播磨の粒坐天照神社、伊和神社、海神社

December 2018 編集されました カテゴリ: 播磨
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伊和神社、海神社・粒坐天照神社は、播磨三大社。    伊和神社 兵庫県宍粟市にある神社。式…

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  • May 2016 編集されました
    、『播磨国風土記』には、伊和大神関連の神々の名が記されている。

    餝磨郡の英賀(あが)の里には、伊和大神の御子、阿賀比古(あがひこ)、阿賀比売(あがひめ)の二柱の神が鎮座。
    揖保郡の伊勢野には、伊和大神の御子、伊勢都比古(いせつひこ)、伊勢都比売(いせつひめ)の二柱の神が鎮座。
    揖保郡の美奈志川には、伊和大神の御子、石竜比古(いわたつひこ)、石竜比売(いわたつひめ)の二柱の神が鎮座。
    宍禾郡の阿和賀山には、伊和大神の妹(妻)、阿和加比売命(あわかひめのみこと)が鎮座。
    宍禾郡の雲箇の里には、伊和大神の妻、許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ:瓊々杵尊の妻・木花開耶姫命とは別神?)が鎮座。
    神前郡の山使村の神前山には、伊和大神の御子、建石敷命(たけいはしきのみこと)が鎮座。
    託賀郡の袁布山では、宗形の奥津嶋比売命(多紀理毘売命:大国主神の妻で阿遅鉏高日子根神の母)が、伊和大神の御子を生んだ。

    景行天皇
    ヤマトタケルの母は、播磨(針間)の印南(いんなみ)の別嬢(わきいらつめ)だ。彼女の表記は、伊那毘能(稲日野)大郎女となっているものもある。彼女は播磨が生んだ唯一の皇后であると云われる。ただ、どういうわけか、皇后になっても、大和朝廷には入らず、氷の川(現在の兵庫県加古川市)周辺に住んだ。よってヤマトタケルも、播磨で育った可能性が高い。

    加古川平野一帯を印南野(いなみの)と呼ぶようになったと云う。彼女が逃れた所は、後年、南眦都麻(なびつま)と呼ばれる島だった(現在のどこかは不明)。妻(別嬢)が靡いたという意味だろう(ただ、風土記では、景行天皇が、印南別嬢が隠れた島として、「隠愛妻(なびはしつま)」と言ったことから南眦都麻嶋と名付けたとある)。
  • May 2016 編集されました
    播磨国風土記を見渡すと、そこにはスサノオの話が一切出てこないことに気付く
    『播磨国風土記』には三箇所に少彦名(すくなひこな)の話が出てくるが、その全てをなぜかスクナヒコネとしており、内二箇所は少日子根、他の一箇所は四文字全てを変えて小比古尼と表記している


    『古事記』では、景行天皇は、 吉備臣等の祖である若建吉備津日子の娘・針間之伊那毘大郎女を娶って、 櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那命)、倭根子命、神櫛王の五柱を生んだ。
    また八尺入日命の娘・八尺之入日売命を娶って、 若帯日子命(成務天皇)、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日売命を生んだ。
  • May 2016 編集されました
    播磨風土記の印南郡の南毘都麻(なびつま)の条に、

    「志我の高穴穂の宮に天の下知らしめしし天皇(成務天皇)の御代、和邇臣(わにのおみ)の祖、比古汝茅(ひこなむち)を遣して、国の境を定めたもうた。その時、吉備比古、吉備比売の二人が参り迎えた。ここに比古汝茅、吉備比売に娶いて、生める児、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)、-----。大帯日古(おおたらしひこ)の天皇(景行天皇)この女を娶んと欲して行幸せるも、別嬢これを聞きて、南毘都麻の小嶋に逃げ隠れた。」とある。

     この印南別嬢が、日本書紀が景行天皇の皇后とする稲日大郎姫(いなひのおおいらつめ)、(あるいは稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ))である。古事記も彼女を伊那毘能大郎女として景行天皇の皇后としている。

    播磨国風土記では印南別嬢は和邇部氏らの祖•比古汝茅と吉備比売の娘としますが、「古事記」では孝霊天皇の皇子•吉備臣らの祖・若建吉備津日子の娘となっています。さらに志我高穴穂宮御宇天皇とは成務天皇のこととされますが、成務天皇は景行天皇の子であるので矛盾が生じています。しかし崇神天皇の時代に播磨東部を支配していたのは吉備氏であったというのは興味深く、その後、吉備氏の力が弱くなり、朝廷から遣わされた比古汝茅に吉備比売を差し出さなければならなかったとも考えられます。
  • 出雲街道沿いの日本最古級古墳。

    吉島古墳
    兵庫県たつの市 新宮町吉島新山854
    形 式 前方後円墳
    全 長 30 m 後円部 直 径 16 m 高 さ 2.5 m
    埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかったものとされています。葺石は施されていなかったものみられています。
     発掘調査が1966年に行われています。 後円部中央にある埋葬施設は竪穴式石室で割竹形木棺が収められていました。竪穴式石室は石英安山岩でつくられ全長5.4m幅1.15m高さ1.1mと測られています。出土したものとして中国製尚方作獣帯鏡、中国製長宜子孫内行花文鏡、三角縁華文帯四神四獣鏡、三角縁四神四獣鏡、三角縁盤竜鏡、ガラス製小玉、鉄刀、鉄剣などが知られています。

    養久山18号墳
    兵庫県たつの市揖保川町野田の丘陵尾根上にあります。
     墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳の主墳部分である円墳部分を方墳形式にした前方後方墳と呼ばれるものです。
     墳丘の規模は、後方部の辺12.3m、高さ1.75mで、前方部の最大幅は8.3m、高さ1mを測り、墳丘全長は26.4mとなっています。

    竜子三ツ塚1号墳
    兵庫県たつの市 揖西町竜子二塚
    形 式 前方後円墳
    規 模 全 長 38 m 後円部 直 径 25 m 高 さ 2.5 m
    墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳と呼ばれています。墳丘の規模は、二段構築された後円部の径25m、高さ2.5mで、前方部の最大幅は13m、高さ1.3mを測り、墳丘全長は38mとなっています。
     埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかったものとされています。葺石が墳丘に施されていたとみられています。後円部頂中央にある埋葬施設は竪穴式石室で箱形木棺が収められていました。
     竪穴式石室は流紋岩でつくられ全長3.49m幅0.8mと測られています。出土したものとして中国製三角縁波文帯三神三獣鏡×2面、短冊形鉄斧、手斧、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、土師器などが知られています。竜子三ツ塚古墳群を構成しています。

    権現山50号墳
    兵庫県たつの市御津町中島権現山
    形 式 前方後方墳
    規 模 全 長 55 m後方部 一辺長 30 m高 さ 7 m前方部 先端幅 25 m高 さ 3.4 m
     墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳の主墳部分である円墳部分を方墳形式にした前方後方墳と呼ばれるものです。
     墳丘の規模は、後方部の辺30m、高さ7mで、前方部の最大幅は25m、高さ3.4mを測り、墳丘全長は55mとなっています。
     後方部頂にある埋葬施設は竪穴式石室となっています。
     権現山古墳群を構成しています。
     この古墳の築造は古墳時代の前期と推定されています。
  • June 2016 編集されました
    野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)は、相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社。 兵庫県たつの市と東京都墨田区に同名の神社がある。
    野見宿禰神社 (兵庫県たつの市)

    出雲墓屋伝承地に建てられ、神社敷地内に野見宿禰の塚がある。龍野公園内にある境内には明治大正時代の力士84名および行司が寄進した玉垣が残る。この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされている。

    古の播磨を訪ねて
    石海(いはみ)の里
     播磨国風土記には、「土地は上の中です。石海というのは、難波の長柄(ながら)の孝徳天皇の代に、この里の中に、百足(ももたり:何でも揃う)の野があって、百枝(ももえ:稲穂の多い)の稲が育ちました。そこで阿曇連(あづみのむらじ)百足が、その稲を刈り取って天皇に献上しました。そのとき、天皇がおっしゃいました『この野を開墾して、田を作らねばならない。』そこで阿曇連太牟(たむ)を石見(いわみ:島根県西部)に派遣して、人々を集めて連れて帰り、開墾させました。そして、野を名づけて、百足といい、村を石海と名づけました。」とあります。

    播磨国風土記の「石海の里」は、現在の太子町立石海小学校辺りから姫路市網干区・余部区、たつの市御津町岩見の辺りまでと考えられています。そして、その「いわみ」という地名は「出雲国いわみの里」からつけたというのです。ただ、「百足の野」の比定地は、不明のようです。播磨国風土記には、出雲のことは、沢山記載されています。
    播磨国風土記では、土地の等級を「上の上」から「下の下」まで、9段階に分け、「上の上」は0で、「上の中」が5ヶ所あります。この「石海の里」は「上の中」で、土地は揖保川の扇状地になり、温暖かつ肥沃で、本文中にもあるように、稲作りが盛んに行われ、沢山の収穫があったようです。現在の太子町や姫路市南西部、御津町はその流れを今に引き継いだ農業の盛んな地域です。
  • 古の播磨、香山(かぐやま)の里

    播磨国風土記には、「元の名は鹿来墓(かぐはか)です。土地は下の上です。
    鹿来墓と名づけるわけは、伊和の大神が国占めをなさったとき、鹿が出てきて山の峰に立ちました。山の峰もまた墓に似ていました。そこで鹿来墓と名づけました。後に、天智天皇の御世に、道守臣(みもりのおみ)が播磨国司になったとき
    に、名を改めて香山としました。
    家内谷(やぬちだに) これは香山の谷です。形が垣根をめぐらしているようになっています。そこで家内谷という名がつきました。」とあります。

    揖保川の土手の土筆も芽を吹きだした3月初めに、たつの市新宮町を訪ねました。風土記によれば天智天皇の御世に、「カグハカ」から「カグヤマ」に地名が変わったというのです。このことについて、少し難しくなりますが、万葉集には「香具山・畝傍山・耳成山の大和三山」の争いの説話を詠った天智天皇の有名な歌があります。また、「播磨国風土記 揖保の郡 上岡の里」の条には、出雲の国の「阿菩(あぼ)の大神」が、その大和三山の争いを止めようとお思いになって、「上岡の里」(現在のたつの市神岡町)まで来られた時に、争いは収まったと記載されています。この「大和三山に関する天智天皇の歌と揖保の郡の言い伝え」をもとにして、天智天皇の御世に、大和三山の一つの「香具山」にちなんで、揖保の郡の「カグハカ」を「カグヤマ」と名前を変えたのではないかと言われており、現在のたつの市新宮町の「香山(こうやま)」が比定地とされています。

    次に「家内谷(やぬちだに)」ですが、これは一般的には新宮町香山にある小字の「家氏(いよじ)」が比定地とされています。この「家氏(いよじ)」地区には「家氏(いえうじ)」という姓の家が現在3軒あります。「家内(やぬち)」→「いえうち」→「いえうじ」→「いよじ」と変化していったと考えられ、ここ新宮町でも播磨国風土記は健在でした。

    さて、その家氏(いよじ)には、「皇祖神社」が鎮座しています。このお社の阿形の狛犬は、瓦製で、全国的にも非常に稀なものです。高さ37㎝で台座に彫られている銘文から、明徳元年(1390)に橘友重(たちばなともしげ)が制作したものと判明しています。橘氏は大和で活躍した瓦職人で、橘氏の作品としては播磨最古のものと言われ、兵庫県の重要文化財に指定されています。その他、狛犬のレプリカ等が境内のガラスケースに保管されています。    (揖保の郡)
  • 加東市
    起勢(こせ)の里、

    播磨国風土記には、「土地は下の中です。起勢と名づけたのは、巨勢部(こせべ)らが、この村にいたので、里の名としました。臭江(くさえ)臭江という名がついたのは、第15代応神天皇の御世に播磨の国の農村に、我こそは村長だという者が沢山いて、それぞれが自分の村の中で互いに闘っていたとき、天皇の命令によって、この村に追い出して集めて、みんな切り殺してしまいました。死骸のにおいが臭かったので臭江といいます。また、その血は黒く流れました。だから、黒川といいます。」とあります。
    加東市には、「西古瀬・中古瀬・東古瀬」という町名が残っています。この中で、中古瀬と東古瀬は、『小目野(おめの)』の中で取り上げました北播磨第一の大社と言われている式内社「佐保神社」の氏子になります。

    熊野神社(兵庫県小野市)

    兵庫県小野市王子町801
     小野王塚古墳の所有、管理をしている。小野市役所の西隣りに鎮座。社殿は西向き。
     祭神  伊弉冉命(いざなみのみこと、大目之庄の祖神)、速玉男命(はやたまおのみこと、武神)、事解男命(こととけおのみこと、文神)。
    神社の由緒説明
     『当社は元「大目大明神」と称し、伊邪那美命を鎮め祀り「大目之庄の祖神」とし、毎年春秋の二季祭事を奉祀した。後世大目之庄が大部之庄(おおべのしょう)と改められ、当社も「大部大明神」と改称した。
     その後、紀州熊野神社神主穂積宿祢の末裔の鈴木氏が当地に来て速玉男命、事解男命の二柱を合祀し熊野大明神として斎泰せられたが、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により熊野権現社として呼ばれるようになった。
     1672年、領主・一柳家が小野に移城以来、垂井の庄の神明神社、住吉神社と共に三氏神として一柳家祈願所に列せられた。』


    大部荘(おおべのしょう、兵庫県小野市の中心部)は奈良東大寺の荘園であったが、1192年に東大寺領荘園としての境界線が確定した。荘園が年貢を納めなかったり、一揆の発生、楠正成一族の悪党乱入事件、争乱・内乱などが頻発した。東大寺からの使者(神人、しんじん)も度々荘園にやってきて農民を困らせたので、抗議をした。武士社会の中世は混乱していたようです。
     加古川を下り瀬戸内海を航行して年貢を運ぶ水運業者が海賊で、争いが起きたこともある。運送料も年貢の20%を超えて高かった。

    やはり、ここの小野も古の春日とゆかりがある。
  • 播磨国には住吉大神(底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后)を祀る神社が多い。住吉大社の神領、社領、荘園が多かったことによる。
    播磨国には大歳神社(大年神社)も多いが、大歳神が雨の少ない瀬戸内気候の播磨に、ため池や灌漑用水路を造るよう指導して農業の発展に尽くしたことによる
  • (長持形石棺)

    6枚の加工した板石を組み合わせています。長持の形に似ていることから長持形石棺と名づけられました。
    長持形石棺の多くは播磨からもたらされました。5世紀頃に開発された竜山石と呼ばれる石材が使用され、特に、畿内地域を中心として運ばれ、中央と密接な関係をもった石材工場と考えられる。
    http://ew.sanuki.ne.jp/snkbunka/tudabun7/kohunnbennkyoukai/text/h250601.html
  • 「国造本紀」では、成務朝に稲背入彦命の「孫」伊許自別命が針間国造を賜るとあり、御穂別命(御諸別命に当たる)の児・市入別命が針間鴨国造を賜るとあります。

    みもろわけの子、阿良都命の曾孫の那賀児の子に善通という者がおり、八釣宮朝庭(顕宗天皇朝)二年に讃岐国多度郡に移住との本もあるようですが未確認。

    播磨と讃岐の佐伯直の系統が共通して祭っている稲背入彦命ですが、滋賀県野洲郡中主町にある兵主神社の摂社乙殿神
  • 景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられた

    さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。

    佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとありますので、播磨の支族が四国各地の佐伯を管掌したことが考えられます。播磨国内では、印南・揖保郡等に佐伯直の分布が見えますが、河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます。
    ただ、この『姓氏録』の右京皇別の記事にも乱調・誤記の疑いがあり、御諸別命は毛野一族の針間鴨国造の祖であって、この御諸別命と、稲背入彦命の男で針間国造の祖である阿良都命とが針間を中分したものではないかと思われます。阿良都命が『播磨国風土記』神前郡多駝里条に見える品太(応神)天皇のときの佐伯部らの始祖阿我乃古と同人とすれば、世代的に御諸別命を入れる必要もなく、こう考えたほうが文意が通ります。仁徳紀四十年条には、播磨佐伯直阿俄能古らが隼別皇子を討ったと見えますが、『古事記』は山部大楯連という別人の名をあげますから、仁徳紀の記事は疑問があります。「国造本紀」では、成務朝に稲背入彦命の「孫」伊許自別命が針間国造を賜るとあり、御穂別命(御諸別命に当たる)の児・市入別命が針間鴨国造を賜るとあります。
  • 播磨別(はりまわけ)の祖といわれる稲背入彦命(国別(くにわけ)明神)の孫阿曽武命(白国家の祖)の子阿良津命が播磨国の初代国造となり、佐伯直の姓を賜り佐伯氏となったという。

    姫路市白国の佐伯神社

    佐伯神社由来に、
    「佐伯神社由来・御祭神・阿良津命・当佐伯神社の御祭神・阿良津命はこの地の遠い御先祖であらせられ、佐伯直の姓を応神天皇より御受けになられました。佐伯神社と大木 / 佐伯神社入口と社殿孝謙天皇の御代天平宝字二年(七五八)命の子孫の佐伯宿祢芸胡多というお方が出月岡という地に祖先の阿良津命をお祀りになられたのが、佐伯神社の創立であり、佐伯大明神として崇め奉りました。天皇の思し召しにより、佐伯姓を白国姓に改め、白国宿祢と申し上げる事になりました。阿良津命は白国の地を開かれた国造・稲背入彦命の曽孫にあたらせられる。今、境内に高くそびえる椋の大樹は長い歴史を物語っています」と記載されている。この由緒書によれば、この神社の祭神は白国宿禰である。「神社の由緒」については、白国郷土史愛好会「ふるさと白国」にも「第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」
    としている。姫路市教育委員会「文化財シリーズ7・増位山を訪ねて」には、「「播磨鑑(はりまかがみ)」に佐伯神社の略縁起がのっている。それによると、この付近は古い時代から佐伯氏―白国氏の社域であったようである。亨保十九年(一七三四)当時は、「野狐禽獣の栖(やこきんじゅうのすみか)」になっていたのを、子孫の白国宗得(むねとく)が社壇を建立して佐伯社を再興したと見えている」と記載されている。案内板によれば、当社の神事は、一月一日新年祈願祭、五月八日花まつり、九月一日は八朔まつり、十月九日例祭とある。
  • June 2016 編集されました
    「開化記」には針間の阿宗君(あそのきみ)の祖は息長日子王(おきながひこのおほきみ)であるとしている

    そして「景行記」には景行天皇が吉備臣等(きびのおみら)の祖(おや)、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶り生ませる御子、櫛角別王(くしつぬわけのおほきみ)、次に…小碓命(をうすのみこと)、亦の名倭男具那命(やまとおぐなの)…次に神櫛王(かみくしのおほきみ)…とある

    「姓氏録逸文」には景行天皇の子の稲背入彦の後。孫の阿良都別命(あらつわけのみこと)男・豊島は孝徳天皇の御世(六四五~六五四)に佐伯直の姓を賜る…との記載がある。

    阿良津命(あらつのみこと)は白国神社の祭神・阿曽武命(あそたけるのみこと)の子で、応神天皇の時に父を祭神に加えている。

    阿良都別命は阿良津命の後であろうか。その子の豊島の時に佐伯直となったとしている。

    佐伯直は「姓氏録(右京皇別)」に記載があり、概略は「景行天皇の皇子稲背入彦命の後なり佐伯直の男・御諸別命が成務天皇の御代に針間国の中を分けて之を賜った。之により針間別と名づけられた。さらに、男・阿良都命(あつらのみこと)、一名を伊許自別という―は応神天皇が国堺を定める為に、針間国・神崎郡に巡行の折に、岡部川の上流に住む日本武尊が東国平定の折に俘にした蝦夷の後裔が居住していたことを知り、この国を針間別(後に佐伯直と為す)に賜り、針間のほか、安芸、阿波、讃岐、伊予も同時に賜った」と記載されている。

    仮に、この伝承の通りであるとすれば、讃岐の佐伯氏は播磨の佐伯氏のと同族ということになる。

    上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別命とあるが、『新撰姓氏録』は、景行天皇の皇子の稲背入彦 (イナセイリヒコ) 命の後。御諸別 (ミモロワケ) 命は成務天皇の代に針間国の半ばを賜り、針間別(ハリマノワケ)と号す。阿良都 (アラツ)命、一名は伊許自別(イコジワケ)命。応神天皇の代に針間別佐伯直を賜うと記している。
    御穂別命は御諸別命、市入別命は伊許自別命の誤記だと思われるが、安倍氏族にも市入別命に類似した市入命がいる。ただ、兵庫県と石川県と地域が異なる。
  • 茨田勝  山城国皇別       景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後なり

    とする「茨田勝(まんたすぐり)」家です。この皇子の名前は、日本書紀には見えず、先代旧事本紀にはよく似た息前彦人大兄水城命(奄智白幣造の祖)の名が天皇本紀に見えており、古事記には伊那毘若郎女(播磨出身、皇后の妹)との子供に日子人大兄王が居たとあります。また、書記の仲哀二年春正月条には、

    気長足姫尊を立てて皇后とす。これより先に、叔父彦人大兄が女、大中姫を娶りて妃としたまう。香坂皇子、忍熊皇子を生む。
  • 大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられるとの見方がある。
  • 播磨国総社 射楯兵主神社二座
    射楯兵主神社,姫路市総社本町
    行矢射楯兵主神社,姫路市辻井5丁目
    祭神--射楯大神・兵主大神

    『因達(イダテ)と称するは、息長帯比売命(神功皇后)が韓国を平定せんと渡りましし時、御船前(先導する神)に坐しし伊太氐(イダテ)の神、此処に在しき。故に、神の御名に因りて里の名と為す』

    と記されていることから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことがわかります。

     二社が何時合座したかについては、明確な資料が存在しませんが、927年に編纂された延喜式神名帳に『い』とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。

     その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神174座の神々を合わせ祀って『播磨国総社』と称し、三日潮『播磨国総鎮守の神』として広く知られるようになりました。(以下略)」
    とあり、
     続けて
     年表
     ・大和時代  射楯大神が飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町・八丈岩山付近、当社北西約2km)に鎮座
     ・欽明天皇25年(564)  兵主大神(大己貴命)が影向、飾磨郡伊和里の水尾山(現姫路市山野井町・男山、当社の北西約1km)に鎮座
     ・延暦6年(787)  坂上田村麻呂が勅命により兵主大神を国衙荘小野江の梛本(現姫路市本町付近、当社北約500m)に遷す 
     ・寛平3年(891)  兵主神社に射楯神を合祀、射楯兵主神社と号す(年次不明とする資料あり)
     ・延長5年(927)  延喜式内社に列す
     ・養和元年(1181) 播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合祀、総社と号す
     ・天正3年(1581)  羽柴秀吉が姫路城築城のため現在地に遷す
    とある(鎮座・遷座項目のみ)。

    本殿内陣
    中殿は空で、東殿に射楯神(五十猛命)、西殿に兵主神(大己貴命)を祀り、祭祀は西殿から東殿へという順に行われるが、これは兵主神に射楯神を合祀したという伝承に従ったものであろうという(日本の神々)。
    なお、西殿には九所御霊と称する客人神9座を配祀しているというが(式内社調査報告)詳細不詳。
    中央--十二社合殿(末社、切妻造・瓦葺)
    一ノ宮(兵主神荒魂)・二ノ宮(射楯神新魂)・日岡社(天之伊佐々比古命)・角社(級長津彦命・級長津姫命)
       ・手置帆負社(手置帆負命)・彦狭知社(彦狭知命)・秋葉社(迦具槌神)・羽黒社(倉稲魂神)
       ・道祖社(岐神)・鞍屋社(保食神)・柿本社(柿本人麿朝臣)・東照宮(徳川家康公)
       当社に関連する神々を祀る社と思われるが、勧請由緒など不明。
     右--東播磨総神殿(末社、朱塗切妻造・瓦葺)
     左--西播磨総神殿(末社、朱塗切妻造・瓦葺)
       所謂・播磨国総社と呼ばれる社殿で、社殿前の案内には
       「西播磨総神殿  播磨国内鎮座の大小明神174座のうち、西播磨の御祭神をこの社に合祀しております」
    とある(東播磨総神殿は西が東になっているだけで同文)。
  • June 2016 編集されました
    和気氏と尾張

    http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/kiyomaro.htm
    日本書紀や古事記は、忍熊・香坂の二皇子は兵を興して菟餓野(とがの)に進出し、戦勝を占った時、突如として猪が現れて、香坂王を喰い殺したと記して、和気氏の祖先の名は出てこないが、実は、この猪というのが和気氏の象徴である。トーテムアニマルである。清麻呂が大隅に流される時、その道中を野猪が護ったとされている。そして、このために、京都御所の蛤御門の前にあって、清麻呂を祀る護王神社の社前を護るのは、狛犬ではなく猪の石像である。

     和気氏がその祖先とする垂仁天皇の皇子鐸石別命(古事記では沼帯別(ぬたらしわけ)命)の母は、丹波国出身の皇后日葉酢媛(ひばすひめ)の妹、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)(古事記は沼羽田入毘売(ぬばたのいりひめ))である。私は、弟彦王なる人物が軍功によってここに封地を得たとする話は、応神天皇が吉備の御友別の兄弟・子供たちを吉備のそれぞれの県(あがた)に封じたと云う話と同類で、大和の王権が、かねてから全国的に支配権を持っていたかのように装うための表現に過ぎず、実は、もともと丹波地方にいた勢力の一つが吉備の吉井川下流域に進出して来ていたので、大和の王権は吉備を圧迫するための道具として、彼らを優遇し援助し育成したので、これによって彼らは徐々にその勢力範囲を吉備東部に拡大したと云うことであろう。

     播磨風土記には揖保郡越部里の狭野村の条に「別君玉手らの祖」、讃用郡庭鹿山の条に「別部犬」と云う名が出てくる。「別」は「和気」であるから、これらは和気氏である。和気氏は丹波から播磨に入り、播磨西部のこの辺りから、さらに吉備へ拡がっていったものと考えられる
  • 佐用都比賣神社
    拝殿の扁額には「佐用姫大明神宮」。
    拝殿の前に、ドラえもんのコケシのようなものがあるのだがなんだろう。

    創祀年代は不詳。通称は、佐用姫さん。

    式内社・佐用都比賣神社に比定されている古社で、
    『続日本後紀』には仁明天皇嘉祥二年(850)
    「播磨国佐用郡佐用津姫神社預官社」とある神社。

    『播磨国風土記』讃容(さよ)郡の項に、
    出雲から来られた伊和大神と妹神(后神)・玉津日女命が当地の領有を競った時、
    妹神(后神)が生きた鹿の腹をさいて、その血に稲を蒔いて一夜で苗が出たという。
    伊和大神は「汝妹は五月夜(さよ)に植えつるかも」と言って去っていった。
    よって、五月夜(さよ)の郡、讃容郡と名付けられ、
    妹神(后神)を賛用都比賣命と名付けたとある。
  • June 2016 編集されました
    播磨国風土記』には、伊和大神関連の神々の名が記されている。

    餝磨郡の英賀(あが)の里には、伊和大神の御子、阿賀比古(あがひこ)、阿賀比売(あがひめ)の二柱の神が鎮座。
    揖保郡の伊勢野には、伊和大神の御子、伊勢都比古(いせつひこ)、伊勢都比売(いせつひめ)の二柱の神が鎮座。
    揖保郡の美奈志川には、伊和大神の御子、石竜比古(いわたつひこ)、石竜比売(いわたつひめ)の二柱の神が鎮座。
    宍禾郡の阿和賀山には、伊和大神の妹(妻)、阿和加比売命(あわかひめのみこと)が鎮座。
    宍禾郡の雲箇の里には、伊和大神の妻、許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ:瓊々杵尊の妻・木花開耶姫命とは別神?)が鎮座。
    神前郡の山使村の神前山には、伊和大神の御子、建石敷命(たけいはしきのみこと)が鎮座。
    託賀郡の袁布山では、宗形の奥津嶋比売命(多紀理毘売命:大国主神の妻で阿遅鉏高日子根神の母)が、伊和大神の御子を生んだ。

    英賀神社
     祭神  英賀彦神(あがひこ、伊和大神の御子)、英賀姫神(妃神)、
          天満大神(菅原道真公、学問の神様、雷神)、
          八幡大神(誉田別尊、15代応神天皇、武神、海の神様)、
          春日大神(天児屋根命、藤原氏の氏神

    播磨国風土記の飾磨郡英賀里に記載があるので、創建は7世紀の飛鳥時代と考えられる。
     英賀彦神と英賀姫神の夫婦は伊和大神(いわのおおかみ)の播磨経営に当たり、当地を拠点として播磨灘沿岸地域を開拓し、英賀国を創り固めた。従って、英賀国主大神として祀り、夫婦和合、創業経営の神として信仰されている。
     伊和大神は播磨国一宮の伊和神社(宍粟市)の祭神です。伊和大神は大汝命、葦原志許乎命とも記されているので、大国主神と同一神と考えられていますが、私見では伊和大神は大国主神(160年頃出生)の4代ほど後の子孫で230年頃出生、針間国西部(3世紀当時は吉備国東部であった)を開拓統治したと考えています。

     7代孝霊天皇(230年頃出生)から12代景行天皇(285年頃出生)にかけて、強大な吉備国は大和朝廷に侵食され、東部を針間国に割譲されたと考えられます
  • June 2016 編集されました
    崇神天皇の時代の吉備と大和

    加古川は播磨国の賀古郡と印南郡との境界でった。加古川より東が賀古郡、西が印南郡であった。このこと自体がやや異常である。弥生時代以来、川は稲作と交通の根幹であったので、一つの川の流域が一つの生活圏となり、川はそこに一つの自治圏を発生させ、一つの政治勢力を発生させた。従って、その後の律令制下においても、一般的には一つの川の流域が一つの郡となっている。川を境界として二つの郡が接するという場合は、二つの政治勢力が、川を境界として存在していたことの名残によるものと見られる。このことから見ても、加古川こそが、東の大和勢力と西の吉備勢力との境界線であったと考えられるのである。これが吉備の国の東方の最大版図であった。

    播磨風土記の印南郡の南毘都麻(なびつま)の条に、

    「志我の高穴穂の宮に天の下知らしめしし天皇(成務天皇)の御代、和邇臣(わにのおみ)の祖、比古汝茅(ひこなむち)を遣して、国の境を定めたもうた。その時、吉備比古、吉備比売の二人が参り迎えた。ここに比古汝茅、吉備比売に娶いて、生める児、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)、-----。大帯日古(おおたらしひこ)の天皇(景行天皇)この女を娶んと欲して行幸せるも、別嬢これを聞きて、南毘都麻の小嶋に逃げ隠れた。」とある。

     この印南別嬢が、日本書紀が景行天皇の皇后とする稲日大郎姫(いなひのおおいらつめ)、(あるいは稲日稚郎姫(いなひのわかいらつめ))である。古事記も彼女を伊那毘能大郎女として景行天皇の皇后としている。

    「南毘都麻」と云うのは、加古川の河口の三角州の島であると云う。南毘都麻の小嶋に逃げ隠れたという島。

    日岡山には前期古墳が密集した日岡山古墳群がある。その山の頂近くにある主墳の「褶墓」(ひれはか)は宮内庁によって景行天皇皇后稲日大郎姫の日岡御陵とされている。

    日岡神社があった。祭神を、播磨風土記は大御津歯命(おおみずはのみこと)の子、伊波都比古命(いはつひこのみこと)とし、延喜式神名帳は伊佐々比古命(いささひこのみこと)としている。いずれも、記紀には全く見られない神名である。「オオミヅハ」の名から推すと、恐らくは、加古川の水の神ではあるまいかと思われるのだが、日岡神社の宮司日岡幾朗氏は「イササヒコ」は五十狭芹彦(いさせりひこ)の転じたものとの説を述べておられるようである。五十狭芹彦の亦の名が大吉備津日子である。
  • June 2016 編集されました
    播磨国一宮伊和神社の祭神が、伊和大神である。
    また宍禾郡の宇波良村の項には、葦原志許乎命が国占めましとあり、伊和大神は葦原志許乎命(大国主神)と同神と考えられたようだ。
    『播磨国風土記』には、伊和大神と天日鉾神の争いの話と、葦原志許乎命が天日鉾神と競う話が登場する。 このことからも伊和大神=大国主神(葦原志許乎命)と想像できる。
    伊和は三輪が転じたものとして、大物主命(大国主神)と同神とする説もある。

    『播磨国風土記』賀古郡の日岡に、伊波都比古命という神の名が出てくる。 これは伊波の男神、つまり伊和大神と解釈できないだろうか。
    伊波都比古命は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の御子だとあるが、 『古事記』には、大国主神の祖父が淤美豆奴神(おみずぬのかみ)とあり、 ここでも伊和大神=大国主神という仮説が可能だと思う。
  • June 2016 編集されました
    大和の政務天皇が、派遣した比古汝茅。
    和邇の臣の祖比古汝茅、吉備比売に娶いて、生める児、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)。

    比古汝茅を迎えた吉備比古と吉備姫。その吉備姫が印南別嬢。
  • 祝 田 神 社
    A:姫路市林田町上構
    祭神--罔象女命・高靇神
    B:たつの市揖西町清水
    祭神--石龍比古命・石龍比売命・稲倉魂命
    ※祭神
     林田社--罔象女命(ミズハノメ)・高靇神(タカオカミ)
     清水社--石龍比古命(イワタツヒコ)・石龍比売命(イワタツヒメ)・稲倉魂命(ウカノミタマ)

     このうち稲倉魂命を除く4座はともに水に関係のある神で、
    *罔象女命--火の神・カグツチを生んだために火傷を負い病臥したイザナミが生んだ神々の一で、古事記には
      「次に尿(ユマリ)に成りし神の名は弥都波能売神(ミツハノメ)」
    とあり、水神という。

    *高靇神--書紀5段一書7に、イザナミがカグツチを生んたのを怒ったイザナギが、
      「剣を抜いてカグツチを斬って三つに断たれた。その一つが雷神、一つが大山祇神が、一つが高靇になった」
    とある神で、靇(オカミ)とは龍の古語といわれ、“雨の下に龍”と書くように、“水を司る龍”を意味する。
     なお資料によれば、この神は寛治7年(1093・鎌倉初年)に京都・賀茂別雷神社の摂社・貴布祢神社の祭神を勧請・合祀したもので、当社本来の祭神はミズハノメ命一座という。

    *石龍比古・石龍比売については、播磨国風土記・揖保郡条に
     ・出水の里  この村に冷たい水が出る。故にその泉によって名とした。
     ・美奈志川(ミナシ) 美奈志川と呼ぶわけは、伊和大神の御子・石龍比古命と妻の妹・石龍比売命と二人の神が、川の水を互いに争って、石龍比古命(夫の神)は北方の越部の村に流したいと思い、石龍比売命(妹の神)は南方の泉(出水)の村に流したいと思われた。
     その時、夫の神は山の頂を踏みつけて[越部の村の方に]流したもうた。妹の神はこれを見て無茶なことだと思い、ただちに挿櫛(サシグシ)をもってその流れる水を堰きとめて、頂上のあたりから溝を切り開いて泉の村に流して、お互いに争った。
     そこで夫の神は出水村の川下に来て川の流れを奪い、西の方の桑原の村に流そうとした。
     ここにおいて、妹の神はついに許さず、密樋(シタビ・地下水路)を作って泉村の田の頭(ホトリ)に流し出した。これによって川の水は絶えて流れない。故に无水川(ミナシカワ)と呼ぶ。
    とある。

     この神の神格は不詳だが、風土記(東洋文庫版・1969)注では、
      「石龍比古命 石立彦または岩戸彦の夫婦神。(説話では)夫は山の神、妻は水の神として扱っている。おそらくは、これも古墳説話の変種で、古墳の周囲を水で囲むことから出た話であろう」
    と、石龍比古を山の神・比売を水の神としているが、両神で水を流す先を争ったことから両神ともに水神とみてもいいだろう(山の神は水神でもある)。
  • 『播磨国風土記』であるが、黒田里の関連地名として記事が続く。――袁布〔をふ〕山というのは、むかし、宗形(宗像)大神・オキツシマヒメ(奥津島比賣命)が、伊和〔いわ〕大神の子を懐妊して、この山に到来していった、「わが産むべき時はおわった」(我可産之時訖)と。ゆえに袁布山という。支閉〔きへ〕丘というのは、宗形大神がといった、「わが産むべき月は尽きた」(我可産之月盡)と。ゆえに支閉丘というのである――。

    『播磨国風土記』宍禾郡雲箇〔うるか〕里条に、(伊和)大神の妻、コノハナサクヤヒメ(許乃波奈佐久夜比賣命)は、その形がうるわしかった。ゆえにウルカ(宇留加)というとある。そうしてみると、播磨の神話では、コノハナサクヤヒメはオキツシマヒメと混同もしくは同一視されていることになる。

    『播磨国風土記』でいう餝磨郡伊和里(現在の姫路付近)は伊和大神の関係地なのだが、こういう話がある。――オホナムチ(大汝命)の子のホアカリ(火明命)は、気の荒い神だったので、父オホナムチは因達〔いたて〕神山に着船したとき、ホアカリを水を汲みにやって、そのすきに出船してホアカリを置き去りにした。ホアカリは激怒して風波を起し、父オホナムチの船を追いかけた。すると船は壊れて積荷が流出した。このとき琴が落ちた所は琴神丘、箕が落ちた所は箕形丘、甕が落ちた所は甕丘、そして蚕子〔ひめこ〕が落ちた所は日女道〔ひめぢ〕丘と名づけられた、云々――という、これも地名由来譚である。
     この神話でもオホナムチ=伊和大神が登場する。「因達神山」とあるのは因達〔いたて〕神の坐す山ということで、現在の八丈岩山(姫路市新在家)が比定地である。この山の因達神はのち平安時代に国衙に遷座されたらしい。播磨国総社がそれだが、祭神は射楯神と兵主〔ひょうず〕神の二柱である。この祭神の射楯大神はイソタケル(五十猛命)、兵主大神はオホナムチ(大己貴命)ということらしい
  • 宗形神社 (赤磐市)
    祭神は、宗像三女神。
    明治四十三年に以下の神々を合祀した。
    神峰神社(大己貴命)、神峰伊勢神社(大日孁命、豊宇気比賣命)、
    剣拔神社・素盞嗚神社(須佐之男命)、天満宮(菅原神)、
    熊山神社・熊野神社(伊邪那美命、速玉男命、事解男之命)、
    日吉神社(大山咋命)。

    神社明細書(昭和二十七年)には「當社は人皇十代崇神天皇の 御宇勧請にして式内の舊社なり。人皇六代仁徳天皇吉備國 海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝 を當社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉る。帝欣然御製に”や まかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬ しくもあるか”と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸 人擧て山方の大宮と稱する所以なり。當時、帝より宗形神 社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今 に其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長八年池田忠繼公、 備前に封せらるゝや深く當社を崇敬し、同九年検地の節、 本村の内中田二反、高三石貳斗社領として附置かれ、明治 四年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位従四 位上に叙せられ、後世一位に昇進贈位に預る。現今の社殿 は貞享四年八月廿八日著手、仝五年五月十六日落成(棟 札)の建築にして、氏子及大氏人民の協力造営に係り、當 時の國主池田綱政公より再建費として玄米拾石下賜せられ たり。往古、氏子は七十五ヶ村ありて、其區域西南は本郡 高月村大字牟佐に至り、東北は津山市小桁に至れりと云ふ。 故を以て古今古式祭には社家(當家)より神酒七十九樽・神 饌七十五膳・神餅七十五臺(河見社(當)より各四十、山方 社(當)より各三十五)、甘酒貳瓶を献供す。これ往古より の舊例にして年々欽行し、舊式を廢することなし。明治十 四年六月十五日郷社に、同年十二月二十二日縣肚に昇格せ らる。」と記してゐる。
    -『式内社調査報告』-
  • 揖保川下流域の瀬戸内海に面する丘陵に「綾部山古墳群」(たつの市御津町黒崎)がある。ここで39番目に発見された「綾部山39号墳」は南端の尾根上(標高27m)というもっとも海に近い位置にあり、家島など瀬戸の島々はもちろん遠くに四国を望む。2002(平成14)年の試掘調査で弥生時代終末期の墳墓であると判明した。
     列石が径10-11mの円形に並び、盛り土の厚さは10cmほどと薄い。破砕された(舶載)画紋帯環状乳三神三獣鏡、讃岐の土で作った土器などが出た。埋葬部に特徴があり「石囲い石槨」のなかに木棺が納められた。つまり川原石で造った石室のなかに板石を積みあげた石槨があり、木棺を2重に守る構造であった。「石塚山2号墳」(讃岐)と同じタイプであり、「萩原1号墓・2号墓」(阿波)および「ホケノ山古墳」(奈良盆地)の「石囲い木槨」と同類である。

     綾部山の西方で、やはり海を望む丘陵に「岩見北山積石塚群」(たつの市御津町岩見)があり、弥生時代後期から古墳時代にかけての積石塚7基がある。積石塚とは土ではなく石を積みあげて墳丘を造るもので、この時代に讃岐と阿波で盛んに造られた。
     墳形の多くは方形であるが「岩見北山4号墳」は、墳長23m/後円(方)部長13mを測る前方後円(方)形。ただし前方部の先端幅(3.5m)とくびれ部幅(3m)の差が小さく、バチ型に開かないもの。石清尾山古墳群(讃岐)に類似する墳形の積石塚がある。 (舶載)内行花文鏡、讃岐産の大型壺片などを出土したという。
  • June 2016 編集されました
    [吉備品治国造 、吉備風治国造( 吉備 )]
    吉備品治(品遲)国造は吉備品治国(現・岡山県福山市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、多遅麻君(たじまのきみ)と同祖の若角城命(わかつのきのみこと)の3世孫である大船足尼(おおふねのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。国造の後裔は品治氏で、後に品治郡から葦田郡が分離した。古事記によると天日槍命(あめのひぼこのみこと)の後裔で神功皇后の父・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)の子である息長日子王(おきながひこのみこ)は吉備・品遅君と播磨の阿宗君の祖であると伝えられている。

    景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、このはなさくやひめ(木花咲耶媛)が、忽然と現れ『私が永くこの地に留まり婦人を守護し安産させましよう』とお告げになり、白幣が高く舞い上がり、命が館へ帰られると妃が無事男児を出産されたといわれます。
    その神徳を感謝され倉谷山の麓にこのはなさくやひめ(木花咲耶媛)を祭られたのが、白國神社の創立であると、伝承されています。

    祭神は稲背入彦命と阿曾武命(アソタケル)と神吾田津日売命の三柱です。
  • June 2016 編集されました
    白国神社の由来書による 神吾田津日売命(かんあだつひめのみこと)=木花咲耶媛(このはなさくやひめ)

    阿陀比賣神社 五條市原町
    祭神 阿陀比賣神、彦火火出見命 配祀 火須勢理命、火照命
    摂社
     八坂神社 「素盞嗚命 配祀 牛頭天王」
     大神宮、熊野神社、春日神社、八幡神社、琴平神社
    『平成祭礼データ』由緒から

    式内社 阿陀比売神社御由緒
    鎮座地奈良県五條市原町24番地(旧指定村社)
    御祭神主神阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命
    御子火須勢理命(富之須佐利乃命・火須芹命)
    御子火照命
    御子彦火火出見命以上四柱を祀る。
    本殿春日造。
    ◎境内社☆八坂神社『素戔鳴命』☆天照皇太神社『天照皇大神』☆熊野神社『伊弉諾尊』☆春日神社『武甕槌神』☆八幡神社『誉田別尊』☆金刀比羅神社『大物主命』

    ◎御由緒当神社の創立は、崇神天皇15年(西暦前83年)と伝えられ、又、奈良時代、神亀5年(西暦728年)藤原武智麿が神戸(神殿)を寄進したとも伝えられる。 「延喜式神名帳」(延長5年西暦927年完成)にある阿陀比売神社は、本社であり、五條市内式内社11社の社の内に挙げられる、由緒ある古社である。
    当神社は、安産の神として、古来より信仰厚く、鈴の緒を戴き腹帯にする。 男児を欲する時は、白。女児を欲する時は、赤。無事出産すると、新しい鈴の緒を奉納することが習わしであった。
    今日では、例祭に腹帯を祈祷し、総代宅に保管して授与している。 御祭神木花咲耶比売命が皇孫瓊瓊杵尊にめされ、御子を産みます時、室に火をかけられた。炎の初めて起こる時生みませる御子をホスセリノ命、次にホアカリノ命、次にヒコホホデミノ命と「日本書紀」にある。
    “ヒメヒカケ”(後述)は姫が火をかけられた意に解せられ、安産を祈ることも、姫神のこの御安産に基づくとせられるのである。

    ◎にえもつの里-書紀・神武天皇-
    水に縁ひて西のかたに行くに及びて、亦、梁を作ちて取魚する者有り。 天皇問ひたまふ。対へて日さく、臣は是れ苞苴擔の子なりと。此れ即ち阿太のうかい部が始祖なり。
    -古事記・神武天皇-
    その八咫烏の後より幸でまししかば、吉野河の河尻に到りましき。
    時に筌をうちて魚取る人有りき。ここに天ツ神の御子、汝は誰ぞと問はしければ、僕は、国ツ神、名は贄持の子と日しき。【こは阿陀之鵜養祖】

    ◎シメシカケノ森 神社の東方の森を「シメシカケノ森」(別名比売火懸の森)と呼ばれる森がある。前述の記紀のちなむ伝承である。

     式内社。
    『和名抄』の大和国宇智郡阿陀郷の名が見える。当社の鎮座地である。また『和名抄』に、薩摩国阿多郡阿多郷の名が見える。阿多隼人の居住地である。開聞岳を神奈備山としていた隼人である。なお、隼人には大住隼人もいる。こちらは人数が多いようだ。

     阿多隼人は少数派だが名門で『記紀』では皇室に妃を出している。当神社の祭神の阿陀比賣神とは神阿多都比売、または木花佐久夜姫命と言い、まさに皇室の祖先の母親とされている。

     吉野川は南方漁法の鵜飼が行われていた地域であり、薩摩から移住の者が地名、魚法、祭神を持ち込んだものと見て差し支えはなさそうだ。 大三元さんに教えていただいた「日本の地名」(谷川健一著)には 鵜のことを沖縄では「アタック」と呼んでいたとの紹介があり、 明治十四年に上杉県令が沖縄本島を巡察した際に地元の人が、 鵜のことを「アタック」と言ったという記録が巡回日誌にとどめられている。
  • 阿田賀田須命の名は記紀には見えないが、先代旧事本紀(地祇本紀・9世紀前半)に
      「(素盞鳴尊の)八世孫 阿田賀田須命 和迩君等の祖」
    とあり、新撰姓氏録(815)には
      「大和国神別(地祇) 和仁古 大国主六世孫阿太賀田須命之後也」
    とある(両資料間で世代が一代違っている)。

     これからみると、和爾氏は阿田賀田須命を祖とする出雲系氏族で、その一族に和仁古(ワニコ)氏があったとなるが、管見した和爾氏系譜に和仁古氏の名はみえず詳細不詳(九州肥後国に進出した和邇氏が和仁古氏を称したという-ネット資料・九州の人々)。

     なお、姓氏録の河内国神別(地祇)・宗形君の項に、「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とあり、この吾田片隅命を阿田賀田須命と同一人物とする資料は多い(オオクニヌシ6世の孫という系譜、読みの一致からか)。とすれば、和爾氏(和仁古氏)と宗形氏とは同族となり、和爾氏は宗形氏と同じ海人族出身とする説があるのは、是によるものであろう。
  • 針間国(西播磨と中播磨)、針間鴨国(北播磨)、明石国(東播磨)の三国を播磨、または播州とも呼ぶ

    現在の兵庫県南西部(岡山県に近い地域)を指している。
    針間国 =西播:相生市、赤穂市、宍粟市、たつの市、神崎郡、飾磨郡、揖保郡、
    赤穂郡、佐用郡、宍粟郡。中播:姫路市、神崎郡、飾磨郡。
    針間鴨国=北播:三木市、小野市、加西市、西脇市、加東郡、多可郡。
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