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出雲神族である。出雲建子とも言う。 伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える神武朝の神であり、同書によると、…
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建御名方神も伊勢津彦も、絹の売買をしていた
長野市風間字宮河原781「風間神社」に祀られている
英賀神社
兵庫県の宝と言える『播磨国風土記』餝磨郡・英賀の里(しかま あが)の条に「伊和大神のみ子の阿賀比古・阿賀比売の二はしらの神がその処に鎮座しておいでになる。」と記されているのがこの神々である。
姫路市飾磨区英賀町2−70
山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命、伊勢都比売命である。 『伊勢国風土記』に「伊勢と云うは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。」 と出てくる神
都美恵神社御由緒
当神社の起源は古く、西紀2、3世紀以前と推定されるが、元は霊山中腹の穴師谷に祀られ、「穴石大明神」として崇められていた。しかし、寛永21年(1644)の大洪水によって社地社殿悉く欠潰し、正保3年(1646)現在の地に遷され今日に至っている。明治42年には、合祀によって一村一社の実を挙げ柘植郷の総鎮守となり、大正11年7月に「穴石神社」から伊勢神宮縁りの元社号「都美恵神社」に改められた。
「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
天穂日命の後裔。天夷鳥命の子で別名を出雲建子命、櫛玉命という。
櫛玉命という名から天櫛玉命との混同もあるようだ。
『伊勢国風土記』によると伊勢津彦神は伊勢の国神。
伊賀の安志に坐していたが、 神武天皇東遷の時、天日別命の討伐を受け、風波に乗って信濃に赴いたという。 神武天皇はこの国神の名を取って伊勢の国名とした。
また「伊勢と云うは、伊賀の穴志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建の子の命、 又の名は伊勢都彦の神、又の名櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、 其の地に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来り奪えど勝たずして還り却りき。因りて名を為しき」とある。
「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
とある。
式内社 伊賀國阿拝郡 穴石神社
当社の神は、伊勢津彦命であり穴師の神、つまり風神ということ、
出雲系の神であることなどから、諏訪神に近い存在かもしれない。
また、ここで争い追い返した、阿倍志彦の神は、敢国の神のことか。
武蔵国は、現在の東京都・埼玉県のほぼ全域と、神奈川県の川崎市と横浜市を合わせた領域にあたります。万葉集に「牟射志野(むざしの)」(十四・三三七九)と見えます。
上の出雲国造の項にも出てきましたが、記以外にも、紀の本文・一書で、出雲国造と共通の祖神(天穂日命)を持つとされています。先代旧事本紀に、
无邪志国造 志賀高穴穂朝の御世(成務朝)に、出雲臣の祖名は、・・・二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比(えたもひ)命を国造に定め賜ふ。(巻十・国造本紀)
とあり、その名は高橋氏文逸文にも「無邪志国造上祖大多毛比」と出てきます。
なお、安閑紀元年の条の、
武蔵国造の笠原直(あたへ)使主(おみ)が同族小杵(をき)と争っていたが、朝廷は使主を国造にし、小杵を誅した。すると使主はかしこまり喜んで、横渟・橘花・多氷・倉樔の四か所を屯倉として朝廷に奉った。
は、大化の改新以前の典型的な国造の実態を表すものとして注目されます。笠原直については倭名抄の武蔵国埼玉郡笠原郷に関わると考えられます。また、
武蔵国足立郡の不破麿なる人物が武蔵宿禰の姓を賜い、さらに武蔵国造に任ぜられた。(続日本紀・巻二十八・神護景雲元年(767))
延暦十四年(795)に、武蔵国足立郡大領の武蔵宿禰弟総を武蔵国造とした。(類聚国史)
などの記事に見られる国造は、大化の改新以前のものとは異なり、律令制が浸透した結果、かつての国造たちが土地の支配権を失い、主に祭祀に関わるようになった時代のものです(従来の国造と区別するために、律令国造などと呼ばれるようです)。記注釈は、武蔵国の一の宮(一国で最も社格の高い神社)である氷川神社との関わりを推定しています。
祭神は豊斟渟 (トヨクムヌ) 尊ほか。孝徳天皇の大化元年 (六四五) に至り、相模国の国司・布勢朝臣色布知によって社殿の改修が行われ、一対の木彫の狛犬が奉納された。更にこの年、現在相殿に祀られている大酒解神・小酒解神の二神が合祀されるに伴い、うずら瓶(ミカ)と称される須恵器が奉納されたという
相模国司に布勢朝臣色布知がいたことが上記からわかるが、武蔵国司についても、
703年(大宝3) 従五位下武歳権守 引田朝臣祖父
731年(天平3) 従五位上武蔵守 布勢朝臣国足
772年(宝亀3) 従五位下武蔵介 安倍朝臣浄目
808年(大同3) 正五位下右近衛少将内蔵頭武蔵守 安倍朝臣鷹野
862年(貞観4) 従五位下武蔵介 安倍朝臣比高
878年(元慶2) 従五位下武蔵介 布勢朝臣冬雄
このように安倍氏族の名があり、関東にも勢力を拡大していたことがわかる。
無邪志国造・武蔵国造
志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に出雲臣)の先祖の名は二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうかもろおのかむさのみこと)の十世の孫の兄多毛比命を国造に定められた。
建比良鳥命。出雲国造・遠淡国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。
成務朝に二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫の兄多毛比命が无邪志国造に任じられたという。
氏族
丈部氏、のち武蔵氏。姓は直だが、のち宿禰。一族として笠原氏・物部氏・大伴氏・檜隈舎人氏などがある。
後裔
笠原使主・・・・安閑朝の武蔵国造。笠原小杵と相続争いを起こした。
物部兄麻呂・・・・推古朝の舎人。武蔵国造。
丈部不破麻呂・・・・奈良時代の官人。藤原仲麻呂の乱の功績で武蔵宿禰を賜り、武蔵国造に任じられた
胸刺 国
岐閇国造祖 兄多毛比命児 伊狭知直(いさちのあたい)
岐閇国造(ぎへのくにのみやつこ)の先祖の兄多毛比命の子の伊狭知値を国造に定められた。
上総国中部を支配した国造。上菟上国造とも。
祖先
古事記』によると建比良鳥命。別名は武夷鳥命・天夷鳥命・天日照命など。天穂日命の子。『国造本紀』その7世孫忍立化多比が成務朝に上海上国造になり、その孫久都伎直が応神朝に下海上国造になったという
伊甚国造(いじむのくにのみやつこ・いじむこくぞう・いじみこくぞう)
上総国東部を支配した国造。伊自牟国造とも。
祖先
建比良鳥命。成務朝に阿波国造の祖伊許保止命の孫の伊己侶止命が伊甚国造に任じられたという。
氏族
春部(春日部)氏か。出雲国造・遠淡海国造・上菟上国造・下菟上国造・无邪志国造・阿波国造などと同系。
後裔
伊甚稚子・・・・古墳時代の豪族。安閑朝の伊甚国造。
過失のため伊甚屯倉を春日山田皇女皇后に献上したという。
武社国造(むさのくにのみやつこ・むさこくぞう)
上総国北東部を支配した国造。牟邪国造とも。
上総国北東部 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に和邇臣の先祖の彦意祁都命(ひこおきつのみこと)の孫の彦忍人命を国造に定められた。
祖先
日子国意祁都命。天足彦国押人命の子。姥津媛の兄。
成務朝に孫の彦忍人命が武社国造になったという。
氏族
牟邪氏・・・・姓は直?。和珥氏・小野氏・丈部氏などと同系。
渡来系の身狭(牟佐)氏(姓は村主)とは別系とされる。
大鹿国直 市原市北部から千葉市南部 志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に无邪志国造の先祖の兄多毛比命の子の大鹿国直(おおかくにのあたい)を国造に定められた。
安房国南部を支配した国造。安房国造とも。
千葉県南部。 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に天穂日命の八世の孫の彌都○(人偏呂)岐命(みつろぎのみこと)の孫の大伴直大瀧を国造に定められた。
祖先
建比良鳥命・・・・成務朝に子孫の伊許保止命が阿波国造に任じられたという。
天太玉命・・・・神武天皇東征の際、この孫の天富命が阿波国から移り住み、安房郡と名づけたという。
氏族
大伴氏・・・・姓は直。
忌部氏・・・・姓は首。後に宿禰。
の末裔が祀っていた猿田彦を祀っています。河曲郡が元々は伊勢津彦の裔の拠点であった事がこの
ことからも証されます。
また、伊勢国河曲郡には、式内社の阿自賀(あじが)神社が存在しています。
出雲の勝部氏が祀っていた、佐太御子の母である、佐太神こと足日山に坐す秋鹿神(あしか)が
この伊勢国河曲郡に祀られていると考えられます。
天和四年の佐太神社の神主(大伴氏末胤勝部氏朝山姓勝秀による)の資料である、
「佐田大社之記」によると
1. 「神名火山下の足日山。案ずるに、秋鹿、是アシカ。足日、是アシカ。共に訓みが通るのはなぜか。
昔当社(佐太神社)を以って、秋鹿日女と号す。略」
2. 「伊並尊(伊弉冉)此の国崩御し、ついに垂日山(足日山に葬られる。略」
3. 「神代啓蒙曰く、佐田社、伊並尊(伊弉冉)云々。略」
まとめると、古くから佐太神社で祀られていた神は、伊弉冉尊(イザナミ尊)であり、昔は、
「秋鹿日女」と呼ばれていた。
また、足日山に秋鹿日女こと伊弉冉尊は葬られており、「足日」も「秋鹿」もアシカと呼んでいた。
(足日山は現在、経塚山と呼ばれていて、秋鹿神社の鎮座地の北に位置しています。)
この伝承は、佐太神社の神主を古くから務めた勝部氏の言い伝えであり、信憑性があると考えられます。
出典
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16694393.html
出雲国風土記の秋鹿郡条には、秋鹿の由来について以下のように書かれています。
秋鹿と名づけるわけは、郡家の真北に秋鹿日女命が鎮座している。ゆえに秋鹿という。
現在、島根県松江市秋鹿2853に、この風土記の秋鹿神社と考えられる神社が鎮座しています。
往古は武御名方命一柱を祀り、武御方社とか、
諏訪明神と称していた。中世鶴が岡より、若宮八幡宮を勧請し、相殿に祀る。以後、鎌倉大明神と社号を
改めた。出雲国風土記に見える大領勝部臣がこの地にあって、社を建てて自ら祀ったといわれ、その裔が
現在の社家で勝部氏と伝えられている。社の近くに「勝部」「殿様塚」と称する墓所があり、祭り以外立入る
ことを禁じられている。これは勝部虫麿の奥都城として祀られている。社殿の後方三百メートルの所に、
生山山があり、奇岩突出した山で、これを奥宮ともいい、鎌倉神社を里宮とも称している。
建御名方神(諏訪大社上社祝家の系譜 建御名方神~会知速男命-真曽我男命-武国彦命-弟武彦)を祀った神社でした。
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16677656.html
「伊勢野と名づくる所以は、この野の人住める家ごとに、静安(やすらか)
なることを得ざりき。ここに絹縫猪手、漢人刀良らが祖、この処に居
らんとして、社を山本に立てて、山の峯にます神、伊和大神の子、
-伊勢都比古命‧伊勢都比賣命を敬い祭りき。これより後、家家静安に
して、遂に里を成すを得たり。すなわち伊勢野と号づく。」
要するに、大穴持神(大国主神)の子伊勢都比古命‧伊勢都比賣命をこの伊勢野の地で
敬祭ったということである。
祀られているが、出雲国風土記の社である支豆支社に櫛八玉命として祀られている。
出雲国出雲郡伊佐我神社の伊佐我の我を「わ」と発音する可能性があるが、近隣の出雲国出雲郡
伊努郷に、伊佐波(いさわ)社がある。出雲弁では、伊佐我は「いざわ」と発音するそうである。
伊勢神宮の摂社には、大水神の子神として祀られる神社が数多く、また
倭姫命世記に記される系譜には、大水神の子に櫛玉命(伊勢津彦)、その子に大歳神
その子に、朝熊水神などをあげ、出雲臣の系譜との同一性を示している。
出雲の八束水臣津野命(又、淤美豆奴神、大水主神(おみずぬ))は移住先の伊勢に
おいては大水神と呼ばれ、その子孫は伊勢を含む東国で繁栄した。
いざわ宮は、出雲健子(伊勢津彦)ゆかりの宮であろうか?
三重県無形文化財
神明社
天照皇大神
伊雑宮皇大神(伊雑登美神・玉柱屋姫命・大歳神・倭姫命)
名乗り・火祭り わらじ祭り
伊勢神宮内宮系の神様たち
天照皇大神と伊雑宮の神様で構成されています。
天照皇大神
神明社の主となる神様です。伊勢神宮内宮の神様です。
印は「太一」。北極星を表します。伊雑宮の御田では太一の文字が書かれた大うちわが倒され、天上世界が田に移ることを意味します。
倭姫命
豊玉姫と7本の鮫に導かれ、伊雑宮に至った神様です。
ヤマトタケルの姉としても知られています。
玉柱屋姫命
伊雑宮で倭姫命を出迎えた神様で、豊受社の神様です。玉は星とすると、屋は夜という意味なので、「星の柱の夜の姫」という意味になります。つまり、天の川のお姫様。比治の真名井の話に合わせれば弟棚機。豊受大神、三穂津姫命という事になります。中国の文殊菩薩の信仰に合わせれば國狭槌神の化身です。御田で天上世界から、稲に宿る神様です。穂は天照大御神にささげられ、わらが、わらじ祭りで海の向こうに帰ることになります。この神様、倭姫命を出迎える際に口伝で出る場合と出ない場合があります。
伊雑登美神・七本鮫
伊雑宮の御田の際に波切の沖を通る神様、伝説があるにもかかわらず豊玉姫の名前が他に見当たらないため、豊玉姫命の別名と見られています。その昔、船越の大滝に夫の山幸彦と一緒に住んでいたとされ、現在は立神の立石浦に居を構えています。
御田の際は、龍宮の使いとも言われていますが、実際には伊雑宮の玉柱屋姫命(三穂津姫命)と大己貴神という2柱夫婦の間を往復します。
一緒に七本の鮫が往来しますが、七本鮫は玉柱屋姫命の姉に当たります。
鮫は昔から安産の象徴で、志摩の子供はこの鮫たちの子供と言う意味で「磯部の川で拾われた子」とよく言われます。この鮫たちが通るルート(安乗~波切~船越~立神)と、磯部地内、御田の時に餅をつく習慣のある浜島町の一部でのみ言われ、他ではほとんど聞かないものです。
大歳神
伊雑宮の佐美長神社の歳神様です。
志摩地方の神棚にはお正月に松飾りをします。
この神棚に松飾りをする風習が伊雑宮の大歳の神の風習です。
奈良時代の末期から既に志摩国に祀られており、かなり古い信仰を持つ神様です。
大己貴神と一緒に出雲の国作りをした神様として知られています。
出雲の大歳神社の神様は志摩の伊雑宮から来たと伝えられており、出雲の大歳神社の神様と同じ神様と言うことになります。
わらじ祭りのダンダラボッチ(八束水臣津野神)が出雲の国の土地を作り、大己貴神と一緒に国作りをした神様です。
伊雑宮は経済的基盤を失って凋落。兵大夫毒殺事件に至るまで、150年の長きにわたる、伊雑宮崇敬者たちによる復古運動があった。
1625年 伊雑宮の神人・役人が幕府に直訴して、数10人が流罪に。
1646年 神人(御師)らが「伊勢三宮」を主張。朝廷や鳥羽藩への請願活動が続く。
1658年 「伊雑は内宮の本宮である」と、さらに主張。
1663年 将軍家綱に直訴。40人が国外追放に。
1679年 江戸の版元が『神代皇代大成経』を出版。
1681年 幕府は『大成経』を「偽書」として禁書処分に。
伊雑宮に近い磯部町下之郷に、御師(神職)中村兵大夫の墓がある。
江戸時代に「伊勢三宮」説を唱えた「神訴事件」の首謀者とされ、1682(天和2)年に、密命を帯びた何者かに毒殺されたという。
江戸の書店から、『神代皇代大成経』(潮音著)が刊行されたのは、兵大夫が憤死する3年前のこと。72巻からなるという長大な書。「伊勢三宮」説。
「倭姫命は猿田彦神の神示で、天照大神の神霊を伊雑宮に遷した。
伊雑宮は日神アマテラスを、外宮は月神ツキヨミを、内宮は星神ニニギを祀る」
聖徳太子と蘇我馬子の編纂という話題性もあってか、江戸の町では、知識人を巻き込んでの大論争が勃発。結果、幕府の裁定により「偽書」「禁書」との烙印が押された。
版元の責任者は追放、編著した永野采女と潮音は流罪に。朝廷は「伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命」と裁決したが、それでもなお、鳥羽藩による兵大夫への制裁の追手は止まなかった。
この領地を、ヤマト姫を案内し、天照大神の鎮座の土地を探す。歴史は、ニニギの死後も、繰り返されたか!!!
この神は「出雲」からやってきたと記され、また「播磨国」一の宮である。
伊和神社は、『延喜式神名帳』の伊和坐大名持御魂神社でありことから、「伊和大神」はオオナモチ・オオクニヌシと同体とみる見方が強いです。
「ナ」は「国」のことですから、オオナモチとは「大国持」とも書け、役職を意味する「大国主」と同じ意味となり、当時の国王(国造)なら、誰にでも比定できてしまいますが、ここではいわゆる「大国主命」のこととします。
その「伊和大神」の御子に「伊勢都比古」がいますが、「伊勢津彦」と同じです。「伊勢」が「石」の転訛であったならば、「伊和大神」は「岩大神」であったかもしれません。イセツヒコは「岩」の子だから、「石都比古」です。
谷川健一編「日本の神々7」白水社刊(2000年)の「伊勢命神社」(石塚尊俊著)に、正倉院文書の「隠岐国正税書」をもとに、ここは磯部氏を通じて伊勢とのつながりが強かったとし、地元とは無縁の伊勢命が祀られているからには、磯部を頂点とする海の民の働きがあったに違いないとしています。いまの伊勢神宮との関係を考えています。
「伊勢野と名づくる所以は、この野の人住める家ごとに、静安(やすらか)
なることを得ざりき。ここに絹縫猪手、漢人刀良らが祖、この処に居
らんとして、社を山本に立てて、山の峯にます神、伊和大神の子、
-伊勢都比古命‧伊勢都比賣命を敬い祭りき。これより後、家家静安に
して、遂に里を成すを得たり。すなわち伊勢野と号づく。」
要するに、大穴持神(大国主神)の子伊勢都比古命‧伊勢都比賣命をこの伊勢野の地で
敬祭ったということである。
この祭祀が現在の姫路市林田町上伊勢1133-3の多賀八幡社に受け継がれているとい
うことであろう。
伊勢都比古命‧伊勢都比賣命は、内宮と外宮の神に習合し姿を変えて、、、
上伊勢は、播磨国風土記にみえる揖保郡林田里の伊勢野に比定される。
多賀八幡神社の現地の解説を見て頂ければ分かるように、伊勢野とは上岡郷を継承する土地である
ということ、および播磨名所巡覧図会によれば、伊勢野の伊勢村に粒坐天照神社があったとのことである。
この神社の鎮座地は、出雲国出雲郡の式内社かつ出雲国風土記記載の神社伊佐賀神社の伝承と深く関わる上岡里であることが興味深い。伊佐賀神社は別名/加佐伽(かさか)社である。
伊佐賀神社境内にある伊保神社略記によると、
御祭神阿保大神(伊保大神)の鎮座年代並びに御系統は不詳であるが古史成文、古史系図には焼太刀守大穂日子命として記載されている。
由緒としては播磨風土記、万葉集に著名なる即ち播磨風土記に云う大和(奈良県)の平野に香具山、耳梨山、畝傍山の三山がそびえている。その香具山が畝傍山を愛しまた耳梨山も畝傍山に心を寄せており香具山と耳梨山が激しく争うことになった。出雲の阿保大神が之を聞かれて自分が行って諫め止めよう思い立たれ葦船に乗って播磨國揖保郡まで行かれた時、大和の使者によって闘いが止んだときかされた大神は折角やってきたのに
と乗って来た船をそこに賦せいぼふられた。その所を神阜(かみおか)といって現在もその地名(上岡)が
のっこている・・・
加佐伽(かさか)社という社名から、日下(くさか)部氏と深く関わる神社であり、出雲の日下部氏は三輪氏である事から、元々上岡郷に鎮座していた
粒坐天照神社は、出雲の日下部氏がこの地にいたということを示している。
更に興味深い事には、武蔵国造氏の系譜に、伊佐我命の弟に伊勢津彦あげて、一名櫛玉命とする。
伊佐賀社の神が、日下部の神であることを示すと同時に、伊勢の土着氏族である伊勢津彦命も
兄姉神であるということを示しており、その神が伊勢野に鎮座したということになります。
それ伊勢の国は天御中主尊の十二世の孫、天日別命の平けしところなり。
神武天皇、天日別命に勅して「天つ方に国ありその国を平けよ。」との勅を奉けて東に入ること数百里、その里の神あり。名を伊勢津彦という。
天日別命は「汝の国を天孫に献上するや」といえば、伊勢津彦も答えて言う。「吾はこの国を治めて居住こと久し、命をば聞かじ」と。
天日別命は怒り、兵を発して、伊勢津彦を戮さんとす。
伊勢津彦は伏して畏み「わが国はことごとく天孫に奉りて吾はこの国におらじ」と申した。
天日別命は重ねて問うに「汝が去るときなにをもって験となさん」と。
それに答えて「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」と申した。
天日別命、兵を整えて窺いおりしに夜中に至るころ、大風四方に起こりて波を打ち揚げ日のごとく光り耀きて陸も海もともに明らかになり遂に波に乗りて東に去りき。
古語に「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりというは蓋しこのいわれなり。天日別命、大和に還り天皇に、この由復命すれば大く歓びて「国は国神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給う。
「吾は今夜、八風を起こして海の水を吹き、波に乗りて東にゆく、これすなわち我が去る由なり」そう告げて去った伊勢津彦はその後、信濃国水内郡へ遷ったとも伝わります。また、立ち退かせた天日鷲命は宇治山田付近の長であった大国玉命の娘 弥豆佐々良(みつささら)姫を妻としたと伊勢国 風土記逸文にあります。これが度会(わたらい)氏の祖先であり、度会氏はご存知、豊受神宮(外宮)の禰宜神官家であることは皆の知る通りでございます。
伊勢国・伊賀国・志摩国を支配した国造。
本姓は 中臣 氏。
祖先
天日別命 または 天日鷲命 (同神説と別神説あり)。
前者は天御中主尊の12世孫、後者は神皇産霊尊の5世または7世孫という。
神武天皇東征 の際、伊勢津彦 を追って 伊勢国 を平定し、その娘の 弥豆佐々良比売命 を娶って彦国見賀岐建与束命(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生ませたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢国造
伊勢の國の 風土記 に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の十二世(とをまりふたつぎ)の孫、天日別命 (あめのひわけのみこと)の平治(ことむ)けし所なり。
天日別命は、倭磐餘彦の天皇( 武天皇 )、彼の 西の宮 より此の 東の州 (くに)を征ちたまひし時、天皇に隨ひて 紀伊の國 の 熊野の村 に到りき。
時に、金(こがね)の烏 の導きの隨(まにま)に中州(なかつくに)に入りて、菟田(うた)の下縣に到りき。
天皇、大部(おほとも) の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の 長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ、且(また)、天日別命に勅りたまひしく、「天津 の方に國あり。其の國を平(ことむ)けよ」とのりたまひて、即ち標の劔を賜ひき。
天日別命、勅を奉りて 東 に入ること數百里(いくももさと)なりき。
其の邑にあり、名を 伊勢津彦 と曰へり。
天日別命、問ひけらく、「汝(いまし)の國を天孫(あめみま)に獻らむや」といへば、答へけらく、「吾、此の國を覔ぎて居住(す)むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。
天日別命、兵を發(おこ)して其のを戮(ころ)さむとしき。
時に、畏み伏して啓(まを)しけらく、「吾が國は悉に天孫に獻らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。
天日別命、問ひけらく、「汝の去らむ時は、何を以ちてか驗と為さむ」といへば、啓しけらく、「吾は今夜(こよひ)を以ちて、八風(やかぜ)を起して海水(うしほ)を吹き、波浪(なみ)に乘りて東に入らむ。此は則(すなは)ち吾が却る由なり」とまをしき。
天日別命、兵を整へて窺ふに、中夜(よなか)に及る比、大風四もに起りて波瀾(なみ)を扇擧(うちあ)げ、光(てり)耀きて日の如く、陸(くが)も海も共に朗かに、遂に 波に乘りて東にゆきき。
古語(ふること)に、風の伊勢の國、常世の浪寄する國と云へるは、蓋しくは此れ、これを謂ふなり。
(伊勢津彦のは、近く 信濃 の國に住ましむ。)
天日別命、此の國を懷(なづ)け柔(やは)して、天皇に復命(かへりごと)まをしき。
天皇、大く歡びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國(くにつかみ)の名を取りて、伊勢と號せよ」とのりたまひて、即(やが)て、天日別命の封地(よさしどころ)の國と為し、宅地(いへどころ)を 大倭 の耳梨(みみなし)の村に賜ひき。
(或る本に曰はく、天日別命、詔を奉りて、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶるを殺戮し、遵(まつろ)はぬものを罰(きた)し平げて、山川を堺ひ、地邑(くにむら)を定め、然して後、橿原の宮に復命まをしき。)
下菟上国の猿田神社
猿田彦大神を奉祀
社伝によれば、垂仁天皇25年11月25日の創建とされ、
猿田神社の神主家は、伊勢津彦命後裔の海上国造家であり、
猿田姓を名乗り、海上五十狭茅宿禰が神功皇后の三韓征伐において、水軍を率いて参戦したと言われます。
日本書紀には、201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅宿禰に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”に居りたいのです。
“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」
との神託があったと記されている。
実際、神戸の生田神社には、摂社に大海神社が鎮座しており、猿田神社から移動した海上五十狭茅宿禰によって猿田彦大神を祀られたという伝が、猿田神社社家に残されている。
更に、日本書紀にあるように、生田神社の稚日女尊も下菟上国で祀られていた神として、生田神社に遷座した。神栖市にある手子后神社には、もともと稚日女尊が祀られていた事が旧社家の伝に残っており、神栖市の木崎という場所が元々の鎮座地である。これは、旧下菟上国の領域である。
猿田神社の猿田彦大神は、伊勢から遷座
嶋津国造氏族(伊勢津彦後裔で海上国造家と同祖)が、神武天皇の将で
ある天日別命に追われて、菟上国に到達し、祖神である猿田彦大神を祀ったと考えられます。また、稚日女尊は粟島坐伊射波神社二座、儀式帳に言う荒前神社から、海上国に一族の移動と共に、遷座したと考えられます。
猿田神社の資料集に記載される秘伝によると、猿田彦大神こそ天照神であると言い、粒坐天照神社の神が伊勢津彦命、伊勢津姫命であるという伝と一致してきます。
海上五十狭茅宿禰が海上国造の祖として祀った猿田彦大神
系譜に残される海上国造の祖である伊勢津彦命
猿田神社の資料;猿田彦大神こそ天照神
伊和神社の祭神 伊和大神
播磨風土記
『播磨国風土記』の中の宍禾郡に、伊和大神が国を作り堅めたとある。
播磨の国土経営の神。伊和族の奉じた神と思われる。
また宍禾郡の宇波良村の項には、葦原志許乎命が国占めましとあり、伊和大神は葦原志許乎命(大国主神)と同神と考えられたようだ。 伊和は三輪が転じたものとして、大物主命(大国主神)と同神とする説もある。
また、『播磨国風土記』には、伊和大神と天日鉾神の争いの話と、葦原志許乎命が天日鉾神と競う話が登場する。 このことからも伊和大神=大国主神(葦原志許乎命)と想像できる。
『播磨国風土記』
賀古郡の日岡に、伊波都比古命という神の名が出てくる。 これは伊波の男神、つまり伊和大神と解釈できないだろうか。
伊波都比古命は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の御子だとあるが、 『古事記』には、大国主神の祖父が淤美豆奴神(おみずぬのかみ)とあり、 ここでも伊和大神=大国主神という仮説が可能だと思う。
<餝磨の郡>
あが みこ あがひこ あがひめ いま
英賀の里。(中略)伊和大神の子、阿賀比古・阿賀比売の二神、此処に坐す。
<揖保の郡>
かぐやま かぐはか なづ ゆゑん くにし
香山の里。(中略)鹿来墓と号くる所以は、伊和大神、国占めましし時に、鹿、来たりて山
みね か かぐはか なづ
の岑に立ちき。山の岑、是れ亦た墓に似たりき。故れ、鹿来墓と号く。
いま みこ
伊勢野。(中略)山の岑に在す神・伊和大神の子、伊勢都比古命、伊勢都比売命を敬び祭りき
酒折宮(山梨県甲府市)
『日本書紀』に見える「酒折宮」伝承地。
また同書景行天皇40年7月16日条によれば、日本武尊の東征に際して、吉備武彦と共に従者に任じられている。東征では、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜ったという.
『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の時に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと見える。またその奏言では、子・健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されるが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある