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仲哀天皇 『古事記』では「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とある 恵我」の地名 「恵我(えが)」は、「会賀・餌…
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ついで、仲哀が亡くなった後も熊襲征伐、新羅征伐、大和への帰還と香坂王と忍熊王の討伐等々基本的に神功に同行しているらしい
この二王とは、稚武王と十城別王の2人この二王は、記には倭武命の王子としての記載が無い王。
紀にも直接、この二王が同行したという記述は無いが九州などの神社等々に残る伝承に記述が残る。
神功皇后は、仲哀天皇の弟王2人の支持の元に行動をしていることになる。一方、記の場合は、この二王の記載自体が存在しない
忍熊王の味方になり、討伐された倉見別王は、仲哀天皇の庶長兄稲依別王の王子である。
記の世界観から見ると神功皇后は、仲哀の一族を滅ぼしたとみることも出来る。
紀では、神功皇后は、仲哀の弟王たちにも支持された存在となり香坂王と忍熊王等は、単なる反乱になる。
「いぬかみ」という名前の由来は何でしょうか?
日本で一番古い歴史書「古事記」に、「ヤマトタケルノミコトの子、稲依別王(イナヨリワケノミコ)が犬上君、建部君二つの族の始祖」と書かれています。大滝神社の境内にはその稲依別王を祀る犬上神社もあります。つまりこの地域一帯を統率した豪族が犬上氏であったことから「犬上郡」の名前がついたのです。
犬上氏で有名な人物に、遣唐使として中国に行った「犬上御田鋤(イヌカミノミタスキ)」がいます。
犬上氏の代々の居住地はどこにあったのか定かではありませんが、豊郷の八目には、「犬上君居館跡」という石碑が建てられています。
犬上氏は、隣の依智氏(エチシ)の協力を得ながら田畑の開墾を行ったようで、分水施設を今も「かっとり」というのは、秦勝鳥に由来するという説もあります。
下之郷をはじめ、甲良町・多賀町一帯の27ヶ村は「河原荘」と呼ばれ、室町時代は比叡山延暦寺の荘園になっていました。
の始祖系譜が掲載されています。これによりますと、犬上君は日本武尊の子稲依別王の子孫とされております。「是犬上君・武部君、凡て二つの族の始祖なり」とあります。この始祖系譜から言える事は、日本武尊というのは、悲劇の皇族将軍と言われるように、大和政権の軍事的な活動との関わりを指摘されております。ご存知の通り上田正昭先生は、早く「武部」については日本武尊の名代・子代ですけれども、軍事的な部と考えておられます。またこの始祖系譜に犬上君とともに見える武(建)部君は、宮殿の十二の門を守る「宮城十二門号氏族」の中に見えておりまして、天皇の親衛隊、軍事的な氏族と考えられています。したがって犬上君も、この系譜によりますと、やはり軍事的な背景を持った氏族ではないかということが言えるのではないかと思います。
そのことを裏付けるのが、『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条の記事でございます。これはご存知の神功皇后が朝鮮半島へ渡るという記事で、その帰途、筑紫で応神天皇を生んだ後、母と子がともに大和に戻ることが書かれ、その時、応神天皇の異母兄弟である坂王と忍熊王が皇位を奪おうと反乱を起こすという記事があります。この記事の中に、「犬上君の祖倉見別と吉師の祖五十狭茅宿禰と、共に坂王に隷きぬ」とあり、続けて「因りて将軍として東国の兵を興さしむ」と書かれています。この記事から犬上君の祖倉見別が、五十狭茅宿禰と共に、坂王・忍熊王側の将軍として重要な役割を果たしていることが判ります。この反乱は、坂王・忍熊王の敗北で終わるのですが、五十狭茅宿禰はこの後も、瀬田川で殺されるという記事があります。ところが、倉見別に関しましては、その後登場することなく、結末もわからないのです。敢えて省略された可能性も考えられるのではないかと思っています。この記事からいえることは、伝承であって史実ではないとしても、犬上君が軍事的な役割りを、朝廷において担っていたことを示すものであることでしょう。
犬上君の軍事的な性格を示すものとして、注目されるのが『日本書紀』孝徳天皇即位前紀
(645)条でございます。これは軽皇子、孝徳天皇が即位する時の即位儀の次第を述べたものでありますが、「軽皇子、固辭ぶること得ずして、壇に升りて即す。時に、大伴長徳連、金の靫を帯びて、壇の右に立つ。犬上健部君、金の靫を帯びて、壇の左に立つ」とあります。ご存知の通り、大伴氏と言いますと、天皇(大王)の所謂親衛隊の長官といいますか、軍事指揮官として著名ですが、即位儀という重要な場面で、壇の両側に靫を持って立つという、後の左右近衛の大将のような位置を占めるのは、それにふさわしいあり方といえます。そこに大伴氏と並んで犬上君が立っているという事は、その軍事的な役割を示すものといえるでしょう。しかも、孝徳朝において、犬上君が朝廷において重要な位置を占めているということは、犬上御田鍬が唐に使をして、大きな功績を挙げたことと関わって、その後も中央で有力な地位にあったことを示しているといえます。
10代崇神天皇(没年211年)の宮は、磯城瑞籬宮 (師木水垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字金屋
11代垂仁天皇(没年261年)の宮は、纒向珠城宮 (師木玉垣宮)、推定地は奈良県桜井市大字穴師
12代景行天皇(没年291年)の宮は、纒向日代宮、推定地は奈良県桜井市大字穴師
13代成務天皇(没年321年)の宮は、志賀高穴穂宮、推定地は滋賀県大津市穴太1丁目
です。
つまり10代崇神天皇から12代景行天皇の3世紀代のみ纏向遺跡内と考えられるわけです。この期間を、図の赤矢印で示しました。