霧の中の物部氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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物部氏の本宗家は何故いかにして何時頃消えてしまったか。 饒速日を始祖とし、8世までの系譜を以下示す。守屋大連に…

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  • 先代旧事本紀 巻第五

    宇摩志麻治命。この命は、橿原宮で統治された天皇[神武天皇]の御世に初めて足尼になり、次に食国政申大夫となり、大神を斎奉る。活目邑の五十呉桃の娘の師長姫を娶り二児が誕生した。


    孫の味饒田命[阿刀連等の先祖]
    弟の彦湯支命[亦の名は木開足尼]この命は、葛城の高丘宮で統治された天皇[綏靖天皇]の御世に初めは足尼になり、次に食国政申大夫と成って大神を斎奉る。日下部馬津、名は久流久美の娘の阿野姫を娶り、一男を生む。出雲の色多利姫を妾とし、一男を生む。淡海の川枯姫を妾とし、一男を生む。


    三世の孫の大禰命[彦湯支命の子供]この命は、片塩の浮穴宮で統治された天皇[安寧天皇]の御世に、侍臣となって大神を斎奉る。
    弟の出雲醜大臣命[彦湯支命の子供]この命は、軽地の曲峡宮で統治された天皇[懿徳天皇]の御世に初め食国政申大夫となり、次に大臣となって大神を斎奉る。その大臣の名はこの時より始まった。倭の志紀彦の妹の真鳥姫を娶って、三児を生む。
    弟の出石心大臣命。この命は、腋上の池心宮で統治された天皇[孝昭天皇]の御世に大臣となって大神を斎奉る。新河の小楯姫を娶り、二児を生む。


    四世の孫の大木食命[三河国造等の先祖。出雲醜大臣命の子供]
    弟の六見宿禰命[小治田連等の先祖]
    弟の三見宿禰命[漆部連等の先祖]この命は、秋津島宮で統治された天皇[孝安天皇]の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となり大神を斎奉る。その宿禰はこの時が最初で有る。


    児の大水口宿禰命[穂積臣・釆女臣等の先祖。出石心大臣命の子供]
    弟の大矢口宿禰命。この命は、廬戸宮で統治された天皇[孝霊天皇]の御世に宿禰となり大神を斎奉る。坂戸の由良都姫を娶り、四児を生む。


    五世の孫の鬱色雄命。この命は、軽境原宮で統治された天皇[孝元天皇]の御世に大臣となり大神を斎奉る。活馬の長沙彦の妹の芹田真稚姫を娶り、一児を生む。
    妹 鬱色謎命。この命は、軽境原宮で統治された天皇が立てて皇后とし、三皇子を生む。大彦命、次に春日宮で統治された天皇[開化天皇]、次に倭跡命である。春日宮で統治された天皇は皇后を尊んで皇太后とされた。また、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]が尊んでは太皇太后とされた。
    弟 大綜杵命。この命は、軽境原宮で統治された天皇の御世に大禰となり、春日率河宮で統治された天皇の御世に大臣となり、皇后・大臣は大神を斎奉った。高屋の阿波良姫を娶り、二児を生む。
    弟 大峰大尼命。この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大尼となって仕えた。大尼の起こりは是より始まる。


    六世の孫の武建大尼命[鬱色雄大臣の子供]この御子は同天皇の御世に大尼となって仕えた。


    孫妹 伊香色謎命。この命は、軽境原宮で統治された天皇が立てて妃とし、彦太忍信命を生まれた。天皇が崩御され、春日宮で統治された天皇が庶母を立てて皇后とし、皇子を生まれた。磯城の瑞籬宮で統治された天皇である。この天皇は皇太后とされた。纏向天皇[垂仁天皇]の御世に太皇太后を追贈された。
    弟 伊香色雄命。この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大臣となり、磯城の瑞籬宮で統治された天皇から大臣の詔を受け、神の種類を分け、天社(天津神の神社)と国社(国津神の神社)を定めた。物部八十手が作った、神祭りの方法で、八十萬の神を拝んで祭った。この時、建夫都大神の社を大倭の国の山邊の郡の石上邑に遷した。饒速日尊が天祖から授かり、天より持ってきた天璽瑞宝も同じく収めて祭った。石上大神と名付けた。国家の為また氏神として崇め祀り鎮めた。皇后・大臣は神宮を斎仕えた。山代県主の先祖の長溝の娘の眞木姫を娶って、二児を生む。山代県主の先祖の長溝の娘の荒姫と妹の玉手姫を妾とした。それぞれ二男を生む。倭の志紀彦の娘の眞鳥姫を妾とし、一男を生む。


    七世の孫の建膽心大禰命[伊香色雄命の子供]この命は、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]の御世に初めて大禰となって仕えた。
    弟 多辨宿禰命[宇治部連・交野連等の先祖]この命は、同天皇[崇神天皇]の御世に宿禰となって仕えた。
    弟 安毛建三命[六人部連等の先祖]この命は、同天皇[崇神天皇]の御世に侍臣となって仕えた。
    弟 大新河命。この命は、纏向珠城宮で統治された天皇[垂仁天皇]の御世に始めは大臣となり、次に物部連公の姓を賜る。改めて大連となり神宮に斎仕えた。大連の名はこの時より始まる。紀伊の荒川戸俾の娘の中日女を娶り、四男を生む。
    弟 十市根命。この命は、纏向珠城宮で統治された天皇の御世に物部連公の姓を賜る。五大夫の一人となり、次に大連となり神宮に斎仕えた。天皇は物部十市根連に
    「しばしば、使いを出雲の国に遣わして、その国の神の宝を検案しようとしても、明確に報告するものは無かった。汝自ら出雲の国に行き検案して定めよ。」
    と命じられた。十市根大連は神宝を検案し定め、明らかにして報告した。神宝を掌って定めた。


    同天皇の御世に五十瓊敷入彦皇子命は河内の国の幸乃河上宮で大刀千口を作った。名を赤花之伴と云う。亦は裸伴剣と云う。今は石上に納められている神宝である。この後、皇子命に石上神宝を司るよう命じられた。


    同天皇の御世から八十七年を経て、五十瓊敷入彦皇子命は妹の大中姫命に
    「私は年をとって神宝を掌ことが出来なくなった。今より後は汝が必ず掌りなさい」
    と仰られた。大中姫命は驚いて
    「私はかよわい女です。どうして天神の倉庫に登る事が出来ましょうか。」
    と答えられた。五十瓊敷入彦皇子命は
    「天神の倉庫が高いというなら、私が天神の倉庫に登る為の梯子を作ろう。そうすれば、天神の倉庫に登る事を煩わなくても済む」
    と言われた。諺に「天之神藏も梯子のまま」と云うのはこの事が起こりで有る。しかし、大中姫命は遂に物部十市大連に授けて石上の神宝を治めるよう命じられた。是が起こりで有る。物部武諸隅連公の娘の時姫を娶り五男を生む。


    弟 建新河命[倭の志紀県主等の先祖]
    弟 大??布命[若湯坐連等の先祖]


    この二人の命は、同天皇の御世に侍臣となって仕える。


    八世の孫の物部武諸隅連公[新河大連の子供]この連公は、磯城瑞籬宮で統治された天皇[崇神天皇]の六十年に天皇は群臣に
    「武日照命が天より持ってきた神宝を出雲の大神の宮に収めた。是を見たいと思う。」
    と仰られ、矢田部造の先祖の武諸隅命を遣わした。検案し明らかに定め報告した。この時、大連となって神宮を斎仕えた。物部膽咋宿禰の娘の清媛を娶り一男を産む。
    弟 物部大小市連公[小市直等の先祖]
    弟 物部大小木連公[佐夜部直・久奴直等の先祖]
    弟 物部大母隅連公[矢集連等の先祖]


    これら三人の連公は志賀高穴穂宮で統治された天皇[成務天皇]の御世に侍臣となって仕えた。


    孫 物部膽咋宿禰[十市根大連の子供]この宿禰は、志賀高穴穂宮で統治された天皇の御世にはじめは大臣となり、次に宿禰となり神宮に斎仕えた。その宿禰の官は始めてこの時に起こった。市師宿禰の先祖の穴太足尼の娘の比??古命を娶り、三児を生む。阿奴の建部君の先祖の太玉の娘の鴨姫を妾とし、一児を生む。三川穂国造の美己止直の妹の伊佐姫を妾とし、一児を生む。宇太笠間連の先祖の大●命の娘の止己呂姫を妾とし、一児を生む。
    弟 物部止志奈連公[杭田連等の先祖]
    弟 物部片堅石連公[駿河国造等の先祖]
    弟 物部印岐美連公[志紀県主・遠江国造・久努直・佐夜直等の先祖]
    弟 物部金弓連公[田井連・佐比連等の先祖]


    これら四人の連公は同朝の御世に侍臣となって仕えた。

    九世の孫の物部多遅麻連公。この連公は、纏向日代宮で統治された天皇[景行天皇]の御世に大連となり神宮に斎仕えた。物部五十琴彦連公の娘の安媛を娶り、一児を生む。


    孫 物部五十琴宿禰連公[膽咋宿禰の子供]この連公は、磐余稚桜宮で統治された神功皇后の御世に、始めは大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。物部多遅麻大連の娘の香児媛を娶り、三児を生む。
    妹 物部五十琴姫命。この姫は、纏向日代宮で統治された天皇が立てて妃とし、一児を生む。五十功彦命である。
    弟 物部五十琴彦連公。この連公は、物部竹古連公の娘の弟姫を娶り、二児を生む。
    弟 物部竺志連公[奄智藪連等の先祖]
    弟 物部竹古連公[藤原恒見君・長田の川合君・三川の藪連等の先祖]


    物部椋垣連公[城藪連・比尼の藪連等の先祖]


    この三人の連公は同朝の御世に侍臣となって仕えた。


    十世の孫の物部印葉連公[多遅麻大連の子供]この連公は、軽島豊明宮で統治された天皇[応神天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
    姉の物部山無媛連公。この連公は、軽島豊明宮で統治された天皇が立てて妃とし太子の兔道稚郎皇子を生む。次に矢田皇女、次に雌鳥皇女。その矢田皇女は難波高津宮統治された天皇[仁徳天皇]が立てて皇后とされた。
    弟 物部伊與連公
    弟の物部小神連公

    この二人の連公は同朝の御世に侍臣となって仕えた。


    弟 物部大別連公。この連公は、難波高津宮で統治された天皇の御世に、侍臣となって神宮に斎仕えた。軽島豊明宮で統治された天皇の太子の兔道稚郎皇子と同母の妹の矢田皇女を難波高津宮で統治された天皇は立てて皇后とされたが皇子が生まれ無かったので、大別連公に命じて皇子代となって皇后の名を氏として、改めて矢田部連公の姓を賜る。


    孫 物部伊莒弗連公[五十琴宿禰の子供]この連公は、稚桜宮[履中天皇]と柴垣宮[反正天皇]で統治された天皇の御世に大連となって、神宮に斎仕えた。倭の国造の先祖の比香賀君の娘の玉彦媛を娶り、二児を生む。娣岡屋媛を妾とし、二児を生む。
    弟 物部麦入宿禰連公。この連公は、遠飛鳥宮で統治された天皇[允恭天皇]の御世に大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕える。物部目古連公の娘の全能媛を娶り、四児を生む。
    弟 物部石持連公[佐為連等の先祖]


    孫 物部目古連公[五十琴彦の子供。田井連等の先祖]
    弟 物部牧古連公[佐比佐連等の先祖]


    十一世の孫の物部眞椋連公[伊莒弗宿禰の子供。巫部連・文島連・須佐連等の先祖]
    弟 物部布都久留連公。この連公は、大長谷朝[雄略天皇]の御世に大連となって、神宮に斎仕えた。依羅連柴垣の娘の太姫を娶り、一児を生む。
    弟 物部目大連公。この連公は、磐余甕栗宮で統治された天皇[清寧天皇]の御世に大連となって、神宮に斎仕えた。
    弟 物部鍛治師連公[鏡作・氷軽馬連等の先祖]
    弟 物部竺志連公[新家連等の先祖]


    孫 物部大前宿禰連公[麦入宿禰連の子供。氷連等の先祖]この連公は、石上穴穂宮で統治された天皇[安康天皇]の御世に大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部小前宿禰連公[田部連の先祖]この連公は近飛鳥八釣宮で統治された天皇[顕宗天皇]の御世に大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部御辭連公[佐為連等の先祖]
    弟 物部石持連公[刑部・垣部・刑部造等の先祖]


    十二世の孫の物部木蓮子連公[布都久留大連の子供]この連公は、石上廣高宮で統治された天皇[仁賢天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。御大臣の祖の娘の黒媛を娶り二児を生む。
    弟 物部小事連公[志陀連・柴垣連・田井連等の先祖]
    弟 物部多波連公[依網連等の先祖]


    弟 物部荒山連公[目大連の子供]この連公は、檜前廬入宮で統治された天皇[宣化天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部麻作連公[借馬連・矢原連等の先祖]


    十三世の孫の物部尾興連公[荒山大連の子供]この連公は、磯城島金刺宮で統治された天皇[欽明天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。弓削連の先祖の倭古連の娘の阿佐姫、次に加波流姫を娶って兄四児を生み、弟三児を生む。


    弟 物部奈流連公[木蓮子大連の子供]この連公は、泊瀬列城宮で統治された天皇[武烈天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。須羽直の娘の妹古を娶り、二児を生む。
    弟 物部目連公。この連公は、継体天皇の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部長目連公[軽馬連等の先祖]
    弟 物部金連公[借馬連・野間連等の先祖]
    弟 物部呉足尼連公[依羅連等の先祖]この連公は、磯城島金刺宮で統治された天皇の御世に宿禰となった。
    弟 物部建彦連公[高橋連・立野連・都刀連・横廣連・葛井連・伊勢荒比田連・小田連等の先祖]


    十四世の孫の物部大市御狩連公[尾興大連の子供]小語田宮で統治された天皇[敏達天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。弟の贄古大連の娘の宮古郎女を娶り、二児を生む。
    弟 物部守屋大連公[亦は弓削大連という。]この連公は、池辺雙槻宮で統治された天皇[用明天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕える。
    弟 物部今木金弓若子連公[今木連等の先祖]
    妹 物部連公布都姫夫人[字は櫛井夫人、亦は石上夫人という。]この夫人は、倉梯宮で統治された天皇[崇峻天皇]の御世に夫人に立てられる。また、天皇の政治に関わり神宮に斎仕えた。
    弟 物部石上贄古連公。この連公は、異母妹の御井夫人を娶り、四児を生む。小治田豊浦宮で統治された天皇[推古天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部多知髪連公


    弟 物部麁鹿火連公[麻佐良大連の子供]この連公は、匂金橋宮で統治された天皇[安閑天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部押甲連公。この連公は、檜前廬入宮で統治された天皇[宣化天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。
    弟 物部老古連公[神野の入州連等の先祖


    弟 物部金連公[目大連の子供。野間連・借馬連等の先祖]
    弟 物部三盾連公[鳥部連等の先祖]
    弟 物部臣竹連公[肩野連・宇遅部連等の先祖]
    弟 物部倭古連公[依羅田部連等の先祖]
    弟 物部塩古連公[葛野の韓国連等の先祖]
    弟 物部金古連公[三島の韓国連等の先祖]
    弟 物部阿遅古連公[水間君等の先祖]


    十五世の孫の物部大人連公[御狩大連の子供]この連公は、物部雄君連の娘の有利媛を娶り一児を生む。
    弟 物部目連公[大貞連等の先祖]この連公は、磯城島宮で統治された天皇[欽明天皇]の御世に大連となって神宮に斎仕えた。


    孫 内大紫冠位物部雄君連公[守屋大連の子供]この連公は、飛鳥浄御原宮で統治された天皇[天武天皇]の御世に氏の上の内大紫冠位を贈わって、神宮に斎仕えた。物部目大連の娘の豊媛を娶り二児を生む。


    孫 物部鎌束連公[贄古大連の子供]
    弟 物部長兄若子連公
    弟 物部大吉若子連公
    妹 物部鎌足姫大刀自連公。この連公は、小治田豊浦宮で統治された天皇[推古天皇]の御世に参政し、神宮を斎仕えた。蘇我の島の大臣の妻となり、豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と言う。


    孫 物部石弓若子連公[麁鹿火連の子供。今木連等の先祖]
    弟 物部毛等若子連公[屋形連等の先祖]


    孫 物部奈西連公[押甲大連の子供。葛野連等の先祖]
    孫 物部恵佐古連公。この連公は小治田豊浦宮で統治された天皇の御世に大連となって神宮を斎仕えた。


    十六世の孫の物部耳連公[大人連公の子供。今木連等の先祖]


    孫 物部忍勝連公[雄君連公の子供]
    弟 物部金弓連公[今木連等の先祖]


    孫 物部馬古連公[目大連の子供]この連公は、難波朝[孝徳天皇]の御世に大華上の氏の印の太刀を授けられ、食封を千畑を賜って、神宮に斎仕えた。


    孫 物部荒猪連公[佐古大連の子供。榎井臣等の先祖]この連公は、同朝の御世に大華上の位を賜る。
    弟 物部弓梓連公[榎井臣等の先祖]
    弟 物部加佐夫連公[榎井臣等の先祖]
    弟 物部多都彦連公[榎井臣等の先祖]この連公は、淡海朝[天智天皇]の御世に大連となって神宮を斎仕えた。


    十七世の孫の物部連公麻侶[馬古連公の子供]この連公は、浄御原宮朝[天武天皇]の御世に天下の萬の姓を八色に改めて定められた。連公を改めて、物部朝臣の姓を賜い、同朝の御世に改めて石上朝臣の姓を賜う


  • 神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。

      285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、高句麗系の史書『朝鮮史』には驚くべき記事が載っている。

    『朝鮮史』

    依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
  • 依羅連(ヨサミノムラジ)

    『旧天孫本紀』

    物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。

    『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。

    『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。

    万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。


    『大依羅神社』由緒

    依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。
  • 島根県の大田(おおだ)に物部神社がある。ウマシマジを祀っている。
     ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。
  • 物部氏を率いたウマシマジ

    ウマシマジは天瑞宝(あまみつのたから)を奉献して、天皇のための鎮祭(しずめまつり)をとりおこなったというのだ。この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」(とくさのかんだから)となったともある。このとき、ヤマト朝廷の「践祚」などに関する儀礼や行事が整ったというふうにも書いてある。
     物部が天皇家に「十種神宝」を贈って、それが即位儀礼の中核になったとは、にわかに肯定しがたいけれど、、、、
  • March 2016 編集されました
    饒速日ひ命は神武天皇より早く天磐船で畿内に入った神で、神武天皇と争った長髄彦の妹を妻にしていました。
                                  開化天皇
       饒速日命                         ├―――崇神天皇
        ├――可美眞手命―日子湯支命―(数代)―大綜麻杵―┬―伊香色謎
     ┌―三炊屋媛(妹)                   └―伊香賀色雄―大水口宿禰
     └―長髄彦(兄)

    饒速日命は長髄彦を裏切り、神武天皇側につきます。これが物部氏の祖先です。後に第10代崇神天皇は磯城に宮を移します。この天皇の母が伊い香かが色しこ謎め命といい、物部氏の祖先大おお綜へ麻そ杵きの娘です。ついでに穂積臣の祖先は大水口宿禰といい、伊い香かが色しこ謎めの兄、伊い香か賀が色しこ雄お命の子といい、崇神天皇の母の兄に当たります。これが、日本書紀が描く系図です。

    古事記は、可うま美し眞ま手で命を宇う摩ま志し麻ま遲ぢと書き、物部連、穂積臣、婇臣の祖とわかりやすく、孫は味うまし饒にぎ田た命(阿あ刀と連等の祖)と彦ひこ湯ゆ支き命(志貴連の祖)です
  • 淡海川枯姫とその夫神、彦湯支命の夫婦です。ウマシマジのもう1人の子、すなわち彦湯支命の兄弟に味饒田命(ウマシニギタ)という人がいますが、
    彼を祀る神社も滋賀県にあります。
    長浜市高月町東物部に鎮座する乃伎多神社 (ノギタ) です。

    出石といえば、大水口宿禰の父は、出石心大臣といいます。
    出石心大臣の両親は、彦湯支命と淡海川枯姫となっているようです。
    しかし、宮司の話から推察すると、彦湯支命と淡海川枯姫の娘婿に出石から職人集団のリーダーを迎えたと考えることもできる。

    大水口宿禰は、穂積氏の祖だとされていますが、その元は、饒速日尊4世の孫又は、饒速日尊の6世だとされており物部氏と同じ血が流れている

    川枯姫を祀る神社は、甲賀の水口町嶬峨に鎮座している八坂神社内にあります。

    『日本書紀』に崇神天皇5年に疫病が流行し、翌6年には離反したり叛乱を起こす者も出るなど国内が紊乱し、7年2月にそれが大物主大神の祟りである事が判明したためにこれを祀ったがなお止まなかったところ、同年8月になって大水口宿禰と倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさぢはらまくわしひめ)、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の3者の夢中に大物主大神が現れて大田田根子を祭主として祀るよう神告があり、その旨を天皇に奏上してその通りに事を行った結果天下太平を得たといい、現奈良県桜井市の大神神社の祭祀に関わった記述がある。」

    明治16年(1883年)の『神社明細帳』では、祭神を天照皇大神とする[1]。一方『神祇志料』では、阿刀宿禰祖の昧饒田命(味饒田命)を祭神とする


  • 味わん神社
    愛知県名古屋市北区楠味鋺2-736

    主祭神 宇麻志麻治命、味饒田命

    創建年代は不明。祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされ、延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社であるとしている。江戸時代には六所明神とも呼ばれた。
  • 味鋺(あぢまりの)神社
    この神社の御祭神は次の二柱の神様です。

     宇麻志麻治命(うましまぢのみこと)
     味饒田命(まじにぎたのみこと)

    この二神は親子であるということですが、由緒書にはこう書いてあります。

    尾張の国春日部郡、味鋺神社と記載されている古社である。物部氏(もののべし)の祖となる宇麻志麻治命は、我が子、味饒田命と共に、物部一族を率いて皇城の守護にあたり大政に参加する。
    その子孫が、美濃・尾張・三河地方に発展し、ことに尾張地方の勢力は大きく、一族の遺跡と称されるものも少なくない。

    要するに、この二柱の神様は皇城の守護に当たって世の政治に大いに貢献したが、その子孫が尾張に来て大きな勢力を握ったという
  • y白山神社
    古墳の頂上にあるお社で、この古墳は可美真手命(うましまでのみこと)または御子の味饒田命(うましにぎたのみこと)の墓と伝えられる。白山神社の祭神 は,伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、可美真手命、菊理比売命(くくりひめのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、可美真手命は物部氏の祖神とされている。
     近接する名古屋市北区味鋺にあった物部神社(祭神は可美真手命)を合祀している。
  • 庄内川中流域では、まず5世紀初頭に白山藪古墳に代表される味鋺古墳群が成立し、のちに味美地区に移動したと考えられる。
    味美古墳群における前方後円墳は、白山神社古墳 二子山古墳 春日山古墳の順に築造されたとみられている。
     尾張地方の場合、中期に目立つ古墳が少ない。後期に至って最大の時期を迎えている。6世紀初め継体天皇を擁立して大和入りし、尾張氏の最盛期を迎えているからとされる。
  • 饒速日命の第五世孫内色男命

    その子の⑥大水口宿祢(崇神朝。穂積臣・釆女臣、末盧国国造祖)
    、その同母弟の⑥大矢口宿祢(崇神朝。大新河命、武諸隅命、大毋隅連、武牟口命と同人)

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    ⑦大売布命(景行朝の東国遠征に供奉したと『高橋氏文』に見)
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    ⑧大小木宿祢(成務朝に遠江国造になった印岐美。豊日連、同上遠征に供奉)
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    その子の⑨樫石宿祢(志紀県主)
    その兄弟の⑨舩瀬宿祢(成務朝に久自国造)、
    同じく⑨印播足尼(仲哀朝に久奴国造)。大小木宿祢の兄弟の⑧大小市宿祢(成務朝に駿河国造になった片堅石命のことで、大新川命の子と「国造本紀」に見える)-その子の⑨阿佐利連(応神朝に風早国造)、その兄弟の⑨子致命(応神朝に小市国造。大新川命の孫と「国造本紀」に見える)。大売布命の兄弟の⑦意布美命(建新川命に当たるか。春道宿祢の祖の布都弖は、その子か同人か)-⑧伊其和斯彦宿祢(伊福部氏系譜に成務朝に稲葉国造。伊福部臣祖)、その兄弟の⑧臣賀夫良命(成務朝に三野後国造。景行朝に見える美濃県主角鏑)。
  • 石巻神社
    住所:豊橋市石巻町金割1。
    祭神:大己貴命。

    場所:東名豊川IC東南6km。pk可能。

    由緒,伝承:
    式内、三河国八名郡石纏神社。孝安朝に三河国造・知波世命の祖大木食命が大和大神神社より勧請という。大神神社分祀一覧274社(文永(1265)に載る。
    旧社格は郷社で、三河国四宮とされる。旧地名は八名郡三輪村神郷(じんごう)。
    境内社:天神社・招魂社・秋葉神社・稲荷社。
  • March 2016 編集されました
    甲賀市の水口神社
    大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)を主祭神とし、以下の3柱を相殿神として祀る。

    大己貴命
    素盞嗚尊
    稲田姫命
    大水口宿禰命は、物部氏の同族である穂積臣等の祖とされる人物であるが[2]、『延喜神名式』の甲賀郡に「川枯神社二座[3]」とある「川枯神(かはかれのかみ)」が『旧事本紀』天孫本紀の物部氏系図に載せる大水口宿禰命の祖母、淡海川枯姫(あはみのかはかれひめ)に関係すると考え、当地に蟠踞した物部氏の一族が祖先を祀ったものであろうとされている[4]。また鎮座地一帯は旧甲賀郡の中心部に位置し、周辺には郡内最大規模の波濤が平古墳といった後期古墳も点在することから、古くより開かれた地であることが判るので、神社名や祭神名から見て、早くから灌漑用水を司る農耕の神としての役割も担っていたと推考されている[5]。

    なお、現在相殿とされている3柱は享保の初年(18世紀初)には主祭神とされていたこともある
  • 先代旧事本紀 巻第五

    宇摩志麻治命。この命は、橿原宮で統治された天皇[神武天皇]の御世に初めて足尼になり、次に食国政申大夫となり、大神を斎奉る。活目邑の五十呉桃の娘の師長姫を娶り二児が誕生した。

    孫の味饒田命[阿刀連等の先祖]
    弟の彦湯支命[亦の名は木開足尼]この命は、葛城の高丘宮で統治された天皇[綏靖天皇]の御世に初めは足尼になり、次に食国政申大夫と成って大神を斎奉る。日下部馬津、名は久流久美の娘の阿野姫を娶り、一男を生む。出雲の色多利姫を妾とし、一男を生む。淡海の川枯姫を妾とし、一男を生む。

    三世の孫の大禰命[彦湯支命の子供]この命は、片塩の浮穴宮で統治された天皇[安寧天皇]の御世に、侍臣となって大神を斎奉る。
    弟の出雲醜大臣命[彦湯支命の子供]この命は、軽地の曲峡宮で統治された天皇[懿徳天皇]の御世に初め食国政申大夫となり、次に大臣となって大神を斎奉る。その大臣の名はこの時より始まった。倭の志紀彦の妹の真鳥姫を娶って、三児を生む。
    弟の出石心大臣命。この命は、腋上の池心宮で統治された天皇[孝昭天皇]の御世に大臣となって大神を斎奉る。新河の小楯姫を娶り、二児を生む。

    四世の孫の大木食命[三河国造等の先祖。出雲醜大臣命の子供]
    弟の六見宿禰命[小治田連等の先祖]
    弟の三見宿禰命[漆部連等の先祖]この命は、秋津島宮で統治された天皇[孝安天皇]の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となり大神を斎奉る。その宿禰はこの時が最初で有る。

    児の大水口宿禰命[穂積臣・釆女臣等の先祖。出石心大臣命の子供]
    弟の大矢口宿禰命。この命は、廬戸宮で統治された天皇[孝霊天皇]の御世に宿禰となり大神を斎奉る。坂戸の由良都姫を娶り、四児を生む。
  • 饒速日命と長髄彦の妹御炊屋姫(みかしきやひめ)の子、宇摩志麻遅は物部氏の祖先となるが、物部氏の家譜である「先代旧事本紀」によればその宇摩志麻遅の子、彦湯岐は出雲から妃を迎えている。
     出雲のどの人物の娘か明記されていないので推測となるが「出雲色多利姫(いづもしこたりひめ)」は明らかに出雲一族であり、「出雲醜大臣(いづもしこおおおみ)」はその子と思われる。
  • 物部氏系譜では川枯姫(かわかれひめ)と出雲色多利姫(いずもしこたりひめ)を彦湯支命(ひこゆきのみこと)の妻とするが、天津彦根の系譜では川枯姫は、大禰命の妻。または出雲色多利姫も大禰命の妻である。
    更に物部氏系譜では、新河小楯姫(にいかわおだてひめ)を出石心大臣命の妻とするが、天津彦根の系譜では、新河小楯姫は欝色雄許(うつしおこ)の妻で、出石心大臣命の妻は坂戸由良都媛(さかとのゆらつひめ)である。また出雲色多利姫の登場する伊勢津彦命の系譜でも、出雲色多利姫は大禰命の妻である。
    この天津彦根の系譜は天児屋根命(あめのこやね・中臣氏系譜)の系譜と婚姻関係を持ち、この系譜との間に矛盾は無い。
    したがって、これらの女性と物部氏の男性の関係は、天津彦根命の系譜(三上氏系譜)や伊勢津彦命の系譜が正しく、『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある。
    天津彦根命の系譜によって物部氏系譜を修正すれば、最初に私が感じた天皇系譜との違和感もある程度解消される。『先代旧事本紀』物部氏系譜は、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命を三世孫として同一世代とするが、出雲醜大臣命と、出石心大臣命は大禰命の児でこの間は二世代なのである。

    とすれば、出石心の妻、大矢口、大水口宿禰の母は誰か?
  • 大水口宿禰命の祖母、淡海川枯姫
    『姓氏録』では大水口宿禰は、穂積朝臣の祖と言われ、伊香色雄命の子とされる。この伊香色雄命は近江伊香郡を本拠とするとの見方がある。 伊香郡には物部の地名がのこり、大新河、建新河、大水口、安毛建彦など近江の地名を負った物部系豪族が出ている

    甲賀市の水口神社
    一つの社伝によれば、垂仁天皇の時稲田姫命が天照大神を奉じて近江国に到り、族長の矢田部宿禰蔵田麿に神鏡の鎮座すべき地を問うと、蔵田麿は甲可日雲宮地が最もふさわしい旨を伝えた。そこで甲可川(野洲川)を遡って現社地に到り、四年間の奉斉の後、大己貴命を神鏡守護神として祀ったのが草創であるという。 これは『倭姫命世記』(鎌倉時代の創作)を本にしたもので、とるに足らないし、水口神社も主張はしていない。
  • 大水口宿禰は物部氏系列の人物で、
    饒速日尊(にぎはやひ)・伊香賀色雄(いかがしこお)の子孫で、穂積臣の先祖です。
    *伊香賀色雄⇒崇神天皇の命で大神神社や石上神宮を建立
  • 大水口宿禰のお孫さんに弟橘姫がいます。彼女は、有名なヤマトタケルの后になる女性です

    出石といえば、大水口宿禰の父は、出石心大臣といいます。
    出石心大臣の両親は、彦湯支命と淡海川枯姫となっているようです。

    欝色謎命は、第8代孝元天皇の皇后で、
    その子に大彦命・開化天皇・少彦男心命・倭迹迹姫命らがいます。

    欝色謎命の父は、大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)と言って、饒速日命6世の孫である出石心大臣命(いずしごころおおほおみのみこと)の御子として滋賀県の水口町(みなくち)にある水口神社の御祭神として祀られています。

  • 物部氏は、当初はその祖ウマシマジ(ニギハヤヒの子)が出雲神族のトミヤ姫が母であったために、当初は親出雲族だったようである。

    神武が東征時に最後まで抵抗して敗れたナガスネ彦はトミノナガスネ彦と称し、妹はトミヤ姫だ。伊勢のイセツヒコが神武に追出された後に伊勢、志摩の地を守っていたのはトミノイザワノ命であった。(伊雑宮旧記)古事記には「登美彦」とある。
  • May 2016 編集されました
    高屋連とは、新撰姓氏禄に
    「河内国神別(天神) 高屋連 饒速日命十世孫伊己止足尼(イコトノスクネ)大連之後也」
    とある物部氏系氏族で、正史上では、続日本紀・文武天皇慶雲元年(704)6月11日条にある、
    「河内国古市郡の人、高屋連薬女が男の三つ子を生んだので、絁二疋・真綿二屯・麻布四端を賜った」
    が初見。その後の史料にも古市郡高屋連○○との氏名を散見することから当地に居住していたことは確かで、各地の地方官として活躍した氏族という。

    なお、高屋連の直接の祖神・イコトノスクネが祭神ともいう。
    イコトノスクネについて、先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)には、
    「物部五十琴宿禰連(モノノベイコトノスクネノムラジ) (9世の孫)胆咋宿禰の子。この連公は、神功皇后摂政の御代、はじめ大連となり、ついで宿禰となって石上神社をお祀りした」
    とある。ニギハヤヒ・イコトノスクネいずれにしろ、物部氏の祖神を祀ることでは同じといえる
  •  物部尾輿大連が妻として、守屋大連らを生んだのが弓削連の祖・倭古の阿佐姫・加波流姫姉妹です。この弓削連が本来の弓削連で、河内の弓削神社を奉斎した一族です。守屋が阿刀の別業を手にしたのはこの通婚・血縁に因ると思われます。もともと河内には物部氏の基盤があったとはいえ、物部本宗の根拠地は大和にあったとみられます。弓削連の系譜は、天目一箇命の弟・天日鷲翔矢命(少彦名神のこと)の後であり、その系譜は『古代氏族系譜集成』の936頁に見えます。
     この系統は弓矢製造や繊維・衣服などの手工業を担った重要な部族です。大和の葛城国造とも同族であり、倭文連・長幡部や三野前国造・伯耆国造などを出しましたが、この関係の系譜が伝わらず長いこと探索してきました。最近になってようやく、葛城から山城北部の葛野・愛宕郡一帯に遷住した鴨県主と近い系譜をもつことが分かってきました。
  • 『旧事』相模国造穂積忍山宿禰。日本武尊の妻、弟橘媛の父。 
    ★饒速日命-宇麻志麻治命-彦湯支命-意富禰命-出石心大臣命-鬱色雄命-大水口宿禰-建忍山宿禰命-大木別垂根命-【穂積】真津-阿米-十能寸-鎌子-押山。

    饒速日尊-宇麻志麻治命-彦湯支命-大禰命-出石心大臣命-大綜杵命-伊香色雄命-大水口宿禰命-建忍山宿禰→弟橘媛

    ★弟橘姫の兄の名前は穂積忍山彦根と言う。
    香川県善通寺市大麻町の大麻神社は、その一族が代々祭主をしている。

    穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。磯長の国は小田原市国府津町から中郡大磯町にかけての海岸地域。

    神奈川県中郡二宮町山西、川勾 (カワワ) 神社。


  • 饒速日命━宇摩志麻治命━彦湯支命━意富祢命━出石心大臣命━大矢口宿禰(兄弟に大水口宿禰)━━大綜杵命(兄弟、欝色謎は孝元天皇妃)ー伊香色雄(伊香色謎は開化天皇妃、崇神天皇の母)ー大新河━武諸隅

    開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖
  • May 2016 編集されました
    大和の物部 本宗家
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek-outou.htm より

    『諸系譜』第28冊所載の「三上祝家系」であり、中田憲信編の『諸系譜』のなかで、この系譜記事が同書で数少ない鈴木真年翁の自筆でなされているという特徴があります。

    その当該部分に
    神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の①川枯彦・川枯姫、次の世代の②坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代の③国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、物部氏の「①大祢-②出石心-③内色許男」の三代に各々世代対応し、いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。

    物部氏歴代に大祢命をあげずに出雲色大臣をあげるものがあり(「伊福部家譜」)、大祢命も出雲色大臣も共通の姓氏を後裔にもつ点があること、出雲色大臣の後裔の系譜には種々の疑問があり(先に指摘)、大祢命と別人の存在だという心象がえられません。この辺は判断が難しいのですが、「日下部阿野姫」が彦湯支命の妻妾のなかにいたとしても、出雲色多利姫の生んだ出雲醜大臣が物部(穂積)の嫡統を受けたと考えてみました。

    大新河命と建新川命とは、美称を除くと語幹「ニヒカハ(新河、新川)」が同じです。こうした場合、上古の命名法としては、①同人、②兄弟、③親子、という三ケースが考えられます。『姓氏録』で建新川命を祖とするのが大宅首(左京・右京の神別)だけですが、『百家系図稿』所載の系図に見るように川上首・春道宿祢など因幡に所縁の物部もその後裔となります。建新川命の娘(大矢刀自)が蘇我石川宿祢と羽田八代宿祢(両者が応神紀に見える) の母となったという所伝も中田憲信編『皇胤志』に見えており、これに拠る場合には、建新川命は垂仁・景行朝頃の人となります。「天孫本紀」には、建新川命は「倭ノ志紀県主等祖」と記されますが、志紀県主の祖は大売布命だとして「押小路家譜」は具体的に歴代の名を伝えます。
     一方、大新河命と大売布命と後裔氏族が共通しており(先に記した本文参照)、両者は同人か親子かとみられます。大売布命は『高橋氏文』に見えて景行朝の人と分かり、大新河命のほうは大矢口宿祢に引っ張り上げられて崇神朝の人になると、両者の関係が親子になります。大売布命の母親は、その後裔に志紀県主が出ることから、倭志紀彦の娘の真鳥姫とするのが妥当とみられます。

    武諸隅の位置づけですが、崇神朝晩年の登場時期ですから、むしろ垂仁・景行朝が主な活動期とみることができ、そうすると、矢田部系統の世系は、「⑥大矢口宿祢(大新河命)-⑦大母隅(武諸隅。その弟に大売布)-⑧多遅麻-⑨印葉-⑩大別-⑪鍛冶師」として、崇神朝から履中・允恭朝までの六世代を続けるのが自然ではないかと考え直しました。
     なお、「天孫本紀」には、伊香色雄命が山代県主祖長溝の娘・真木姫を妻として二児(建胆心大祢、多弁宿祢)、同じく長溝の娘・荒姫を妻として二男(安毛建美、大新河)、その妹の玉手姫を妻として二男(十市根・建新川)を生んだとありますが、この辺の記事でも真木姫と荒姫とが重複する可能性があり、おそらくは長溝の二人の娘を妻として四男(建胆心大祢、多弁宿祢、安毛建美、十市根)を生んだとするほうが原型に近いのでしょう。

    磯城県主は、神武朝の弟磯城(黒速、鴨主命、櫛日方命)の後で、崇神前代の后妃を輩出した大和土豪第一の名門ですから、この流域を手中に収めた意味は大きいとみられます。
     近江の三上祝は、物部氏族と先祖・天目一箇命(天御影命) を共通にする近江の名門で、野洲郡の御上神社を歴代奉斎し、琵琶湖の東側地域を広く領域にしていました。後に、支族が関東に分かれてその地の国造家を多く出した鍛冶氏族です。
  • 物部五十琴宿禰連公[膽咋宿禰の子供]この連公は、磐余稚桜宮で統治された神功皇后の御世に、始めは大連となり、次に宿禰となって神宮に斎仕えた。物部多遅麻大連の娘の香児媛を娶り、三児を生む。
    妹 物部五十琴姫命。この姫は、纏向日代宮で統治された天皇が立てて妃とし、一児を生む。五十功彦命である。
    弟 物部五十琴彦連公。この連公は、物部竹古連公の娘の弟姫を娶り、二児を生む。
    弟 物部竺志連公[奄智藪連等の先祖]
    弟 物部竹古連公[藤原恒見君・長田の川合君・三川の藪連等の先祖]
  • May 2016 編集されました
    孝元天皇

    孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天 皇だという。原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。

    雀部家系図

    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┌─武五百建
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦┼─健磐龍命
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦└─武恵賀前──孝元天皇
    神武天皇──神八井耳──武宇都彦──武速前──敷桁彦──(崇神朝)

    孝元天皇の兄にあたる敷桁彦命は彦恵賀前の別名を持っており、彦英賀前の弟が子に誤って伝えられたのかもしれない。
  • この系図は原田常治氏が雀部家の人から直接聞き出されて、その著書「上代日本正史」の中で公開された。


    雀部家推定系図
                    ┏━速瓶玉━━志貴多奈彦━━建緒組命(火国造)
         (彦八井)┏━健磐龍命┫
         ┏神八井耳┫     ┗━健稲背━━健甕富命(金刺氏)
         ┃    ┃
         ┃    ┃           (彦恵賀前)┏━武五百建(科野国造)
         ┃    ┃          ┏━敷桁彦命━┫
         ┃    ┗━武宇都彦━━武速前┫      ┗━武恵賀前━━建借馬(多氏)
    神武天皇━┫               ┃     
         ┃               ┗━孝元天皇━━━開化天皇━━崇神天皇
         ┃
         ┣綏靖天皇━━孝昭天皇━━孝安天皇━孝霊天皇━━━倭迹迹日百襲媛命
         ┃                        (卑弥呼)
         ┣安寧天皇
         ┃
         ┗懿徳天皇
  • May 2016 編集されました
    孝元天皇は皇后を物部氏より招いている。孝昭・孝安・孝霊三天皇は饒速日尊の系統ではあるが、物部氏から招いてはいなかった。孝元天皇が雀部臣出身であるためか、大和国内の安定を考えて懿徳天皇以来の物部氏からの皇后である。

    開化天皇は稚日本根子彦大日日尊といい、第8代孝元天皇と物部氏の娘欝色謎命との間に誕生した皇子である。
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