能性が極めて大である。」
    と言っている。


    「無量寺―無量寺文書」―上朝倉水之上区にあり、
    前身は両足山安養院車無寺。当初は三輪宗で現在は真言宗。斉明天皇に同行された無量上人の開基と言う。
     ここには不思議な古文書(巻物)『無量寺由来』が所蔵されていて、特別な計らいにより拝観することができた。斉明天皇行幸の記述と共に「長坂天皇」「長沢天皇」「朝倉天皇」「牛頭天皇」などが出現。舒明天皇行幸説話も記録されている。奇妙な天皇名、摩訶不思議である。合田氏は、斉明天皇行幸説話と共に九州王朝の天子「多利思北孤」の当地への行幸説話が、はめ込まれた可能性もある。とのこと。そのようにも思えてくる。
     また、このお寺には薬師如来の小像が安置されているが、この巻物に小像の由来について面白いことが記されていた。合田氏によると、北条の文化財で「庄の薬師堂」にある県下最大の薬師如来坐像(高さ二・五メートル、室町時代後期作)は、元は無量寺にあって、北条の河野氏の命により、この小像と交換させられた。この坐像がどこから持たらされたのか、北条では全く不明であったのが解った。このことは伊予の大族・朝倉の越智氏の勢力が衰退し、それに替わって伊予全土を手中におさめていた北条の河野氏の権力により、大と小の仏像を入れ替えさせた。
  • 日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する
  • 出典
    http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/28274791.html

    明治二十七年に刊行された栗田寛『新撰姓氏録考證』には、いくつかの重要氏族が洩れていると指摘し補完したのが大槻如電でした。この脱漏氏族のなかに「越智直、石上同祖」があり、大槻は『新撰姓氏録考證』への「補遺」として補足し、そこに解説を加えています(『神道大系』古典編六、所収)。大山祇神社の祭祀氏族としての越智氏ですが、大槻は、この越智─河野氏の盛衰興亡を、次のように手際よくまとめています。

    さて越智は伊豫の著姓にて、其末流は河野となり、稲葉となる、〔中略〕
    文武帝の時に越智玉興といふ者あり、越智郡大領となり、其弟玉澄が河野(風早郡)といへる地に住みて河野氏を称し、二十一世の孫通清は、寿永の乱に源氏の方人して殺され其子通信は承久の役に官軍に属して伊豫守護を失ひしが、蒙古の寇に曾孫通有戦功ありしかば、旧領を復せり、されば元弘の役に、其子通盛は北條氏に附従して、家は亡ひぬ、得能土井の両氏は、河野の一族なれど勤王の軍に加り建武中興の勲臣たるは、世の知る所なり、足利氏の時に、通盛再び伊豫の守護となり、子孫世襲して、天正中長曾我部元親に滅さる、応神帝の時より通計すれば、一千三百余年に及ふ名たゝる旧族なり、〔後略〕

     文武天皇の時代に「越智郡大領」として越智玉興の名があり、その弟の玉澄の名がみられます。この文武時代である大宝時代に、大山祇神社の新たな社殿祭祀がはじまります(「大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営をなし、養老三年四月二十二日正遷座が行なはれた」…『大三島詣で』)。
     大宝時代には秦氏による松尾大社が官命によって新たな祭祀をはじめていて、この大山祇神社の新たな祭祀も官命によるものとみられます。現在、大山祇神社の境内案内「日本総鎮守大山祇神社由緒」には、祭神は「大山積大神一座」と明記され、また「祭神の子孫 小千命」ということばがみられます。越智氏は大山積大神の「子孫」とあることには注意がいきます。越智氏の「外伝」的祖神は「神饒速日命」のはずで、この重要な祖神の名、あるいは系を記すことなく、大山積大神の「子孫」だというのです。
     越智氏の祖を大山積大神とするのは、大山祇神社一社に限定される特殊主張というべきで、こういった不可解さを垣間見せているところに、越智氏(玉興・玉澄)の官命祭祀受容の苦衷が表れているといえます。
  • 加茂族の本拠地だった現在の西条市は 大宝律令により 「神野郡」 とよばれるようになりましたが、この「神野郡」とは、現在の西条市と新居浜市の両方を合わせたものをさします。
    「神野郡」はのちに、「新居郡」と名前が変えられますが、この地を治めていたのは 
    「越智氏」子孫 神野郡とよばれる時は「越智玉澄の兄の玉守」でした。

    しかし、新居郡と名前が変えられる時、国司が越智から橘に変わっています。
    そして、この伊予橘が越智の子孫だという説があります。

    それは新居浜市の一宮神社の系図に、越智氏から橘に変更されたと記されているからです。
    楠正成も、「橘氏」の子孫と言われ、越智氏の血を受け継ぐ子孫だといわれています。

    ということは、「橘」の姓を賜った 「三千代」は越智氏の血を受け継ぐ娘か?
  • 三嶋大社(みしまたいしゃ)は、静岡県三島市にある神社である。式内社(名神大)、伊豆国一宮・総社で、旧社格は官幣大社。

    御祭神:大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)、
    御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

    大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。
  • 『国造本紀』にあらわれた国造の系譜について述べていくこととする


    伊余国造は速後上命であり、印幡国造の祖先である敷桁波命の系譜をもつと記されている。しかし、『古事記』には速後上命は神八井耳命の後裔とあり、両書の間に矛盾がみられることから、その系譜には疑問の余地がある。

     第二に、久味国造は伊與主命とされ、神魂尊の一三世孫という系譜をもっている。しかし、一方で、伊與主命は神魂尊の八世孫味日命の後裔とする系譜(新撰姓氏録)もあり、ここでも伝承に相違がみられる。また、一三世孫というあいまいな表現をしていることからも、この系譜の信頼性は低いというべきであろう。

     第三に、小市国造は小致命とされ、物部連と同祖である大新川命の孫であると記されている。この大新川命は饒速日命の七世孫建膽心大禰命の弟であるとされており(天孫本紀)、垂仁天皇の時代にはじめて大臣となり、物部連の姓を賜わって大連となったが、大連の名はこの時よりおこったとされる。

     このほか、怒麻国造は若彌尾命であり、阿岐国造と同祖である飽速玉命の三世孫とされ、また、風早国造は阿佐利であり、物部連の祖である伊香色男命の四世孫の系譜をもつとされている。

     このように、久味国造は孝元天皇に関係をもつ皇神別であるが、その他の国造は物部・印幡・阿波など他国の国造と同祖という伝承をもつ。これらの中で比較的信頼できると思われるのは物部連の系譜をもつ小市国造・風早国造であろう。それは、伊予国に物部氏が多く分布していることから確かめられる。しかし、久味国造を含め、伊予の国造の系譜が確実とはいえず、たとえば、これらの系図に一三世孫、四世孫というようなあいまいな表現が多くみられることからもそれをうかがうことができる。いずれにせよ、これらの系譜が成立した背景には大和朝廷の勢力拡張という情勢の中で伊予の国造層はみずから朝廷と結びつく系譜をつくり、また、それを誇示することによって国内の中小豪族層との格差を明確にするという目的があった。それによって在地支配を有利にすることができたと考えられる。
  • 『日本書紀』清寧二年条に、播磨国司山部連の先祖伊予来目部小楯が播磨国赤石郡縮見屯倉で億計・弘計の二王子を探し出し、天皇として迎えた記事があり、また、同書顕宗前紀には、小楯が郡県を巡行して田祖を収取したと記されている。さらに、『古事記』にも同様の内容が伝えられている。ただ、これらの記事は多分に伝承的であるため、そのまま史実とみなすわけにはいかない。しかし、小楯の職が「国司」あるいは「国の宰」とされていることから、律令的な国司制成立の過渡期にあたる時代を反映したものと考えることができる。

     ところで、この記事から伊予の久米部の性格をある程度推測することが可能である。つまり、伊予来目部小楯は山部連の先祖とされているが、山部連は古くより山人集団を形成し、大和政権の軍事的役割を担っていた。それは、大化前代より宮城の門を警衛することを職掌としていたとされる宮廷一二門号氏族の中に山氏が含まれており、待賢門にその門号が付されていることからも明らかである。その山氏は山部連と同族である。
    したがって、伊予の久米部がこのような門号氏族である山部連と結びつく伝承を有することは、伊予国が古代において大和政権の重要な軍事的拠点であったことを示すとともに、久米部そのものも、このような軍事的氏族と結びつくことが自然であるような性格を有していたと考えられる。
     さらに、このような性格を示す記事として、伊予国の人、浮穴直千継らの先祖が大久米であるとする史料がある(続日本紀)。
    これによって、浮穴直と久米直とが同族関係をもっていたことがわかる。ところで、この浮穴直は移受牟受比命の後裔であり、一方、大和政権の軍事に深くかかわった氏族である門部連は安牟須比命の後裔とされる。両者は同じ神と考えられることから、浮穴直と門部連とは同族関係をもつことになる。したがって、久米直は浮穴直を介して門部連と結びつくのである。このように、久米直は山部連・門部連など古代の代表的な軍事的氏族と関わりをもっており、そこに久米直・久米部の氏族的性格があったといえよう。
  • 伊予国の史料にあらわれた奈良時代までの物部氏には持統一〇年(六九六)の物部薬、天平八年(七三六)の物部荒人、天平勝宝九年(七五七)の物部小鷹などがいる。このうち物部荒人は郡司(主政)ではあるもののカバネをもたない部姓郡司であり、その位階は冠位三〇階制の最下位にあたる少初位下である。これからみれば、階級的に上昇してきたのか、あるいはかつてより「部民中の豪族」といわれる者であったかは不明であるが、いずれにしても部民の後裔と考えてよかろう。つぎに物部薬は白村江の戦いで捕虜となった人物であるが(日本書紀)、出征した当時は白丁(無位の者)と考えられるから、部民の後裔としてよかろう。また、物部小鷹は温泉郡に居住した秦勝廣庭の戸口であることからみて、やはりかつては物部の部民であったろう

    佐伯連は大伴氏の一族であり、朝廷の軍事に深く関与した氏族であった。そのことは藻壁門は「佐伯氏造之」とあるように古くから天皇に近侍して宮城の守衛にあたっていた。
  • 『続日本紀』天平神護二年(七六六)の条である。これには「伊予国の人、従七位上秦毗登浄足の奏言によれば、孝徳朝の時代に大山上安倍小殿小鎌が伊予に遣わされて朱砂を採取した。彼はこの地で秦首の女をめとり、その子の伊予麻呂は母の姓に従って秦伊予麻呂と名のった」と記されている。これによって秦首が伊予国に居住していたこととともに、その来住が孝徳朝以前にさかのぼるものであったことがわかる。

    秦首と同様、中央の秦氏と結びつく系譜をもつ秦勝について

    秦勝に関する史料は天平勝宝九年(七五七)の画工司未選申送解案帳である(正倉院文書・一四)。これによれば、伊予国温泉郡橘樹郷の郷戸主として秦勝廣庭の名がみえ、秦勝が温泉郡に居住していたことが確認される。この「勝」に関して雄略紀一五年条には秦酒公が一八〇の「勝」集団を率いたことがみえ、これによって五世紀中葉から六世紀前半の頃にはすでに中央の秦氏―勝姓者―秦部という管掌形態のあったことが推測される。
  • July 2017 編集されました
     伊予の凡直は奈良時代には伊予国の広範囲にわたって根強い勢力をもっていた。

    奈良時代に郡司に任用された者には国造の系譜をもつ者が多いが、凡直もまた時期的に遅れて編成されたものの国造の地位にあった。それゆえ、大化前代以来の有力豪族であったことは間違いない。
     さて、凡直の分布を全国的にみると、大和朝廷の根幹をなす瀬戸内海沿岸に集中しており、瀬戸内に特有の制度である。このことは凡直の設定が大和朝廷の地方組織の再編というにとどまらず、瀬戸内海ルートを重視した結果であったといえよう。したがって、凡直の成立にあたって、当時の対外的緊張関係がその背景にあったと思われる。つまり、六世紀中葉以後、朝鮮半島をめぐる情勢はきわめて切迫した状態にあり、それは任那日本府の滅亡によっていっそう深刻化したであろう。このような情勢に対応するために凡直が設定されたと考えられ、そして、その成立時期は六世紀後半の敏達朝を中心とする時期であったと考えられている。
     つまり、凡直制の成立した六世紀後半の伊予国では、県下最大の野々瀬(朝倉村)・大空・高原(土居町)・舟山(小松町)・伊予岡(伊予市)・宇和(宇和町)古墳群など多くの群集墳が県下全般にわたって出現する。

    このような変化は鉄製農具の普及による生産力の向上によって有力家父長層が出現したことを意味し、そのことが地域共同体内部における国造の支配を動揺させた。このような情勢に対応するため伊予国に凡直がおかれ、新たな支配秩序の編成がはかられた。
  • 室町時代には越智氏流とされる河野氏が守護となり武士団を形成、伊予国中部に勢力を拡大させます。
    西部には宇都宮氏・西園寺氏が戦国大名として威勢をはります。

    河野氏は源頼朝が挙兵すると源氏方に組みし、奥州征伐にも参戦、その功績により伊予惣領職となります。
     そして「建武の新政」では足利尊氏に付いた河野通盛が伊予守護職に任ぜられます。 ところが幕府管領細川頼之が伊予国へ侵攻、武力で守護職を奪い取ります。
     河野家再興を託された河野通直は南朝方に降り、幕府征討軍を撃破し、細川勢を伊予国より排除します。 細川氏も反撃に出ますが、幕府内の細川氏対斯波氏の権力闘争に付け入り、河野氏は幕府(北朝方)に帰順して伊予守護職に復帰します。
     その後、伊予国東部の新居郡・宇摩郡の割譲を条件に和睦が成立、河野家再興を成し遂げます。
     その後河野氏は在地の有力土豪や海賊衆らと姻戚・主従関係を結び、着々と勢力を伸ばしていきました。 越智・河野氏流の氏族は以下の通りです。
      別宮・石田・風早・寺町・北条・弘田・児島・小千・高市・吾河・井門・石井・
      水渚・南・浅生・近江・萱戸・梢・御谷・排志・新居・吉田・井出・上戸・周布・
      桑村・高橋・英多・嶋山・得能・土居・別府・久枝・甲曽・大瀬・中川・壬生・
      桑原・壱岐・因島・白石・浮穴・田窪・田井・遠藤・浅海・久万・難波・小倉・
      松末・稲葉・重見・野島
  •  「応仁の乱」が起こると、守護河野教通は東軍細川勝元に組みし、一方分流の予州家河野通春が西軍に付いたため河野氏の内紛が起こります。 そして有力国人らの反抗、他国の大名の進出によって伊予国は動揺し始めます。

    戦国期の有力国人勢力をみてみます。
     まず守護河野氏を支えた河野十八将と呼ばれた家臣団は以下の諸氏です。
      村上(3)・今岡・忽那・得能・南・大内・久枝・土居・松末・平岡・和田・戒能・
      正岡・中川・桑原・黒川
     続いて地域別に記します。
     宇摩郡には、豊田氏・馬立氏・河上氏・妻鳥氏・真鍋氏・薦田氏があります。
     新居郡には、越智氏流新居氏の発祥地で一族が広がっています。 また同郡高外木城の石川氏は金子・松木・高橋・藤田・近藤・徳永・塩出・薦田・野田らを配下に郡域に勢力を得ています。
     周布郡には宇野氏のほか、新居郡の新居氏や桑村郡の得能氏が進出しています。
     桑村郡からは、得能氏・壬生川氏・桑原氏・黒川氏が出ています。
     越智郡は伊予国府あった中心地であり、越智氏発祥の地です。越智・河野氏の勢力が強い地域です。 今岡氏・拝志氏・高橋氏・桜井氏・山本氏・岡部氏・村上氏があります。
    なかでも村上氏は海賊村上水軍として知られ、能島・来島・備後因島を拠点に活動し、能島村上・来島村上・因島村上と呼ばれました。室町時代には河野水軍の配下となります。
     野間郡・風早郡は河野氏の発祥地河野郷があり、有力庶家が分出しています。得居氏・南氏・重見氏があります。
     和気郡には、河野氏族が広がり、久枝氏・大内氏・福角氏があります。
     温泉郡には河野氏の本拠湯築城があり、室町時代から威勢を振るった地域です。河野氏族の垣生氏・松末氏があります。 海上の忽那諸島の二神島からは二神氏、忽那島からは海賊衆旗頭忽那氏が出て、戦国期には河野氏の被官となっています。
     久米郡には、田窪氏・白石氏・和田氏・戒能氏・佐伯氏・日吉氏・平岡氏があります。
     浮穴郡には、合田氏・仙波氏・砥部氏・大野氏があります。 なかでも大野氏は喜多郡大野(?)に発祥したとされ、浮穴郡に進出し、郡域に勢力を拡大しています。 配下の諸氏には中川・寺西・宮原・佐川・高岡・赤松・松室・名本・黒川・土居・日野・東・林・小倉・鶴原・梅木・船草があります。
     喜多郡には、鎌倉時代に喜多郡の地頭職を得た下野藤原姓宇都宮氏流の宇都宮氏が定着し、大洲を本拠地に勢力を拡大します。 一族には曽根氏・井上氏・栗田氏があり、被官には都築谷氏・二宮氏・上須戒氏・向居氏・摂津氏がいます。 その他に大野氏族の城戸氏・富永氏があります。
     宇和郡には、京から公家西園寺氏が入り勢力を拡大させます。 配下の諸氏に南方氏・三善氏・熊崎氏・久枝氏・富永氏・鎌田氏・久良氏・白木氏・魚成氏・北之川氏・勝山氏・芝氏・法華津氏・土居氏がありました。 その他、南予の津島からは津島氏、が出ています。
  • 『後漢書』「光武帝紀」、「(二十五年六月、)洛陽に都して漢朝を興すと、柴を焚いてその高煙が天に通じたところで皇天上帝にお礼の言葉を告げるとともに、水・火・雷・風・山・沢の六宗に禋祭し、ついで望祭して山河など后土も祀った。ここに建武と改元し、天下に大赦した。
    (五十六年二月、)光武帝は魯国から泰山に向けて巡幸した。遠くから泰山を望む地で柴を焚きながら望祭した後、泰山の頂と麓の梁父山で封禅を成し遂げた。
    『後漢書』「光武帝紀」、「(建武中元)二年(五十七年)春正月、初めて北郊を立て、后土を祀る。東夷の倭奴国王、使を遣わして奉献す」
    『魏志』「明帝紀」、「(二三七年十月、)魏の明帝は洛陽の南に円丘を築き、十二月冬至の日に初めて郊祭を行った。明くる年正月早々に、彼は司馬宣王に兵四万を授けてを公孫淵討伐を下命した。
    『晋書』「武帝紀」、「泰始二年十一月、倭人来りて方物を献ず。南と北に円丘・方丘を併せ、二至の祀郊に合す」
    ☆泰始二年(二六六年)の冬十月、仙人のいで立ちをした女王トヨの遣いが晋の都に参って貢物を献上した。すると、武王は翌月冬至の日にあたふたと郊祭して天地を祀り終えてから、仙人に見えたのだった。
  • 文武天皇も新羅系???
    文武天皇の即位(697)が日本書紀(720)に書かれていない
    「続日本紀」では文武天皇(697~707)は軽皇子、草壁皇子の子とされています。その母の持統天皇の孫となっています。しかし、720年の「日本書紀」で記されるべきこの「史実」が「日本書紀」からは削除されている??

    ●文武天皇は夭逝しているのに「天真宗豊祖父天皇」?
    文武天皇は683年生、707年没となっている。
    つまり24歳で世を去っているが、諡号は「天真宗豊祖父天皇」となっているの

    ●没年の記述が二種類存在する
    一般的には25歳とされている文武天皇の没年だが、鎌倉時代の「愚管抄」には「御年は二十五あるいは七十八」という記述があり、高齢で亡くなったとすると上記の諡号と整合する。

    ●在位十年半の間に一度も皇后を立てていない
    「十四歳で皇位に就い」てからの在位十年半の間に皇后を立てていない

    文武天皇=新羅の文武王??
    ●新羅の文武王=文武天皇
    ここで、新羅の金春秋(日本に質として滞在した経験あり)の子、文武王
    新羅文武王は「新羅本紀」によると681年没とされている。文武王は亡くなる直前に「東海の龍となって国を護りたい」という遺言を遺して葬られたという伝説がある

    ●文武王の没年=草壁皇子の立太子
    新羅文武王の没年(681)は日本では草壁皇子の立太子の年に当たる。
    ●皇后を立てなかったのは、高齢だから
    681年に56歳で没したとされているため、文武天皇として即位したとされる697年には72歳であり皇后は必要ではなかった。

    ●「軽皇子」は、渡来系の人物であることの証左
    軽皇子は、文武天皇のこと。
    「軽」の文字が付く皇子は他に二人。そのうちの一人孝徳天皇も親新羅政策を取っていたため、新羅の王族だった可能性がある。
  • まず河野系譜の源を考えてみると、人皇第7代孝霊天皇の第三皇子が鎮護国家のために伊予の地に来られ、伊予郡神崎庄に住んだことに始まる。この皇子が彦狭島皇子で、伊予皇子と号した。母の皇后は磯城県主大目の女細姫命である。やがて、皇子と当地の海童女(わたつみのひめ)和気姫との間に三つ子が生まれ、これを棚なし小舟で流すと、一の御子は伊豆の浦に着いて諸山大明神になった。二の御子は備前の児島に着き、三宅氏(児島氏)の祖となった。そして、三の御子が当国和気郡三津の浦に着いた。この御子は天性がすぐれていたので、その名が京師にも知られ、7歳にして帝都に上り34年の間天恩に浴したが、その後は旧国・伊予の国司に任ぜられ、小千郡の地に住んだ。そのためこれを小千御子と称した。
    その上で、以下のような系譜を載せている。
    細姫命……彦狭島命(孝霊第三の皇子、伊予皇子。伊予郡神崎の庄に居住)……小千御子(三子のひとり天狭貫。伊予国司にして宗廟の神。和気郡三津の浦から帝都に上り、還って小千郡に居住)……天狭介……粟鹿……三並……熊武……伊但馬……喜多守……高縄……高箕……勝海……久米丸……百里……百男……益躬……武男……玉男……諸飽……万躬……守興……玉興……玉澄……
    以上は『上蔵院本』による伝承だが、『長福寺本』でも小千御子の子を天狭貫としている以外は同じである
  • October 2018 編集されました
    朝倉の矢矧やはぎ神社にある『伊予不動大系図巻二十五』(『岡文書』と同じ)や『矢矧神社御由緒』(10)には、
     「七代孝霊天皇第三皇子彦狭島王三代ノ嫡孫、越智氏ノ祖ハ小千ノ天狭貫王」
     とあった。ここでは、越智氏の祖は小千命ではなく小千ノ天狭貫王となっていて王称号もついていた。小千氏(越智氏)の初代は、矢矧神社にある『伊予不動大系図巻二十五』(『岡文書』と同じ)や『矢矧神社御由緒』の「小千天狭貫王」となるのではないか、

    『予章記』によると、彦狭島命(彦狭男命・伊予皇子)には三子あり、第一王子は大宅・庵原氏祖、第二王子は三宅・児島氏祖、第三王子が小千命で、旧・越智郡大浜(現・今治市の糸山半島部付け根)に居宅を構え、越智氏・河野氏の祖となったとしている。
     小千氏祖三代がそれぞれ違う所、彦狭島命 ーー 伊予郡神崎庄(伊余国)、小千命 ーー 越智郡大浜(当時は怒麻国内 ー 筆者)、小千天狭貫越智郡朝倉(小千国)、そしてまたその息子・天狭介 ーー 乃万郡大井(怒麻国)と、全く離れている所、「クニ」も違う所に居宅を構えている。あたかも伊予国内全てが小千氏の領土であるがごとくで、これは不自然である。

    『予章記』の記事では伊予親王というのは、七代孝霊天皇の第三皇子、孝元天皇の弟にあたる彦狭島命である。この時に南蛮・西戎が蜂起したため、国家を鎮護するために伊予国に留まり、そこで伊予皇子と号し、天皇より西南藩塀将軍の宣下を受けたという話になっている。『記』『紀』には孝霊天皇の子に彦狭島命が存在するが、異民族の蜂起などということは全くみえない。
  • October 2018 編集されました
    伊予の朝倉

    『朝倉村誌』記載
    朝倉の遺跡を見ると、多伎宮古冢ちょう群・野々瀬古冢群・野田古冢群などの「冢(20)」群がある。更に古墳時代初期の「王墓」を象徴する「三種の神器(鏡・剣・勾玉)」が出土している樹之本古墳があって、他に牛神古墳・根上がり松古墳・七間塚古墳・五間塚古墳・行者ヶ原古墳・城ヶ谷古墳・恵下坊古墳など、県下屈指の古冢・古墳の密集地帯である。これらのことからも、ここには「クニ」が在ったことを疑うことは出来ないのである。

    朝倉には時代は下るが「伝・斉明天皇陵(所在地・朝倉上)」があり、斉明さいみょう天皇に因んだ「斉明」という地名(『岡文書』に記載有り、現小字地名は「才明」、明治初年に替わったか ー 筆者。)まであった。

    斉明天皇の行宮遺跡及び伝承地として、
    「橘広庭宮(現在の伏原正八幡神社)」・「木丸殿(数回立て替えられ現在地は朝倉下)」・「矢矧神社(朝倉北)」があり、西条にも「石湯八幡宮(熟田津石湯行宮・旧所在地安知生 ーー 橘新宮神社へ遷宮、現在地洲之内)」・「御所神社(所在地古川)」など都合五ヵ所もあった。この他、隣国の宇摩国(四国中央市)にも長津宮(磐瀬行宮 ーー 現在の村山神社)もある。

    その上、“唯一無二”であるはずの天子・天皇の宮殿「紫宸殿」(斉明天子の宮殿?)地名遺跡が旧東予市の明里川にあり(わが国の紫宸殿が在った所は太宰府と平安京及びこの明里川の三ヵ所)、隣接して広大な「天皇」地名まであつた。
     次に、『日本書紀』では斉明天皇の夫とされている舒明天皇の行宮遺跡及び伝承地は、越智国内に遺構として「象耕庵」(現在まで数回建て替えられており、現存は昭和年代、旧・三好町大野)、伝承地として「金谷村十方寺(旧・実報寺村)」・「国山之湯(本谷温泉の奥)」・「楠窪之湯(鈍川温泉の近く)」の都合四ヶ所がある。
  • October 2018 編集されました
    朝倉盆地(東西距離六・二キロメートル、南北距離八キロメートル、総面積二十九・七九平方キロメートル)はどう見ても小さな盆地である。
    ここが、小千天狭貫越智郡朝倉(小千国)である。
    矢矧神社
    天峡貫王(あまさぬきのおう)
    誉田別命(ほむだわけのみこと)
    武内宿禰(たけうちのすくね)

    小千から改姓して、越智に

    小千から越智に改姓したことについて『予章記』は、
    「玉興越人ヲ弟トスル事」として、玉興は小千守興の長子であるが守興が蒙古退治の折に中国の越で生ませた母違いの弟・玉澄との出会いを縷々述べている。次いで、
    「玉興越人ニ家督ヲ譲リ越智并河野ニ字ヲ定ル事」として、玉興は玉澄(玉純)に家督を譲り、越で生まれたことから姓を小千から越智に替えることとした。
     これは、「白村江の戦い」に出征した小千守興が、捕虜となって中国で暮らした折に生まれたとする玉澄のことを記しているのであるが、この玉澄の生まれた国・越に因んで越智に替えたとしているのである。

    縁起を担いで好字を付けるのと同じではなかろうか。元明天皇の和銅六年(七一三『続日本紀』(32)に、「畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。」
    と、あることと同じである
  • 景行天皇(西暦71〜130)は、皇族や皇子を別君として派遣し諸国を統治した。伊予は第12皇子の武国凝別命が統治する。その子孫の御村別は御村(東予地方)を、国乳別命を宇和別君(南予地方)、伊豫津彦命(伊豫豆比古命。一説には十城別主)を伊豫別君(中予地方)とした。
     〝別子 わけのこ 〟と尊び呼んでいたが、後に〝別子〟になったという。

     『旧別子案内』(昭和35年 東平青年学級 制作・宗像神社所蔵)には伝説として「文治五年、近藤半之丞、藤原秀晴が近江国北泉から北の地へ来て瓜生野町と称して開拓。その子孫が各所に住居し『子を別けた山村』の意味で後に別子山村と改めた」との記載あり。

    ○ 伊予の統治について
     景行天皇が全国各地に送って統治させた皇子や皇族は別君と呼ばれ、支配者の意味を持つ称号である。
     また、神武天皇の東征以前に大山積神の子孫である乎知命(小千、小市とも記載される)が四国に渡り、越智氏、河野氏などの祖となり、東予地方にも勢力を持ったとする説がある(予章記=河野家の家譜等)。
  • 神野郡 かんのぐん

    《飛鳥時代 592〜710年》
     大化の改新(645)の翌年、〝改新の詔〟によって伊予国に評(評数は不明)が順次置かれ、大宝律令(701)制定後は13の郡(後に14郡)となり、旧西条と新居浜をあわせた地域が神野郡(後の新居郡)となる。
     郡を統治する役所の〝郡家〟は当初、神戸郷(西条市中野)に置かれた。

    神野郡に6つの郷

    《奈良時代 710〜794年》
     霊亀3年(717)の国郡郷里制により神野郡に6つの郷が置かれた。

    【丹上郷】 東は関の立石より、西は土橋まで。
     郡境は関ノ峠より西船木、角野、泉川、庄内、新須賀、神郷、高津、垣生、多喜浜方面。
     中心の郷家は泉川と推定。

      ※ 井上郷、井於郷、伊王郷とも記され、読みも「にのへ」「にのかみ」と様々ある。

    【新居郷】 土橋より四本堂まで。
     中萩、高木、政枝、西之土居、江口、河内、一宮、久保田、金子新田など。
     郷家は中村本郷周辺と推定。四本堂は消滅。

    【島山郷】 四本堂より小楠まで。
     大生院、飯岡、玉津一帯。

    【賀茂郷】 小楠から青木柴まで。
     大町、神拝、旧西条の地域。

    【神戸郷】 青木柴から柏まで。
     神戸、橘一部。伊曽乃神社領。

    【立花郷】 柏より経塚。
     橘一部と橘郷は氷見(氷見の各里からなる)。
     周布郡の一部。立花は橘とも表記される。

     ※ 海部郷 … 奈良時代の平城京出土木簡より存在を推定され、宗像神社との関連が想定される。


     武国凝別命の8代目子孫 宮手別君、大別君、足国別君の父子3代は、評造、評督、郡大領に就任。足国別君の冠位や条里制からみて奈良時代の中頃以後、西条神戸郷の神野郡 郡家を新井郷(中村本郷)に移す。
     新しい居(庁舎)で〝新居〟、郡の中心を〝中村〟といい、郷の本村を〝本郷〟という。その後、新居の浜辺が〝新居浜〟と称され、海部(海民)が存在した。

     新居郡家の南に南海道(官道・旧街道)が通り、近くに新居駅(駅家 うまや )が置かれていた。なお、奈良時代末頃に郡家は一宮神社の東方(新居殿屋敷。今の新居浜市役所付近)に移る。
  • 《奈良時代 710〜794年》
     天平15年(743)に〝墾田永年私財法〟が施行。ここから貴族や有力な寺社は、全国的に開墾を始めて次々と私有の荘園とした。

     新居浜では奈良・東大寺が船木から泉川に荘園を開墾し約400年間、管理された。その荘園を〝新井庄〟と称されたが、後に〝新居庄〟へ改める。泉川の東臺神社そばの東田保育園が、東大寺出張所跡(庄家)という。
     法隆寺もこの頃、神野郡新居荘を含む14ヶ所に伊予国の荘倉(米穀等の倉庫)を設置。場所等は不明。

     この荘園は秀吉の〝太閤検地〟まで続いた。その間色々な変化を遂げつつ、農地拡大の推進力となる。
     貴族や大きな寺院(東大寺、法隆寺等)が大きな荘園開拓に力を入れ私有地拡大を図っていった。荘園には荘園管理者が置かれ、やがて武家へと変化していく。
  • 朝倉史跡 今治市

     愛媛県今治市朝倉(旧・越智郡朝倉村)には、古墳が三百基以上も現存していて、「三種の神器」を伴った王墓もある。そして、各所に天皇地名があり、中でも斉明天皇に関する地名が最も多く、「斉明天皇行宮跡(木丸殿)」「伝・斉明天皇陵」まである。また「中大兄皇子神社」もあり、舒明天皇行幸伝承記録まである。隣接の旧・東予市(現・西条市)には「永納山古代山城」があり、旧・今治市内に「古国府跡」「国府跡」もある。


     一、「多伎神社古墳群」

    現存十五基(六~七世紀築造、元・三十八基あった)。五号墳は横穴式、石室は相当広く、天井・側面の巨石に圧倒される。六号墳は上から石室がのぞける竪穴式。鳥居近くの祢宜古墳から馬の轡が出土。境内には陰陽石の見事な松茸石があった。奥の院には巨大な磐座(いわくら ふすべ岩)がある。

     二、「樹之本古墳」

    平地に幅十メートルの二重の堀を巡らし、墳丘は長径四十メートル・短径三十メートルの楕円形の円墳(五世紀初期)。周りは田んぼ。「三種の神器」が出土している。合田氏は「越智国の王墓」と言う。鏡は見事な「漢式獣帯鏡」、銘文は「長相思常母忘楽未央」仁徳天皇陵出土の鏡とよく似ている名品で、現物は東京歴史博物館に保存されており、ここ「ふるさと古墳美術館」にはレプリカが展示されている。勾玉・管玉あり。剣は発掘当初はあったらしいが現在は行方不明。また、朝顔式や人物の埴輪が多く出土している。すぐ近くの田んぼから平形銅剣が五本出土している。
    近くの「タオル美術館」

     三、「伝・斉明天皇陵」

    朝倉の太之原(たいのはら 元の名は皇之原)の小高い塚の上に宝塔二基あり。ここ太之原才明(さいめい)地区の住民が大事に祀ってきたものという。とても天皇陵とは見えないが、かえって伝承の真実感がある。すぐ近くに斉明天皇を祀る「伏原正八幡神社」があり、斉明天皇行在所跡とも言われている。また、行司原「木の丸殿このまるでん」は斉明天皇行宮跡とも言われている。

     四、「無量寺—無量寺文書」—上朝倉水之上区にあり、前身は両足山安養院車無寺。当初は三輪宗で現在は真言宗。斉明天皇に同行された無量上人の開基と言う。
     ここには不思議な古文書(巻物)『無量寺由来』が所蔵されていて、特別な計らいにより拝観することができた。斉明天皇行幸の記述と共に「長坂天皇」「長沢天皇」「朝倉天皇」「牛頭天皇」などが出現。

    舒明天皇行幸説話も記録されている。奇妙な天皇名、摩訶不思議である。合田氏は、斉明天皇行幸説話と共に九州王朝の天子「多利思北孤」の当地への行幸説話が、はめ込まれた可能性もある。とのこと。そのようにも思えてくる。
     また、このお寺には薬師如来の小像が安置されているが、この巻物に小像の由来について面白いことが記されていた。合田氏によると、北条の文化財で「庄の薬師堂」にある県下最大の薬師如来坐像(高さ二・五メートル、室町時代後期作)は、元は無量寺にあって、北条の河野氏の命により、この小像と交換させられた。この坐像がどこから持たらされたのか、北条では全く不明であったのが解った。このことは伊予の大族・朝倉の越智氏の勢力が衰退し、それに替わって伊予全土を手中におさめていた北条の河野氏の権力により、大と小の仏像を入れ替えさせた。と、言っている。
     旧族越智氏が新興勢力河野氏の意に従わされたことになり、伊予の勢力転換の証拠を物語っている。そしてこれによって、この「無量寺文書」の記述の信憑性を、垣間見ることができる。

     五、「矢矧やはぎ神社」—朝倉大谷の地にある。ここにも『伊予不動大系図巻二十五』と言う古文書(巻物)が遺されている。これに記されている伊予の古代の大族越智氏の祖・小千天狭貫(おちのあまのさぬき)王を、この神社の祭神としている。「天のなにがし」であるので、海峡国家「九州王朝」との関連を見ることができる。また、神社紋は「梅の花」、九州王朝のにおいがする。

     合田氏は、王称号に注目。他の越智氏関連の系図には見られない

     六、「野々瀬古墳群」—『朝倉村の文化財』には古墳百基・現存二十基。『朝倉村誌』では百五十基・現存四十基としている。群集墓(多伎宮古墳群と同様)である。大小の墳墓が混ざり合い、身分の差が歴然としている。
     中でも七間塚古墳は、県下最大のもの(県の重要文化財)、高さ四メートル、径二十メートル余りの盛り土の円墳。玄室は長さ五・三メートル、幅一・七~二・二メートル、高さ二メートル。石の組み合わせの技術、石の大きさに圧倒される。巨石をどこからどう運び、それをどのようにして組み立てたのか、古墳づくりの技術と労力、そしてその熱意が偲ばれる。
     次いで五間塚古墳、王塚とも呼ばれている。これも巨石組み立てのすごさを見せつける。この円墳には陪塚があり、朱塗りの人骨が出土しているが、その玄室の奥面と側面に何やら人面か動物かは判然としないが、レリーフらしきものを、合田氏ほかそこにいた人が発見。後日拓本を採ろうと言うことになった。本当に石の浮彫りなら、飛鳥石彫のようなもの、この朝倉の地は「伊予の飛鳥」を思わせる。
     また、この野々瀬の地から欠損のあるゆがんだ鏡が出土している(ふるさと古墳美術館に展示)。これについて、愛媛県埋蔵文化財調査センターの柴田氏は、鏡の縁にある突起物に注目。これは鋳型に溶かした青銅を流し込む「湯道部」と見た。この欠損し、ゆがんだ鏡は、こわれて捨てられたものではなく、鋳造に失敗して投棄されたものと判断している。弥生時代後期にこの朝倉の地で、青銅鏡が作られていたのではないか、と問題をなげかけている。もし、炉跡・鋳型・青銅の鋳くず等が出土すれば確実となる。だが残念ながらまだ出ていない。

     七、「天皇橋」—朝倉には斉明天皇行宮の所として、神社が七ヵ所ほどある。そして廟も。この橋名の由来は定かではないが、合田氏は、野々瀬古墳群・野田古墳群(現存四十基)に渡る地に架かっているので、天皇がそこに参拝したので名付けられたとも考えられる。と言っている。

     八、「宮ケ崎八幡神社—中大兄皇子神社」—旧・今治市と朝倉村の境の宮ケ崎にある。一山に多数の神社・仏閣があり、全てを拝観するには数時間もかかる。斉明天皇行幸伝承もあるが、ここに中大兄皇子神社がある。この地方で中大兄皇子を祀っている所はここだけである。伝承として中大兄皇子が「白村江の戦い」に赴く途次、この地に来たのでそれを尊び神社を建立したとのこと。

    朝倉は「越智王国の都・王家の谷・聖地」である。「永納山古代山城」はこの朝倉の地を守るために築かれた。また、『日本書紀』に舒明天皇が「伊予の温湯宮に幸す」とあり、五ヶ月も伊予に滞在していたと記している(六三九年十二月~六四〇年四月)。そしてまた『伊予国風土記』逸文(『万葉集註釈』所載)に、舒明天皇とその皇后(宝皇女、後の皇極・斉明天皇)が伊予の湯に來湯したことを記している。更に『日本書紀』には斉明天皇が「白村江の戦い」に参戦する途次(六六一年)、「伊予熟田津(にぎたつ)宮の石湯(いわゆ)の行宮(あんぐう)に泊る」とあるが、現在の道後(地名命名は奈良時代)には「温湯の宮・熟田津宮」などの遺跡も、行幸伝承もない。温泉というとすべて道後に比定するのはおかしい(道後温泉は石湯とは言えない)。

    朝倉にも温泉があったのである(風呂のもと・湯場城・湯の口の地名遺存)。
    この温泉は天武天皇七年十二月(六七八)と同十三年十月(六八四)の二度にわたる大地震で、温泉の湧出は止まった。

    また同時に、越智王国の都・朝倉の古谷(こや)が、この地震により壊滅したことから、都を今治市側新谷(にいや)、その後古国府に移したようである。と。そして、このようなことから『日本書紀』舒明紀・斉明紀の伊予の行幸地について、当時の「越智王国」の都は、まだ朝倉古谷にあり、遺跡や伝承及び『国造本紀』にある伊予国内の国々や古代豪族の支配地域などの政治状況を鑑みると、両天皇(当時は大王)の道後來湯を全く否定することはできないが、行幸の主要舞台は朝倉であつた可能性が極めて大である。」と、述べておられる。

  •  永禄・元亀・天正の間に讃岐の豪族は殆ど滅亡した。天正十三年に豊臣秀吉が四国を平定するにあたり、長曽我部氏に属した者は、ことごとく城や領地を没収・没落し、仙石権兵衛秀久が讃岐に封ぜられた時、ひとり十河氏だけが山田郡で二万石を認められたが、仙石氏に従い島津氏と戦い、安富・羽床氏と共に戦死、讃岐の豪族はいなくなった。

     仙石氏は、この罪で高野山に廃嫡、尾藤甚左衛門が当国を領したが、天正十五年豊臣秀吉の島津氏追討に従って罪を得、讃岐を没収せれ、生駒雅楽頭親正がこれに代わった。
  • 古田氏 諸言

    伊予には有名な遺跡があった。湯ノ岡ノ石碑いわゆる「温湯碑」である。聖徳太子の遺跡として喧伝されてきた。断片として遺存していた「伊予国風土記」もこれを“裏付けている”と思われてきたのである。しかし、そこには大きな「?」があった。
     その冒頭に「法興六年十月、歳在丙辰・・・・・」として、明白に「年号」が記せられている。しかし、古事記・日本書紀のはしからはしまで読みつくしてみても、「法興」などという年号は、皆無。一切、存在していないのである。

     ところが、「九州年号」という一連の年号群がある。六世紀初頭(五一七)から八世紀初頭(七〇一)まで。徳川時代までは(歴史上の年号として)“実用”もされ、学問的論議の対象ともされていた。それが明治維新となり、水戸学などの学者が東京帝国大学教授の座に坐り、学界からも教育界からも、これらを“削り取った“のである。そして「室町時代あたりの僧侶の偽造か」と稱してきた。
     しかし、幸いにも冤罪(えんざい)は晴れた。右の「七〇一」という「九州年号の終末点」は、まさに有名な「評」(七〇〇以前)と「郡」(七〇一以後)の“裂け目”に当っていた。それ以前の「評督」(長官)群の上に立つのが「都督」であり、その拠点が筑紫都督府だったのである。太宰府には今も「都府楼跡」の石碑が建てられている。「都府」は都督府の略称である。(詳しくは『なかった -- 真実の歴史学』第5号、ミネルヴァ書房刊、及び、『失われた九州王朝』朝日文庫<注>参照)
     その「九州年号」の中には、まさに今問題の「法興」が存在する。七世紀前半に、公的に施行されていた年号の一つだったのである。

     これを「予見」されたのが、合田洋一氏であった。「温湯碑」の中の「法興」またつづく文面の「我が法王大王」に対して“聖徳太子”ではなく、九州王朝の天子・多利思北孤(たりしほこ)と見倣す、年来のわたしの立説に対して「イエス」の立場に敢然と立たれた。その柔軟な思考方法が本書の随所にちりばめられている。
     己(おの)が学生時代に学んだ「天皇家中心」の一元史観の「記憶」に固執し、その「記憶」に反するものにはすべて拒否反応をしめす、そういった一種の「老化現象」が現代の日本の頭脳をおおうている。
     しかし、伊予の国には幸いにも合田洋一さんのように柔軟な思考力をもつ人材がある。この人材をいかに守り育ててゆくか。この一点に「愛媛県における活性化」の命運はかかっている。わたしにはそのように見えているのである。以って本書の上梓に対するお祝いの言葉としたい。 二〇〇八年六月三
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