近江、大水口宿禰、水口神社

March 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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大水口宿禰 『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。 また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔…

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  • 水口神社

    国道169号線崇神天皇陵と景行天皇陵の間の渋谷向山古墳培家西に鎮座する。俗に天皇社と称し、水口大神をまつる『延喜式』神名帳に登載される式内小社に比定される。
    元の鎮座地について『大和志料』は現在の社の東八町許の「イモノミナクチ」にあったのを中世に現在地へ遷座したとあるに対して、現在地の西方一帯の大市庄内から遷座したとの説もある。祭神の水口神について『日本書紀』崇神天皇七年秋八月の条に「穂積臣の遠祖大水口宿禰」とあるが『姓氏録』の左京神別に「穂積編臣。伊香賀色雄男大水口宿禰之後也」とあり、『紀』垂仁天皇の十四年十月に倭大神が穂積臣の遠祖水口宿禰に神がかりしたとある。例祭は十月十五日。
         -奈良県史(神社)より
  • 水口神社
    近江国甲賀郡
    創祀年代は不詳。中世には山王新宮とも称され、近世には大宮大明神とも称された神社。

    社伝によると、主祭神・大水口宿禰は饒速日命六世の孫である出石心大臣命の御子。出石心大臣命の母・淡海川枯姫は、川枯首阿目加伎袁四世の孫である阿自夷沙比止命の後で、川枯神社の祭神。大水口宿禰は、その縁により当地に居住し、土地開拓の祖神として人々に崇敬されたという。

    式内社・水口神社に比定されている古社。当社境内は、往古は東西三十町南北二十五町に及び広大であったが永禄年間、その大半を没収され、天正年間には社領を失いわずか五六間四方のみとなったという。寛文三年六月代官小堀仁右衛門が水口に赴任し、当社を再建。

    正徳二年六月下野国壬生城主の加藤和泉守嘉矩が水口に入城。当社の荒廃を嘆じ、再建した。

    明治元年九月、明治天皇御東幸の砌、勅使が差遣せられ明治二十七年六月十四日、境内を拡張し、社殿造営に着手され、明治三十年四月に竣工した。

    境内のあちこちに、桐紋と巴紋が付けられており境内の神馬像や拝殿の扉には桐紋が刻まれていた。たぶん、桐紋が主な神紋で、巴紋がサブなのだろう。
  • 崇神天皇紀』に、倭迹速神浅茅原目妙姫、穂積臣の遠祖大水口宿禰、伊勢麻績君の三人の夢に、神々を祀るに適した人名を教える話があるが、この大水口宿禰が祭神ではとの見方がある。 当時、大和大国魂神を祀らせた淳名城入姫が淳名城入姫神社に、また引き継いで祀った市磯長尾市命は大和神社の摂社の増御子神社に、有名な豊鋤入姫は豊鍬入姫宮に祀られているように、神祭りの人が神として祀られる、呪術の時代、神と人との共同社会であったようだ。

  • ・ 末羅国は松浦国と同じで、魏志倭人伝にでる末慮国の地域で、この時代の豪族の墳墓である古墳の分布から考えて、現在の唐津市の鏡地区と浜崎玉島町とを中心として伊万里・平戸方面にも及んだ範域であろう。対外関係の要地として大和朝廷が重視した地域である。

    その国造には成務天皇の時に、有力な軍事団の長の一つでもある物部氏の祖の伊香賀色雄の子の大水口宿禰(足尼)の孫の矢田稲吉を任命したと記されている。この矢田稲吉は肥前風土記に出る同じ唐津地方の土蜘妹を討滅した大屋田子(風土記では日下部君らの祖とある)と同一人物ではないかと思う、大をとった場合にそう考えられる。

    ・ 日下部氏は大伴氏を統率者とする朝廷の軍事団である靭負部に属するものといわれるが、靭負部は大伴氏だけが終始統率者でなかったと思う。矢田稲吉にせよ、大屋田子にせよその祖先は武人として物部氏の配下であったときもあれば、大伴氏の配下であったときもあったと考えたい。その時代と系譜には問題が存するが、稲吉を稲置と同一と見た場合には重要な問題となる。稲置は県主に比べて極端に少なく、畿内・東海の両地方に出雲・讃岐を加えて九か国に十四例しかなく、九州には全くないといわれてきた。稲置は屯倉に関する税長のような職名の性格が強いものである。そうすると松浦国造や松浦の県主と稲置との関係をどう解釈するかが問題である。ここでは問題提起にとどめておく。
    ・ 肥前風土記には唐津地方には日下部君らの祖の弟日姫子(松浦佐用姫)と五三七年に新羅を討って任那、百済を救援した大伴狭手彦との悲恋伝説が記されている。また松浦郡賀周の里に土蜘妹の海松橿媛というものがいたのを、景行天皇御巡幸の際に陪従の大屋田子(日下部の君らの祖)が討滅したという話が記されている。討滅の地は現在の唐津市の見借附近であろう。この二つの説話によって、唐津地方に豪族日下部氏のいたことと、日下部氏が大伴氏と関係があったこと、朝廷に忠節をつくしてきたことを主張することによって、有利な地位の保持をはかっていることがうかがわれる。
  • 高木氏が氏神として高木八幡宮を祀ったことを先に記したが、竜造寺一族も八幡神祭祀を伝える。高木一族が奉斎した河上社の祭神は、与止日女神社の社名が示すように、「与止日女神」(淀姫神)であり、その実体は五十猛神(八幡大神)の妻神の瀬織津姫神であった。筑紫国造が阿倍氏族というのは系譜仮冒であり、その実際の系譜は五十猛神の後裔にあたる火(肥)国造の同族であって、同国造の祖・建緒組命の子の大屋田子命の流れを引くものであった。大屋田子命が景行天皇の九州巡狩のときに随行したことは、『風土記』に見える。
    火・筑紫両国造の祖には御井郡一帯を本拠としていて高良大社で祀られる高木神(高皇産霊尊)がいる。筑後国府付近の高良大社の祠官家としても日下部君氏(草部〔草壁〕氏、稲員氏)があった。佐賀郡高木村の地名は、平安中期の『和名抄』の郷名には見えず(当時の深溝郷)、高木が何時起った地名なのかは不明なので、あるいは高木氏が先祖の名前をとって地名を高木と名づけ、苗字も高木と名乗った可能性がある。興味がひかれるのは、前出の早部信理が僧としていたのは京都郡高来郷(現行橋市高来で、草野の西方近隣)の平井寺であり、この東北近隣には高城山もあって、ともに「高木」に関係しそうでもある。そうすると、この地に在った日下部氏が肥前に遷った日下部氏となんらかの縁由があったものか。
  • April 2016 編集されました
    古事記  
    大国主神----鳥鳴海神----国忍富神----速甕之多気佐波夜遅奴美神----甕主日子神----多比理岐志麻流美神----美呂浪神----布忍富鳥鳴海神----天日腹大科度美神----遠津山岬多良斯神

    三上氏  
    天津彦根命----天御影命----天麻比止都禰命----意富伊我都命----彦伊賀都命----天夷沙比止命----川枯彦命----坂戸毘古命---国忍富命----天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)----鳥鳴海命----八倉田命----室毘古命

    三上氏の血族はニギハヤヒに始まるとされる物部諸氏とも深いつながりを持ち、その一端を紹介すると、およそ次のような勢力圏を形成しています(註・物部氏などが伝えている系譜と異なる部分もあります)。

    ① 彦伊賀都命の兄弟が凡河内直(彦己曾根命)および山背直(阿多根命)の祖先となっている。
    ② 川枯彦の姉妹・川枯比売命が穂積氏の祖である大禰命に嫁いで出石心大臣命と大矢口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・御食津媛命は恩地神主の祖である御食津臣命に嫁ぎ伊賀津臣命を生んでいる。
    ③ 坂戸毘古命の姉妹・坂戸由良都媛命が物部氏宗家の出石心大臣命の妻となり内色許男命、内色許売命(孝元皇后、開化帝の母)を生んでいる。
    ④ 国忍富命の姉妹・新河小楯姫命が采女臣の祖である内色許男命に嫁いで大水口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・富炊屋姫命は中臣連の祖である梨迹臣命に嫁いで三名の男子を儲けている。
    ⑤ 天加賀美命の兄弟・筑箪命の子・忍凝見命(オシコロミ)が筑波を始め各地の国造九家の祖となっている。

    また姉妹である息長水依比咩命が日子坐王の妻となり丹波道主王を生んでいる(孫娘の日葉酢媛命は垂仁帝の皇后)
  • 忍山神社の由緒について

    式内社「忍山神社」白鬚大明神
     一、神紋   花菱
     一、鎮座地  亀山市野村四―四―六五(大字一一〇九番地字忍山)
     一、主祭神  猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
       祭神   天児屋根命、 天布刀玉命、
            素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
     一、皇大神宮遷幸地跡
     一、弟橘媛命生誕地

     忍山神社の由緒については諸説ある。「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。神官も物部氏の一族ということになる。因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう。忍山神宮には神宮を守る神宮寺が建てられており、室町時代の記録によると、戦乱で焼けたこの寺院の復興を伊勢神宮が援助している。当時の忍山神宮はかなり壮大な神殿であったらしい。
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