伊勢神宮、外宮、豊受姫、伊雑宮

December 2018 編集されました カテゴリ: 伊勢
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豊受姫とは 調神社 「天照大神 配 豐宇氣姫命、素盞嗚尊」 という三種類の記述があった。 延喜式神名帳には「天…

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コメント

  • “伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也(東の山中に大物主のミモロの山がある)”
    記・大国主

    外宮の鎮座について、『倭姫命世記』には、雄略21年10月、倭姫命(垂仁天皇の第二皇女)が夢に天照大御神の託宣を受けますが、「吾一所にのみ坐せば、御饌(みけ)も安らけく聞召すことがままならない。それで丹波国与佐の小見の比沼の魚井原に坐す、丹波の道主命の子、八乎止女が斎き奉っている御饌津神である止由気大神を、吾が坐す国へ招いてほしい」と。
     そこで倭姫命は大若子命を使者として雄略天皇にその旨を申し告げさせました。天皇はさっそく大若子命に、手置帆負・彦狭知二神の裔を率い、斎斧(おの)・斎?(すき)をとって山材を採り、神殿を造営させました。そして翌22年7月7日に、大佐佐命をもって、丹波国余佐郡真奈井原より、止由気(とゆけ)皇大神を迎え奉り、度会の山田原の下津磐根(いわね)に、大宮柱広敷き立て遷斎しました。豊受大御神を主祭神として、相殿神として御伴神三座を祀っています。
  • 大若子命 おおわくごのみこと
    説話上の伊勢神宮の初代大神主。伊勢外宮神主家としての度会氏において祖先とされた神である。『倭姫命世紀』『豊受大神宮禰宜補任次第』などによると,垂仁天皇の代の伊勢内宮鎮座の際,自らの領する櫛田川以東の伊勢国(三重県)南部を神宮に納め,その地の支配者として神国造となり,大神宮大神主を兼ねたという。また越の国(福井,石川,富山,新潟)征討に行くよう命を受け,その平定の報告をしたところ,朝廷から大幡主の名を与えられた。神国造兼大神主は大若子命の子孫が継ぎ,外宮創建後は内外両宮大神主となり,のちには外宮神主のみとなる。

  • 難波の長柄の宮に御宇しめしし天皇の丙午(646)のとし、
    竹連・磯部直の二氏、此の郡を建てき。

    竹連・・・多気郡多気郷
    磯部直・・・度会郡伊蘇郷
    延暦23年の「皇太神宮儀式帳」によれば,孝徳朝の立評時に,10郷を割いて竹村に屯倉を立て,竹評【たけのこおり】を置き,麻続連広背を督領,磯部真夜手を助督に任じたとある。また天智朝の甲子年には,同評の4郷を割いて,飯野評を置き,公郡としたとある。また「神宮雑例集」には,これとは相違する伝承を記し,己酉年に度相(会)郡をたてたとある。「倭姫命世記」には,立評時を丙午年とする。大宝令以前の評表記が見られることは重要である。なお立評以前は,有爾鳥墓【うにのとつか】村に神庤を置いて,神行政を行っていたという(皇太神宮儀式帳)。また磯部河(祓川か)以東は神国と定めて,大幡主命を神国造・大神主に任じたという(神宮雑例集)。
  • 「続日本紀」文武天皇2年12月乙卯条に,「遷多気大神宮于度会郡」とあることから,皇太神宮がこの時まで当郡に鎮座していたという説もあるが,神郡行政をつかさどる神庤とする説が有力。
    8世紀の初頭まで、伊勢神宮は多気にあったのではないか、ということです。
    この仮説の基になっているのは『続日本紀』の文武天皇2年(698)11月29日条にある「多気大神宮を度会郡に遷す」という記事なのです。この多気大神宮とは何なのか。これこそ内宮だとする説がある
  • 南伊勢地域に郡制が敷かれていく時、その事務的な中心はまず多気郡の有爾鳥墓に置かれた、というのは共通しています。さらに、全国にある神郡の中で、伊勢神宮だけが二郡を持っていることから、多気郡が内宮、度会郡が外宮の郡だった、という考え方もまた可能なのです。こうした所から、多気大神宮とは、多気の太神宮司を付属させ、多気郡を領地としていた、もともとの皇太神宮ではないか、という説があるのです。
    、『万葉集』に見られる柿本人麻呂作の高市皇子への挽歌です。この歌に、「渡會の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を」という表現があるのです。ここにいう「斎の宮」は、壬申の乱の時に神風を吹かせたとしているので、斎宮ではなく伊勢神宮そのものを指していたと考えられます。そして高市皇子が亡くなったのは696年ですから、この時に「斎の宮」は渡會にあった、ということになるのです
  • 『日本書紀』の敏達天皇四年(五七四)の条に「伊勢大鹿首小熊」という人物が見えます。その娘の菟名子は、采女として出て同天皇の夫人となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んだというのです。『古事記』にもほぼ同様の記述があります。なお、この糠手姫皇女は、のちの舒明天皇の母です。

    平成四年発行の『多気町史』でも、「伊勢大鹿首は、異説もあるが、相可付近に住んでいた当地方の豪族であったと考えられる」としています

    多気郡の相可(現多気町)を大鹿氏の本貫地とする説は多く、江戸時代から続いています。外宮神官度会延経の『神名帳』考証を受けた安岡親毅の『勢陽五鈴遺響』では、相可の相鹿上神社の祭神が天児屋根命で、「相鹿大鹿相同シキニ拠テ大鹿首ノ始祖ハ天児屋根命ナリ……大鹿ハ今ノ相可ト称スルニ相同ク大鹿首ノ本貫ノ地ナルヲ其祖神ヲ祀ル処ナリ」と記しています。
    一方、北伊勢の河曲郡(現鈴鹿市)に大鹿氏の本貫地があったという説も多く、古くからありました。本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢大鹿首は、神名帳に伊勢ノ国河曲ノ郡大鹿ノ三宅ノ神社あり、此ノ地より出たる姓なり」とし、神宮神官の御巫清直も「伊勢式内神社検録」(大神宮叢書『神宮神事考証』所収)の「河曲郡大鹿三宅神社」の項で「其(大鹿首)子孫久シク連綿シテ……其大鹿氏ノ居処ヲ大鹿村ト称ス。本郡ニ隷セル国分村是ナリ」としています。
  • 迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻積君、
    三人、共に夢を同じくして、奏して言さく、

    「昨夜夢みらく、一の貴人有りて、誨へて曰へらく、
    『大田田根子命を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、
    倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ』といへり」まうした

    伊勢麻積
    <古語拾遺より>

    全ての大幣を造る者は神代の職に依るべきである。
    斎部の官は供を作る諸氏を率いて例に准じ造り備えた。

    そうであるなら、神祇官の神部を
    中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏で有るべきである。
    然るに今は中臣・斎部等の二三の氏ののみがあり、それ以外の氏は考選に預かる事はない。
    神の裔の散り失せて、その裔が絶えようとしている。
    忘れられたところの十目である。
  • <古語拾遺より>

    太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、

    石凝姥神(イシコリドメノカミ)
    [天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。]
    に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、

    長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で
    今の世で衣服の事を白羽と言うのは この事が始まりである。]
    に麻で青和幣(アオニギテ)[古くは爾伎弖]を作らせ、

    天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて
    白和幣(シロニギテ)を作らせ [是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。]、
    天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖である。]に文布を 織らせ、
    天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。 所謂、和衣(ニギタエ)である。
  • 先代旧事本紀に、
    「八坂彦命(やさかひこのみこと)、 伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。」
    ・・・とも書かれているため、「長白羽神=八坂彦命である」という説があります。

    また、一説に、この八坂彦命の娘が、
    諏訪神社の祭神の八坂刀売命(やさかとめ)であると言う説もあります。(八坂刀売命は、建御名方命の后)
  • 『神宮雑例集巻』 という書物には 天牟羅雲命、国常立尊十二世孫、度会遠祖など見ゆ。その孫 「天日別命」 は神武朝伊勢国造となれり 

    天村雲は 天日別=天日鷲 の祖父という。

    天村雲神伊自波夜比賣神社
    阿波國“続”風土記では、天村雲命は天日鷲命の“弟”となっている。


  • 伊勢神宮外宮の神官家・度会氏について

    『先代旧事本紀』に、「天牟良雲命は度会神主等の祖」と記され、当の度会氏による『神道五部書』所載の外宮の沿革を記した『豊受皇太神御鎮座本紀』にも同様の記載がある。

    この『豊受皇太神御鎮座本紀』原文には、

     天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
     阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座 是也。

    とあり、大神主(度会氏)の「上祖」が、天村雲命であり、その天村雲命は、神皇産霊神(高天原最高神の一柱)の六世之孫であり、阿波国の式内社、忌部神社、天村雲神社(天村雲神社は忌部神社の摂社)が「是也」

    と、記している
  • 三国遺事・「延鳥郎と細鳥女」(概要・一部)

    新羅の第八代、阿達羅王の4年(157年)のことであった。

     東海のほとりに、延鳥郎と細鳥女という夫婦が住んでいた。ある日のこと、夫の延鳥郎が海で藻を採っているとき、彼の乗っていた一つの岩が動き出して日本に向かった。日本人たちは彼を見ると、非凡な方だと思い王にたてまつった。

     妻の細鳥は延鳥の帰りがあまりにも遅いので海に行って探してみると、岩の上に夫の履物が脱いであった。それを見つけた細鳥がその岩の上に登ると、岩は前と同じように動いて行き、日本へと向かった。
     細鳥が着くと、そこの人々が驚いて王に報告し、夫婦は再会し、細鳥は貴妃になった。

     一方、新羅では太陽と月の光が消えてなくなった。

     預言者の日官がその理由を、「我が国に降っていた太陽と月の精が、今、日本に行ってしまったので、このような異変が起こったのです」と新羅の王に告げた。

     そこで、王は使者を日本に遣わしたところ、延鳥は新羅に帰ることを断り、その代わりに妻の細鳥が織った絹織物を渡し、持ち帰って天を祭るように言った。

     使者は新羅に戻って王にそのことを告げ、言われた通りに天を祭ると太陽と月が元に戻った。
  • 「磯部」氏は「礒部・石部・石邊」とも表記されるが、姓氏録には、三輪の「阿多ツクシネ」の子孫とあり、山城国に居住する氏族について述べるところでは「阿多隼人」の次に「石邊公」が載る。
  • 薩長土肥連合である明治政府は、自分たちの政権の正当性を担保するためと、新体制となった国家をまとめるためのイデオロギーを必要とし、国の宗教として国家神道を採用し、国家神として「天照大御神」を強力に担ぎ出しました。王政復古の大号令ののち、そのために明治2年、天皇の伊勢神宮参拝を行いました。この時明治天皇は十八(満十六)才だったそうです。

     それ以前については、持統天皇6(692)年3月6日に持統天皇は伊勢行幸に出発していますが、伊勢神宮を参拝した記録はなく、それ以降も天皇の伊勢神宮参拝は一度もありませんでした。即ち、明治になるまで天皇の伊勢神宮参拝はなかったことになります。ここは、江戸時代には、庶民の行楽の場所であったのです。
  • July 2016 編集されました
     磯部氏とはいったい何者
    磯部氏の系譜によると、伊勢神宮祭祀にかかわる度会氏や荒木田氏、そして宇治土公氏、これらの中臣氏以外の氏族は磯部氏に関係する

    なかでも内宮の禰宜に次ぐ重職である宇治大内人(玉串大内人)で、心御柱を造立するなどの伊勢神宮における内宮祭祀の中心的な役割を担っていた宇治土公氏は、天鈿女命と猿田彦の合体した系に連なる一族であることを確認した。

    『古事記』は宇治土公から分かれた猿女君である稗田氏の阿礼が誦していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太朝臣安萬侶が記録編纂し、和銅5年(712)、元明天皇に献上された。日本最古の書といわれている。
  • ホツマツタエ
    天道日女命。  
    カグヤマツミとタキコの娘。タクリ(カゴヤマ)の妹。 他の文献ではクシタマ姫とも。
    アスカ君 (クシタマホノアカリ) の妻と成り、兄タクリ (カゴヤマ) の子のタクラマロ (タカクラシタ) を養子に迎えるが、ハセ姫に疎まれて母子ともに捨てられる。ハセ姫はこの為、クシタマホノアカリの怒りを買い追放される。 
    クシタマホノアカリの死後、アスカを継いだクニテル・ニギハヤヒはアメミチ姫を母として召す。子のタクラマロは召しても来なかった。
      

    奈良県北葛城郡広陵町弁財天、櫛玉比女命 (クシタマヒメノミコト) 神社
    愛媛県北条市八反地、櫛玉比賣命 (クシタマヒメノミコト) 神社
    愛知県名古屋市熱田区白鳥、青衾 (アオブスマ) 神社
  • July 2016 編集されました
    「籠神社(この)」の東方に彦火火出見尊(ひこほほでみ)の痕跡がたくさん残っている
    それが若狭国の一之宮、若狭彦神社をはじめとするその周辺の神社だった。

    彦火明命が結婚したとされている「天道日女( あめみちひめ)」

    「彦火明命」が天上(高天原?)にいたときに娶った妃がこの「天道日女」で、その父は対馬県主祖「天日神命(あまのひのかみ)」と先代旧事本紀に書かれている。
    また、この「天日神命」の別名が「天照御魂神(あまてるみたま)」と呼ばれ、「天御中主神」のことかもしれないということになっていた。


         天日神命<天照御魂神>  天御中主神?
                 │
                 │
               天道日女命 =========== 彦火明命    
    しかし、海部氏本系図の勘注系図によれば、「天道日女」は「大己貴神(おおなむち)」の娘で海部氏の祖「彦火明命」の妃となり、「屋乎止女命(やおとめ)」とも「高光日女命 ( たこひめ ) 」また「祖母命(そぼのみこと)」とも呼ばれていた。

    一方、彦火明命の亦の名を「天火明命(あめのほあかり)」、「天照御魂神(あまてるみたま)」、「賀茂別雷神(かもわけいかずち)」、「饒速日命(にぎはやひ)」とも呼ばれていたと記す。

           大己貴神<大国主命>
                │
                │
      天道日女<屋乎止女命 高光日女命 祖母命> ===== 彦火明命《天照御魂神、賀茂別雷神、饒速日命》
  • July 2016 編集されました
    若狭国一之宮である若狭姫神社には彦火火出見尊の妻「豊玉姫」を祀っている。

    「彦火火出見尊」=「彦火明命」であるならば、・・・
     「豊玉姫」=「天道日女」ということになるのだが・・

    その「天道日女」を祀る神社がすぐ近くの舞鶴にある

    東舞鶴の東南部、祖母谷(そぼたに)川を遡った堂奥(どうのおく)に鎮座する山口神社は、山口坐祖母(やまぐちにいますそぼ)神社とも呼ばれていた。「天道日女」がここに鎮座した伝承が『丹後国風土記残欠』に残されている。


    伝承,天香語山命が倉部山(三国山)の尾上に神庫をつくって種々の神宝を収蔵した。そこへ、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、この地を「高橋郷」といった。今なお峰の頂に天蔵といわれる神祠(天藏神社)があって、天香語山命を祀っている。また、麓に祠があり、山口坐御衣知祖母祠という。天道日女命という神が年老いてこの地に来られ、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたのでそこに祀られた。

    天道日女は、三国山鎮座の祭神「天香語山命(あめのかごやま)」の母である。その別称の屋乎止女(やおとめ)は、八乙女のことで羽衣伝説の八人の羽衣、つまり巫女だとされ、豊受大神(とようけ)と結びつく。そして先ほどの豊玉姫は、竜宮城の乙姫、つまり巫女だったことなどから、

    豊受大神=豊玉姫=天道日女?????
  • むかし豊受大神が、この国の伊去奈子獄(いさなこ 磯砂山)に降臨した時、天道日女などが五穀や桑蚕の種をもらい、「真奈井の井戸」を掘って、水田や陸田を開いて、蒔いたところ、瑞穂が田に満ちた。これを豊受大神は大いに喜んで、『あえなし田庭なるかも』と言われたので、
    ここを「田庭(丹波)」と言うようになった。

                                    『丹後風土記』
    これと同じような言い伝えがある。
    大己貴命(おおなむち)の勅命を受けて、丹波国比治地方を授かった彦火明命は、この地に真奈井の井戸を堀り、水田を開いて、五穀桑蚕の種子を広めた。また「丹波」という地名は、彦火明命が開拓した「田庭」、すなわち農耕地に由来する。

                                    『但馬故事記』
  • ホツマツタヱに「稚日女は結婚後、下照姫と名を改めた」と書かれており、奈良県御所市の長柄神社に祀られている。すぐh近くには饒速日命の娘で高照姫(御歳)を祀る葛木御歳神社もある。
  • 度会神主
    神宮に奉仕していた神主一族で、その歴史は古く伝える所によると現在の内宮が鎮座する以前より伊勢の地にすでにいたと言われ、宮川周辺(現在の度会郡)を中心に住んでいました。
    渡会氏は外宮の豊受皇大御神に奉仕していました。
    この豊受大御神は雄略天皇の時に丹後の地より勧請されたといわれ、それ以前は渡会氏の氏神を祀っていたのではないかと言われています。
    ですから、外宮の別称が「渡會宮」と言われているのもその名残りとされています。
    度会神主は外宮の禰宜でありました。若い頃から頭髪が真白であった事から「白太夫」と呼ばれていました。
    度会春彦氏と菅原道真公(菅公)の関係は、菅公が生まれる以前のお話になります。
    菅公の父、菅原の是善公は長男・次男ともに幼くして亡くなった為に世嗣がいませんでした。そこで、侍臣の島田忠臣に命じ、伊勢神宮外宮内宮新神官の度会春彦氏を通じて外宮に祈願し、その御神徳があるとされています。
  • 宇迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)
    ウカとは穀物稲、食物の意味で稲の神様です。イネがイナに変化し、お稲荷様となったようです。世木神社の境内には、

    『正一位三吉稲荷大明神』

    として祭られています。この正一位とは最上級の位であり、『御利益が大きい』という事でもありまして、繁栄、商売繁盛、などの御神徳があります。
  • November 2018 編集されました
    石邊(磯邊)公は大物主命の子久斯比賀多尙祖父、高志の二人に、渡会氏の姓を賜った、とある。『新撰姓氏録』(左京神別、下、地祇)にと磯部氏と称していた。

    伊勢神宮の内宮は中臣氏の後裔という荒木田氏、外宮は天日別命の後裔という度会氏が禰宜家。

    ★神武天皇の大和入りの後、天皇の命を受けた天日鷲命(天日別命)が、伊勢の国を平定し伊勢の国造になる。そのとき、伊勢国にゐた伊勢津彦は、強風をおこし、潮を吹き上げ、波に乗って東(信濃)へ去ったといふ。天日鷲命は、宇治山田付近の村長の大国玉命の娘・弥豆佐々良(みつささら)姫を妻とした。これが度会(わたらひ)氏の祖先である。(風土記逸文) 
    ★『古語拾遺』天日鷲命の孫(すえ)は、木綿また麻また織布(あらたえ)を造る。よって天富命をして日鷲命の孫を率ゐて肥饒地を求め阿波国に遣はし、穀(かじ)、麻の種を植ゑしめき。その裔、今彼の国にあり。大嘗の年に当りて、木綿、麻布、また種々の物を貢(たてまつ)る。郡の名を麻殖(おえ)とする所以(ゆえ)の縁(もと)なり。
      
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