吉備氏、上道臣田狭

December 2018 編集されました カテゴリ: 吉備
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5世紀初め吉備下道氏が全盛期となり、作山古墳、造山古墳(総社市)などの天皇家の古墳に匹敵する大型前方後方墳を営…

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コメント

  • 『日本書紀』の記述によれば雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚姫を母とする星川皇子など数度にわたる「反乱鎮圧」の名目で勢力を削がれた。
    7世紀以降、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派し、姓(かばね)としては臣(おみ)または朝臣(あそみ)を称した。
  • 初代 孝霊天皇の三人の子供
    吉備津彦の姉=倭迹迹日百襲媛命
    1 稚建吉備津彦が吉備臣の祖

    兄弟は
    2 大吉備津彦(五十狭芹彦)
    (母=倭国香媛)(四道将軍)
    3 彦狭島尊
    (母=絙某弟)

    2代
    播磨稲日大郎姫は景行天皇皇后
    伊那毘若郎女は景行皇妃
    3代
    吉備兄媛は応神天皇の妃
    鴨別命は笠氏の祖

  • 笠かさ
    笠 カサ 上サ、賀佐、風(かざ)に同じ。上西(かさ)、上在(かさ)はカサイとも称す。和名抄の讃岐国香川郡笠居郷(高松市)は、天暦十一年太政官符に讃岐国香河郡笠郷と見え、江戸時代は
    笠井村、或は葛西とも書いた
  • 笠氏と若狭彦神社

    神官、牟久氏

    若狭彦神社の神官は牟久氏で、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔鴨別命の子小篠が笠臣を賜り、笠氏の祖となった。そして、笠朝臣名高の子節文が若狭彦社の禰宜となり、以後子孫は若狭彦神社の社務職を務めた。景安に至ってはじめて神主となり、かれの子たちの代から牟久氏を称するようになったという。
     中世では遠敷郡を中心として有力国人と縁を結び勢力拡大に努めた。一族からは、室町幕府の奉公衆も出したようで、 室町中期に成立した『見聞諸家紋』を見ると牟久氏の家紋である「三本笠(右図)」が収録されている。牟久氏の紋は先祖が笠氏であることを紋章化したもので、家紋の性格が知れるものでもある。

     ところで、若狭彦神社・若狭姫神社には「若狭国鎮守一二宮禰宜代々系図」が伝わり、禰宜家の一族は、神社近辺の小地名牟久を名字の地として牟久氏を称したことが知られる。そしてこの系図は十二世紀後半ごろからの系図が、ふつうの系図のように男系だけではなく、女系を広く含んでいることで注目されているものである。

     すなわち、同系図には牟久氏と姻戚関係にある他氏の系図、さらにその他氏と婚姻となっているこの氏の系図がある程度詳しく書き入れられているのである。たとえば、十代の禰宜利景の女は、一・二宮に付属する祈祷所の供僧多田慈心坊の妻となり、多田資政を生み、資政は御家人の和久利政氏の養子となっている。同じように十一代禰宜景高の女の嫁した池田氏の系図が盛り込まれ、十二代禰宜景継の女の場合は、その夫木崎沢方俊氏の系図はもとより、俊氏自身の孫娘の嫁した在庁官人田中氏の系図までが記されているのである。
     このように、女系図をたどった結果、この系図はさきの諸氏のほか、鳥羽氏、和田氏、木崎正行氏、和久利氏、倉見渡部氏、印庭氏などの諸系図の断片を見い出すことができるのである。
     この系図から、この系図の作成された南北朝後期の国の状況など、さまざまの事情が伏在していることが想像されるのである。現在、同系図は京都国立博物館に所蔵されている。
  • 笠朝臣

    『日本書紀』神功皇后摂政前紀では鴨別は吉備臣祖と見え、熊襲国討伐に遣わされたと記されている

    同書応神天皇22年9月条によると、天皇が吉備に行幸した際に吉備国を分割して吉備臣祖の御友別子孫に封じたといい、この時に鴨別は「波区芸県」(はくぎのあがた:比定地未詳)に封じられたという

    また『新撰姓氏録』右京皇別 笠朝臣条では、応神天皇の吉備行幸の際の伝承として、天皇が加佐米山に登った時に風が吹いて笠が吹き飛ばされたが、これを鴨別命が大猟の前兆であると進言し、果たしてそのようになったので「賀佐」の名を鴨別に下賜したという。
  • 能登国、毛野国、阿波国の開拓者として、神門臣の伊許保止命と磯城県主~吉備族が浮かび上がってくる。

    富家の伝承では、吉備族は孝霊天皇の時代に、物部連が倭に移住してきたため、吉備国に移住し、更に同族であった出雲族に対して出雲国西部(仁多郡と飯石郡)の鉄を欲して攻撃を仕掛けたと言う。
    出雲国西部を支配していた神門臣家は、吉備に破れたが、東出雲側の戦は膠着状態になり、吉備と出雲は和平を結んだと言う。

    出雲国風土記を見ると、仁多郡には吉備系(丹比部臣)の人が郡司になっており、また神門郡には、式内社の加夜神社があって、吉備津神社社家と同族の-賀夜氏の居住が認められる。

    吉備と神門臣は戦の後、和平を結び同化したと見られ、垂仁・景行の時代に朝廷の軍事に協力するようになったと言う。その証拠に、神門臣と吉備氏から建部臣の姓が出ている。出雲国出雲郡建部郷には、伊甚神社があり阿波国造と同祖の伊甚国造はこの伊甚神社に由来すると考えられる。

    阿波国は、徳島であった粟国から忌部の集団が移住したと古語拾遺にある。古語拾遺を裏付ける事情として、阿波国(徳島)には、天佐自能和氣神社 があって日子刺肩別尊(彦狭嶋命)を祀る。
  • 景行天皇の妃となった播磨稲日大娘は、ヤマトタケルを生んだ。
    そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの妃となった。
    吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。
    兄媛は応神天皇の妃、黒媛は仁徳天皇の妃となった。
    このように、王家に娘を入れて婚姻関係を結び、その軍事行動に参加するという形で、大和朝廷と連合関係にあった。

     第十四代仲哀天皇の御代筑紫の熊襲反して貢奉らず八年春正月天皇自ら熊襲を征めんとして筑紫に行幸の時に岡の縣主祖熊鰐此由を聞きて当国佐波浦(今の惣社町)に参迎して帰順の印に参種の宝物又魚塩地を献る。是を以て天皇謂わく是れ賊を平定の吉祥なりと此所に天照皇大神を主神とし祀る。

    この地域(筑紫国)は、成務天皇の時代に国造が任命されている。初代国造は大彦命の五世孫である日道命である。筑紫国は朝鮮半島の玄関口であり、倭国からの独立を狙っている新羅にとっても重要な地域である


    仲哀天皇8年(332年前半)1月4日、筑紫に行った。岡県主の先祖の熊鰐が、周芳の沙麼(山口県佐波)の浦にお迎えした。
     海路の案内をして、山鹿岬からめぐて岡浦に入った。
     皇后は別の船に乗って、洞海より入ったが、潮がひいて動くことができなかった。熊鰐は洞海から皇后をお迎えしようとしたが、潮が満ちて岡津に泊った。
     筑紫の伊都県主の先祖、五十迹手が、穴門の引島(彦島)に迎えた。
    21日、儺県におつきになり、橿日宮(香椎宮)に居られた。
    熊襲を討たれたが、勝てないで帰った。

    9年(332年後半)2月5日、天皇は急に病気になり、翌日はもう亡くなった。時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用しなかったので早く亡くなったことがうかがわれる。


    仲哀天皇関連記事の中には熊襲が何者かが記録されていないが、仲哀天皇崩御後神功皇后が仇打ちをしている。その相手が羽白熊鷲と田油津媛である。羽白熊鷲は福岡県小郡市周辺で仲哀天皇を殺害し、福岡県朝倉市周辺で神功皇后と戦って敗れているので福岡県朝倉市一帯を支配していた豪族と思われる。一方田油津媛は福岡県みやま市周辺で神功皇后と戦っているが、その背後に兄がいたようであり、田油津媛の敗戦を知って逃げている。田油津媛の本拠地はみやま市の南側となる。そこには球磨国の本拠地と考えられる熊本県菊池市(茂賀の浦)がある。


  • 仲哀天皇崩御
    当時朝廷が任命した国造が支配していた地は、福岡県大宰府一帯、熊本市周辺、阿蘇盆地一帯、天草・島原一帯である。逆に考えると、熊襲勢力の支配領域が筑後川流域(羽白熊鷲)、菊池川流域(球磨国・田油津媛兄)、八代平野一帯となる。

    応神天皇

    4兄媛は応神天皇の妃、黒媛は仁徳天皇の妃となった。
    このように、王家に娘を入れて婚姻関係を結び、その軍事行動に参加するという形で、大和朝廷と連合関係にあった。
  •  古代、景行天皇の大和朝に従わぬ熊襲征伐に、日向国高屋(都於郡)を拠点に留まること六年、ある時、共人を連れ丹裳(にも)の小野(西都方面)にお出になり、高台から東の方を眺め「この国は直ちに日のさす国である。これより日迎(ひむか)の国と呼ぼう」と仰せられた。また、「この地の豪族の娘御刀姫(みはかしひめ)を娶って豊国別(とよくにわけ)皇子を産む」と『記紀(きき)』にある。豊国別の名は、九州が四ヶ国時代に豊国から別れた日向国を治める者ということである。
     日向国造(くにつこ)(長官)は、豊国別が始まりで、国富彦・老男と三代にわたる。その治所は、現在の西都辺りとみるのが自然で、ちなみにここが大宝律令後の日向国府である。老男の子牛諸井は諸県君を命ぜられて国富へ移る。
     当時の日向国は児湯県(あがた)と諸県の皇室領で、北は豊国、西南は玖摩(くま)国と曽於(そお)郡すなわち熊襲国である。日向は大和朝が多年統治に苦心した隼人勢力に接触する辺境の地であった。
     老男は、応神天皇より日向国造に任ぜられ、牛諸井の娘髪長媛(かみながひめ)が仁徳天皇妃に入内(じゅだい)したことは、老男、牛諸井は応神天皇から大事な舅筋になる。また、牛諸井の婦人となる大原稚郎女命(おおはらわかいらつめのみこと)は皇神天皇皇女で天皇が諸井の舅となる。この重なる皇縁と、国造・諸県君を賜(たまわ)ったことが、大和とほとんど同時期に高塚古墳築造権が与えられたとみるのが妥当だろう。
  • 景行天皇西征紀に見える丹裳小野の伝承説話を残し、 児湯郡府中は大王城な り 、 あるい. は、 三宅福野城とも、、

    景行天皇の御代に於ける二度の熊襲征伐中、地理的記述のあるのは、天皇親征の時の記事だけで、その内、襲國討伐の根據地となつた日向高屋宮は兒湯郡に其の遺址と稱するものを傳へて居る。 此の宮に御駐輦中、子湯縣丹裳小野に遊び給うたが、子湯は即ち兒湯であり、丹裳小野は妻町西都原の南端三宅神社に程近い處だと云ふ。 因に三宅神社の所在地三宅は古く屯倉であつた地であらうし、日向の國府を置かれたのも此の附近である。

     天皇は高屋行宮御駐輦中、御刀媛ミハカシを召して妃とせられ、豊國別皇子が生まれ給ふた。 この皇子は日向國造の祖で、又日向諸縣君の祖と傳へられて居る故、御刀媛は諸縣君の女であつて、その御所生の皇子が御母の土地を繼承せられ、日向國造の祖になり給うたことかと考へられる。 此の後、日本書紀應神天皇紀に諸縣君牛諸井と云ふ人があつて、其の女髪長媛を朝廷に獻ずる事が見えてゐる。髪長媛とは次に云ふ髪長大田根媛と同様、髪の長い佳人の意であるが、父を諸縣君とするによつて、豊國別皇子の後裔かとも考へられよう。
  • 肥前国風土記では、崇神天皇の御代、益城の朝来名峯の土蜘蛛を「健緒組命」をして討滅した。が、八代の白髪山で日没となる。その時、大空にかがり火が現れた。
     健緒組命は天皇にそれを奏上し、天皇はこの国を「火国」と名付け、健緒組を火君として統治させたという。
  •  火国を統治した「健緒組命」は阿蘇の一族で本拠は肥後、隈本にあったようだ。

     阿蘇を統治した「阿蘇国造」。
     国造本紀によると古く崇神期、火国造と同祖の建磐龍命の子である「速瓶玉命」が阿蘇国造を賜った。
     阿蘇神話によると神武天皇の皇子、日子八井耳命が阿蘇に下向。続いて神八井耳命の子、建磐龍命が中央より下向している。
     建磐龍命を主祭神とする阿蘇神社は、肥後国一宮で名神大社。速瓶玉命の後裔、阿蘇氏が大宮司職を世襲し、阿蘇大宮司家はのちに肥後の一大勢力になる。火国造「建緒組命」は同族。

     そして肥後南部、八代海沿いに威勢を誇った「葦北国造」。
     国造本紀によると景行天皇の御代に吉備津彦命の子、三井根子命は肥後の葦北国造になる。
     三井根子命は景行天皇の九州巡幸に吉備より随行、その功によりそのまま葦北国造に任じられたようである。三井根子命は葦北君を賜り、のちに日奉宿禰を賜姓されたという。
     継体期には三井根子命の子、「阿利斯等」が葦北国造になり、その後は穴目、丘斯登、米斯登、加津羅、称徳期の広瀬女と続いたという。

     葦北は肥後南部に位置する。八代海に面し、いくつもの良港を持つ。交易など大陸との行き来もあったようだ。
     景行天皇の九州巡幸の折、葦北の小嶋に泊まり、「山部阿弭古が祖の小左」に冷水を求めた。そして天皇はこの島を水嶋と名付けた。水嶋は球磨川の河口。このあたりはもとは阿多海人の地であったという
  • 上道臣と香屋臣は同祖

    書紀が雄略元年の后妃子女の条(王統譜の条)の中では、稚媛を「上道臣の女」とし、別伝として「吉備窪屋臣の女」と記している意味が了解できる。「上道臣の女」とは「田狭の娘」の意味である。また、「窪屋臣の女」とは「田狭の一族の娘」の意味である。窪屋郡は古くは加夜(香屋、賀陽)郡と共に川嶋県の一部であり、他方、応神紀は上道臣と香屋臣とが仲彦を共通の祖先とする同宗であることを述べているからである。
  • 近江の安国造の祖先、意富多牟和気の娘
    倭建命と布多遅比売の系統
    布多遅比売
    ふたじひめ
    ・意富多牟和気(おおたむわけ)の娘
    ・倭建命の妻となる
    稲依別王
    いなよりわけのみこ
    ・倭建命と布多遅比売命の御子
    ・書記ではこの御子を長男としている
    ・犬上君、建部君の祖


    壱岐の志自岐神社 十七社 志自岐神社
    祭神

    十城別王(ときわけのみこ)、武加比古王(たけかいこのみこ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと)、稲依王(いなよりのみこ)、
    稚武王(わかたけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)


    日本武尊(やまとたけるのみこと)の子供たち

    古い本に、次のようなお話があります。

    昔、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。
    しかし、十城別王命(ときわけのみこ)は、戦争が怖くなり、途中で引きかえしました。

    神功皇后は、その命令に違反している、と言って、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、あやまたず王を射通しました。

    これ以後、この地を射通し「イトヲシ」といい、これが訛って、「印通寺」となった、という事です。また、皇后の箭を投げた地を「ナゲヤ」と言い、今は、名護屋と呼び、呼子村の西に在あります。


    式内社24社にいう、邇自神社は、ここではないかと、とも言われています。

    日本武尊(やまとたけるのみこと)は最初、垂仁天皇(すいにんてんのう)の娘、両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、稲依王(いなよりのみこ)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと、足仲彦(たらしなかつひこ)ともいい、後の仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)という、子供がいました。

    日本武尊は、又、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘、吉備穴戸武姫(きびのあなとたけるひみ)とも結婚し、武加比古王(たけかいこのみこ、武卵王(たけかひごのみこともいう)と十城別王(とおきわけのみこ)という、子供がいます。


    日本武尊は、さらに、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘姫(おとたちばなひめ)と結婚し、稚武彦王(わかたけひこのみこ)という、子供がいます。




  • 5世紀
    1:伝仁徳陵(堺市/486m)
    2:伝応神陵(羽曳野市/419m)
    3:伝履中陵(堺市/365m)
    4:造山(つくりやま)古墳(岡山市新庄/360m)
    9:作山(つくりやま)古墳(総社市三須/286m)
    両宮(りょうぐう)山古墳(山陽町穂崎/194m)

    463
    雄略(ゆうりゃく)天皇‐吉備下道臣前津屋(しもつみちのおみさきつや)を誅殺(ちゅうさつ) 、吉備上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)、任那(みまな)で反乱するとある
    479
    吉備上道臣の女稚媛(わかひめ)、星川皇子らと反乱し吉備上道臣ら救援するとある
    538
    百済(くだら)から仏教が伝わる 石舟古墳/横穴式石室/5.3m/1.6m/1.2m
    555
    吉備5郡に屯倉(みやけ)が置かれる
  • 応神紀に見られる吉備分封。すなわち、上道県(吉井川・砂川地域)に分封された仲彦は上道臣と香屋臣の祖とされているが、香屋とは香屋郡であり、川嶋県(足守川流域)の一部である。他方、川嶋県に分封された稲速別は下道臣の祖とされているが、下道郡は浦凝別が分封された苑県の中である。これは、上道氏の一部が上道県から川嶋県に移動し、これに押されて下道氏が川嶋県から苑県に移動したことを示している。

    吉備における大古墳を年代部地域別に見ると、弥生時代末期に楯築遺跡と云う全国最大の弥生墳丘墓が作られた足守川流域が古墳時代前期の四世紀に入ると急に大古墳の空白地帯となり、代って、備前と備中の国境の中山丘陵に大古墳が連続的に作られてゆくことである。

    日本書紀(応神天皇条)には、備前から備中の範囲の諸部族(上道臣、香屋臣、三野臣、下道臣、苑臣、笠臣)を、すべて御友別の兄弟子供として同族と記しているが、古事記(孝霊天皇段)の方は、これに反して、もと備前に居た上道臣は大吉備津彦(紀は吉備津彦)の末、備中に居た下道臣、笠臣は若彦建吉備津彦(紀は稚武彦)の末として、両者は別系統であるとしている。
  • 「桃太郎」の原典となった温羅伝説
    備中国の一の宮である吉備津神社に「吉備津宮縁起」


     崇神天皇の頃、異国の鬼神が飛来して来た。その名は温羅、吉備冠者(吉備火車)とも称し、もとは百済の王子であった。「鬼の城」(きのじょう)に拠って吉備の国人を苦しめたので、人々は大和朝廷にその討伐を要請する。大和は孝霊天皇の皇子五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を派遣する。
  • 忍熊王を祀る神社は二座確認できる。
    吉備国 岡山県和気郡和気町 由加神社に忍熊王命碑。
    越前国 福井県丹生郡織田町 劒神社 素盞嗚大神 (配祀)氣比大神 忍熊王

    吉備国(備前国)にも忍熊王命碑が残っているのは、応神新王権の擁立に吉備国の勢力も関与したことを示す。吉備と気比との関連が注目される
  • 豊前、田川の香春(かわら)郷。香春三峰の三ノ岳は銅を産出し、最も古く開けた地。「採銅所」地名を残す。
     採銅所の北、「鍛冶屋敷」という山裾の集落に「現人(あらひと)神社」が在る。祭神は「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」と、戦国期の香春岳城の城主、原田五郎義種。
     都怒我阿羅斯等は日本書紀では意富加羅国王の子。半島の金属精錬集団が齋祀る神であるという。
     「現人神社」の現人(あらひと)とは「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の「阿羅斯等」のことであろうか。
     日本書紀では加羅国の王子、都怒我阿羅斯等は白い石の化身の娘を追って渡来する。
     娘は「阿加流比売神(あかるひめ)」として比売語曾社の神となる。これらの話は古事記の「天日矛」の伝承に酷似、ゆえに「天日矛」は都怒我阿羅斯等と同神とされる。
     香春神社縁起によると香春神、辛国息長大姫大目命が「阿加流比売」であった。

     筑前の那珂川町に同名の「現人神社」が在る。祭神は住吉三神。博多、摂津の住吉神社の元宮と伝わる。

    肥後南部、八代海沿いに威勢を誇った「葦北国造」が在った。国造本紀によると景行天皇の御世に吉備津彦命の子、三井根子命は「葦北国造」になる。
     「三井根子命」は景行天皇の九州巡幸に吉備より随行、その功により葦北国造に任じられた。三井根子命は葦北君を賜り、継体期にはその子、「阿利斯等(ありしと)」が葦北国造になる。
     「阿利斯等(ありしと)」は各地に置かれた刑部の集団を掌管し、大伴氏のもとで朝廷の警備などに当たる靫部の長ともなった。4世紀末から5世紀にかけてのことである。
     やがて「阿利斯等」は大連の大伴金村の命により、軍勢を率いて韓半島に渡る。そして「阿利斯等」は任那王を兼ねたといわれる。これが6世紀の初め。
  • 越前国一宮の「気比神宮」は、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)を主祭神として神功皇后、応神天皇、武内宿禰命、玉妃命など7神を祀る。玉妃命は神功皇后の妹宮であるとされる。
     主祭神、「伊奢沙別命」の正体は不明であるが、垂仁天皇の頃に渡来した加羅国の王子、「都怒我阿羅斯等」を伊奢沙別命として祀ったとも。「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、朝廷の支配下に置かれた敦賀が、朝廷に贄(にえ)を貢納して保食神、「けひ大神」と呼ばれたとされる。
     三韓征伐にあたって神功皇后は玉妃命、武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、三韓出兵の伝承を残す。
     伝承はこの宮の鎮座の古さを伝え、古くは角鹿国造の流れを汲む「角鹿(つぬが)氏」が管掌していたといわれる。

     そして摂社の筆頭とされる「角鹿(つぬが)神社」が都怒我阿羅斯等を祀る。古く政所(まんどころ)神社と称し、社記は崇神天皇の御代にこの地に渡来した「都怒我阿羅斯等」が朝廷に貢ぎ物をしたので「角鹿の政所」とされたと伝える。
  • 諸蕃 新羅

    1 808 左京 諸蕃 新羅 橘守   三宅連同祖 天日桙命之後也    
    2 911 右京 諸蕃 新羅 三宅連 連   新羅国王子天日桙命之後也
    3 912 右京 諸蕃 新羅 豊原連 連   新羅国人壱呂比麻呂之後也
    4 913 右京 諸蕃 新羅 海原造 造   新羅国人進広肆金加志毛礼之後也
    5 934 山城国 諸蕃 新羅 真城史 史   出自新羅国人金氏尊也    
    6 959 大和国 諸蕃 新羅 糸井造 造 三宅連同祖 新羅国人天日槍命之後也
    7 987 摂津国 諸蕃 新羅 三宅連 連   新羅国王子天日桙命之後也
    8 1045 河内国 諸蕃 新羅 伏丸     出自新羅国人燕怒利尺干也
    9 1065 和泉国 諸蕃 新羅 日根造 造   出自新羅国人億斯富使主也
     
    以上9氏族/全氏族1182=0.76%

    諸蕃 任那

    1 809 左京 諸蕃 任那 道田連 連   出自任那国賀羅賀室王也    
    2 810 左京 諸蕃 任那 大市首 首   出自任那国人都怒賀阿羅斯止也
    3 811 左京 諸蕃 任那 清水首 首   出自任那国人都怒何阿羅志止也
    4 935 山城国 諸蕃 任那 多々良公 公   出自御間名国主尓利久牟王也 天国排開広庭天皇[謚欽明。]御世。投化。献金多々利金乎居等。天皇誉之。賜多々良公姓也  
    5 960 大和国 諸蕃 任那 辟田首 首   出自任那国主都奴加阿羅志等也
    6 961 大和国 諸蕃 任那 大伴造 造   出自任那国主龍主王孫佐利王也
    7 988 摂津国 諸蕃 任那 豊津造 造   出自任那国人左李金[亦名佐利己牟]也
    8 989 摂津国 諸蕃 任那 韓人   豊津造同祖 左李金[亦名佐利己牟]之後也  
    9 990 摂津国 諸蕃 任那 荒々公 公   任那国豊貴王之後也    

    以上9氏族/全氏族1182=0.76% 諸蕃326氏族の2.8%
  •  磐城皇子と星川皇子の母稚媛は、かつて吉備上道臣田狭の妻でしたが雄略天皇に奪われて妃となった人物です。雄略天皇が薨去すると、稚姫は星川皇子に謀反を起こさせ、その際磐城皇子は謀反には反対しましたが、星川皇子が事に及ぶとやむなく加担し、最後は母と弟とともに殺されてしまいました。
     この謀反に、異父兄の吉備上道臣兄君(前夫の吉備上道臣田狭との間に生まれた子)も加担し、吉備上道臣家は軍船40艘で星川皇子のもとに向かいましたが、到着する前に乱は鎮圧されてしまいました。
     つまり、星川皇子の乱は吉備上道臣家をも巻き込んだものだったわけです。
    稚媛の前夫である吉備上道臣田狭は、朝鮮遠征中に妻を奪われ、それを恨み怒って新羅に寝返っていることもあり、星川皇子の乱もあり、大和政権にとって吉備は何かと問題な存在となってしまっていたと言えるでしょう。
  • 難波王は、『古事記』に石木王(イワキ王)の娘とだけあります。
     『日本書紀』には、雄略天皇と稚媛との間に生まれた御子として磐城皇子と星川皇子の名が見えるので、石木王はこの磐城皇子のことと考えられています。

    なお、その『日本書紀』では、難波王(『日本書紀』では難波小野王)を、
     「允恭天皇の曾孫、磐城王(イワキ王)の孫、丘稚子王の娘」
    としますが、この記述では、磐城王は允恭天皇の御子ということになり世代が一代ずれてしまっています。
    もっとも、難波王が允恭天皇の曾孫という点だけは、石木王が磐城皇子だとした場合と一致はします。

     顕宗天皇が難波王を皇后に迎えたというのも、允恭系との結びつきを求めた、と言うよりは婿入りの形を取った、と解釈することもできますし、それならば、允恭・安康・雄略・清寧と続いた允恭系の出身である難波王がオケ王に対して尊大な態度を取っていたとしても不思議には思えないわけです。

    難波王の父(『日本書紀』では祖父)磐城皇子は星川皇子の謀反に加担した人物でもあるのです。
    磐城皇子と星川皇子の母稚媛は、かつて吉備上道臣田狭の妻でしたが雄略天皇に奪われて妃となった人物です。雄略天皇が薨去すると、稚姫は星川皇子に謀反を起こさせ、その際磐城皇子は謀反には反対しましたが、星川皇子が事に及ぶとやむなく加担し、最後は母と弟とともに殺されてしまいました。
     この謀反に、異父兄の吉備上道臣兄君(前夫の吉備上道臣田狭との間に生まれた子)も加担し、吉備上道臣家は軍船40艘で星川皇子のもとに向かいましたが、到着する前に乱は鎮圧されてしまいました。
     つまり、星川皇子の乱は吉備上道臣家をも巻き込んだものだったわけです。

     稚媛の前夫である吉備上道臣田狭は、朝鮮遠征中に妻を奪われ、それを恨み怒って新羅に寝返っていることもあり、星川皇子の乱もあり、大和政権にとって吉備は何かと問題な存在となってしまっていたと言えるでしょう。
     もっとも顕宗天皇は父が殺害された後、大和を離れて明石で過ごしたために吉備に対して悪感情を持ち合わせていなかったのかもしれません。
     吉備と言うと、つい現在の岡山県のことと考えてしまいがちですが、『古事記』の「孝霊記」や『播磨国風土記』などを見ると、兵庫県を流れる加古川より西は吉備の勢力圏にあったようです。明石にいた顕宗天皇の吉備を見る目は大和のそれとは異なっていたでしょうし、雄略天皇の孫である難波王を妻に迎えるということは允恭系との融合を意味するので、そういった事情から難波王が皇后に迎えられた可能性は十分にあると思われます。
     また、曾祖母・祖母・母が葛城氏の女性であるという顕宗天皇にとって、その葛城氏とつながりを持つ吉備氏はある意味特別な存在に感じていたとも想像することができます。

     難波王について、その名前からもうひとつ推測できることが難波吉士との関係です。皇子や皇女は、養育した氏族の名で呼ばれることが多いので、難波王の場合も難波吉士、あるいは難波吉士と同族の難波氏に養育されたのかもしれないわけです。
     難波吉士と言えば、これまでにも何度か採り上げたように、大日下王が殺害された時に、大日下王の仕える難波吉士日香蚊がふたりの息子とともに殉死したこと、また、そのことで難波吉士日香蚊の子孫が大草香部吉士(おおくさかべのきし)の姓を授けられたことが『日本書紀』に記されています。

     すると、顕宗天皇が難波王を皇后に迎えたことの意味は、允恭系と血縁関係を持つことで連姓氏族たちの協力を得ることと同時に、葛城氏や吉備氏、それに大日下王系につながる皇女を迎えることで連姓氏族たちへの牽制も働く狙いだったとも考えられるのです。

     難波小野王の小野とは
  • 小野氏の大元は近江国大津の湖水の西、滋賀郡小野村に在る、といいます。

     その小野氏は猿女氏(猿女君)と結合します。
    理由は、猿女氏が近江の小野に養田が附けら
    れていて、この養田を平安時代に小野氏が奪ったことによるもので、先述した小野氏が朝廷の
    舞女を出すようになったのも、元はこの舞女も猿女氏から出されていたものを小野氏がその
    職務を乗っ取った形なのです。

     『古事記』が記すところでは、猿女氏(猿女君)は、天照大御神が天の岩屋戸に隠れた時に、天照大御神をその中から引き出すために踊った天宇受売命(アメノウズメノミコト)の子孫です。
     アメノウズメはホノニニギの天孫降臨に際して、ホノニニギに従って一緒に天降る五神のうちの一柱に選ばれますが、いざホノニニギが天降ろうとした時に、その道中に、上は高天の原を照らし、下は葦原中国を照らす異様な神がいました。
     そこで高木神(高皇産霊神)と天照大御神がアメノウズメを派遣して何者かと問うと、その神は、 「僕(あ)は国つ神で名は猿田毘古神(サルタビコ神)と申します。ここにおります訳は、天つ神の御子が天降ってこられるとお聞きしたので、その先導をいたそうと参ったのです」
    と、答えたのでした。
     その後、天降ったホノニニギがアメノウズメに、
     「吾の先導を務めた猿田毘古大神は、その正体を明らかにした汝が送り奉れ。またその神の
    名は汝が受け継いで仕え奉れ」と、言ったので、アメノウズメの子孫は猿女君を称するようになった、と『古事記』は記します。

     『日本書紀』では、この時サルダビコは、
     「吾は伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に至るべし」
    と答えており、現在も伊勢市に猿田彦神社が鎮座します。
  • June 2016 編集されました
    3世紀後半から4世紀前半(古墳時代前期)
    備前 浦間茶臼山(138)砂川
    石材は香川県北部または備讃瀬戸の島から採取されたと推測されている(出典『吉備の古墳 上〔備前・美作〕』)箸墓古墳の約二分の一の規模で形が酷似している

    備前車塚(48)旭川
    出土した三角縁神獣鏡11面のうち9面は同じ鋳型で作られた同笵鏡で、京都府木津川市にある椿井大塚山古墳などから出土したものと同笵関係にある。このことから被葬者は畿内との関わりの強い人物であり、古事記に記された「吉備上道臣之祖」大吉備津日子命であるとされている。

    操山109号(80)旭川
    備中 中山茶臼山(120)吉備の中山
    宮内庁により「大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか)」として第7代孝霊天皇皇子の大吉備津彦命(吉備津彦命)の墓に治定されている。

    備中 尾上車山(135)吉備の中山   
     
    4世紀中期 以下 全て備前
    花光寺(100)吉井川東
    新庄天神山(?)吉井川東
    牛窓天神山(90)牛窓    
    神宮寺山(150)旭川
    鶴山丸山(54)吉井川東    
       
    4世紀後半
    備前 金蔵山(165)旭川
    備中 小盛山(108)造出し付円墳     

    5世紀1期(401年から425年)
    備前 角取山(方:38)山手村 備前 造山(360)総社の東     

    5世紀2期(426年から450年)
    備中 一本松(65)旭川 備前 作山(286)総社南     
    5世紀3期(451年から475年)
    備前 両宮山(192)砂川 備前 朱千駄(65)砂川

    応神天皇22年9月6日条では、天皇が吉備の葉田葦守宮(岡山市足守付近か)に行幸した際、御友別は兄弟子孫を膳夫として奉仕させた。その功により、天皇は吉備国を割いて御友別子孫を次のように封じた。

    長子の稲速別:川島県に封ず - 下道臣祖。川島県はのちの備中国浅口郡に比定。
    中子の仲彦:上道県に封ず - 上道臣祖・ 香屋臣祖。上道県はのちの備前国上道郡に比定。
    弟彦:三野県に封ず - 三野臣祖。三野県はのちの備前国御野郡に比定。
    弟の鴨別:波区芸県に封ず - 笠臣祖。波区芸県はのちの比定地未詳(笠岡市付近か)。
    兄の浦凝別:苑県に封ず - 苑臣祖。苑県はのちの備中国下道郡曾能郷か。
    兄媛:織部を賜う

    5世紀の古墳の中に、御友別の一族のものがあるか
  • 吉備の最古級古墳

    総社市三輪の 宮山 古墳(墳丘墓)はきわめてデリケートな存在である。最古式の前方後円墳といわれる箸墓古墳(奈良桜井)の頭頂部から発見された特殊器台はこの宮山古墳の名を持つ宮山型特殊器台である。器台から器台形埴輪へうつる最後の変節点で「古墳」なのか「弥生墳丘墓」なのか議論のわかれるところらしいが、形は前方部をもついわゆる前方後円墳(これだと古墳?)である。

    ここの三輪山という地名も箸墓を見下ろす三輪山とどう関係するのか解明したいところだが希望的仮説にしかならない、しかしあえて加えるならこの三輪の地の高梁川をはさんで向こう側(やや北西)は正木山(古代祭祀遺跡のある)でその麓が「秦」で秦氏の本拠地である。ひるがえって奈良の三輪山の川をはさんだ西側には二上山がありその麓に秦氏の信仰対象である葛木倭文座天羽雷命神社(かつらぎしずりにいますあまはいかづちのみことじんじゃ)があるというのは興味をそそる。ちなみに総社三輪山山頂にある天望台、三笠山の両前方後円墳は正木山の方角を指して造営されている。
    百射山神社行きました。百射山神社は元は南の福山にあったそうです。宮山の丘の東の水田の畔から見た福山が、の何度も見た桜井の三輪山に瓜二つで驚きました。福山の続きに少し低い山が連なっていてやはり、桜井の三輪の北にもある竜王山と同じ「竜王山」でした。桜井三輪山といわゆる「太陽の道」上に宮山があることも重要ですが、風景が酷似する

    吉備でもっとも古い前方後円形の墳墓が「矢藤治山(やとうじやま)古墳」(岡山市東花尻)である。楯築墳丘墓から4kmほど東にあり、吉備津神社や吉備津彦神社が鎮座する背後に聳える吉備中山(標高162.2m)の山塊中に潜む。当時、児島半島は瀬戸内海に浮かぶ島であり、吉備中山は海に面したから、その南面する尾根(標高84m/比高82m)に造られた矢藤治山古墳は「吉備の穴海」に面した。
     墳長35.5m/後円部径23.5m/後円部高3mを測り、前方部の長さは11.8mと短いが、先端がバチ型に広がる。斜面には角礫の葺石が認められ、特殊器台・特殊壺は紋様が簡素化された終末期のもので「矢藤治山型」と呼ばれる。
     竪穴式石槨は付近で採れる角礫を積み上げて[長さ2.7m×幅1.0m×高さ0.7m]に造られ、蓋石がないので木蓋があったと推定される。埋葬頭位は畿内型に通じる北頭位で、槨内に赤色顔料の薄い痕跡があった。
     副葬品には、破砕された(舶載)方格規矩鏡1、翡翠製異形勾玉1、ガラス小玉若干、小形鉄斧1があった。鏡を破砕して埋納するのは弥生時代末期の方式に倣っている。

     ほぼ同時期に築造されたものに「宮山古墳」(総社市三輪)がある。楯築墳丘墓から9kmほど西で、高梁川左岸にある三輪山丘陵の北端(標高38m/比高25m)に築かれ、沖積平野を一望する。西に伸びる細い尾根筋に墓地が連なり、それらの盟主墳と見られる。
     墳長38m/後円部径23m/後円部高3mを測る前方後円形で、前方部は15mほどと短いが、削平された可能性もあるという。円礫の葺石列が想定された。
     竪穴式石槨は円礫と角礫とで積み上げて[長さ2.65m×幅1m]に造られ、蓋石となる天井石がないので木蓋が想定される。埋葬頭位は吉備の伝統とされる東頭位。 (舶載)飛禽鏡、鉄刀、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス小玉が各1点ずつ副葬されており、赤色顔料の痕跡があった。
  • 吉備上道臣が星川皇子に味方したのは、稚媛が田狭の妻だったため星川皇子が吉備の人と見做されたからなのでしょう。
     そして、反乱に加担したために、治める山部を召し上げられた、と『日本書紀』は語りますが、代償はそれだけではなかったようです。

     その後、吉備には、朝廷の直轄地である縣が設置されることになるのです。
     しかも、国造制が導入された時、吉備には笠臣・下道・加夜・三野・上道・中県・穴・品遅・大伯の、9の氏族が国造に任命されたのです。
     国造は今でいうと県知事にあたる職務なのですが、一国に2名以上の国造が任命さ
    れることも珍しくありませんでした。 しかし、それでも吉備の9名は突出した多さです。
     このことは、吉備が9つに分割されたことを意味するのです
  • 美作国は和銅六年(713)、備前守だった百済王南典と同じく備前介・上毛野朝臣堅身(かみつけぬ・あそん・かたみ)の上申によって新設された国。現在の岡山県津山市あたりである。
    初代国守には上毛野堅身が就任した。

    東国、群馬周辺をを出自とした毛野(けぬ)氏出身の堅身が陸奥守からこの地に新しい国を造営する主たる人物だったと見られている。(熊倉浩靖2008)

    美作国の前身は『日本書紀』欽明16年(555)に置かれた白猪屯倉だろうとされる。この屯倉は鉄生産に大きくかかわる特殊な屯倉であったと考えられている。備前北部から美作の周辺では「鉄屎(かなくそ=鉄滓)」がいくつも発見されている。おそらく5~6世紀にここで確実に製鉄があった例証である。ゆえに白猪屯倉もこのあたりにあった可能性が高い。

    6世紀から7世紀になると美作地方にはにわかに半島や九州に多く、やがて大和、全国へと広がった横穴式石室を持つ古墳が増え始める。そしてその石室からはよそにはない不思議な棺が出てくる。陶器でできた棺桶・・・。土師質の陶器でできたこれらの陶棺は美作にのみ集中し、その出現は爆発的数である。

    これらの土師質陶棺はやがて須恵質へと受け継がれていき、古墳の流行が去った後も美作のみで火葬蔵骨器の製作が続いた。
    これはひとえに白猪屯倉の管理にたづさわった百済系渡来人・白猪史膽津(しらいのふひと・いつ)一族の移住によると考えられる。
    この氏族が特定できる理由は、これより前に武蔵国横渟(よこぬ)屯倉設置に際して、その管理にたづさわっていたのが、同じ百済出身渡来人だった壬生吉志(みぶ・きし)が屯倉に定着してから横穴式石室が爆発的に増え始めるからである。(金井塚良一1980)

    こうして東国と美作で、
    1横穴式石室の爆発的増加 
    2製鉄増加
    3渡来系屯倉管理者
    が時を移して始まったのは、彼ら百済系渡来氏族の定着が非常に関わることがわかった。
    そして美作と武蔵がその中心的場所となったことで、両者の間に氏族によるつながりがあったことも見えた。
  • September 2018 編集されました
    最近は、分析科学の進歩から古墳の築造年代測定の精度があがり、

    五つの古墳は、
    誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵:4 世紀後半)、
    造山古墳(五世紀前半)、
    作山古墳(五世紀中 半)、
    上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵:五世紀中半)、
    大仙古墳(伝仁徳天皇陵:五世紀 後半)

    と微妙な年代差がつけられている。〈詳説『日本史図録 第 6 版 山川出版社 2015』による〉
    『記・紀』に、今は架空の存在と位置づけられた神功皇后が、応神天皇の母として登場
    するので、「崇神・垂仁・景行・成務・仲哀」と続いた系譜に替り、「応神・仁徳・履中...」
    という巨大古墳を築いた、「河内王朝」が成立したと考える説が有力視されている。 ほ む たわけ
    応神天皇(誉田別命)は、宇佐宮(大分県宇佐市南宇佐)や筥崎宮(福岡市東区箱崎)に祀
    られる八幡信仰の祭神で、武具・鉄器の神として知られる。「応神紀」は、天皇が吉備に巡 みともわけ
    幸された折、御友別皇子の子弟に吉備を分割して各地の県主としたことを記して、嫡子の おおさざき
    仁徳天皇( 大 雀 命)が、吉備の黒姫と浮気をして吉備まで追いかけた様子を「仁徳記」が 載せ、河内王朝と吉備との深い関係を示している。この時期の全長 210m以上の前方後円墳 は畿内・吉備以外では、東日本最大の上毛野の太田天神山古墳(210m. 五世紀中半:群馬 県太田市内ヶ島町)だけであり、『記・紀』の記録と、巨大前方後円墳の築造年代を重ね合 わせると、「河内王朝」と「吉備国」は同盟関係を結んでいたと考えられそうである。
  • 「雄略紀」には、 しもつみち さきつや
    吉備 下 道 臣前津屋が、ヤマト王権との戦いを、女二人の争いと闘鶏に見立てて占っている かむつみち た さ
    様子を王権に知られて前津屋は殺害されてしまった。また吉備 上 道 臣田狭は、雄略天皇に わかひめ
    謀られて任那日本府の長官として朝鮮半島へ派遣され、その間に妻の稚媛を奪われたため、 任那で反乱を起こした。雄略天皇が亡くなった後の「清寧紀」には、雄略帝と稚媛の間に できた星川皇子が、母と共に謀反を企てたが、すぐ鎮圧された。『日本書紀』に何回か吉備 の反抗が記されたが、国力の拡大に繋がらず、王権の勢力強化に力を貸しただけにみえる。
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