五十瓊敷入彦命

December 2018 編集されました カテゴリ: 崇神ー仲哀
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五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと) 垂仁天皇の第2皇子(第1皇子は垂仁天皇と狭穂姫の子、誉津別命(ほむ…

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  • 岐阜城の南にある、美濃国三宮「伊奈波神社」

    「垂仁天皇」の兄「五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命」 を主祭神とし、「景行天皇」皇女で妃の「渟熨斗(ぬのし)姫命」、外祖父「彦多都彦(ひこたつひこ、丹波道主とされる)」と、 その娘で垂仁皇后である母「日葉酢姫命」と、重臣とされる「物部十千根(とおちね)」を祀っています。 また、市街にある「金(こがね)神社」は妃の渟熨斗姫を祀り、「橿森(かしもり)神社」は御子「市速雄(いちはやお)命」 を、「県(あがた)神社」は、もう一人の御子「擁烈根(だきつらね)命」を祀り、長良川の北にある 「方県津(かたがたつ)神社」は、彦多都彦の妃「丹波川上摩須郎女(ますのいらつめ)命」を祀っています。 このうち、延喜式に記載があるのは小社方県津神社と、小社物部神社の後継とされる伊奈波神社のみです。 伊奈波神社の社伝では、五十敷入彦命は彼の奥州平定の功を妬んだ、陸奥守豊益が讒言したため朝敵とされ、 この地で討たれたとあり、垂仁紀で景行天皇と共に後継者候補にされ、河内に池を作り、石上神宮に剣を千口収め、 その祭祀を、妹を経て物部連に譲ったという、「紀」の記述とは大きく異なっています。 別の見方をすれば、岐阜市内の神社は、伊波之西の彦坐命から続く、五代が祀られているのですが、 この社伝がなければ、彼等は河内や、丹波という遠い国に関連する人物であって、美濃で祀られている理由は、 国造の祖神大根王の、兄弟の子孫ということだけになります。

    三野県主、後の三野後国造は物部連一族で、「出雲醜(いずものしこ)大臣」の孫、 「臣賀夫良(おみかぶら)命」を祖としています。 金神社周辺の蕪城(かぶらぎ)町という名は、彼が築城して府とした旧蹟とされ、先の県神社も付近に存在していることから、 やはりこのあたりが、三野県主後の三野後国造の本拠だったのでしょう。 しかし、金神社も県神社も、共に先の彦坐命の系譜に繋がる人物を祀っているのです。 特に金神社は、臣賀夫良が祀ったとされていますが、彼は自分の祖先を差し置いて、 本拠の隣にこの神社を祀っているのです。

    出典は、http://www006.upp.so-net.ne.jp/hinomotoshiki2/mino.html
  • March 2016 編集されました
    岐阜市の三社は、岐阜県岐阜市に鎮座する伊奈波神社、金神社、橿森神社の三神社。
    この三つの神社は、岐阜開拓の神である父・母・子を主祭神とし、現在も三社共同で例祭を執り行い、一般には岐阜まつりとして親しまれている、深い関係にある。

    伊奈波神社(父)の主祭神は、第11代垂仁天皇の皇子で、第12代景行天皇の同母兄である五十瓊敷入彦命。記紀には石上神宮との関係が記述されるなど、当時の(天皇ではない)皇族としては記載量が多く、非常に有力な皇族だったことがうかがえる。

    伊奈波神社の社伝によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。

    そのため、朝敵として攻められて現在の岐阜市で討たれたという。夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れて岐阜に赴き、御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。

    渟熨斗姫命が金神社(母)の主祭神となる。両社主祭神の子が市隼雄命で、橿森神社(子)の主祭神という関係になる。市隼雄命は記録や伝承があまり多くないが、その墓が各務原市蘇原の加佐美神社の東「市林山」にあり、現在も祭祀が続けられている
  • 象鼻山1号墳 
       3世紀後半ー4世紀初に築造された前方後方墳。全長40.1m、前方部幅14.4m(高さ2.96m)、後方部長さ22.95m・幅25.86m(高さ4.23m)、くびれ部幅(8.7m)で、二段構成、前方部を北西に向ける。部分的に葺石を備える。主体部は構築墓壙で箱型木棺である。一度山頂を平らにしてから墳丘の殆どを盛土によて造成し、完成までに8段階の築造工程を経ている。出土品としては、破砕された36片よりなる双鳳紋鏡(後漢・晋鏡)、琴柱形石製品(材質は北陸の碧玉質石と推定)、鉄製品(鏃53、刀t、剣6)、土器片366(墓壙から朱入りの壺)である。土器については、二重口縁壺形土器・S字状口縁台付甕形土器・高杯形土器・小型器台形土器の4種類が確認され、東海系と近畿系土器が含まれることが注目される。(養老町教育委員会説明板など)
  • January 2017 編集されました
    『古事記』応神条には、応神天皇がホムダマワカの3人の娘と結婚したとあり、その分注には、ホムダマワカはイホキイリヒコが尾張連の祖タケイナダノスクネの娘と結婚して生んだ子とあり、「応神紀」2年3月条には、応神天皇がナカツヒメを后とし、タカギノイリヒメ・オトヒメを妃としたとある。
    垂仁ーーイニシキイリヒコ)ーーイホキイリヒコーーホムタマワカ)ーーナカツヒメーー仁徳天皇
  • January 2017 編集されました
    応神天皇陵のある羽曳野の誉田という地は、もともと応神天皇の土地ではなく応神の皇后の仲姫の父の本拠地です。
    誉田に暮す仲姫の父とは景行天皇の孫にあたる誉田真若王のことです。

    この応神天皇の妻となった娘の父の品陀真若王(ホムダノマワカ)は五百木之入日子命(イホキノイリヒコ)と尾張連(ヲハリノムラジ)の祖先にあたる建伊那陀宿禰(タケイナダ)の娘の志理都紀斗売(シリツキトメ)の間の子供です

    高木之入日売(タカキノイリヒメ)と応神天皇の間に生まれたのが
    額田大中日子命(ヌカタノオホナカツヒコ)
    大山守命(オホヤマモリ)
    伊奢之真若命(イザノマワカ)
    大原郎女(オホハラノイラツメ)
    高目郎女(コムクノイラツメ)
    です。

    中日売命(ナカツヒメ)と応神天皇の間に生まれたのが
    木之荒田郎女(キノアラタノイラツメ)
    大雀命(オホサザキ=仁徳天皇)
    根鳥命(ネトリ)
    です。

    弟日売命(オトヒメ)と応神天皇の間に生まれたのが
    安倍郎女(アベノイラツメ)
    阿貝知能三腹郎女(アハヂノミハラノイラツメ)
    木之菟野郎女(キノウノノイラツメ)
    三野郎女(ミノノイラツメ)
  • 応神天皇の時代

    照古王
    百済の王の照古王は百済代13代の王の近肖古王のことでこの近肖古王の在位は346年から375年。三韓征伐は新羅本紀に描かれる「346年」のことだと思われるので、この記述は辻褄が合う。

    コニキシ
    この言葉は朝鮮語とされる。これだけでも「日本語」と「朝鮮語」が違うものだと分かる。ちなみにコニキシとアチキシの「キシ」は「族長」のこと。

    アチキシ
    アチキシは架空の人物という節もありますが、架空の人物とするだけの証拠もありません。もちろん実在するという証拠も無いのですが。しかし、他の記事と中朝史書の記事との兼ね合いからみても「架空」とするのも無理がある。

    日本書紀の「阿知使主」と同一人物と見られます。「阿知使主」は東漢氏の祖先。どちらにしても「漢人系の渡来人」。


    雌馬と牡馬が一頭づつ日本に。魏志倭人伝によると日本には「馬」が居なかった。この魏志倭人伝が描いていた邪馬台国の時代は3世紀のことで、応神天皇の時代から見ると100年以上前。その間は馬が居なかったというのは十分ある。

    大陸騎馬民族説
    よく大和朝廷は大陸から来た騎馬民族が支配者、という説があるが、それならこの「馬が来た」という記事は載せるに値しない。牡馬雌馬計二頭が珍しいからこその記事だろう。
  • January 2017 編集されました
    百済の国に

    「もし賢いものが居れば、 献上しなさい」 と応神天皇は言いました。

    すると百済の国はその命令を受けて和邇吉師(ワニキシ)という人物と論語10巻、千文字1巻、あわせて11巻を献上しました。

    ワニキシは文首(フミノオビト)等の祖先です。

    技術者の朝鮮系鍛冶師の名は卓素(タクソ)
    中国の呉の国の機織技術者の西素(サイソ)
    の二人を百済の国は献上しました。

    また
    秦造(ハタノミヤツコ)の祖先であり
    漢直(アヤノアタヒ)の祖先でもあり
    酒の醸造法を知っている人物の仁番(ニホ) またの名を須須許理(ススコリ)などが日本に渡来しました。

    この和邇吉師(わにきし)は文首(ふみのおびと)らの祖です。
    またさらに、手人韓鍛(てひとからかぬち:鍛冶職人)の卓素(たくそ)、呉服(くれはたとり:機織り女)の西素(さいそ)の二人も派遣されました。
    また 、秦造(はたのみやつこ)の祖、漢直(あやのあたい)の祖、杜氏(とうじ:酒を造る人)の仁番(にほ)またの名を須須許理(すすこり)らも渡来しました。
    そして、須須許理(すすこり)が大御酒(おおみき:天皇、神に差し出される御酒)を醸(かも:酒を造ること)して天皇に献上すると、
    天皇は大御酒にうらげて(気分を良くするなどの意味)、御歌を詠みました。

    「須々許理が 醸(か)みし御酒に われ酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に われ酔ひにけり 」
  • 佐牙神社の古文書には、それに対応する記事として
    酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、
    唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されているそうです。

    佐牙神社は、木津川近くの山本村にあり、水を守る酒殿の神を祀る場所で、
    興戸の酒屋神社は、酒を製造する場所と分担していたようです。
    又、佐牙神社は毎年、造酒司(酒造りの役人)が、
    幣帛(へいはく:神への金品などのお供え)を捧る神社だったそうです。
  • 京田辺市の山本区周辺には、『竹取物語』にちなむ地名として前記の「山本」の他「山崎」「筒城」「筒城宮」「多々羅」「甘南備山」「月読神社」が存在し、神仙思想が溢れていて天女伝説を兼ね備えた地域である。

    京都に平安京が遷都するはるか以前、京田辺市内には、かつて筒城宮といわれる都があった。この筒城宮は、河内の国「楠葉」で即位した継体天皇が五年後(五一一)に多々羅の「都谷」に遷都された所である。

    京田辺市近くの甘南備山も「かぐや姫」の名付け親としての伝承地であると考えられる。
     物語の中でこの子、いとおほきになりぬれば、名を、みむろどいむべのあきたをよびてつけさす。なよ竹のかぐやひめとつけつ。とある。

    現代語訳では、
    かぐや姫が大きくなったので三室戸の神に仕える秋田という人を呼んで名を「なよ竹のかぐや姫」とつけた、とある。

    「竹取の翁」の名は、「さかき」で「さか」は酒

     『竹取物語』の最初は、
    いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。野山にまじりて、たけをとりつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さかきのみやつことなむいひける。そのたけのなかに、もとひかるたけなむ一すぢありける。あやしがりて、よりてみるに、今は昔のことになるが、竹取の翁というものがいたものだ。野や山に分け入って、竹を取っては、色々な事に使ったものだ。名前をば、さかきの造みやつことなむいったものだ。その竹の中に根元の光る竹が、一本あったものだ。不思議に思って、近寄ってみると、となる。

    「さか」 は、延喜式内佐牙神社や延喜式内酒屋神社それに延喜式内咋岡神社、山崎神社などに関係した古代酒造りの「さか」 (酒)に関係があって、このように名前をつけたのではないだろうか

    これについては、延喜式内佐牙神社の変遷を知ることの出来る文治元年(一一八五)の古文書『延喜式内佐牙神社本源紀』に

    (前略) 則朝廷酒司みきつかさノ舘舎ニ祭ル所酒殿神ニシテ御名ヲ称シテ佐牙弥豆男神 佐牙弥豆女神ノ二座ニシテ、就造酒司ノ官人等貴ヒ敬所ノ御神也、(中略)唐国ヨリ来朝スル所ノ人在リ、其の名ヲ曽保利弟ト云 曽々保利ト云弐人在リ (以下略)

    とあり、佐牙神社には、酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されている。「佐牙さが」は「サケ」「酒」である。

    また、京田辺市飯岡の延喜式内咋岡神社は、酒殿の神を祀り、興戸の延喜式内酒屋神社は、酒を製造した場所とされ、三山木の山崎神社には、延徳二年(一四九〇)の「曾保利弟 曾々保利 蹟 (以下略)」の古文書がある。

    このように山本駅一帯は、古代から酒造りの「さか」 (酒)にちなむ神社が沢山ある。
  • 間人郎女が亡くなった後、665年に、上柱国の劉徳高がくるのですが、

     日本書紀にある、次の一文 天智4年10月のところです。 

     「冬十月己亥朔己酉、大閲于菟道」 

    宇治の重要性と、伊勢神宮の内宮の前に架かる宇治橋との関連

     莵道(宇治)とは何なのか? 

    宇治にはかつて都があり、ここに都を築いたホンダワケ(応神)は二代で終わりますが、欽明時代以後、「八幡神」として信仰の対象になった。そのときの総本山は、聖武天皇のときに社殿が築かれた宇佐でした。

    宇治の許波多神社
     この付近の山が、鏡山と呼ばれ、平安期は、藤原貴族に仕える少女や巫女たちが、たくさん住んだところでした。

     天智の挽歌として、額田王が、

    「やすみしし、わが大君の畏きや、御陵(みはか)仕うる 山科の 鏡の山に 夜はよ 夜のことごと、昼はよ 昼のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百敷の大宮人は、いきわかれなむ」 と歌っています。

     ここでは、「鏡の山」が、重要です。 宇治の木幡は、「許波多」と書くのが正しく、山城の国は、昔、「許の国」と呼ばれていました。 
  • January 2017 編集されました
    宇治市には許波多神社が2つあります。昔は1つの神社だったようです。
    平安時代後期に分社されたようです

    もう一方の許波多神社は、京阪『木幡駅』の北東に位置しています。


    許波多神社

    宇治川に架かる隠元橋(いんげんばし)の東に位置する神社で五ヶ庄(ごかしょう)と呼ばれるエリアに建っています
    ※ちなみに隠元とは、インゲン豆の名前の由来にもなった明の僧『隠元』の事です。近くには、彼の建てたお寺『萬福寺』もありますよ。

    さて、創建されて間もなくこの皇祖を祀る許波多神社に戦勝祈願を行なったと言われているのが・・・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)です
    彼は『壬申の乱(じんしんのらん)』の際に許波多神社に立ち寄り祈願を行なったと言われています。
    壬申の乱は672年に起こった戦い

    提灯
    神社の名前が書かれた提灯です。

    天武天皇と柳大明神

    大海人皇子の大勝利!という事で以後、戦勝祈願の神社として有名になったそうです
    この参拝の際に、大海人皇子は馬の鞭として使っていた『柳の枝』を社殿に奉納したそうですが

    その柳が見事に芽吹き、辺り一帯に生い茂ったと言います

    この事から、この地に『柳山(やなぎやま)』という名が付けられました。
    その後、柳山に祀られる神という事から江戸時代までは『柳神社』や『柳大明神』と呼ばれていたそうです。
  • 許波多神社
    祭神 天忍穂耳尊

    由緒
     この両社はともに、『廷書式』神名帳の宇治郡十座のなかの「許波多神社三座並名神大、月次新嘗」と認定されているが、明治以前にはいずれも「柳大明神」と呼ばれていた。『山城国風土記』逸文に「宇治郡、木幡社 祇社、名天忍穂長根命」とみえ、『三代実録』貞観元年(八五九)正月二十七日条に従五位上を授けられたとある。
     木幡東中の木幡神社は天忍穂耳尊を祭神として旧奈良街道の東側に西面して鎮座する。旧郷社で、社伝は応保年間(1161~63)に五ケ庄の柳山より分祀したと伝えるが、承和十四牢(八四七)六月二十七日付の「山城国字治郡司解」(『東大寺東南院文書』)には、現社地の東南万七〇〇~八〇〇メートルの地宇治郡五条七里上提田外里 十七坪・十八坪)に「社」が所在したことがみえている。もしこの「社」が当社の前身であるとすれは、すでに平安時代初期には木幡東部の丘陵端に鎮座していたことになる。『御堂関自記』長保六年(一〇〇四)二月十九日条の、藤原道長が木幡三昧堂(浄妙寺)の寺地を求めてこの地に釆た折の記事に「到山辺、従鳥居北方河出」とあるが、この鳥居は前述の「社」の鳥居であったと思われる。

    境内由緒書きから
     皇極天皇はお夢の中で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」との大神の御告げに恐懼され藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し大化元年9月16日(645)奉遷し式内木幡(許波多神社)と尊称さる。
     天智10年10月大海人王子(後に天武天皇)は天智天皇と意見の相違が生じて大津の宮より吉野に向かわれる途中、当神社前で龍馬が進まず、御鞭に柳枝を奉りしに親王は御自らその柳枝を瑞垣の側土中に挿しこみ神明の冥助を祈願し賜いし処、不思議や龍馬が急に進みて無事に吉野に到着さる。
     大海人王子は「壬申の乱」に御戦勝後、白鳳2年1月飛鳥浄見原宮で即位し給う。兵草の患なく天下よく治まると共に彼の柳枝も大きく繁茂す、是偏に神明の御加護と叡感あり、神柳に正一位官幣を寄進さる。
     よって柳大明神と奉称する。以後代々の天皇より勅使参内、奉幣、官幣の寄進等度々ありその間社殿の造営、修理等数度に渉りなされている。
  • 宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂

    宇治若郎子の宮所の歌一首
    1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ
    いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ

    愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。

    宇治若郎子は仁徳天皇の弟。応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。
    有名な自殺した皇太子の話でしたね。

    これは、挽歌の冒頭です。
    仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。

    宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。皇太子でありながら、即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である。
  • 伊奈波神社

    御祭神
    祭神主神
    五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと) 垂仁天皇の第一皇子

    配祭神
    淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと) 主神の妃君
    日葉酢媛命(ひばすひめのみこと) 主神の母君
    彦多都彦命(ひこたつひこのみこと) 主神の外祖父
    物部十千根命(もののべのとちねのみこと) 主神の功臣

    お祀りされている神様は、「五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)」と申し上げ、第十一代垂仁天皇の長男で、第十二代景行天皇の兄にあたり、古事記、日本書紀にもそのご事蹟が記載され、父垂仁天皇から弓矢を賜り武事をおさめ、また、勅命によって河内、大和、摂津、美濃など諸国に開拓された池溝の数は、実に800に及び、このため諸国の産業は勃興し、農事は豊かになって天下は泰平であったと記している。更に茅渟の川上宮にて劔1千口を作り、これを石上神宮に納めて有事に備えられた。今でいえば内政、土木、軍事などあらゆる面で活躍されたといえる。
    薨去の翌年(景行天皇14年)命のご偉徳を偲び稲葉山(金華山)の地(丸山)に鎮斎申しあげたのが始まりで、それ以来1900年余りの長きに亘り、「心のふるさと」として親しまれている。天文8年(1539)斎藤道三が稲葉山城を居城とするにあたり、現在の地に遷し奉った。昭和14年11月1日国幣小社に列せられる。
  • 『勘注系図』は古本系云うとして次のような伝承を記す。
    一に云う。倭宿禰、またの名大熊野命、またの名大振熊、またの名川上眞若命、またの名倭得玉彦命(やまとえたまのみこと)、五十瓊敷入彦の御子、大足彦 (おおたらしひこ)天皇(十二代景行)の御宇、茅淳菟砥川上宮に坐して、宝剣を作るを令す。是を石上神宮に献じ、以って奉仕いたす。川上部の祖なり伝伝。
    ここで登場する、川上眞若命は川上麻須で、久美浜湾の傍にそびえる甲山に熊野神社を祭った人物である。したがって大熊野、大振熊とも呼ばれたのであろう。その川上眞若(稚)が宝剣を作ったという伝承である。

     『記紀』と『勘注系図』の記述は若干異なる。前者が垂仁の時代で、後者は景行の時代とする。
    若干の違いはあるが、後に川上部と呼ばれる者たちが、垂仁の皇子、五十瓊敷命の命を受けて剣を作ったという伝承は一致する
  • また岐阜市の岐阜城のすぐ下にある伊奈波神社の祭神は、景行天皇の兄-五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)です。岐阜市や可児市は、金属製造と関わりが深いと思われますが、こういった場所を当時の大王である景行天皇一族が征服していったか?
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