倭奴国とは?、狗奴国

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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魏志倭人伝の奴国 (奴国の記述)倭奴国でなく奴国 【帯方(たいほう)郡から倭(わ)へ行くのには】 朝鮮半島の海…

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コメント

  • 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。  『隋書』倭国伝

    翌年(608)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島『竹島(つく島)=済州島』に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国『都斯麻国(つしま国)= 対馬国』を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国『竹斯国(つくし国)=筑紫国(博多)』に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
  • 倭人伝を読むと何処にも狗奴国が滅んだ記事はないし、邪馬台国との闘争で邪馬台国に負けたとも記されていない。

    長い間緊張状態にあった二国間の争いに関しては、卑弥呼が使者を使わして魏に援助を頼んだことが記録されている。即ち、正始元年から4年、6年、8年と卑弥呼と魏の間で遣使の行交がある。しかし半島の難しい情勢からなかなか日本に来れなかったようで、実際に魏の使者・張政が日本にやってくるのは正始8年(247)の事であった。倭人伝はその事を
    「その八年、太守王斤頁官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。」と記録している。

    むしろこの記事からは、狗奴国との闘いで卑弥呼が死んだとも解釈できる。或いは塞曹掾史張政等が到着したとき既に卑弥呼は死んでいたとも解釈できるのだ。「卑弥呼以死」の「以」を「もって」と呼べば「もって死す」となり、狗奴国との闘いのせいで死んだとなるし、「すでに」と呼べば「既に死んでいた」と言うことになって張政等は卑弥呼に会えなかった事になってしまう。「以」を「すでに」とする使用法は、中国の他の史書にも見られるのでその可能性は高いが、現代の中国の学者に言わせると「以」にはなんの意味もないと言う意見もある(王栄仲氏)。単に「卑弥呼が死んだ」と書かれているに過ぎないと言う。

    いずれにしても、247年か、或いはその数年後には卑弥呼が死んだことは確実で、ここに「邪馬台国」の女王「卑弥呼」は歴史から消えていったのである。

  • December 2016 編集されました
    『晋書』「四夷伝」倭人条には、266年に邪馬台国が西晋に朝貢したことは記述されているが、それ以降、西晋に朝貢した事実がなく、邪馬台国はその後滅亡したかもしれない。
    266年と言えば、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年、武帝の泰始2年のことである。当時邪馬台国に対抗していたのは狗奴国のみなので、狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたと考えるのが一番合理的なのだろう。この壱与の使節派遣を最後に、「邪馬台国」は中国の史書から姿を消してしまう。

    卑弥呼が死んだ後倭国は再び混乱の時期を迎える。男王を擁立したが国中納得せず、再び殺し合って1000余人が死んだと倭人伝は記し、さらに卑弥呼の血縁の壱与を王女にして混乱は収まったと記されている。卑弥呼から壱与の間が何年くらい経っているのかはわからないが、

    「政等、檄を以て壹與を告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。」

    とあるので、卑弥呼からそんなに間は空いていないと思われる。また軍勢が帰っていったので、これをもって邪馬台国は狗奴国との闘いには勝利したのだ、という見方もある。
  • 「古事記」「日本書紀」には、初期の頃ヤマトの大王にまつろわぬ民族として熊襲と蝦夷がたびたび登場する。神功皇后の夫、第14代仲哀天皇は熊襲征伐の途中、「新羅を打て」という神の撰託を無視したため、琴を挽いている時、或いはふてくされて寝たとき、俄に死んだことになっているが、日本書紀は一書に曰くとして、矢を受けて死んだとも記録している。これをもって仲哀天皇は熊襲に殺されたと見る人もいる。

    また第12代景行天皇も息子のヤマトタケルを熊襲征伐に派遣している。26代継体天皇の時代には筑紫で磐井が叛乱を起こすが、これは筑紫ではなく筑後川南から熊本一帯に勢力を持っ
    ていた豪族という見方もある。つまり熊襲である。
  • こんな説がある

    ホムダマワカ王がホムツワケともに、原ヤマト政権に戦いを仕掛けたのは、景行の熊襲攻撃への報復であったと思う。熊襲とは、九州にあった旧奴国勢である。それが証拠に、仁徳天皇以降は熊襲の記述がされなくなっている。これ以降背くのは蝦夷である。

    景行は、求心力の薄れた原ヤマト政権の建て直しのために、熊襲征伐を断行したのではないだろうか。
    その結果は、「旧奴国」勢に逆に攻め入られ、原ヤマト政権は崩壊し、ヤマト政権が発足するのである。

    http://www2.plala.or.jp/cygnus/s4.html
  • 大芝英雄氏は、「翰苑」張想念育(660)によれば、「邪馬台国の南、邪馬嘉国(山鹿市?)に至る」とあり、山鹿市が邪馬嘉国の可能性があるとしている。山鹿市には、弥生時代の鉄器工場である「方保田東原遺跡」があり、日本で唯一の「石包丁型鉄器」が出土している。また、その発掘物(鉄器類500点出土)や周辺の環濠集落群(花房台地の小野崎遺跡群や台台地の台遺跡群)の状況からして弥生時代の小国家が存在したことを伺わせる。
     また、菊池川周辺には、鉄剣で有名な江田船山古墳や、岩原古墳・方保田古墳・小野崎古墳・台(うてな)古墳・山崎古墳・高塚古墳など古代国家の存在を偲ばせる遺跡が多い。
  • 後漢書倭伝

    會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲 傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還遂止此洲 丗丗相承有數萬家 人民時至會稽市 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來
    「会稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて二十余国を作っている。また、夷洲と澶洲がある。こう言い伝えられている。秦の始皇帝は方士の徐福を派遣し、子供の男女数千人を率いて海に入り、蓬莱神仙を求めさせたが出来なかった。徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて帰らず、ついにこの島に止まった。代々受け継がれて数万戸がある。その人民が時おり会稽の市にやってくる。会稽東冶県の人で、海に入り、風に流されて澶洲に着いた者がいるが、所在地はあまりにも遠く、往来することはできない。」

     この記述は会稽海外の東方、倭に関連するデータかもしれないと范曄が付け加えたものです。確証がないので倭伝の最後に記されています。
  • 228年?王即位 19才
    238年 卑弥呼の第1回朝貢 29才
    240年 魏より 『親魏倭王』 印綬賜る
    243年 卑弥呼の第2回朝貢 34才
    245年 狗奴国侵攻
    247年 卑弥呼死す 38才 在位期間 19年

    《倭女王卑彌呼 與狗奴國男王卑彌弓呼 素不和》
    "卑弥呼と狗奴国王卑弓弥呼ヒコミコ (卑弥弓呼は誤記か) とは前から不仲であった"

    《官有狗古智卑狗》
    "官に狗古智 (菊池) ヒコがいる"

    狗奴国(熊本)は遠方で宗主国に属さず、その国の知人で仲が悪いとは弟のことです。
    對馬国・一大国の官は "卑狗" だけですが、狗奴国の官だけが "狗古智卑狗" と表記されている。
    卑弥呼が邪馬臺国へ遷都した際、弟は狗奴国へ去り、そこの官から王になった。
    <倭人伝>に記載されている王名は、 卑弥呼と卑弓弥呼この二人だけです。

    《卑彌呼以死・・・更立男王 國中不服 更相誅殺 ・・・復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定・・・壹與・・・因詣臺・・・》
    "すでに卑弥呼は死んでいた。 卑弓弥呼が新倭王と宣言するが、 国中反対し狗奴国と戦争が起こった。 狗奴国が敗れ、
    卑弥呼一族の 台与 13才を王に擁立した。 新女王が誕生し、魏使の勧めにより、 魏使の帰国と共に朝貢した"

    卑弥呼は狗奴国が攻めてきたので、魏へ応援を求めた。 魏の使者が来た時には卑弥呼は亡くなっていた。
    卑弥呼の死因は、狗奴国王(弟)が攻めてきた為、 2年間の心労で病死したと思われる。
    当時の寿命は40-45才で、50才は長寿である。 <倭人伝>
    卑弥呼が亡くなり、卑弓弥呼が新倭王奪取を計ったが、国中納得せず戦争になった。
    狗奴国は敗れ、卑弓弥呼は出雲?へ逃避しました。
  • 姚思廉の『梁書』倭国伝(629年)は記す
    「復立卑彌呼宗女臺與爲王 其後復立男王 並受中國爵命」。

    また、杜佑の『通典』辺防第一・倭(801年)は記す
    「齊王正始中 卑彌呼死 立其宗女臺輿爲王 其後復立男王 並受中國爵命 晉武帝太始初 遣使重譯入貢」。

    そして、遡ると『晋書』倭人伝(648年)は記す
    「宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相、又數至。泰始初 遣使重譯入貢」。

    これらの記事は、卑弥呼の死後の宗女台与(臺與)の女王即位、更に男王の即位、そして266年(泰始二年)の西晋王朝への朝貢を伝えるものと理解できる。266年の時、台与はおおよそ三十一、二歳であろう
  • September 2018 編集されました
    『魏志倭人伝』に投馬国を「(帯方郡から)南至投馬国水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利五萬餘戸」

    耳がつく官位。投馬国は、新羅と交易した国であろう。

    日向市の美々津(みみつ)港
    耳川 (静岡県菊川市)
    耳 (鳥取県倉吉市)
    山本町耳納 (福岡県久留米市)

    「天日槍の伝承の前に、但馬の地ではミミと尊称された在地の王あるいは豪族の存在があったことを思わせる。ミミのつく地名がないか探してほしい。」という門脇禎二氏の一文を見つけ、興味を覚え「耳」のつく地名を探すことにしました。
     天日槍は、古事記は多遅麻の俣尾の娘、前津見と結婚したと記し、日本書紀は太耳あるいは前津耳の娘麻多烏と結婚したと記します。天日槍と言えば但馬の出石が有名ですが、峠を南に越えた糸井郷(養父郡糸井村→朝来郡和田山町→朝来市和田山町)寺内に、天日槍の岳父を祭る山王神社があります。

    この神社では、毎年7月に県指定無形重要文化財に指定される寺内ざんざか踊りが奉納されます。山王神社には、佐伎津比古阿流知命(サキツヒコアルチノミコト)神社(式内社)というもうひとつの名があり、天日槍の岳父とアルチノミコトの2神が祭られています。山王神社と呼ばれる由縁は元禄時代に徳川家秘蔵の大国主命が合祀されたことによります。この岳父、太耳の名前に耳とつくことを手掛かりに地名を探すことにしました。 
     昭和40年代に多くの地区で行われたほ場整備の記念誌『土にいどむ』(昭和48年9月、和田山土地改良区発行)で、糸井村の地名を探したところ、糸井川河口付近の林垣に、ほ場整備により失われた小字「耳田」を見つけました。


    アメノヒボコを、娘、麻多烏(マタヲ)の婿に迎えた男、太耳(フトミミ)。
    最新の鉄採取技術をもつアメノヒボコを一族に取り込んだ太耳


    手研耳命
    この年の11月、神渟名川耳尊とその兄の神八井耳命はひそかに(『古事記』によれば母の歌により)手研耳命の志を知って、これを防いだ。すなわち、山陵の事が終わるに至って、弓部稚彦(弓削部稚彦)には弓を、倭鍜部天津真浦には真麛鏃を、矢部には箭をつくらせた。弓矢が完成するに及んで、神渟名川耳尊は手研耳命を射殺そうと思った。

    二人は手研耳命が片丘の大窨(おおむろ)の中に有り、ひとり大床に臥せっているのに行き合った。この時神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に

    今適たまたま其時なり。夫れ言こと密を尊び、言は宜よろしく慎むべし。故かれ我の陰謀本より預者無し。今日の事は、唯吾爾いましと自み行いたまはくのみ。吾当まさに先まず窨むろの戸を開あけむ。爾其れ射よ。
    と言い、手研耳命を射殺す役目を兄に与えた。二人は窨(むろ)に進入し、神渟名川耳尊はその戸を突き開けた。しかし神八井耳命は手脚が戦慄し、矢をいることができなかった。この時神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣(ひ)き取り手研耳命を射た。一発目は胸に中(あ)たり、二発目は背に中たってついに殺した。

    綏靖天皇ー神渟名川耳尊の即位
  • September 2018 編集されました
    ①『後漢書』倭伝 (2世紀)
    帥(師)升

    ②『魏志』倭人伝(3世紀)
     卑弥呼、卑弥弓呼、壱与、難升米、都市牛利、伊声耆、掖邪狗、倭載斯烏越

    ③『宋書』倭国伝(5世紀)
     倭讃、珍、倭済、興、武、倭隋

    ④『隋書』倭国伝(7世紀)
     卑弥呼、阿毎多利思比孤、阿輩台、哥多田比、利歌弥多弗利

    森博達氏によれば、「難升米」「都市牛利」「伊聲耆」「掖邪狗」「載斯」および「烏越」を呉音に基づいて読むと、それぞれ「なんしょうまい」「とじごり」「いしょうぎ」「やくやく」「さいし」および「うおち」となる。ただし肝心の魏音での読み方は不明である。しかし、森氏も、『「倭人伝」の音訳漢字を呉音で読んでも、倭人語を復元したことにはならない。』といわれているように、当時の倭人の発音を魏もしくは晋の人々が正確に聞き取れたか、そしてそれを正確に文字に写しとれたかは疑問である。
  • September 2018 編集されました
    福岡市内にも「都市」という姓を持つ人がおられる
    そこで、いつも使わせて頂いている「姓名分布&ランキング」というサイトで調べると、

    全国で19件、
    1)長崎県 7件 2)福岡県、兵庫県、愛知県 各々 2件 

    奈良県はありません。
    長崎県でも、どこに集中しているでしょう。
    松浦市 4件佐世保市 3件 です。
    実は、松浦市と言っても、実際には鷹島、元寇の島、鷹島なのです。

    鷹島の方はトイチ(十市?)と読むらしいです(^。^)

    十市氏は

    大和国中部の国人。春日社神人(国民)で、興福寺大乗院家坊人。同寺竜花院領三ケ井殿荘(奈良県大和郡山市)などの荘官で、本拠は十市平城(橿原市十市町)。出自は十市県主・中原氏というが不詳。文和二年(一三五三)の『東大寺文書』には「十市」氏に「トイチ」の訓注があり、少なくとも以後は「といち」と訓んだものであろう。室町時代中期の遠清以来、支配圏を山辺・城上・城下の三郡にも及ぼし(十市郷)、遠忠は山辺郡に竜王山城(天理市)を築き大名化を進めた。しかし、戦国時代末期松永久秀の進出で二派に分かれ滅亡した。

    十市という名字は全国で29323番目に多い苗字となっています。大体100万人に0.9人程度いるようです。
    高知県や岐阜県や東京都や大分県や兵庫県や神奈川県によくいらっしゃるようです。
  • 十市氏の出自については、古来いくつかの説がおこなわれている。『大和國拾五郡衆徒国民郷士記』の安寧天皇第三皇子磯城津彦命の後とする説、『姓氏家系大辞典』の十市縣主の後とする説、そして、『和州十市城主氏姓伝』の藤原氏説などがある。
     『大和國拾五郡衆徒国民郷士記』では、「十市家、中原氏、トアリ、大系図ニ中原、安寧天皇磯城津彦命之後也ト伝ヘルニ相合フ」と記されている。十市氏が中原氏を称したことは、十市遠忠の歌集「十市遠忠自歌集」などに兵部少輔中原遠忠とあることから知られる。また、『平城坊目遺考』の「遍照院死」の項にみえる十市氏の姓も「中原」とあり、その中原氏は十市県主に出自するともみえる。一方、『和州十市城主氏姓伝』は、まとまった十市氏系図としては唯一のもので、藤原豊成の長子継成が十市里に居住して十市氏の祖になったとある。しかし、同系図の記述は、『大乗院寺社雑記』『多聞院日記』といった記録と符合しないところが多く、そのままには受け取れないものである。
     いずれにしろ、十市氏は大和国中の十市郷から起った土豪であり、筒井氏、越智氏、箸尾氏、古市氏と並ぶ大和屈指の国人領主に成長、大和の中世史に大きな足跡を刻んだことは間違いのないところだ。
  • September 2018 編集されました
    和名抄、筑前鞍手郡内六郷
    ① 新北 爾比岐多 にひきた
    ② 金生 加奈生  かなふ
    ③ 二田 布多多  ふたた
    ④ 生見 伊無美  いむみ
    ⑤ 十市 止布地  とふち 
    ⑥ 粥田 加郁田  かゆた
    都市は十市で止布地です。隣の宮田町に都市八幡社がある。

    先代旧事本紀。尾張氏に六人部連ら祖 妙斗米命。物部氏に六人部連ら祖 安毛建美命がいる。

    九州の十市郷 
    筑後三毛郡に十市郷あり。弦田物部氏であろう。

    物部十市根連:もののべのといちねのむらじ)
    邇芸速日命の後裔(六世孫、あるいは七世孫)。伊香色雄の子
    垂仁天皇の御代、物部連(もののべのむらじ)の姓を賜り、五大夫の一人となる。 その後、物部大連(もののべのおおむらじ)となり、大和国石上神宮に奉斎する。

    『日本書紀』によると、垂仁天皇の皇子・五十瓊敷入彦命が剣一千口を作り石上神宮に納めて管理していたが、 年を取ってしまったので、妹・大中姫命に託し、大中姫命は物部十千根大連に託したという。 よって、以後、物部連が石上神宮の神宝を治めることとなった
  • October 2018 編集されました
    狗奴国
    自謂太伯之後とある。その太伯は、姫(き)氏である。

    松野連系図に「呉王 夫差の子が、孝昭天皇三年に来朝し火国山門(やまと)に住んだ。」と記述がある。
     『和名類聚抄』の中に、肥後国菊池郡山門(やまと)郷がある。
      *.孝昭天皇三年=紀元前473年。
      *.肥後国菊池郡山門郷は、迫間川流域。
      *.春秋時代の呉王 夫差(?~前473年)は、越王 勾践に敗北し自決。
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