播磨の粒坐天照神社、伊和神社、海神社

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  • June 2016 編集されました
    播磨国風土記、揖保郡
    ●意此川(おしかわ)「応神天皇の御世、出雲の御陰大神が枚方の里の神尾山に坐して、常に道行く人を遮り、半ばは死ぬような状態であった。…朝廷は額田部連久等々を派遣して祈らせた。屋形や酒屋を作って祭った。」
    ●枚方の里「河内国、茨田(まむた)郡、枚方の里の漢人が来て、始めてこの村に住み着いた。故、枚方の里という。」
    ●佐比岡「出雲の大神が神尾山に在して、出雲の国人が此処を通るときは、半分を留めてしまう。そこで出雲の国人が佐比(斎?)を造ってこの岡に祭ったが、うまくいかなかった。この後に、河内の国、茨田郡、枚方の郷の漢人が来て、敬い祭って、やっと鎮めることができた。」

    姓氏録では、額田部湯坐連、額田部河田連が天津彦根命の子、天御影命の末とされていますから、御陰大神とは額田部氏の祖神です。その神を祭る資格のある額田部氏が祈ることで、ようやく御陰神は鎮まったことになります。漢人・額田部氏は阿知使主と共に百済から渡来しました。したがって、祭っている天御影神は出雲に出自を持つオオナムヂ系の神、つまり、出雲から大和へ進出した神です。天御影神は、「近つ淡海、御上の祝の以ちいつく天御影神(開化記)。」とありますから、近江の三上山の神でもあるのです
  • June 2016 編集されました
    播磨名所巡覧図会によれば、伊勢野の伊勢村に粒坐天照神社があった。
    伊勢野とは上岡郷を継承する土地である

    伊佐賀神社境内にある伊保神社略記によると、
    御祭神阿保大神(伊保大神)の鎮座年代並びに御系統は不詳であるが古史成文、古史系図には焼太刀守大穂日子命として記載されている。
    由緒としては播磨風土記、万葉集に著名なる即ち播磨風土記に云う大和(奈良県)の平野に香具山、耳梨山、畝傍山の三山がそびえている。その香具山が畝傍山を愛しまた耳梨山も畝傍山に心を寄せており香具山と耳梨山が激しく争うことになった。出雲の阿保大神が之を聞かれて自分が行って諫め止めよう思い立たれ葦船に乗って播磨國揖保郡まで行かれた時、大和の使者によって闘いが止んだときかされた大神は折角やってきたのに
    と乗って来た船をそこに賦せいぼふられた。その所を神阜(かみおか)といって現在もその地名(上岡)が
    のっこている・・・

    加佐伽(かさか)社という社名から、日下(くさか)部氏と深く関わる神社であり、出雲の日下部氏は三輪氏である
  • 風土記では伊和大神は出雲から来たとしているが、播磨土着の神が後に大国主神に習合されたという見方もある。

    風土記や社伝から伊和大神の分霊や家族神が祀られたと考えられている神社

    英賀神社(姫路市、国史見在社) 英賀津彦・英賀津姫の2神が御子神
    射楯兵主神社(姫路市、式内社・播磨国総社) 兵主神(大己貴命)が伊和大神の分霊という伝承がある
    伊和都比売神社(赤穂市、式内社) 祭神名から伊和大神の比売神であるという説がある
    伊和都比売神社(旧明石郡の式内社 論社 稲爪神社の元境内社・岩屋神社・伊弉冉神社) 同上
    佐用都比売神社(佐用郡佐用町、式内社) 風土記・讚容郡の大神が伊和大神のことであれば、佐用都比売神は伊和大神の比売神
    二宮神社(神崎郡福崎町) 建石敷命が御子神
    祝田神社(たつの市、式内社論社) 石龍比古命・石龍比売命の2神が御子神
    夜比良神社(たつの市、式内社) 葦原志擧乎命(大己貴命、伊和大神)
  • June 2016 編集されました
    息速別命
    墓は、宮内庁により三重県伊賀市阿保の息速別命墓(いこはやわけのみことのはか、位置)に治定されている

    『古事記』『日本書紀』には事績に関する記載はない。

    『新撰姓氏録』によれば、息速別命が幼少の時、父天皇により伊賀国阿保村(現・三重県伊賀市阿保周辺)に命のための宮室が築かれ、同村が封邑として息速別命に授けられたという。『三国地志』は、その宮が営まれた地を阿保南部の字福森から字西ノ森にかけての緩らかな丘陵地帯に比定している。

    息速別命について、『古事記』では沙本穴太部之別、『新撰姓氏録』では阿保朝臣の祖とする

    続日本紀によれば、「阿保君」姓は息速別命四世孫の須禰都斗王が賜ったとする。その後、第21代雄略天皇の代に阿保君意保賀斯が「健部君(建部氏)」の姓を賜り、のち延暦3年(784年)に建部朝臣人上らに「阿保朝臣」、健部君黒麻呂等に「阿保公」姓が下賜されたという
  • June 2016 編集されました
    五十日足彦命(いかたらしひこ-のみこと:紀)は、古墳時代の皇族。第11代垂仁天皇の皇子。越国(現在の北陸地方)の開発に尽力したとされる。『古事記』には五十日帯日子王(いかたらしひこ-のみこ)

    垂仁紀によると五十日足彦命は、石田君の祖とされる。

    春日山君、高志池君、春日部君
    垂仁記によると五十日帯日子王は、春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖とされる。

    山公
    『新撰姓氏録』によると和泉国の皇別・山公は、五十日足彦別命の後裔とされる。

    山守氏
    『新撰姓氏録』によると摂津国の皇別・山守は、五十日足彦命の後裔だとされる。

    五十河媛 いかわひめ
    「日本書紀」にみえる景行天皇の妃。
    神櫛(かんぐしの)皇子,稲背入彦(いなせいりひこの)皇子を生んだという。
    稲背入彦命(イナセイリヒコ)という「皇子」が景行の「息子」だという記述は「古事記」にありません。彼だと思われる「稲瀬毘古王」の名前が出てくるのは垂仁帝の后妃皇子女段のみで、皇后・氷羽州比売命(ヒバスヒメ、丹波道主王の娘、日葉酢媛のこと。景行の母親)の妹で、阿邪美能伊理毘売命との間に産まれた阿邪美都比売命が稲瀬毘古王に「嫁いたまいき」とあります。また、日本書紀は薊瓊入媛が「池速別命と稚浅津姫命」の二人を産んだと記すだけで嫁ぎ先などについては沈黙を守っています。更に、景行紀四年条には、

      次の妃、五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は、これ讃岐国造の始め祖なり。弟稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。

    とあって記紀で系譜・伝承の混乱?が著しいのですが、ともかく皇子と「播磨」の縁は確かなようです。そこで先の近江野洲の神社に話を戻します。兵主大社縁起によれば、

      当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、
      御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、
      皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、
      部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、
      稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。
    とあって、大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子だと云うことになりますが…、それはさておき、景行が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親だとする)という女性でしたし、彼が都を築いた場所も桜井市穴師という土地でした。その大王を滋賀の「穴太」の地に誘ったのは稲背入彦その人ではなかったのか?(「播磨国風土記」飾磨郡の項には穴師の里・右、穴師というは、倭の穴无の神の神戸に託きて仕え奉る、故、穴師と号す、とあります)もっと勘ぐれば垂仁天皇が纏向に営んだ都を、眼と鼻の先の「穴師」に移させたのも彼の「提案」だったのではないのか?そもそも、垂仁三年春三月に播磨国宍粟邑にやってきて、

      莵道河より遡り、北の方、近江国の吾名(あな)邑に入りて、暫く住んだ
  • とあって、大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子だと云うことになりますが…、それはさておき、景行が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親だとする)という女性でしたし、彼が都を築いた場所も桜井市穴師という土地でした。その大王を滋賀の「穴太」の地に誘ったのは稲背入彦その人ではなかったのか?(「播磨国風土記」飾磨郡の項には穴師の里・右、穴師というは、倭の穴无の神の神戸に託きて仕え奉る、故、穴師と号す、とあります)もっと勘ぐれば垂仁天皇が纏向に営んだ都を、眼と鼻の先の「穴師」に移させたのも彼の「提案」だったのではないのか?そもそも、垂仁三年春三月に播磨国宍粟邑にやってきて、

      莵道河より遡り、北の方、近江国の吾名(あな)邑に入りて、暫く住ん
  • 姫路の三木氏、赤松氏

    十五世紀のなかばになると、播磨は置塩の赤松氏をはじめとして、宍粟郡長水城に宇野氏、揖保郡龍野城、佐用郡上月城に赤松庶子家、御着城に小寺氏、東播の三木城に別所氏、そして英賀城の三木氏らの小豪族の割拠状態となっていた。幕府は両細川氏の権力闘争の結果、すでに有名無実化していた。永禄十一年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。信長は天下統一を目指して甲斐の武田氏、越前朝倉氏、安芸毛利氏、さらに石山の本願寺らと対立、戦国史は大きな変換点を迎えたのである。
     元亀元年(1570)、信長は石山本願寺攻めを行った。英賀の三木氏は一向宗門徒として、家臣ら四百三十人を加勢として派遣、さらに兵糧三千俵を石山に送って本願寺を応援した。三木氏は否応なく織田信長と対立関係となり、城主の通秋は英賀城の修築、武器の整備をすすめ、領内の引き締めに努めた。そのころ、御着城主小寺氏の家老小寺官兵衛は織田氏に通じて、播磨の豪族たちを織田方に引き入れる工作に東奔西走していた。その工作は成功したかにみえたが、名門意識の高い播磨の豪族たちは新興織田氏を嫌い安芸毛利氏に通じて織田氏から離反していった。
     天正六年(1578)、三木城の別所氏が織田軍の中国方面司令官羽柴秀吉に反旗を翻した。三木氏は三木城に援軍と 兵糧米を送って別所勢に加勢する一方で、さらに城の整備、武器の調達、士気の高揚に躍起となった。三木城の攻防は 二年にわたって続き、世に「三木の干殺し」と称される凄惨な籠城戦のすえに別所氏は滅亡した。
     三木城の落城後、秀吉は英賀攻めに取りかかった。天正八年二月十日、秀吉軍の攻撃が開始され、城兵は大軍を相手に 奮戦したが、四日後の十三日に城は落城した。城主三木通秋とその子安明は、一方を切り抜けて城を脱出、遠く九州へと 落ちのびた。二年後の天正十年、通秋らは秀吉に赦されて英賀に帰り、郷士として居住することを許された。同年六月、 織田信長が京都の本能寺で明智光秀によって討ち取られ、羽柴秀吉が天下人へと駆け上がっていくことになる。 秀吉にしてみれば、旧勢力の小城主に過ぎない三木氏の存在は眼中になかったのかも知れない。いずれにしろ、 三木氏は中世を生き抜き、家系を後世に伝えることができたのであった。
  • December 2017 編集されました
    「旧事本紀」に播磨国の国造として明石・鴨・ 播磨が記載されているが、直木孝次郎「古代王権と播磨」によれば「鴨国造は佐伯直(さえきのあたい)であったらしい」。豪族の勢力がいかに強かったかを物語る話として、安康天皇が暗殺された後の内乱の際、履中天皇と葛城之曾都毘古の孫娘・黒媛の皇子の履中天皇の長男・市辺之忍歯王(いちのへのおしはのおおきみ) (皇位継承争いで先の允恭天皇の皇子で安康天皇の弟の雄略天皇に殺される)と葛城系の夷媛との間に生まれた「億計・弘計」の両皇子が播磨地方に難を避けて、雄略天皇の死後、播磨地方の勢力、特に葛城 氏の支援を受けて天皇に就いている(顕宗・仁賢天皇)

    大陸や半島からの渡来人が居住した地名が「播磨国風土記」にたくさ ん登場する。姫路の近郊では漢部郷・韓室郷・己智郷、それに枚野(平野)里の新羅訓村(白国村)などがある。韓泊港などもその一つである。また同「風土記」に「韓室(からむろ)などを造る」との記載もある。朝鮮風の塗りごめの家屋である。同じ く「風土記」の餝麿郡の条には新羅訓について、「昔新羅の国の人来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く」とある。更に「風土記」に豊国村の記述がある。「豊国と号虎 くる所以は、筑紫の豊国(豊前・豊後)の神、此處に在す。 故、豊国の村と号虎く」。豊前には秦王国があったといわれており、豊前の国の秦氏族が祭祀した新羅神は、田川郡香春町にある香春神社である。辛国息長大姫大目命を祭神としている
  • 式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。

    「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。古くは、あまじんじゃ・たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づき明治4年(1871年)に採用したものである。『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている。「タルミ」の読みは、祭神の本来の名称が垂水神であったことによるものである。「アマ」は、当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによる。
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