雄略天皇、

December 2018 編集されました カテゴリ: 応神ー武烈
image雄略天皇、

2年 百濟の池津媛を石川楯と通じた罪により処刑。 百済蓋鹵王即位 天皇は美女を乞うた。百済は美女を送る。 5年…

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コメント

  • 西暦400年」代末ごろの「第22代清寧天皇の3年」条には、『海表(わたのほか)の諸蕃(くにぐに)、並に使(つかひ)を遣(まだ)して調(みつき)進(たてまつ)る』などと載せ、続けて

     翌「4年」条に、『天皇、親みみづか)ら囚徒(とらへひと)を録(と)ひたまふ。是の日に、蝦夷・隼人、並(ならび)に内附(まうしたが)ふ』(紀上 508頁)

     と『蝦夷・隼人並内附』の「初見」の記録が見えるのである。

     ちなみに、この「清寧天皇」の「元年」条には、先帝『雄略天皇』の死を悲しむ『隼人』について、

     『時に、隼人、昼夜陵の側に哀號(おら)ぶ。食を與へども喫はず。七日にして死ぬ。有司、墓を陵の北に造りて、禮を以て葬す』(紀上 505頁)

     と、「清寧天皇」の祖父の世代に記録される『近習隼人・曾婆加里(刺領巾)』に次いで『二人目の隼人』が「国史」に記録され、

     翌「2年11月」条には、『大嘗祭』に供献すべき「料(しろ)」のことで、「播磨国」に派遣された『伊予来米部小楯』によって後の『仁賢・顕宗天皇』の兄弟を見出された話などが、、、
  • 日本書紀
    顕宗天皇が語ったとして、次のように記述している。
     
    「わが父王は、罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられ、今だにはっきりとしない。憤りの心は一杯にある。臥しては泣き、行きてはわめき、仇をはらしたいと思う。自分は聞いている。『父の仇とは共に天を戴かず、兄弟の仇とは、いつでも戦えるよう備えをしておく。友の仇とは同じところに住まない』と。匹夫の子でも、父母の仇を討つには、苫に寝、干を枕にして君に仕えず、国を共にせず、どんなところで出会っても、いつでも戦えるようにすると。ましてや自分は天子になって二年、願うことは雄略天皇の墓をこわし遺骨を砕いて投げ散らしたい。今この仕返しをしたら、親孝行になるのではないか。」
  • October 2016 編集されました
    倭国はどこか

    日本書紀の雄略天皇の記述の中で、吉備上道臣(きびのかみつみちおみ)の田狭(たさ)の話があります。これは雄略天皇が、田狭を任那の国司に任じて、田狭の美人の奥さんを取ってしまう話なのですが、問題はこの話の一連の中で、原文では「安置於倭國吾礪廣津邑」(倭国の吾礪の廣津村に居住させた)という一文が出てきます。前後では、日本という言い方をしているのですが、ここだけ、倭国となっています。なにかを見て書いていたのか、それとも、意図したものなのか、とっても不思議な一文なのです。
    倭という国が本当に滅び、大和朝廷に統一されるのは、この後の継体天皇の時の磐井の乱であったのではないかと思うのです。

    雄略天皇(二十六)日鷹吉士堅磐固安錢が連れ帰った工人

    天皇は弟君が不在だということを聞いて(樟媛に殺された)、日鷹吉士堅磐固安錢(ヒタカノキシカタシハコアンゼン)…
    堅磐は柯陀之波(カタシハ)と読みます。

    を派遣して、復命(カエリコトモウサス=結果の報告のこと)させました。すぐに倭国の吾礪廣津邑(アトノヒロキツノムラ=河内国渋川郡跡部郷?=現在の大阪府八尾市植松町付近?)に安置(ハベラシ)しました。
    廣津は比盧岐頭(ヒロキツ)と読みます。

    病気になって死ぬものが多かったです。それで天皇は大伴大連室屋(オオトモノオオムラジムロヤ)に詔(ミコトノリ)して東漢直掬(ヤマトノアヤノアタイツカ)に命令して新漢陶部高貴(イマキノアヤノスエツクリコウクイ)・鞍部堅貴(クラツクリケンクイ)・画部因斯羅我(アカキインシラガ)・錦部定安那錦(ニシゴリジョウアンナコム)・訳語卯安那(オサメウアンナ)たちを、上桃原(カミツモモハラ)・下桃原(シモツモモハラ)・真神原(マカミノハラ)の三箇所に移して居らせました。
    ある本によると吉備臣弟君は百済から帰って、漢手人部(アヤノテヒトベ)・衣縫部(キヌヌイベ)・宍人部(シシヒトベ)を献上しました。

    『日本書紀』雄略紀天皇七年の記事
    吉備上道臣田狭の造反に関連して日鷹吉士の名が登場します。
     弟君の妻の樟媛は夫を殺した後、海部直赤尾(あまのあたいあかお)とともに、百済が献上した職人たちを連れて大嶋まで戻ってきました。この時、雄略天皇は、日鷹吉士堅磐固安銭を派遣してふたりを大和につれて戻らせた、という記事があります。

     ただ、日鷹吉士堅磐固安銭という人名については解釈の分かれるところであり、「日鷹吉士堅磐固安銭」というひとりの人物の名前なのか、「日鷹吉士と堅磐固安銭(かたしわこあんせん)のふたり」なのか、あるいは、「日鷹吉士と堅磐と固安銭の3人」なのか、など研究者の間でも解釈が異なるのです。

    『日本書紀』雄略天皇九年の記事には難波日鷹吉士の名が登場します。
     凡河内直香賜(おおしのかわちのあたいかたぶ)と采女を胸方神(宗像大神)の祭祀を行わせるために派遣したところ、その斎場で、香賜が祭祀を行おうとしていた采女を奸した、という事件があり、これを知り怒った雄略天皇が難波日鷹吉士を香賜誅殺に派遣した、という内容です。

    この難波日鷹吉士と日鷹吉士は同一人物である可能性は高いので、ということは、日鷹吉士は難波吉士の一族だと思われます。
  • October 2016 編集されました
    万葉集の最初の歌

    桜井市黒崎・白山神社境内 (揮毫者・保田与重郎)
    原文    天皇御製歌
      籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒
      家吉閑名 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手
      吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背者 告目 家呼毛名雄母

    歌の題詞
    泊瀬朝倉宮に御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)の代(みよ)[大泊瀬稚武天皇(おほはつせわかたけのすめらみこと)]
    天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)

      籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ
      み掘串持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 
      家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて
      われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ 
      われこそは 告らめ 家をも名をも

    (読み例)
    籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串もち この岳(おか)に 菜摘ます児
    家聞かん 名告らさね そらみつ 大和の國は 押奈(あふな) 戸手(とで)
    われこそ 居(お)りしか 告名経(へ)て われこそ座せ われ請(こわ)せば 告らめ 家も名も
  • 『日本書紀』は顕宗天皇が語ったとして、次のように記述している。
     
    「わが父王は、罪なくして雄略天皇に殺され、屍を野良に捨てられ、今だにはっきりとしない。憤りの心は一杯にある。臥しては泣き、行きてはわめき、仇をはらしたいと思う。自分は聞いている。『父の仇とは共に天を戴かず、兄弟の仇とは、いつでも戦えるよう備えをしておく。友の仇とは同じところに住まない』と。匹夫の子でも、父母の仇を討つには、苫に寝、干を枕にして君に仕えず、国を共にせず、どんなところで出会っても、いつでも戦えるようにすると。ましてや自分は天子になって二年、願うことは雄略天皇の墓をこわし遺骨を砕いて投げ散らしたい。今この仕返しをしたら、親孝行になるのではないか。」
  • 倭武の一説に

    『常陸国風土記』に記されているヤマトタケルは「倭武天皇」である。『日本書紀』が皇太子と記している人物を、天皇であるとする理由はなにもなく、『常陸国風土記』の記述には嘘はなかろう。
    つまり、『日本書紀』のヤマトタケル(ヲウス)と『常陸国風土記』の「倭武天皇」は、絶対に別人である。

    「倭武天皇」は、『宋書倭国伝』の倭王「武」であり、『稲荷山古墳鉄剣銘』のワカタケル大王であり、雄略であると思われる。『常陸国風土記』が「倭武天皇」と記したのも、実際に天皇であったからであり、比定できる人物は雄略ただ一人だけなのである。
  • 506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした
  • September 2018 編集されました
    安致臣あちのおみ

    日本書紀の天武天皇紀には、「大隅・阿多隼人、及び倭・河内馬飼部造、各誄る」と書かれているが、河内馬飼部造は河内国の馬飼集団の総称であり、河内国讃良郡の沙羅羅馬飼造、鵜野馬飼造、同河内郡の河内馬飼首、河内母樹馬飼首、額田首、同古市郡の馬毘登がおり、倭馬飼部造は大和国の馬飼集団の総称であり、倭馬飼首、額田首、倭滝知造がいた。

     これらは部民制の馬飼部であり、その伴造が馬飼部造で、その伴造の氏名が馬飼首であった。

     倭馬飼部造がいたということは、大和国内に牧があったということである。

     大和国内の牧は平群郡以外にもあった。
  • 奈良盆地の中央部の唐古・鍵遺跡の跡地からは、「集積された馬骨」が発見され、付近の古墳からは馬型埴輪が出土している。

     ここから、5世紀後半から6世紀にかけて、大和国内には牧が設置され、馬飼集団が居住しており、彼らは部民制の下で馬飼部に組織され、その後に倭馬飼部造となっていった、と考えられる。
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