少彦名神、スクナヒコナ

December 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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少彦名神は鵝の毛皮(鷦鷯〔さざき〕の羽ともいう)を服として登場し、鳥取部の祖とされるなど、鳥類についても関係が…

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コメント

  • 少彦名命の父である天津彦根命(天若日子と同神)の妻は、三輪族の頂点に在った阿遅須伎高日子根神の妹(高姫、下照姫)であり、彼自身にも倭家の血が流れていたこと、

    出雲国造家が伝えた祝詞にある「飛鳥」の聖地に天香久山神社が建てられ少彦名命が祀られていること、
  • 出雲国風土記』には、少彦名神は青幡佐草日子命(あおはたさくさひこ)など別の名前でも登場している。その父神は天稚彦(天津彦根命)、母は海神豊玉彦命の妹の豊玉姫という系譜をもっている。

     鳥取県八頭郡船岡町にこうした結論と符合する式内社がある。鳥取市の南方、船岡町中央部の大江川右岸の塩上に鎮座する塩野上神社がそれであり、岩積の上の本殿には日子火々出見命と塩椎神(塩上老翁命)の二座が祀られている。日子火々出見命は一般に神武天皇の祖父とされる皇祖神であるが、各地の祭祀例からいえば、天若日子(天稚彦)という本来の祭神が転訛した例が多い。この塩野上神社(塩ノ上大明神)でも同様とみられ、塩椎神は天若日子の子の少彦名神にあたることが多いから、塩関係の父子神を祀ったのが、この式内社ということになる。この地の古伝に、昔、塩ノ上の神は「ちまき」を食べる時に笹の葉で目を突き、片目が不自由になった、といわれる。「片目の神」とは鍛冶神の象徴であって、多くは天目一箇命を示唆し、この神も塩椎神に通じるのである。

  • 熊本市で少彦名神を祀る神社
    琴平通りの琴平宮(金比羅神社)には少彦名神が平祀されている。
    http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.42.27.27N32.46.57.867&l=11

    偶然熊本市の東の外れの沼山津に少彦名神を祭祀する竹内神社
    http://www.its-mo.com/y.htm?m=E130.47.12.224N32.46.28.383&l=11

    熊本市にはまだたくさんの少彦名神を祭祀する神社があったはずであるが
    そのほとんどが天満宮 あるいは淡島明神となっている。
    記録にはなくとも「味噌天神」 「天社宮」 「横手天満宮(下馬神社)」には
    少彦名神が祭祀されている。

    今は残念ながら由緒が失われてしまったが、道君首名公が少彦名神を祭祀した事に由来する神社が熊本には多数あったはずである
  • 奈良の古社に奈良町天神社がある。
    http://www.its-mo.com/y.htm?m=E135.50.22.906N34.40.30.561&l=10
    この神社の天神社略縁起には以下のように書かれている。
    「当神社の境内地を含むこの丘陵一帯は、平城京が我が国の首都であった8世紀、
    平城の飛鳥(ならのあすか)と呼ばれた聖地でありました。
    ここにまず祀られたのが、k国つ神の中心の一柱である少彦名命(すくなひこなのみこと)で、
    手間天神とよばれ医薬や学問の神として崇められました。」
  • 安土町 沙沙貴神社
    http://www.its-mo.com/y.htm?m=E136.8.14.72N35.8.0.747&l=10
    古代の豪族、狭狭城山君の氏神
    近江源氏につながり
    源 頼朝書「佐佐木大明神」の額がある。

    主祭神は少彦名神
    神話の時代に少彦名神が
    ササゲの豆の鞘(さや)に乗って海を渡って来た伝説から
    「ササキ神社」が始まったと伝えられている。

    副祭神
    古代の沙沙貴山君(ささきやまきみ)の
    祖神「大毘古神」(おおひこ)
    仁徳天皇 「大鷦鷯尊」(おおささきのすめらみこと)

    先代舊事紀大成経の鷦鷯本が秘蔵されていた神社だ。
    ちなみに
    鷦鷯=みそさざい 鳥のことである
  • 『布勢神社』香川県さぬき市
    創祀年代や由緒に関しては不詳。祭神の大彦命は四道将軍の一人。越中(富山)にも同じ祭神を祀る同名社が存在するが、大彦命は孝元天皇の皇子で、阿部朝臣・布勢朝臣の祖であるところから、大彦命を祀ると思われる布勢が多いようだ。

    『日本書紀』景行天皇3年条に「阿部氏木事(コゴト)の娘の高田媛は、伊予国御村別(イヨノクニミムラワケ)の先祖の武国凝別皇子を生んだ」とあり、伊予国(愛媛県)に姻戚関係をもったことで、安倍氏の開拓者が讃岐国まで進出したのかもしれない。
  • 整理すれば

    天津彦根命(天若日子と同神)と下照姫(アジスキタカヒコネの妹)--少彦名

    出雲風土記では
    天津彦根命(天若日子と同神)と豊玉姫(豊玉彦の妹)--少彦名

    2説あるが、、、、、
  • 富家の伝承(出雲と大和のあけぼの 大元出版)では、スサノオは、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。
  • 古事記は大国主が「出雲の御大の御前」に居た時日本海の波の彼方から現れた神産巣日神の子・少名毘古那神と「兄弟」となって国を作り固めたという段の前に、わざわざ『大国主の神裔』という一文を差し挟み研究家たちが「名義不詳」とする八島牟遅能神の子孫名を淡々と書き連ねています。

    出雲国造は『神賀詞』の中で、自分たちの遠祖である穂日命は、国譲りに際して、

    おのれ命の兒、天の夷鳥の命に布都怒志命をそえて、天降し遣わして、荒ぶる神どもを撥い平げ、国作らしし大神(大穴持命)をも媚び鎮めた

    と明言しています。
    この「賀詞(よごと)」は、国造が出雲の地で私に唯読み上げるものではなく、壱年の潔斎を経て朝廷つまり大王・天皇の臨席する場に出向き「公の行事」の一環として行われる性質のものですから、その文言の中に事実とは異なる部分(朝廷にとって不都合な部分)があれば、即座に「変更」されて然るべきものなのです。
  • 一方、記紀は

    天菩比神(天穂日命)を遣わしつれば、乃ち大国主神に媚びつきて、三年に至るまで復奉さざりき。 (中略)

    ここに天若日子、その国に降り到る即ち、大国主神の女、下照比売を娶し、また其の国を獲んと慮りて、八年に至るまで復奏さざりき。
  • 少彦名神の別名を天日鷲翔矢命と言います。
    日本書紀が神代下第九段(天孫降臨)一書第二の中で、

    即ち紀国の忌部の遠祖、手置帆負神をもって、定めて作笠者とす。彦狭知神を作盾者とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木綿者とす。

    徳島県吉野川市にある種穂忌部神社には興味深い伝承が残されています。
    『天日鷲命の本名は天日鷲翔矢命といい弓矢の名手で、占いの矢を高天原から放ったら種穂山に突き刺さった』
    のだそうです。古事記も日本書紀本文も、この神様については珍しく口裏を合わせたように一言も伝えていません。
  • 天香山

      春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山

    この歌は藤原京を造営して都に定めた第四十一代持統帝(645~703)の御製なのですが、一般的には香久山に「白い衣」が干してある夏の風物詩を詠んだものだと解釈されているようです。

    今、藤原京跡と見られている場所から香久山までは、ほぼ1㎞の距離があり、宮殿の奥まった一室から南東の位置にある標高わずか154mの「山裾」に「干してある衣」を見分けるられないなら、どこから、、、
  • 金が産出

    「日本書紀」は

    時に高皇産霊の息、思兼神という者有り。思慮の智有り。すなわち思いて白して曰さく。
    「彼の神の象を図し造りて、招禱き奉らん」ともうす。
    故、すなわち石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。また、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。

    古事記が「天の金山」つまり「天にある鉱山」で取れる「鐡(まがね)」と抽象的な表現に留めているのに対し、書紀は「天香山の金」と明確に書き留めています。

    また「古語拾遺」という資料でも思兼神が議った通り「天香久山の銅」で「石凝姥神に令して、日像の鏡を鋳」らしめたとあります。
    記紀が編まれる八世紀初め頃には香久山が「鉱山」だったという伝承があった。

    その香久山は神武帝の「東征」でも重要な役割を果たします。日下(くさか、河内国草香邑)での敗北撤退の跡、帝の一行は大きく紀の国まで迂回し、困難な山越えの行軍を重ねて大和入りを目指しますが苦戦を余儀なくされます。この時「自ら祈いて眠りについた」神武の夢枕に立った天神(あまつかみ)が次の託宣を下します。

    天香山の社の中の土を取りて、天平瓮八十枚を造り、併せて厳瓮を造りて、天神地祇を敬い祭れ       
    「日本書紀」神武、即位前紀
  • 天香久山神社
    正式な名称は「天香山坐櫛真智命神社」といい祭神は櫛真神であるとされています(「延喜式」神名帳によれば京中坐神三座の一柱として久慈真智神、クシマチノミコト[大和国十市郡に天香久山坐櫛真命神あり、の註]が上げられている)。

    クシは酒の神か

    「クシ」という言葉の音からは直ぐに「久斯神」が思い起こされます。
    角鹿から戻った品陀和気命(応神帝)を迎えて喜んだ母親の息長帯日売命(神功皇后)は歌を詠んで歓待します。

      この御酒は 我が御酒ならず 酒(くし)の司 常世に坐す 石たたす 少名御神の 神壽き 壽き狂ほし 豊壽き 壽き廻し 献り来し御酒ぞ 乾さず食せ ささ

    それとも、クシマチ=ウマシマチ か
  • 鴨氏系図

    神皇産霊神--天神玉命--天櫛玉命--鴨建角耳命(八咫烏。陶津耳命、少彦名命の別名ともされる)

  • 帝室に深い所縁のある場所にも関わらず、皇祖アマテラスではなく少彦名命が祀られている(忍坂坐生根神社、天香久山神社など)
    少彦名命をオオクニヌシは知らなかったが、神皇産霊神の子供だと古事記は記し、神統譜において特異な存在であり常世思兼神との同質性が見られる。
  • 忍坂坐生根神社 奈良県桜井市忍坂
    祭神--少彦名命・天津彦根命
                                                                    延喜式神名帳に、『大和国城上郡 忍坂坐生根神社 大 月次新嘗』とある式内社。
    社名は一般に“オシサカニイマスイクネ”と読むが、地元では“オッサカ”と呼んでいる。

    由緒 境内に掲げる案内に
    「当社は、天平2年(730)の『大倭国正税帳』に、また延長5年(927)撰『延喜式内社』にも名前がみえる古社で、本殿を持たず宮山をご神体とし、拝殿の北側に神が鎮座する『石神』と称する自然石十数個を並べた『岩蔵』があります。ここ忍坂の地は、隅田八幡宮所蔵の国宝・人物画像鏡に刻まれた意柴沙加宮(オシサカノミヤ)の地ともされ、第二十六代継体天皇が磐余玉穂宮に即位される以前におられた処とされています。また忍坂大中姫命や衣通姫(ソトオリヒメ)が居られたとも伝わり、大和志料には額田部氏(ヌカタベ)の祖・天津彦根命を祀るとも記され、平安時代の医書・大同類聚方に、当社相伝の“以久禍薬”(イクネノクスリ・額田部連上奏)のあるとも伝えています。・・・
    また額田部氏が居住したとするこの地は、額田王と鏡女王姉妹との繋がりや、息長足日広額天皇(オキナガタラシヒ ヒロヌカ・第二十三代舒明天皇)の陵墓があることから、息長氏の大和での拠点の一つであったとされています」
    とあるが、その創建由緒・年代等には触れていない。

    当社の創建時期は不明だが、
     ・大倭国正税帳(730・奈良中期・正倉院文書)に「生根神戸穀九斛五斗五升耗一斗九升 斛別二升 云々」とあり、8世記初頭にあったのは確かといえる。
    その後の史料として
    ・新抄格勅符抄所収の大同元年牒(806、奈良時代以降の社寺に与えられた封戸・神戸の記録)に
       「忍坂神三戸 伊勢一戸但馬二戸」
    とあり、この忍坂神が当社のことという。
  • 忍坂坐生根神社

    少彦名命とするのは、案内にもいう大同類聚方(808・平安初期、当時各地に伝承されていた薬をまとめたもの)に
      「西乃久保薬  大和国城上伊久祢子の神社(生根神社)に所伝にて、額田部連等の家方(伝承薬)也」
    とあり、当社に西の久保薬という薬が伝承されていたこと、また同じく
      「江田見薬  大和国城上郡生根の里民の家の方也」
    とあって、当地付近に民間伝承の江田見薬があったことなどから、医薬の神とされる少彦名命を充てたものと思われ、これが当社本来の祭神だったという確証はないという
  • 三輪の大神神社

    磐座神社(いわくらじんじゃ)
    社殿がなく、神の鎮まる頑固な岩(磐座)をご神座として少彦名神(すくなひこなのかみ)をまつる。少彦名神「神農さん」とも呼ばれる薬の神様。

    狭井神社(さいじんじゃ)
    狭井神社(さいじんじゃ)
    垂仁天皇の御代に創建されたと伝わり、ご祭神の荒魂(あらみたま)を祀る延喜式内社。力強いご神威から病気平癒・身体健康の神様として信仰が篤い。4月18日の鎮花祭(はなしずめのまつり)は、大宝律令(701)に国家の祭祀として大神神社とこの神社で行うことが規定された疫病除けの祭で、多くの医薬業者が参列する「薬まつり」として有名。
  • 三輪の大神神社
    主神、大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
    大物主神は蛇神であると考えられ水神または雷神としての性格を合わせ持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。

    大物主神にまつわる伝承は多いが、その中には、当社の付近にある箸墓古墳と関連するものもある

    配神
    大己貴神 (おおなむちのかみ)
    少彦名神 (すくなひこなのかみ)
  • 大和神社

    垂仁紀25年条には、アマテラス大神の伊勢遷座ののち、ヤマトオオクニタマ神が祭祀に不満を述べたので、改めて長尾市宿禰に命じて、穴磯邑を神地とし、大市の長岡崎(岬)に祀らせた、とある(大意)。

    市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされ、新撰姓氏禄には、「大和国神別(地祇) 大和宿禰  神知津彦命より出ず(神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」

    「摂津国神別(地祇) 大和連  神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」
  • 播磨風土記から、大国主は多紀理毘売を伴い、この播磨の地で子をもうけたという伝承である。古事記は、大国主は胸形の奥津宮の神、多紀理毘売と阿治志貴高日子根神 (迦毛大御神)、高比売、下照比売をもうけたと伝え、播磨国風土記は、宗形大神奥津島比売命と伊和大神が播磨の託賀郡(賀毛郡の北)で子をもうけた、としている。

    少彦名命の父である天津彦根命(天若日子と同神)の妻は、三輪族の頂点に在った阿遅須伎高日子根神の妹(高姫、下照姫)であり、彼自身にも倭家の血が流れていたこと、

    出雲国造家が伝えた祝詞にある「飛鳥」の聖地に天香久山神社が建てられ少彦名命が祀られていること、

    大国主命の神裔だとされる鳥鳴海命および国忍富命の神名が、少彦名命の兄・天目一箇命の子孫である三上祝家の系譜の中に取り込まれたか
  • December 2016 編集されました
    白鳥伝承
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/tori2dai/kosihakutyo.htm
    越中の地に関係する白鳥伝承は記紀に二つあげられる。その一つが垂仁朝のこととして記紀にみえるホムチワケ王(品遅別王、本牟智和気王)の鵠(白鳥)の伝承であり、もう一つが仲哀朝のこととして『古事記』にみえる白鳥献上伝承である。
      垂仁天皇の皇子で、成人しても物をいわなかったホムチワケ皇子が、空高く飛ぶ白鳥をみて片言を発したので、天皇は鳥取部造の祖に命じてこれを追跡させたが、鵠を追って諸国を廻り、東国では近江→美濃→尾張→信濃を経て高志の国に到って和那美の水門でようやく捕えたという。
      次に、日本武尊は東国遠征の帰途に薨じ、その御魂は白鳥となって飛び去ったとされ、その遺児仲哀天皇はまぼろしの父君を慕い、諸国に命じて武尊ゆかりの白鳥を貢させたところ、これに応じて越国から白鳥四隻(つがい)が献上されたという。

    現在でも「鳥取」の地名が残る全国の市町が六つあり、平成5年10月に鳥取県鳥取市に集まって鳥取サミットが開かれ、富山県大島町も大阪府八尾市、同阪南市、京都府竹野郡弥栄町、北海道釧路市の関係者とともに参加している。

    ホムチワケ伝承に関しては、その追跡者の到った地に鳥取部(鳥養部)や品遅部(誉津部・品治部)という部民を置いたと記される。越中には、古代の有力氏族として品治部氏※の存在が史料に見え、『和名抄』には越中国新川郡に鳥取郷が掲げられ、捕鳥関係の職業部・鳥取部の設置が十分考えられる。この鳥取郷は越全域でみて唯一のものであり、現在その比定地は不明であるが、白鳥神社の鎮座する黒部市北西部の荒俣辺りではないかという説もある。

    越中西部の射水郡では大島町東部に前掲の烏取の地があり、その三、四キロ北方の新湊市域には久々湊・久々江という鵠(くぐい)関連の地名もみえ、鳥取・鳥養という苗字もある。

    現在は「白鳥」という漢名が一般的だが、「くぐい(鵠)」の古称をもち、「日本書紀」垂仁天皇の条などに記載がある。ヤマトタケルは、死後に白鳥になったという伝承があり、日本では古くから親しまれている鳥である。

  • 富山市北西部の八幡にある八幡宮の神官嵯峨氏の所伝等を考え合わせれば、その意味するものが明確化してくる。

    その所伝によると、京都にいた嵯峨・内山氏の先祖が神の告げによって神鏡を奉じ、空ゆく白鷹のあとを追って、京から近江・美濃・飛騨を越え、ついに越中に至って白鷹のとどまった森に社殿を営み、神鏡を安置したのが起源という。
    嵯峨氏と同族の内山氏は、もと婦負郡布目村(いま富山市で、八幡の西隣)の郷士で、藩政時代は同郡宮尾村(いま富山市で、八幡南方約1キロ)の十村役(大庄屋)の豪農として著名であり、文化財の内山邸を残している。その家伝によると、垂仁天皇より白鳥の献上を求められ、また、白鷹のとどまるところに我を鎮座せしめよとの神託をうけ、神体を背負って諸国を巡り、越中国婦負の森に至って八幡宮を建立したとされる。
      これら横越・嵯峨・内山三氏に伝わる起源伝承は、多少ともニュアンスが異なるものの、本来みな同一の根源から出たもので、前掲のホムチワケ伝承にみえる鳥取部の先祖の行動に由来するものと考えられる。

    すなわち、鳥取部の先祖は、勅命をうけ、その祖神の少彦名神の化体した神鏡を背負い白鷹を使って白鳥を捕えるため諸国を廻り、越中国婦負郡で目的を達して安住したということである。

    射水郡東北部の三島野を含む一帯
    大島町北部の鳥取・高木から新湊市南部の高木・布目・鏡宮さらには久々湊にかけての地域である。鳥取及び布目・久々湊については前掲したが、鏡宮の地名は鏡宮少彦名社(かっては薬師社ともいう)に由来するという。高木は能登国能登郡の式内社鳥屋比古神社の社家高木氏に通じ、大和や伯耆の「鳥屋」は少彦名神との関係がうかがわれる。同社の鎮座地羽坂村(いま鹿島郡鳥屋町春木)には手之間神社(棚森大明神)もあって、少彦名神を祀ったのではないか、と森田柿園の『能登志徴』はみている。少彦名神の素性について高木神に問うたところ、自分の子で、小さくて指の間から漏れ落ちたのがそれであるとの答えがあったという伝承も記紀には見える
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