武卵王、宮道氏、宮道天神社、宮道神社

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  • 宮道宅姫
    『…問題は応神が伊吹まで后妃を娶りに来るかということであるが、それは宇治稚郎子の出生に関する記事が参考になる。彼の母は紀に和珥臣の祖日触使主の女、宮主宅媛とし、記は丸迩の比布礼能意富美の女、宮主矢河枝比売とし…
    和邇氏は大和北方春日を根拠地とし、宮道は更に北、南山城の宇治郡である。
    古事記によれば、ある時、天皇は近淡海国に行幸の途次、宇遅野に
    立ち寄り、葛野の方を望んで歌をよみ

    そして木幡村に至ったところで、麗美な嬢子と道衢で出遇った。天皇が
    「汝は誰の子か」と問うと、「丸迩の比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売」と答えた。

    天皇は其の嬢子に「吾、明日、還幸の時に、汝の家に入り坐さん」
    と。矢河枝比売は委曲を其の父に語った。そこで父が曰うには
    「是は天皇に坐すなり。恐し。我が子、仕へ奉れ」と云って、其の家を厳飾し候待していたところ、果たして次の日天皇がやってきた。

    そして云々、宇治稚郎子が生まれたというわけである。古事記はこの後、日向髪長媛についても詳しく述べる。日本書紀は六年春二月に、
    「天皇幸近江国。至菟道野上而歌之曰」として歌を記すだけだが、髪長媛については一三年条に詳しく記す。

    いずれにせよ三女王との馴初めについては、記紀ともに記さない。

    しかし宮道宅媛との出会いのそもそものきっかけは、天皇が近江に行幸したことであった。この近江行幸こそ、三女王との納采ではなかったろうか。たとえそうでなくとも、大和北部あるいは山城南部出身の女性所生の皇子が宇治に宮を営んで居したように、西濃出身女性所生のササギ(仁徳)が近江蒲生にいたとしても不思議ではないのである。…』とあります。
  • 『…問題は応神が伊吹まで后妃を娶りに来るかということであるが、それは宇治稚郎子の出生に関する記事が参考になる。彼の母は紀に和珥臣の祖日触使主の女、宮主宅媛とし、記は丸迩の比布礼能意富美の女、宮主矢河枝比売とし…

    和邇氏は大和北方春日を根拠地とし、宮道は更に北、南山城の宇治郡である。
    古事記によれば、ある時、天皇は近淡海国に行幸の途次、宇遅野に
    立ち寄り、葛野の方を望んで歌をよみ

    そして木幡村に至ったところで、麗美な嬢子と道衢で出遇った。天皇が
    「汝は誰の子か」と問うと、「丸迩の比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売」と答えた。

    天皇は其の嬢子に「吾、明日、還幸の時に、汝の家に入り坐さん」
    と。矢河枝比売は委曲を其の父に語った。そこで父が曰うには
    「是は天皇に坐すなり。恐し。我が子、仕へ奉れ」と云って、其の家を厳飾し候待していたところ、果たして次の日天皇がやってきた。

    そして云々、宇治稚郎子が生まれたというわけである。古事記はこの後、日向髪長媛についても詳しく述べる。日本書紀は六年春二月に、
    「天皇幸近江国。至菟道野上而歌之曰」として歌を記すだけだが、髪長媛については一三年条に詳しく記す。

    いずれにせよ三女王との馴初めについては、記紀ともに記さない。

    しかし宮道宅媛との出会いのそもそものきっかけは、天皇が近江に行幸したことであった。この近江行幸こそ、三女王との納采ではなかったろうか。たとえそうでなくとも、大和北部あるいは山城南部出身の女性所生の皇子が宇治に宮を営んで居したように、西濃出身女性所生のササギ(仁徳)が近江蒲生にいたとしても不思議ではないのである。

    …』とあります。
  • 日触使主、宮道宅媛の父、和邇の小野氏

    大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。

    米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。
  • 和珥氏は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)を始祖と仰ぐ古代豪族で、もともとの本拠地は奈良盆地の東縁の和爾の地、すなわち現在の天理市和爾、和爾下神社のある一帯である。やがて、本拠地を少し北の春日のあたりに置き春日氏を称する。その後、六世紀に入ると、大宅、栗田、小野、高橋、柿本などの多くの氏族を分立させ、更に非血縁の氏族をも同族化して、巨大豪族の一つへと成長していったものである


     このように、彼らの本拠地は奈良盆地の東北部の山麓の扇状地、すなわち、大和国の添上郡(現在の奈良市の東北部)の範囲であるが、彼らは早くから奈良坂を越えて南山城へ進出し、更に近江にも勢力を広げ、後には全国各地へ氏族を分散させるまでになっていった。
     
     かれらが最初に山城国へ進出したのは、四世紀の初め頃、崇神天皇の時である。記紀は、当時南山城に勢力を持っていた武埴安彦(たけはにやすひこ)が反逆を企てたので、崇神は伯父にあたる大彦と和珥臣の祖の彦国葺(ひこくにぶく)にこれを討たせ、輪韓河(わからがわ)(現在の木津川)の戦いでこれを誅殺したと述べている。
     
     これによって、南山城に橋頭堡を築いた和珥氏は、次第にその勢力を山城国に拡大してゆく。いま、山城における和珥氏の系譜を正確に辿ることはできないが、その断片のうちで明かなものを挙げると、
     
    大筒木真若(おおつつきまわか)王の母は和珥臣の祖「姥津(をけつ)」の妹「袁祁都媛(おけつひめ)」
    ここに大筒木は南山城の筒木(現在の綴喜郡)である。
     
    加邇米雷(かにめいかづち)王はその大筒木真若王の子で、普賢寺谷の最奥の天王の森の山巓にある朱智神社の
    祭神である。
    加邇米雷の名は蟹幡(かにはた)郷(現在の山城町綺田(かばた))の名を負うものである。
     
     この南山城には早くから半島からの渡来人が多く住みついており、彼らはこの地で、蚕を飼い、「かにはた」(綺)と呼ばれる、模様を浮かせて織った薄い絹織物を織り出し
    また、鋳銅によって色々な金属製品を作り出していた9)。和珥氏はこうした渡来人を配下に収めて、その経済力を強大なものにした。
  • 第12代景行天皇(西暦71-130年在位)の時、穂の国(東三河)の県主としてこの地を宮道別(みやじわけ)としました。王子となって治めたのは景行天皇の子、日本武尊の息子である建貝児王(たてがいこのおおきみ)といわれています。さらに建貝児王の子、宮道宿禰速麿が「穂」の県主を継いだ。その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある宮道天神社の起源といわれています(また、穂の王子となったのは、景行天皇の子、宮道別王子だったという説もあるようです)。

    宮路山の名が歴史に出てくるのは大宝2年(702年)。このころ、持統上皇が三河を巡行。その最中(701年)に大宝律令が公布され、穂の国は三川(西三河)と統合され、三河の国となりました。

    壬申の乱(672年)の時、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、皇子は宮道天神社の祭神となっています。

    今となっては、宮路山山頂付近に本殿があるのは不自然にも思えますが、東海道ができる以前は、むしろこちらがメイン道路であったと思われます。鎌倉街道も宮路山山頂を通過していました。

    一部『ようこそ豊川市へ』豊川市観光協会より引用
  • 「米餅搗大使主」のもとの名を「日布礼大使主」とする伝えがあります(参照:滋賀県神社庁[1]小野神社の項など)。 『日本書紀』で応神妃・宮主宅媛の父は「和弭日触使主」とあり(『古事記』では「丸迩之比布礼能意富美」)、これは系図上では、米餅搗大使主の兄弟の「日触臣」のこととされています。 しかし『古事記』の「意富美」を「大使主」と見るならば、もとの名を「日布礼大使主」と見た米餅搗大使主と、和邇の祖「丸迩之比布礼能意富美」とは、無視できない関連性があります。同一人物ならば、米餅搗大使主が和邇の祖と言う表現が間接的に存在したことになります(系図とは矛盾しますが)。 このあたりの解釈については議論の分かれるところでしょう
  • 國背別皇子【日本書紀】(くにせわけのみこ)国背別皇子
    宮道別皇子【日本書紀】(みやじわけのみこ, みやぢわけのみこ)
    國背別命【先代旧事本紀】(くにせわけのみこと)国背別命
    宮道別命【先代旧事本紀】(みやじわけのみこと, みやぢわけのみこと)
    キーワード
    水間君みずまのきみ 祖【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 景行天皇紀末段】
    生年月日
    (景行天皇14年1月1日 ~ )

    景行天皇けいこうてんのう 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】

    襲武媛そのたけひめ 【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
    先祖
    景行天皇
    垂仁天皇
    崇神天皇
    御間城姫
    日葉酢媛命
    丹波道主王
    丹波之河上之摩須郎女
    襲武媛
    出来事
    (景行天皇14年1月1日 ~ )
    景行天皇の皇子として生まれる。母は襲武媛。
    【日本書紀 巻第七 景行天皇四年二月甲子条】
  • 古事記では五十猛=因達や天忍穂耳の子火明命
    播磨風土記では、大名持(大汝)の子

    蚕子は、カイコではなく、ヒメコだそうですが、、、、、、????
    ——


    蚕子(ひめこ)が流れ着いた丘

    たとえば、姫路城の天守閣やビルの屋上などから姫路の町をながめると、緑のお椀を伏せたようないくつかの丘が散らばっているのが見えます。その先には日の光を受けてきらきらと輝く瀬戸内の海も広がっています。

    姫路にある十四の丘には、その名前のもとになんったおもしろい話が伝わっています。

    遠い遠いむかし。このあたりが、まだ瀬戸内海の一部で、神様たちの時代のことです。

    このあたりの大神であった、大汝命(おおなむちのみこと)の息子の火明命(ほあかりのみこと)は、強情でたいへんな乱暴者でした。

    父神の大汝命は、どうしても火明命の性格がなおらないことを嘆いて、とうとう捨ててしまおうと決心しました。

    ある日、大汝命と火明命と船に乗り、海へと漕ぎ出しました。

    船がゆるゆると因達神山(いだてかみやま・今の八丈岩山)にさしかかったとき、

    「おまえ、あの島で水をくんできておくれ」

    と言いつけ、火明命がまだ帰らないうちに、急いで船を出してしまったのです。

    水をくんで帰ってきた火明命は船が自分を置き去りにして出てゆくのを見ました。

    「なんということ!」

    父神にだまされたと知って、火明命は怒りました。

    火明命の怒りによって、それまで穏やかだった海に、たちまち波が逆巻きました。荒れ狂う波の上を、風がうなりをあげて吹きました。

    父神の船は波と風につかまり、ひとたまりもなく沈められました。

    そういうわけで、船が沈んだところを船丘(今の景福寺山)、波丘(今の名古山)と名づけました。

    船に積んでいた荷物が落ちたところにも、それぞれに名前がつきました。

    琴が落ちたところは琴神山(ことがみおか)・今の薬師山(やくしやま)
    箱が落ちたところは箱丘・今の男山(おとこやま)
    梳匣(くしげ)が落ちたところは匣丘(くしげおか)・今の鬢櫛山(びんぐしやま)
    箕(み)が落ちたところは箕形丘(みかたおか)・今の神子岡(かみこおか)
    稲が落ちたところは稲牟礼丘(いなむれおか)・今の青山稲岡(いなおか)
    冑(かぶと)が落ちたところは冑丘・今の冑山
    沈石(いかり)が落ちたところは藤岡(ふじおか)・今の二階町付近
    鹿が落ちたところは鹿丘
    犬が落ちたところは犬丘
    蚕子(ひめこ)が落ちたところが日女道丘(ひめじおか)・今の姫山


    最後の日女道丘が、現在姫路城がある姫山だと言われています。

    ところで父神がどうなったのか心配ですね。

    物語はこう続いています。

    -海から逃げ帰った大汝命は、妻の弩都比売(のつびめ)に疲れ切った顔で言いました。「性の悪い子から逃げようとして、かえって波風にあって苦しい目にあわされたよ」。

    およそ千二百年前に書かれた『播磨国風土記』にあるお話です。

  • 応神天皇が丸邇(ワニ)氏の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の娘の宮主(ミヤヌシ)矢河枝比売(ヤカハエヒメ)を娶って産んだ子が

    宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)
    八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)
    女鳥王(メドリノミコ)
    です。

    神功皇后が任命した将軍「フルクマ命」が丸邇氏の祖先。この応神天皇が勝利した影に丸邇氏がおり、そして妻として娶った女性の親に丸邇の祖先が居るわけです。

    功績があり嫁を娶ったか
    嫁を娶り、権力を得たから
    物語に登場したか?
    このところが神話という性質を持つ古事記では分からないところ。
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