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古墳時代の前、古大和は出雲神族のいた土地であった. 大和で祀られる出雲の神々 初期のヤマト王権発祥の地とみら…
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式内社 備前國邑久郡 美和神社
旧郷社
御祭神
大物主命
配祀
仲哀天皇 應神天皇 神功皇后 天照大神 天日方奇日方命
岡山県瀬戸内市にある。
長船駅から南東へ6Kmほどの広高山に鎮座。
美和神社のしおり
美和神社は延喜式神名帳(967年)に記載されている古社で祭神は大物主神です。
当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)を勧請したと言われております。しかし、いつ勧請したのか明らかではありませんが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われていますので7世紀前後のことと思われます。
鎮座している所は標高166メートルの広高山の山頂です。広高山は三和の峰とも呼ばれていました。
当社は永禄年中(1558年~1570年)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われており明治3年もとの美和神社に復し今日にいたっています。社宝に文字瓦があり、長船町重要文化財に指定されています。この瓦にはつぎの文字が彫り込まれています。「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」 主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」です。すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当です。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかります。慶安元年(1648年)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3体、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっています。当時の祭典がたいへん盛大であったことがわかります。10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りする行事が大昔から現在まで続いています。
「下谷に妙國寺と云ふ佛刹あり。昔此寺に日本晦望録・備前風土記・日本私記・和気譜・民部省例等の書数部あり。…(中略)…日本私記は和気氏に上古より記傅する處の史書。和気譜は和気代々の家譜也。民部省例は朝家の旧礼・古事・諸家の美談・逸事等のことを記す。
是みな和気清麻呂の著述にて、和気広虫・和気広世等の書なりとぞ。惜いかな此寺元禄五年の春回禄して、此書巻悉く灰燼となる。此書もと石上フツ霊神社の社蔵なり。然るに応永の頃、松田元成下知して此寺に納むるもの也。」
と記される(『式内社調査報告』)。
記紀で三輪山の話が初登場するのは、崇神天皇の時代としてである
祭神は大物主神である。この神の累孫又は子供とされる(記紀で異なる)「大田田根子」なる人物が、この三輪山の大物主神を祀ることになった。とされている。
この神社の祭祀者はこの子孫が司った。
これが後に三輪君(大神君)と称することになるとされている。大三輪氏、大神氏とも記される、古代豪族の一つである。
記紀で若干異なるが大物主神は出雲神話で有名な大国主命(別名:大己貴神:オオナムチ神)と同一神とする説が現在の主流とされている。出雲風土記には登場しない神である。
大国主は素戔嗚尊の子供または累孫とされており(記紀で異なる)、その大国主と同体の大和三輪山の神大物主の子供又は累孫とされる大田田根子は、古来「出雲神族」*の嫡孫だとされてきた。古来から多くの天神系の神裔とは区別され地祇系神別氏族の総元締め的存在であったとされている。
記紀には多くの神々が登場するが、その神々には神譜が詳しく記されてある。
その中で「素戔嗚尊」にその源を発する神様の集団を「出雲神族」と言って特別な扱いがされている。
この中には出雲大社の主神である「大国主命」、諏訪神社の主神である「建御名方神」、松尾大社などの主神「大年神」、稲荷神社の主神「宇迦御魂神」、宗像神社の主神「多岐理姫ら3女神」など日本の古い神社の多くは、この出雲神族に属する神々を祀ってきた。
最も有名な出雲大社の大国主を祀っている神官の氏族は「出雲臣族」と称され、出雲神族とは区別されている天津系の「天穂日命(天照大神の子供)」を元祖とする神別氏族とされている。
現在もその末裔が「千家」と称して続いている。
大国主命の祖先であり出雲神族の真の祖神である出雲の大神とは、クナトノ大神(=熊野大神=道祖神=サエノカミ)だった。
「われわれは龍蛇族である」(富氏)
スサノオは朝鮮から蹉跌を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を敗り、婚姻により習合した。
出雲王朝はかつては北九州から新潟までを領有していた。
クナトノ大神は岐(フナト)神、来名戸之(クナトノ)、祖神(サヘノカミ)などとも呼ばれ、57代にも渡って何人もいた。
天照大神は富家の伝承にはいない。宮中のアマテラス祭祀は平安時代以降に成立した。
大国主命も固有名ではなく代名詞であり、17代続いた。神武天皇も一人ではない(?)。
タテミナカタは天孫族に服従せず、越へ後退し、母方(越のヌナカワ姫)の勢力をバックに信州へ行き、第2出雲王朝を築いた。
タケミカヅチは富氏の伝承にはない。多氏一族が奉じた(=タテカシマノ命、那加国造祖)。鹿島神宮は社殿内陣の構造が出雲大社と似ていて、クナトノ大神も摂社にある。宮下文書では、タケミナカタはミカヅチとフツヌシの兄となっている。
藤原氏は富家伝承では帰化人。出雲大社社家の祖神だった天ノコヤネに続いてタケミカヅチを祖神とした。中臣氏は東国で鹿島神系と婚姻した。
物部氏は、その祖ウマシマジが出雲神族のトミヤ姫を母とする親出雲族で、後に(崇神天皇前後)親天孫族に転向した。島根に侵略基地を置き、出雲へ侵攻した。
天皇家で、神武系と崇神系は血族的断絶はないが、内紛によって別の系統から天皇が出た。
渡来した天ノヒボコ族は吉備に移り、スサノオ系のスサ族と同化し始め、天孫族はヒボコ族と政略結婚を進めた。
神武系の天皇家は武烈天皇で血統が絶え、大伴氏・物部氏・ヒボコ族らは中立に近い出雲神族から、古志方面の主張だった継体天皇を立てた。継体系は続く安閑→宣化で王朝が絶えた。
出雲族に戦いの歴史はなかった。
天孫族は伊勢に攻め込み、王の伊勢津彦は建御名方富命が統治する信濃へ逃れた。
天孫族の東国制覇はクナトノ神の先導によってなされた。
出雲族は北方から来た(BC2000年頃?)。ベーリング海を渡り、北海道、東北、出雲へ行った。
しかし、地元の人々は銘菓みむろ、清酒三諸杉(みむろすぎ)というように三諸山はみむろやまと呼んでいます。
大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい。(現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神(おおみわ)神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先きや」という。かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか)
−「生きている出雲王朝」(『歴史の中の日本』所収)、司馬遼太郎、中央公論社
1 素戔鳥尊
↓
2 大国主命
↓
3 事代主命 - 建沼河男命 ↓越氏へ - 健御名方命 ↓諏訪氏へ - 国忍富命 ↓須佐神社神主家
↓
4 天日方奇日方命 - 媛蹈鞴五十鈴媛命 - 五十鈴依媛命 - 天八現津彦命
↓ ↓
5 健飯勝命- 淳名底仲媛命 - 磯城津彦命 ↓磯城県主へ 観松比古命
↓ ↓
6 健甕尻命 大日腹富命 ↓億岐国造隠岐氏へ
↓
7 豊御気主命
↓
8 大御気主命
↓
9 健飯賀田須命 - 吾田片隅命 ↓宗像氏へ
↓
10 大田田根子 古事記では意富多多泥古
↓
11 大御気持命 - 大鴨積命 ↓賀茂氏へ鴨部氏へ三歳氏へ - 田田彦命 ↓大神氏神部氏神人氏禰希知命
↓ ↓
12 大友主命
115-3
高宮は、社家の説によると「第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ」との記録があり、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来ました。神奈備とは、「神々が降りてくる山や杜」を意味します。
と、書かれています。
ここにこそ本来の祭神が祀られているようなのです。大国主の後裔か
田島神社の祭神は、宗像大社と同じ、三女神だ。
宗像大社辺津宮の鎮座地が「玄海町田島」(現宗像市田島)であり、そこからの勧請ゆえ田島とするという説があるが、どうだろう。呼子の隣にも佐賀県の玄海町が存在する
古代九州王朝の存在を伊都国(前原周辺)に求める説があるが、
そこを中心に見ると、東の博多湾の東方に宗像大社、
西の唐津湾の西方に田島神社が鎮座。対象配置だ。
田島神社から船で北上すれば、壱岐がある。
半島・大陸への交通を考えるなら、
田島神社こそ「道主貴(みちぬしのむち)」にふさわしい。
創祀年代は不詳。
社伝によると、天平三年(731)、稚武王を配祀したという。
式内社・田嶋坐神社に比定されている古社。
境内に、佐用姫伝説で有名な佐與姫神社がある。
「肥前国風土記」松浦郡の條に、宣化天皇の御代、任那平定・百済救済のため、
大伴狭手彦が派遣され、この村に到着し、篠原村の弟日姫子(佐用姫)と結ばれた。
そして、別れの日、鏡を彼女に渡す。弟日姫子は、鏡山に登り、
任那へ船出する大伴狭手彦へ褶(ヒレ)を振り続ける。
すると大伴狭手彦が戻って来て、弟日姫子と夜を過ごす、が早朝には帰ってしまう。
不思議に思った弟日姫子は、麻糸を大伴狭手彦の上衣につけ、跡を追う。
たどり着いた沼には、蛇頭人頭の化け物がおり、弟日姫子と共に姿を消す(死ぬ)。
この蛇神との話は、三輪や祖母山にもあるモチーフ。
「仙覚抄」引用の「肥前国風土記」逸文でも、弟姫(佐用姫)は、
大伴狭手彦との別れに際し、褶(ヒレ)を振る。
弟姫は水神に仕える巫女であり、水神のため人柱となって命を落とす。
地元の伝承では、大伴狭手彦を追って加部島までやって来るが、
とうとう石(神石望夫石)になって、夫を思い続けることになる。
その加部島が、ここ田島神社の鎮座地なのだ。
石部神社 兵庫県豊岡市出石町下62
奇日方命、
この出石の地を拓き、国造りに貢献され、偉大な功蹟をのこ し
久久比神社(くくひじんじゃ)
兵庫県豊岡市下宮にある神社である。式内小社で、旧社格は村社。 全国で唯一コウノトリにゆかりのある神社であ
本殿は三間社流造、こけら葺き。室町時代、永正4年(1507年)の建立で、国の重要文化財に指定されている。江戸時代の記録では胸形(宗像)大明神とも称した古社で、多紀理比売命を祀るという説もある。
る。
日本書紀によれば垂仁天皇の御宇二十三年冬十月朔(ついたち)、天皇が誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)をともない大殿の前に立ち給う時、鵠(くぐい;コウノトリの古称)が大空を鳴き渡った。 その時、皇子が「これは何物ぞ」とお問いになったので、天皇は大いに喜び給い左右の臣に「誰か能くこの鳥を捕らえて献らむ」と詔せられた。 天湯河板挙(あめのゆかわのたな)が「臣、必ず捕らえて献らむ」と奏し、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国で捕らえたといい、あるいは但馬国で捕らえたともいう。 十一月朔、天湯河板挙はめでたくこの鵠を献上したのである。時に皇子は三十歳であったが、いまだ物言い給わず、あたかも児の泣くが如き声のみで、この日初めて人並みの言葉を発せられたのである。 これほどに鵠は霊鳥なのでその棲家の地を久久比(くくひ)と呼びなし、その後この地に宮を建て、木の神「久久能智神」(くくのちのかみ)を奉斎した。 これが久久比神社(くくひじんじゃ)の始まりであった。 さりながら、その頃豊岡盆地は「黄沼前海」(きめさきのうみ)と称して、まったくの入海、下宮の地はその入江の汀であった。 又そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもろう処、神自ら鎮まり座す景勝の地であった。 われらの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久久能智神」を奉斎し、木の御神徳の宏大に帰依したのも宜なる哉である。
くしみかたのみこと
別名
天日方奇日方命:あめひがたくしひがたのみこと
武日方命:たけひがたのみこと
阿田都久志尼命:あたつくしねのみこと
鴨主命:かもぬしのみこと
久斯比賀多命:くしひかたのみこと
……
『古事記』によると、大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけられた。 この櫛御方命の子が飯肩巣見命。、その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神)。 その子が意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子である。
子孫の大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となった。
三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。
斎名:タタヒコ。アタツクシネは幼名という。クシミカタマとオオタの娘ミラ姫の子。
タケヒトが大和を制圧した後に、県主にされた*。
神武の命によりオオミワの社を造り、即位前年の十月二一日にオオミワの神名備を祭っている。
カヌナカワミミ(綏靖天皇) のオオモノヌシ (剣臣)。
カヌナカワミミよりオオミワの姓を賜る。
アウヱモロの娘ヌナタケ姫を娶り、イイカツとヌナソ姫を生む。
綏靖天皇の典侍・アダオリ姫の祖父。
* クシネがどこの県主にされたのか、ホツマツタヱには記載がない。記載がないのは、"記載する必要が無いほど当り前な場所" ということで、"橿原宮が所在する県" ということなのだと思われる。橿原市久米町に 久米御縣神社 があって、祭神の一人に「天櫛根命」という人がいる。これは「アタツクシネ」を指すと思われるので、クシネは久米県の県主だったと考えたい。久米県についてはこの神社名しか残っていないので、当時の地理などは何もわからないが、その範囲に三輪山を含んでいたとは考えられる。大和国の県は時代によって相当変化していると思われるが、延喜式には久米御縣神社は高市郡、大神神社は城上郡とある。一方、東征の行賞で、ミチヲミが「クメの所」を賜っているが、これは久米県を賜ったのではなく、橿原宮に隣接する土地を宅地として賜ったものと考える。
香美郡 香北町韮生野大宮二四三番イ号 地に鎮座。主祭神は大田々称古命で、このほ か縁故深い大物主命、活玉依比売命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比売命、 健甕槌命を合祀。
今から約二千年前の崇神天皇の時代に疫病 が流行して万民が苦しんだ時、天皇は大物主 命のお告げによって大物主命の子孫の大田々 称古命に神々を祭らせ、それ以来疫病が治ま って人々は安んじて生活できるようになった といわれている。当神社の創建は今から約千 五百年前の雄略天皇の時代といわれているが 定かではない。しかし仁明天皇の承和八年以 前より祭られていたという古い記述がある。 当神社は延喜式の式内社で県内では二十一社の 一つの由緒深い神社で古くから韮生郷の総鎮 守として崇敬されて来た。嘉永五年十二月二 十四日勅宣により神階正一位を授けられてい る。
当神社の現在の社殿は明治二年に落成、当 時の名工島村安孝、坂出定之助、原卯平、別 役杢三郎等によって建てられ拝殿、幣殿、本 殿には立派な多く彫刻が残されている。この 社殿は高知県保護文化財に指定されている。
夏祭 七月二十七日、七月二十八日
秋例大祭 十一月二日・十一月三日
大神神社摂社
御祭神
櫛御方命 飯肩巣見命 建甕槌命
大神神社から南へ、平等寺までの道の途中で左へ入る道がある。その奥。
見逃しそうなほど小さい。でも、式内社なのだ。
ただし、他説もある。
創祀年代は不詳。
俗に王子宮とも称し、
式内社・神坐日向神社の論社で、大神神社の境外摂社。
ただし、本来は三輪山山頂の神峯鎮座の高宮社が神坐日向神社であり、
当社は高宮社であると考えられており、
明治維新後に、両社の名前が誤って入れ替わったとされている。
祭神は、大物主神と、陶津耳命の娘・活玉依毘売の子である、櫛御方命。
その子が、飯肩巣見命。その子が、建甕槌命。その子が大田田根子。
ということで、大神神社初代神主の祖。
別の書では、
素盞鳴尊-大己貴命(大物主命)-事代主命-天日方奇日方命(櫛御方命)とも。