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神大市比売命 かむおおいちひめ 別名 大市比売命:おおいちひめのみこと 大歳御祖命:おおとしみおやのみこと ……
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「紀伊続風土記」には大歳大明神社として、「当社旧は、宮の巽七町小山の上、今の山の堂という所にありとぞ、今なお旧宮と呼び、祭礼の渡り物、此の地に至る云々」とある。
天平13(741)年、後出の山の堂社(元、八万堂:やまんどうに、推古天皇11(603)年、紀男麻呂宿禰調月が大歳神を創祀)から現在地に移された20)大歳神社は、調月の氏神として創祀から千四百余年にものぼる古い歴史をもっている。
大歳神、大山津美神、大気津姫神などを祭神とし、紀州吉仲御庄を祀り、末社が多い。
紀北のおやしろや当社発行の古い「参拝の栞」によると、「調月の大歳神社の祭神・大歳明神は大市姫命で、素戔嗚尊の御子・・・」とあるが、大市姫は素戔嗚尊の子神ではないし、大歳明神=大市姫というのは史実でない。たぶん、記紀成立後に、奈良朝廷からの指示で改竄させられたものとみられる。
祭神・大歳神については、当社発行の「参拝の栞」や境内に設置されていた「調月大年宮古事」、「紀州那賀郡吉仲庄調月邑大歳大明神縁起」には、平成16(2004)年当時まで下記のように書かれていた。これは、古事記、日本書紀の記述に従ったもので、その内容は如何にも歪曲されたものだった。
飛鳥・奈良時代の古代史を精査し、平成18(2006)年4月に当社の宮司・野口道孝氏と協力して全面的に修正・書き改めました。
主祭神・大歳神は、須佐之男(スサノオ)尊と櫛稲田姫(クシナダヒメ)夫妻の第五子で、西暦前146年頃に出雲で生まれた。若い頃から農業に熱心だった大歳は、出雲の住人らとともに米作りにも精を出した証が、地名や各地の神社伝承に残っている。兄神・五十猛命は、和歌山市山東の伊太祁曽神社に祀られ、木(紀)国の祖神である。
父・須佐之男尊の死後、大歳(大歳彦とも)は、父の見果てぬ夢を胸に秘め、筑豊から大和統一をめざして東遷するときに、饒速日(ニギハヤヒ)と改名、三十二人の従者と二十五部の物部(軍団)その他の大部隊を従え、河内から大和に入り、後に東海・東北地方まで統一、日ノ本王朝・大和国の始祖王となった。
諡号は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命で、死して皇祖神・天照御魂神と崇められ各地の神社に祀られている。(大歳(饒速日)尊の詳細はこちらを参照) (須佐之男尊の詳細はこちらを参照)
当社の配祀神・大山津美神(大山祇神)は、大歳の父・須佐之男(スサノオ)尊で、大山津美神(大山祇神)という神名は、古事記・日本書紀の偽作名であることがわかった。
大気津姫神は、大気津比売神・大宜津比売神とも呼ばれ、食物の神と崇められている。「古事記」によれば、素戔嗚尊に殺された時、その死体から種々の穀物が生じたので、神産巣日御祖命が、これを取らせて種としたと記されているが、この記述は疑わしい。
大気津姫(大気津比売・大宜津比売)という神名も、古事記や日本書紀の偽作とみられ、須佐之男尊の御子・大屋津姫(大屋津比賣命)ではないかと思われる。
http://www.syamashita.net/history/tsukatuki/ootosi-jinja.html
その場合は、五十猛命と続くものと思われ筑紫紀氏とでもいえる。
また出雲大国主の子孫ともある。出雲紀氏とも言える。
参拝のしおり
縁起
当社は延喜式神明帳に記載された、いわゆる式内社であり、神明式においては山城国 乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ) を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は 上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
向神社の創立は、大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称さ れ、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座された ことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである
「建角身命、玉依比賣命、別雷神」京都府京都市伏見区久我森ノ宮町8-1
久我神社略史
由緒
神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都され た延暦三年(七八四)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄) と伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。
一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興 我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏 の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。また、他の説で は、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が 大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居 をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地 に鎮まったと考えられる。と。
これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことがで きるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢 が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では 伝承されている。
皇統でもなく、須佐之男神や大国主神のような支配神でもない神だが、 『古事記』において神裔が記されている珍しい神。
『古事記』によると、大年神と神活須毘神の娘・伊怒比売が婚姻して以下の五人の御子神が生まれた。
大国御魂神、韓神、曽富理神、白日神、聖神。
これらの神々は、国土と朝鮮系の渡来人の信仰する神々。
また、大年神と香用比売が婚姻して以下の二人の御子神が生まれた。
大香山戸臣神、御年神。
また、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として、須佐之男尊の孫狭野命を迎え、狭野命は磐余彦と名乗り、初代・神武天皇として即位した。ときに、辛酉年春正月庚辰朔とある
http://www.syamashita.net/history/notahara/notahara-jinja/saijin.htm
高松市香西町の宇佐神社を調べると、境外末社に白峯神社があり、同社記に「以前は大年神社の鎮座地で、奈良、平安時代からの祭祀と伝えられる。明治四十年に合祀。御祭神・崇徳上皇・大年神・罔象女神・奥津比古神・彦狭知命・手置帆負命・武内宿禰命・松田左近将監元親像(松田氏の先祖)」とあり松田氏の先祖が祀ったとみられます。
祭神の彦狭知命は紀伊国忌部氏の祖神で、武内宿禰命も紀氏の先祖神です。したがって、斎主松田氏は荒川荘の平野氏と血縁のあった氏族とみられます。
しかも、この白峯神社は、もとは大年神を祀る大年神社だったと云うのです。たぶん崇徳上皇を主神としていた白峰神社を合祀し、大年神社から白峯神社に改称したものと思われます。
そうすると、野田原の薄木神社は、野田原の名主平野氏が応永年間(室町時代)に、同氏の縁者が祀っていた白峯神社前身の大年神社から大年神を勧請して薄木山に社殿を造営し、神社名を薄木神社、祭神を薄木大明神と称したものと思われます。
大歳尊(大年神)が大和に東遷したとき、従者の一人として随伴した天道根命を遠祖とする平野氏は、大歳尊を祀ったのは至極当然のことと思えます。
神社を創建する場合、創祀者にとって縁も所縁もない神を祀ることはあり得ないのです。高松市生島町にある薄木神社も、野田原の薄木神社を創建した平野氏と血縁の氏族かも知れませんが、今では創祀者を特定できる史料が残っていません。
薄木神社と祭神薄木大明神について手がかりを得るため、他にも薄木神社という神社があるのかと、全国各地の神社を調べてみました。
その結果、高松市生島町に薄木神社が一社見つかりました。しかし、この神社の祭神は大物主大神となっています。
同社の由緒によれば、「香西町郷社の宇佐神社境外末社を勧請し明治十年舊八月二十四日創立。(中略)大正十五年八月、社殿を改築す。昭和五十八年五月、薄木神社を移築。生島南自治会集会場を新築、云々」(香川県神社誌)とあり、創立は比較的新しく、野田原の薄木神社と同名となった経緯は不明です。
福井県小浜市加茂(もと若狭国加茂村)に古代から彌和(みわ)神社があり、同社記に「祭神は大歳彦明神、神名帳には従三位御和明神、昔から賀茂村では三輪大歳彦明神として祭られ、大和の大三輪神をここに祀った」と伝えています。これは大物主大神は紛れもなく大歳大明神の別名だった確かな証拠です。
大物主大神は大倭大物主櫛甕玉大神とも称され、須佐之男尊の御子・大歳尊の別名で、若い頃は大歳彦と呼ばれていたようです。