出雲の臣と勝部氏、刑部氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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勝部氏 勝部臣の祖と言われる兎命以前の勝部臣の系譜では、菅公系譜において、兎命は意宇宿禰の子に位置付けられてい…

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コメント

  • 朝山郷に由来する、朝山氏は、佐田神社の宮司家であり、神門の朝山を本拠地としていました。大伴姓や勝部の姓を名乗りましたが、出雲臣族の大伴姓から考えるに、甲斐と同じく神門臣族であったと考えられます。
  • 出雲の古墳

    世紀中葉から7世紀初頭の出雲西部地域には、意宇を中心とする出雲東部地域の古墳に拮抗する規模の古墳が見られます。

    これらは、墳丘の形状で様相を異にし、東部地域が出雲国では伝統的な方墳・前方後方墳なのに対し、西部地域は円墳・前方後円墳となっています。

    また、それぞれに出土する装飾付大刀についても、東部では環頭大刀・円頭大刀II類が優越するのに対し、西部では円頭大刀I類・捩環頭刀といった和風大刀が優越します。これらの大刀には、6世紀末以降、形式のかたよりが失われていくことから、当初は異なる工人集団から部品の供給を受けていたものが、後に一本化されていったことがうかがわれます。

    古墳の主体部についても、7世紀前半になると、出雲東部で行われていた石棺式石室の影響を受けた石室が、西部でも採用されていくことが知られます。

    このような、東西地域間の文化の違いやその後の統一化は、出雲国のなかでも狭義の出雲地名を含む西部地域(神門郡・出雲郡一帯)に、6世紀中葉に勃興し、7世紀初頭ころに衰退する勢力のあったことを示します。
    この勢力の後ろ楯となっていたと見られるのが、物部氏です。
    装飾付大刀の部品供給では、出雲西部へは物部氏の、出雲東部へは蘇我氏の、影響力を考える説があります。

    物部氏は6世紀末に中央政界での力を大きく減じますが、それにともなって、出雲西部の勢力も衰退していったようです。そして、出雲東部の勢力が出雲国全域の首長となる時代が到来します。

    今市大念寺古墳、上塩冶築山古墳、上塩冶地蔵山古墳は、かつての高岸郷の一帯に所在する、出雲西部では最高位にあった首長の墳墓です。神門臣氏の本拠地も、このあたりだったと推定されます。
    そこから神門川を挟んで南西、のちの古志郷の郷域にあるのが、妙蓮寺山古墳、放れ山古墳、宝塚古墳です。最高位の首長に次ぐ、ナンバーツーに位置する力を持った人たちが被葬者のようです。一帯には、刑部臣氏らの存在が確認されています。
  • 出雲 松江市 山代郷 山代神社
    境内の由緒書きに拠れば、出雲國風土記並びに延喜式神名帳に記される社で、意宇郡山代郷の総社として信仰されていた。もとは、南東の神名樋山(現在の茶臼山)の中腹に鎮座し、大穴持命の御子山代日子命の座しましたるをもって同地名の由来ともなる。しかるに古志原村に祀る神なく災難が続いたことから、延宝年間村民が藩に願い出て現在の地に同社を遷転して産土神として奉賛するに至った。現在近隣は栄えて宅地化が進み同社への信奉も変わらず厚いようである。なお、『雲陽誌』を見ると山代の頁に「高森明神をして風土記に加豆比乃高社とあり、山代山の半腹に森を鎮座とす」と記され、古志原の頁には「高森神社、延宝年中勝部氏勧請す」と記される。江戸期において同社名はいずれにせよ高森社となっていたようであるが祭神に関する記載がないのが不思議である。風土記記載の加豆比乃高社との関連は未確定。山代は正倉が設置された他、巨大な古墳が見られるなど、古くより一定の勢力地帯であったことは容易に想像できる。
  • 神魂(かもす)神社
    島根県松江市大庭町563
    社格 県社で、意宇六社の一社。
    祭神 主祭神=伊弉冊大神 伊弉諾大神

    歴史
    社伝によれば、天穂日命がこの地に天降って創建したものと伝えられるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社は記載されておらず、文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安時代中期以降とみられている。
    当社は出曇国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したという。
    出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、現在でも国造家の代替わりのときの「神火相続式」「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた。
  • 豊前の宇佐周辺には辛島・酒井・桑原など多くの勝姓の氏が見られます。
    この勝は村主の意であり、崇神前代に宇佐あたりの村々に宇佐国造家一族として分岐したものとみられます
  • 駅館川は古くは宇佐川とよばれていた。『日本書紀』神武天皇即位前紀によると、菟狭うさ(宇佐)国造の祖である菟狭津彦うさつひこ・菟狭津媛うさつひめは「菟狭の川上にして、一柱騰宮あしひとつのあがりのみやを造りて」天皇を饗したといい、また同書景行紀によると、景行天皇は九州上陸に先立ち先兵として菟名手うなて・武諸木たけもろき・夏花なつはななどを遣わし、「菟狭の川上」に勢を張って天皇に抵抗する鼻垂はなたりなどの賊を討ったという。

    駅館川低地の開発は南部から北部、上流域(氾濫原)から下流域(三角州)へと時代とともに進み、周辺にはその開発の様子を伝える地名や伝承も数多く残されている。氾濫原南部の宇佐市辛島からしま・同葛原くずわらはそれぞれ古代宇佐郡辛島郷・葛原郷の遺称地であり、その北部に広がる水田は辛島田圃の通称でよばれ、平安時代初期に辛島赤蜂が駅館川から水を取り入れる辛島井手を開削して開いた水田と伝える。

    辛島氏は渡来系氏族といわれ、辛島郷を苗字の地としていた。平安時代の末期には、さらに辛島田圃の北部、三角州地帯や四日市台地の高燥部にも開発の手が伸び、三角州地帯に江島えしま別符、四日市台地地帯に平田ひらた別符が成立する。別符はそれまでの荒蕪地を国司免符や別納の符によって開発、成立した地を示すという。両別符はいずれも駅館川から取水する江島井手・平田井手の開削が開発の契機となったといい、宇佐市江須賀えすかの江島地区は江島別符の、宇佐市下高しもたかの小字別府びゅうは平田別符の遺称地とされる。
  • June 2017 編集されました
    諏訪以前に関しても含めると、 以下のような系譜になると考えられます。

    菅ノ八耳神-兄八島士ノ身 神-深渕ノ水遣花 神-天ノ冬衣(日御崎神社社家祖) 神-
    事代主 神-鳥鳴海 神-国押富 神-田干岸丸身 神-布惜富取成身 神-簸張大科度箕 神(天日腹大科度美神) -建美奈命-会知速男命-真曽我男命-武国彦命(建大臣命-諏訪国造) -兄多毛比命(諏訪神氏の兄武彦)-大鹿国直(小鹿直)- 宇志足尼( 菟名手)-
    筑麻呂 命-忍敷 命(勝部・刑部負)- 兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖) -多伎古 命-石足 命 -千野

    宇志足尼という名前が見えますが、古代氏族系譜集成の又書きには、宇那毘足尼と記されます。
    この人は、豊前国風土記に記される国前臣の祖先菟名手と考えられます。(大分県西国東郡の武蔵村史には、菟名手とは宇那足尼のこととする)国前には武蔵郷という和名抄に載る地名もあって、武蔵国造の子孫が国前に来た事を示唆しています。

    この 菟名手命の名は、勝部氏が出雲国神門郡で本拠地とした塩治郷に「宇那手」という地名が存在しています。従って勝部氏の系譜に載る人と考えるのは自然です。

    宇那手にある火守神社(杵築大社の上官の別火氏(財部氏)の祖先を祀る。向家文書では 別火氏は八島士ノ身 神を祖とするという)
  •  「ウィキペディア」に
    「滋賀県守山市勝部1-8-8」鎮座の『勝部神社』が紹介されているが、「和名抄」での『近江国栗太郡物部郷』域で「野洲川下流左岸の一帯」になる。あたりは『勝部、伊勢、阿、千代、浮気、吉身』(滋賀県の地名 486・7頁)などと表記される村が連なって並び、

    『勝部村』は、『用明天皇のとき物部守屋と中臣勝海が開墾した物部勝海村に由来するとされる』などとある。
    つまり、『事勝國勝長狭』の『勝』や、『勝手』の『勝』が「戦闘」の「勝敗」に繋がるものであれば、「この土地の歴史」に感じられる『物部氏』と関係ありそうな『勝部』も、その『勝』は「同義」に思われてくる。

    実に、この『勝部神社』は『物部氏の祖・火明命』が祭られている のであり、『栗太郡』には『近江国一の宮・建部大社』も鎮座するのである。

    この「守山市勝部町」南東の隣が「伊勢町・阿村町」になるが、ここに『伊勢遺跡』と言う「弥生時代後期前半」の遺跡が発見されて話題になった。
    この『阿』村に関して、『安村とも記した』(滋賀県の地理 487頁)とあるので、和名抄「阿多郡」で出土した『安』の墨書土器が気になったのである。
  • 勝部氏の系譜は、以下のよう系譜になると考えられます。

    兄多毛比命(諏訪神氏の兄武彦)-大鹿国直(小鹿直)-宇志足尼(菟名手)-
    筑麻呂命-忍敷命(勝部・刑部負)-兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖)-
    多伎古命-石足命-千野命-白猪命-小山麻呂命-虫麻呂命

    諏訪以前に関しても含めると、以下のような系譜になると考えられます。

    菅ノ八耳神-兄八島士ノ身神-深渕ノ水遣花神-天ノ冬衣(日御崎神社社家祖)神-
    事代主神-鳥鳴海神-国押富神-田干岸丸身神-布惜富取成身神-
    簸張大科度箕神(天日腹大科度美神)-
    建美奈命-会知速男命-真曽我男命-武国彦命(建大臣命-諏訪国造)-
    兄多毛比命(諏訪神氏の兄武彦)-大鹿国直(小鹿直)-宇志足尼(菟名手)-
    筑麻呂命-忍敷命(勝部・刑部負)-兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖)-
    多伎古命-石足命-千野
  • 売布神社の伝承である。『きまち書留帳』(きまち史話会 発行)の抜粋だが、

    1)〝勝部一族も、来待石加工に転向するまでは「瑪瑙細工」をしていたと推定できる。佐倉に越えるあたりに「細見地区」がある。「細工」を主としたが、需要もへり、「石工」となって山を降りたと考えられる。
    玉神社がそうである。江戸中期の「雲陽誌」に記してある。「鏡神社」のことである。「櫛明玉命」を祭神とする。御神体ははない。本来は「玉」であったらしい。「瑪瑙の玉」だったらしい。近世末頃に盗難にあったらしい。地区の古老は次のように語る。「いま御神体は八寸ほどの鏡だが、本殿の床に切れ目を入れて「神玉」を盗んだ。昭和60年頃まで床の「切れ目跡」は地区の数人が確認した。松江の古物商に持ちこまれた「玉」に「キズ」があり売れなかった。盗人は神罰をおそれ、「売布神社」に奉納した。」という。〟

    鏡神社 島根県松江市 宍道町東来待332番地



    2)〝「鏡神社の使」は「兎」であった。松江から来た「籠かき」が、畑に遊ぶ「白兎」を捕らえて帰ったが、奇異のことが続出するので、そして「兎は鏡神社の使」と聞き、急ぎ売布神社に奉納した。〟

    3)〝和多見の商人が、お宮の姫さんを、さらって帰ったのは「三月三日」の雛の節句の日のことだった。〟※ 和多見は、現在の売布神社がある地域名。

    4)〝「売布神社の御輿」は「鏡の者」がかつがんと遷宮にならんと和多見の古老は伝えた。〟

    5)鏡神社の「宮司家遠藤家文書」によれば、〝元禄十一年(一六九八)の鏡神社棟札に「両社一宇」とある。〟〝「雲陽来待山王記録」では「相殿二伊綱権現ノ神体アリ、此神ハ元来下ノ谷二有シ由申傳ル、祭礼三月三日」と記されている。「遠藤氏」は「伊綱社」は「売布神社」の元宮の「口伝」ありとする。〟

    以上は、鏡地区と売布神社のつながりを示す伝承である
  • 犬頭神社の社伝によると、菟上足尼命は丹波国から来たとされます。丹波国桑田郡の地名は秦氏が養蚕のため桑の木を植え、絹織物を作ったことに由来します。だとすれば、菟上足尼命は秦氏と関係があるはずです。次に、菟足神社の由緒(昇格碑文)を見ていきます。内容は以下のようになっていました。

    大正七年十一月二十二日県社に列せられた際の昇格碑文
    菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造して斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はやく正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳には正三位と記されたり。…以下略

    菟上足尼命は平井の柏木濱にて祀られていたのが、秦石勝によって現在地に祀られるようになったとのことです。菟名手は秦氏系の可能性があるように、菟上足尼命も秦氏系或いは秦氏の影響下にある人物とすれば、うまく秦石勝に接続していきます。なお、物部系の史書「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」巻第10 「国造本紀」には穂国造が菟上足尼命であると記載されており、その内容が昇格碑文にも反映されています。
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