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日本書紀によれば、 日本武尊は、妃の吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)との間に、二人の王子を…
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由緒
孝徳天皇(ご在位645年~654年)の御代、この地の領主である阿利真公ありまのきみ(ご祭神である豊城入彦命とよきいりひこのみことの子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って垂水の水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公」(たるみのきみ)の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』の右京皇別の項に記載されております。
「豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也。六世孫阿利真公。謚孝徳天皇御世。天下旱魃。河井涸絶。于時阿利真公。造作高樋。以垂水岡基之水。令通宮内。供奉御膳。天皇美其功。使賜垂水公姓。掌垂水神社也」(新撰姓氏録)
これを意訳しますと、次のようになります。
「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」
『新撰姓氏録』とは、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです 。 おそらくこの時より以前からこの地では祖先神である豊城入彦命を祀る何らかのお社があり、また当然ながら都に送れるほどの水量のある滝があり、人々によって神聖な空間として大切にされていたのでしょう。また千里丘陵の南端に位置する当社は、上町台地の上に位置する難波宮とはほぼ南北の直線上にあって、距離にして約15㎞ですので、難波宮から滝が見えていたとも考えられます。
愛知県犬山市宮山は大県神社。読みは「おおあがた」。
一宮市の真清田神社に次ぐ尾張国二宮。旧国幣中社。名神大社。
延喜式神名帳尾張国丹羽郡の大県神社に比定される。
大「縣」神社とも表記され、由緒書や地図でも「大縣神社」となっているが
歴史地名大系(平凡社)が大県神社となっているので、大県神社とする。
本宮山山麓に鎮座し、祭神は大県大神(おおあがたのおおかみ)。
大県大神は尾張開拓の祖神であるが、祭神については諸説あり、
国狭槌尊(くにのさづちのみこと)説、大荒田命説がある。
「新撰姓氏録」によると大荒田命は日本武尊の三世の孫であり、
当社西方にある青塚古墳(王塚・茶臼山とも)の被葬者とも考えられる。
青塚古墳は愛知県でも2番目に大きな古墳(前方後円墳)。
創建は不詳だが、垂仁天皇27年と伝える。
851年(仁寿元年)官社に列せられ、
859年(貞観元年)に正四位下に昇格している。
尾張造の本殿は国指定の重要文化財。
境内社に大国恵比須神社、姫之宮などがある。
姫之宮は玉比売命、倉稲魂神を祀るが、社殿裏手には自然石を祀る。
姫之宮の自然石は陰石(女性器の形状をした石)である。
例祭日は10月10日。2013年4月29日参拝。駐車場あり
愛知県犬山市青塚にある古墳。犬山市南部に位置し、墳長は123m、後円部は直径78m・高さ12m、前方部は長さ45m・幅62m・高さ7mの前方後円墳。愛知県内の古墳では断夫山(だんぷさん)古墳に次いで2番目の規模で、古墳時代前期の4世紀半ばに造営されたと思われる。青塚(あおつか)古墳群の首長墳とされ、茶臼山(ちゃうすやま)や王塚などとも呼ばれていた。墳丘は大縣(おおあがた)神社の社地にあり、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いでは秀吉方の砦が築かれた記録がある。発掘調査の結果、壺形埴輪(はにわ)や葺石(ふきいし)が残っていることが確認され、1983年(昭和58)に国の史跡に指定された。その後、1996年(平成8)からの調査で古墳の規模が明らかにされ、古墳周囲を基壇が取り巻き、後円部3段、前方部2段の階段状となっていて各段に列石が配され、これに沿って壺形埴輪が2m間隔でめぐらされていたことがわかった。ほかに円筒埴輪や鰭付(ひれつき)朝顔形埴輪、鏃形(ぞくがた)石製品が出土した。現在は、古墳の外観復元整備が行われ、造営当時の姿が再現されて青塚古墳史跡公園となった。名鉄小牧線楽田(がくでん)駅から徒歩約30分。
4世紀中葉に犬山に築造された青塚古墳は大荒田命の陵墓と比定されています。
形状が前方後円墳である事から邇波県主に任命された後の古墳と推察され、
年代的にも大荒田命と合致します。
とするとそれに先んじて4世紀前後に白山平山に築造された東之宮古墳は
大荒田命の父か祖父の墳丘墓と比定されます。
形状が前方後方墳なのは邇波県主に任命される前なのか、
或いは大懸大神はこの被葬者の可能性さえあります。
だがこれ以前の弥生墳丘墓が犬山には皆無です。
つまり突如4世紀に珍しい鏡を副葬品に持つ前方後方墳が犬山に現れた事になります。
大県大神は尾張開拓の祖神であるが、祭神については諸説あり、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)説、大荒田命説がある。
「新撰姓氏録」によると大荒田命は日本武尊の三世の孫であり、当社西方にある青塚古墳(王塚・茶臼山とも)の被葬者とも考えられる。
青塚古墳は愛知県でも2番目に大きな古墳(前方後円墳)。
創建は不詳だが、垂仁天皇27年と伝える。
大荒田命は日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖とありますが、これは「新撰姓氏録」に「 聟本 倭建尊三世孫大荒田命之後也」とあることによります。また、「愛知県史(第一巻)」は大荒田命について豊城入彦命四世孫大荒田別と同一人物と見ています
熱田神宮の元宮である氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町)には、
向かいの氷上山頂に現在地よりもさらに元宮伝承地があって、そこに倭武
天皇とミヤスヒメの居住地跡の石碑が見られます。
ここでも倭武天皇です。この建造は明治時代と新しく、証拠文献になりません、、
中島郡にある真清田神社と尾張氏との間には歴史的な関わりが見つけられません。
真清田神社は本当に尾張氏創建で、祭神は天火明命なのでしょうか。
古代の尾張に存在した県(あがた)で現在確認されているのは
年魚市県、邇波県、島田上県・下県、中島県。
年魚市の県主は尾張氏。
邇波の県主は邇波氏。
島田上下の県主は多臣氏族の後胤。
そして真清田神社のある中島の県主は鴨氏の一族です。
鴨氏は京都の賀茂神社に本拠を置く氏族で、
祖神は阿遅鉏高日子根命、つまり出雲系です。
八咫烏の化身とされる賀茂建角身命もまた鴨氏です。
真清田神社の宮司職を代々継いだという真神田氏は大和の大神氏と同族です。
とすると真清田神社の祭神は大物主命という事になります。
だが真清田神社の近くには大物主命を祀る大神神社が別にあり、
その大神神社の社伝では真清田神社と大神神社の二つを合わせて尾張国一宮としたとあります。
何れにしろ共通するのは真清田神社創建には出雲系の氏族が関与しているという事、
そして出雲系の神が祀られていただろうという事です。
尾張国丹羽郡(犬山市から一宮市東部にかけての一帯)は本宮山山麓から平野部に勢力を伸ばした邇波氏(注:表記は色々あります)の本拠地で、東之宮古墳の被葬者も邇波氏の首長と考えられています。
東之宮古墳からは鏡作坐天照御魂神社の三角縁神獣鏡の同笵鏡(どうはんきょう、同じ鋳型から鋳造された鏡)が出土しました。
木曽川左岸に東西に長くのびる白山平山(はくさんびらやま)山頂の西端頂に位置する。
1973年3月に東之宮古墳の後方部において盗掘事件が発生し、被害状況確認のため同年8月から9月にかけて、犬山市から委託を受けた久永春男らによって発掘調査が行われ、同時に測量調査も実施されている。 2005年以前の文献[1]によると墳丘の規模は、墳長72メートル、後方部48×49メートル、後方部高8メートル、前方部幅43メートル、前方部高6メートルとされてきた。 しかしながら2000年代に実施された範囲確認のためのトレンチ調査の結果、葺石が分布する範囲から、墳長67メートル、後方部長さ39メートル、後方部幅36メートル、前方部幅35メートル、くびれ部幅19.5メートル、後方部高さ9メートル、前方部高さ7メートル、と修正されている。ただし墳丘の盛土の範囲は葺石基底石の外側にも広がっている。 前方部西端部が土取により破壊を受けている他は、前方後方墳の墳形が良好に残存している。
主体部は後方部頂に2か所、前方部に1か所あり、1973年に発掘調査されたのは後方部の竪穴式石槨である。この竪穴式石槨の規模は長さ4.8メートル、幅0.8メートルを測る。石槨の底面には木製棺(消失)を安置していた粘土床が認められた。側石は細長い凝灰岩と花崗岩を混在させた石材を小口積で構築していた。天井は凝灰岩の板石状の7枚の天井石によって覆われていた。出土遺物は全てこの竪穴式石槨から出土しており、銅鏡11面(三角縁神獣鏡4面、斜縁同向式二神二獣鏡1面、方格規矩倭鏡1面、四獣形鏡1面、人物禽獣文鏡4面)、石製品(石釧3点、車輪石1点、鍬形石1点、合子2点)、玉類130点(硬玉製勾玉3点、碧玉製管玉127点)、鉄製品として鉄剣4点、鉄刀9点、鉄剣鉄槍17点、鉄鏃6点、短冊形鉄斧3点、有袋鉄斧3点、針筒1点、Y字方鉄器2点、釶があった。これらの石槨内出土遺物は国の重要文化財に指定され、京都国立博物館に保管されている
銅鏡11面のうち、三角縁神獣鏡4面はそれぞれ同笵鏡が日本国内の古墳から出土している。4面ある人物禽獣文鏡は日本製で、濃尾平野のみに分布する特異な図像の鏡である。
築造年代 編集
なお、東之宮古墳の築造年代については 副葬品などの従来の年代観からすると4世紀が妥当であるが、調査報告書の作成者の1人である赤塚次郎は最近の東海地域での土師器の編年の年代観から3世紀後葉を提示している。
その後、大和政権は直轄地を地方に領有するようになり屯田(みやた).屯倉(みやけ)と呼ばれる土地と人を直接支配することになる。この領有地の長官が稲置(いなぎ)である。
丹羽と称される尾張北部には、本宮山を信仰対象とした在地集団がいた。大和政権はこの氏族と政治関係を結ぶ。この氏族の支配勢力範囲を県とし首長を爾波縣主とした。犬山市の白山平にはこの首長が三角縁神獣鏡と共に眠る。安閑2年(535)、爾波県内に入鹿屯倉が置かれ。爾波縣主と丹羽稲置が並立し爾波縣主は縣神社を象徴とした祭祀権、丹羽稲置は朝廷に対する税等の実質支配権を分掌する時代を経る。
古代、人心の掌握は上位であった祭祀権から政務権に移るのであるが、 この原理によりこの地方の氏族の支配権は縣主から稲置に移る。
時代が下り
「続日本紀」承和8年(841)4月
縣主前利連氏益賜姓縣連。神倭磐余彦天皇第三皇子神八井耳命乃後也
つまり
丹羽郡前刀(さきと)郷の住人で、この時の県主の前利連(さきとのむらじ)氏益が県連(あがたのむらじ)の姓を認められる。先祖は神八井耳命の後裔であると認められる。
丹羽郡には式内社 前利神社がある。
さて、式内社 大県神社を信仰宗主とする丹羽氏であり式内社 前利神社もその系列と考えられるが、もうひとつ式内社 田県神社の系譜はどうなのだろう。
田県神社祭神 玉姫命玉姫命は爾波縣君祖大荒田の娘とある。
この景行天皇の御世に、田部(たべ)を定め、また東の淡水門(あづまのあはのみなと)を定め、また膳(かしはて)の大伴部(おほともべ)を定め、また倭の屯家(みやけ)を定めた。また坂手池(さかてのいけ)を作り、竹をその堤に植えた。
田縣神社(たがたじんじゃ)
愛知県小牧市にある神社である。式内社。旧社格は郷社。
創建の年代は不詳で、かなり古い神社である。古い土着信仰に基づく神社で、子宝と農業の信仰を結びつけた神社でもある。延喜式神名帳にある「尾張国丹羽郡 田縣神社」、貞治3年(1364年)の『尾張国内神名牒』にある「従三位上 田方天神」に比定されている。現在地は旧春日井郡なので、後に遷座したことになる。
祭神は御歳神と玉姫神で、五穀豊穣と子宝の神である。社伝によれば、当地は大荒田命の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。
由緒より
御歳神(ミトシノカミ) 玉姫命(タマヒメノミコト)
御歳神は素戔嗚尊(スサノオノミコオ)の孫で、大歳神(オオトシノカミ)の子。農業をつかさどる神様で五穀豊穣の守護神です。
玉姫命は尾張地方開拓の祖神である大荒田命(オオアラタノミコト)の王女。尾張氏の健稲種命(タケイナダネノミコト)の妃。二男四女の子宝に恵まれましたが、夫亡き後は故郷荒田の里(現鎮座地)に帰り、父を助け開拓に励み、子女教育に勉められ、その功績を称え、後に合祀しました。
御由緒
世に名高い小牧長久手の合戦に際し、秀吉が前線の砦を築いた久保山。その麓に続く俗称「縣(あがた)の森」に当神社は鎮座しております。その御創建年は詳らかではありませんが、醍醐天皇の延長五年(927)に編纂された『延喜式』には「尾張国 丹羽郡 田縣神社」と記されております。また貞治三年(1364)の『尾張国内神名牒』にも、「従三位上 田方天神」とあり、古くから格式の高い神社であったことがわかります。いにしえの昔、この地方を治めた豪族丹羽氏が栄華を誇った痕跡は、神社周辺の数多の古墳遺跡からも伺い知れますが、その背景に神々への真摯な祈りがあった事は疑いようもありません。当神社にまつられている「御歳神」「玉姫命」も五穀豊穣と子孫繁栄に極めて篤い御神徳がございます。
御歳神について『古語拾遺』には、次のような神話が記されております。あるとき土地の者が田植えの前に百姓に牛肉を食べさせました。それを知った御歳神は大変怒り、田に蝗(いなご)を放して稲を枯らしてしまいます。困った土地の者達は、御歳神に白猪・白鶏・白馬を捧げて謝罪します。御歳神はこれを許し、糸巻き・麻の葉・鳥扇等と共に男茎を用いた蝗除けのまじないを教えました。こうして稲はもとの緑色を取り戻し、田は豊作となったと言います。
また当神社に合祀された玉姫命は、『尾張国熱田太神宮縁記』などの史料によると、爾波縣君祖大荒田命の娘として生まれ、尾張氏の建稲種命と結婚しました。子宝にも恵まれて幸せに暮らしていた夫婦でしたが、建稲種命は日本武尊のお供として出征し、遠江で運悪く戦死してしまいます。一人残された玉姫命でしたが、故郷に戻った後は母親として立派に子供達を育てあげ、民達のお手本として懸命に働き、在地の発展と子孫繁栄を成し遂げたそうです。
玉姫命は、大荒田命の娘である。建稲種公の妃となり2男4女を生む。
建稲種命(たけいなだねのみこと)は、日本の古墳時代の人物。建稲種公(たけいなだねのきみ)とも称す。父は尾張国造乎止与命(オトヨ)、母は眞敷刀婢命(マシキトベ、尾張大印岐の女)で、宮簀媛は妹。妃玉姫(丹羽氏の祖大荒田命(オオアラタノミコト)の女)との間に二男四女。息子尻綱根命(シリツナネノミコト)は、応神天皇の大臣。その下の娘志理都紀斗売は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、品陀真若王の母。更にその下の娘金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)は品陀真若王の妃で、応神天皇の皇后仲姫命及び2人の妃の母。
景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られている。
爾波氏は氏族の祖である大荒田命を神体山である本宮山に祀り、垂仁天皇27年8月、麓に新宮を造営して、和魂を遷座させたのが尾張国二宮・大縣神社となります。大縣神社によれば、本宮山を奥宮、大縣神社を里宮、田縣神社(小牧市田縣町に鎮座、祭神は大荒田命の娘、玉姫)を田宮とする考え方があったとのことです。
一方尾張大國霊神社の宮司によれば、本宮山を奥宮、大縣神社を里宮、尾張大國霊神社を田宮とする考え方があったとのこと。理由は本殿脇にある磐境が本宮山の方向に向かっているからで、本宮山方面から移り住んだ人たちが本宮山に向かって礼拝をしたためとされます。磐境は本殿脇にあり参拝者が多かったため見ることはできませんでした。
爾波氏の娘が、祭神になっている田縣神社には、近くに祭神にゆかりの深い荒田塚が、当社の近くにあり、今は、「山の神」と刻銘した石碑が建っているという。はて、入鹿村にあった虫鹿神社の境内にも、「山の神」と、「宇治土公」と刻銘された石碑が、存在している。どちらも爾波氏が、支配した地域であった筈。この「宇治土公」とは、宇治土公氏であり、伊勢神宮で、最古の儀式を執り行う猿田彦の神裔。
丹羽郡での式内社は、22社で、大縣神社を除いて21社は、小社であるという。
・ 田縣神社
所在地 小牧市田県町 祭神は、玉姫命{この地の開拓の祖 大荒田命( 爾波県主の祖、後の丹羽氏)
の娘。祭神にゆかりの深い荒田塚が、当社の近くにあり、今は、「山の神」と刻銘した石碑が建っているという。
大縣神社の方が古い。
爾波神社は、昔、大江川(木曾川派流か)の東南、天神の地に鎮座していたという。寛文6(1666)年に、現在の一宮市丹羽町宮浦に遷座されたという。祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祀る。古事記神武天皇の条に、「神八井耳命者意富臣、小子部連、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也」とある。丹羽臣は、丹羽の地を本貫とし、現 一宮市大和町一帯に、嶋田臣は、現 名古屋市天白区島田の一帯に勢力を伸ばした豪族と伝えられ、小子部連は、大海人皇子に付いて、壬申の乱に功があったと言われるが、直後に自害して果てたという氏族であろうか。
334 和泉国 皇別 聟本 倭建尊三世孫大荒田命之後也 210
から来ている」
参)『姓氏録』和泉皇別に掲げて倭建尊後裔と記す和気公・県主・聟木(一に聟本)
ウィキペディアでは
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京皇別 犬上朝臣 - 出自は謚景行皇の子の日本武尊。
右京皇別 建部公 - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。
和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。
和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。
宮道弥益(みやじのいやます)の娘。
藤原高藤(ふじわらのたかふじ)との間に 胤子(たねこ)・定国(さだくに)・定方(さだかた)・満子(みつこ)を産む。
宮道弥益邸での藤原高藤と宮道列子の出会いについては『今昔物語集』巻二十二の七「高藤の内大臣の語」に詳しい。
娘の胤子が宇多天皇の女御となり醍醐天皇を産んだため、天皇の外祖母として従三位に叙された。
907年(延喜7年)10月17日薨去。10月26日に正二位が追贈された。
現在、勧修寺<宮道弥益邸宅跡>の南にある宮道神社に、父の弥益や夫の藤原高藤、子どもたちと共に合祀されている。
身分が格上の藤原高藤と結ばれ、娘の胤子のおかげで天皇の外祖母として晴れがましい身の上になった列子(たまこ)。これにより、「たまのこし(玉の輿)」という言葉が生まれたのだとか!?(諸説あり。)
列子と高藤の子孫の一人に紫式部がいる。紫式部が執筆した『源氏物語』に登場する「明石の君」のモデルは、宮道列子ではないかという説もあるらしい。
みやじのいやます<宮道弥益邸宅跡>
京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分
勧修寺は真言宗山階派大本山で、山号を亀甲山と称します。ご本尊は本堂に安置されている千手観音像です。
創建は、西暦900年(昌泰3年)に醍醐天皇の生母・藤原胤子(たねこ・いんし)の外祖父である宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅を寺に改めたことが起こりです。
勧修寺はのちに醍醐天皇の勅願寺となりました。
醍醐天皇の生母・藤原胤子の両親である藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道列子(みやじのたまこ・れっし・つらこ)は、この地で運命的な出会いをして恋に落ちました。
このエピソードは『今昔物語集』にも描かれており、古来、長く愛されてきた物語のひとつです。
勧修寺は、皇室と藤原氏の援助を受けて繁栄し、門跡寺院として代々、法親王が入寺されていました。
1470年(文明2年)の兵火で焼失し、豊臣秀吉の政策で境内が縮小されたものの、皇室と徳川氏の援助で復興。
現在、勧修寺内にある建物は江戸時代のもので、観音堂は昭和初期の建立です。
醍醐寺
創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。
◆宮道氏
宮道氏(みやじし)は、日本の氏族の一つ。発祥地は三河国宝飯郡宮道郷ともいう。諸説あるが、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする物部守屋の後裔ともいう。山城国宇治郡を本拠とした宿禰(すくね)姓(かばね)の宮道氏が知られていた。平安時代、835年、宮道吉備麻呂、宮道吉備継らが朝臣姓を賜っている。
宇治郡大領(郡司)という平安時代前期の官人・宮道弥益(いやます、生没年不詳)の娘(妹とも)・宮道列子(れっし、?-907)は、内大臣・藤原高藤の妻となり、藤原胤子(いんし/たねこ、? -896)を産んだ。
胤子は、第59代・宇多天皇女御になり、第60代・醍醐天皇らを産み、宮道氏は天皇家の外祖父として栄えた。
その後も、宮道氏は、武家・寺家蜷川氏(蜷川氏)として、藤原高藤家は勧修寺流藤原氏として朝廷に仕えたという。
兵庫の「経が島」を築き屋島の内裏を造営したり、「平家物語」に「阿波民部成能は四国の軍勢をつれて壇の浦で平家方として戦っている」と記載されています。
また屋島の合戦で平家方が敗けた時、成能は平家を見限って平家方から離れ、源氏側に降りたのでありますが、12年の禁固ののちに和田義盛に斬首されました。
もともと田口氏は「紀氏」出身で大同三(八〇八)年阿波へ来たそうです。実はこの田口成能は「粟田姓」であったのではないかとの説があります。
「粟田氏」は、孝安天皇(天足彦国押命 あめのおしたらしひこ)を祖とする和邇族と同族にあたります。
始祖と云われる「考安天皇」の父「孝昭天皇」こと「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと」が佐那河内村に鎮座する「観松彦神社」で長国の祖神として祀られること。
藤原真夏は、宝亀5(774)年に誕生する。
藤原内麻呂の子。
母は、百済永継。
同母弟に、藤原冬嗣。
異母弟妹に、藤原桜麻呂、藤原長岡、藤原愛発、藤原緒夏等。
異父弟に、良岑安世。
藤原北家。藤原氏
延暦22(803)年正月に、従五位下に叙され、
中衛権少将、春宮権亮と相次いで任じられ、
延暦23(804)年、安殿皇太子の春宮亮となる。
大同元(806)年5月、安殿皇太子の即位(平城天皇)に伴い、従四位下に進む。
この頃、近衛権中将となっている。
大同2(807)年4月、官制改革で右近衛中将となり、
6月、武蔵守、阿波守(内蔵頭とも)を兼任し、中務大輔となり、
さらに、美作守に任じられる。
父:桓武天皇
母:百済永継 - 飛鳥部奈止麻呂女
妻:丹治氏
三男:良岑清風(820-863)
橘性
橘 奈良麻呂(たちばな の ならまろ、養老7年(721年)? - 天平勝宝9歳(757年)7月)は、奈良時代の貴族。左大臣・橘諸兄の子。官位は正四位下・参議、贈正一位・太政大臣。二代目橘氏長者。
・清友(758-789)
①父;奈良麻呂 母;大原真人明娘
②妻;田口氏女、粟田小松泉子。子供;氏公、氏人、弟氏、嘉智子(嵯峨天皇后)安万子
③777年20才の若さで渤海国大使接待役。予言の話あり。
④786年正五位下内舎人。嘉智子誕生。
⑤833年嵯峨天皇と嘉智子の子「正良親王(仁明天皇)」が即位して正一位を追贈さる。
⑥墓は井手町にある。
・氏公(783-847)
①父;清友 母;粟田小松泉子
②兄弟;嘉智子、安子、子供:岑継、真直(従四位下相模守・陸奥守)
③833年参議、844年右大臣となる。従二位。 嵯峨天皇側近。 井手右大臣
④嘉智子太皇太后と一緒に子弟のための「学館院」設立。
・岑継(804-860)
①父:氏公 母:田口継麿女真仲(54仁明天皇乳母)
②子供:氏継、茂生(上総介)
③844年正三位参議・中納言。
④54仁明天皇側近。
父:橘清友
母:粟田小松泉子
妻:田口真仲(田口継麿の娘) - 仁明天皇乳母
長男:橘岑継(804-860)
三男:橘真直(816-852)
生母不明の子女
男子:橘岑雄
女子:橘影子(?-864) - 仁明天皇女御
次女:橘時子[2] - 源明室
女子:橘房子 - 文徳天皇後宮
女子:橘忠子 - 文徳天皇後宮
脚注
京都の「祇園社」(明治から八坂神社)に魚津から立山、富山市に至る広大な「太田庄」を寄進した古代豪族「宮道氏」⇒室町時代には幕府政所代として越中の統治に関わっている
藤原高藤の妻となった宮道列子の父。
宇多天皇の女御・藤原胤子<贈皇太后>の外祖父。
醍醐天皇の外曾祖父。
宮道氏は、山城国宇治郡を本拠地とした豪族として知られるが、系統は未詳。
『今昔物語集』において宮道弥益は、山城国宇治郡の大領(たいりょう=長官)として登場し、娘の列子を藤原高藤と娶わせ、孫の胤子が醍醐天皇を産んだことにより、四位に叙され修理大夫(修理職の長官)になったという。
『今昔物語集』によると、弥益の妻は、勧修寺の東の山際に大宅寺(おおやけでら)を建立したというが、当時の大宅寺について詳細は不明。
現在の大宅寺境内に宮道弥益夫妻の墓が建つ。また、大宅中学校内に「旧大宅廃寺跡の碑」がある。
宮道弥益と娘の列子、娘婿の藤原高藤と孫たちは、勧修寺の南にある宮道神社に合祀されている。
記紀によれば、蝦夷を偵察したのが武内宿禰、討伐したのが日本武尊、それに大足彦忍代別天皇(景行天皇)が従はせたのが、吉備武彦と大伴武日連でした。日本武尊亡き後、蝦夷の騒乱を鎮めたのが御諸別王、毛野氏が東国で根を張ることとなったといわれています。また讃岐の鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祀っています。三河国宝飯郡の一ノ宮の砥鹿神社近辺を篠目郷といいここにも関連が見られます。
本社は水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とする。
成務天皇紀で「吾が国造(くにのみやつこ)を任命する時には必ず楯矛を授けてあかしとする。」とあって、
第12代景行天皇の皇子、国乳別皇子が「古式にのっとり、弓矢楯矛をいただいて下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた」と書かれた部分に由来するものと思われる。
この高三瀦は水沼の君累代の政治の地であり、古代の行政と文化の中心として繁栄した所である。
古伝説には「神功皇后韓攻撃の時、弓大将だったために、弓頭大明神と称えられた」と言い伝えたとの説もある。
国乳別皇子のお墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚ともいう)と称し、本社の西北3町(約300m)ばかりの所にある。
明治6年6月、郷社に定められる。
なお、神社が所属する銅剣、石包丁、石戈、耳環は町の文化財に指定されている。
平成10年3月 三瀦町教育委員会
『…問題は応神が伊吹まで后妃を娶りに来るかということであるが、それは宇治稚郎子の出生に関する記事が参考になる。彼の母は紀に和珥臣の祖日触使主の女、宮主宅媛とし、記は丸迩の比布礼能意富美の女、宮主矢河枝比売とし…
和邇氏は大和北方春日を根拠地とし、宮道は更に北、南山城の宇治郡である。
古事記によれば、ある時、天皇は近淡海国に行幸の途次、宇遅野に
立ち寄り、葛野の方を望んで歌をよみ
そして木幡村に至ったところで、麗美な嬢子と道衢で出遇った。天皇が
「汝は誰の子か」と問うと、「丸迩の比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売」と答えた。
天皇は其の嬢子に「吾、明日、還幸の時に、汝の家に入り坐さん」
と。矢河枝比売は委曲を其の父に語った。そこで父が曰うには
「是は天皇に坐すなり。恐し。我が子、仕へ奉れ」と云って、其の家を厳飾し候待していたところ、果たして次の日天皇がやってきた。
そして云々、宇治稚郎子が生まれたというわけである
京都市営地下鉄小野駅の南西500m,山科川の右岸、
勧修寺と吉利倶八幡宮の間に鎮座する宮道氏の氏神社です
平安時代の寛平十年(898)に、宮道氏の祖人日本武尊と
その子の稚武王を祀ったのが宮道神社の創始です。
創始一年前の897年に宮道氏の血縁の醍醐天皇が即位しており、
一族の繁栄を先祖に祈願しての設立と思われます。
祭神:日本武尊、稚武王
合祀:宮道弥益、列子、藤原高藤、藤原定方、胤子
祭神の稚武王は日本武尊と両道入姫皇(ふたじいり)の皇子で、
仲哀天皇の実弟にあたります。
古代豪族の宮道氏は当地・山城国宇治郡を本拠としていました。
古くから岩屋神社(大宅地域)、山科神社(西野山地域)、宮道神社(勧修寺地域)などが知られている。岩屋神社(大宅中小路町)は大宅御所山が背にあり、宇多天皇時代(八八七~八九七年)の創建であると言い、天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)、幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦二柱と、その皇子・饒速日命(にぎはやひのみこと)の親子三柱を祭神としている。本殿の背後に隠岩(いんがん)・陽岩(ようがん)と称する大きな岩が二つあり、古代祭祀の岩座(いわくら)を示しているところから、かなり古い時代の創設であることには間違いがない。地名に「岩屋殿」が残る。
また、山科神社(八九七年)については、山科神社と呼ばれたのは明治以後で、それまでは「西岩屋大明神」と呼ばれていた。祭神は、宮道神社と同じ日本武尊とその子稚武王であり、現在西野山地域の産土神となっている。中世に「東・西・上の岩屋三社」と呼ばれた神社は、東が岩屋神社であり、西が山科神社であるが、「上」は不明である。宮道神社(八九八年)は、宮道氏の氏神で、祭神が日本武尊とその子稚武王であり、これは宮道氏の遠い祖先にあたるとされている。宮道氏というのは、平安時代初期に宇治郡を治めた「大領」であった。
その他、天智天皇が山科行幸の時、仁徳天皇を奉祀して建立(六六二~六七一年頃)したと言われる若宮八幡宮(音羽地域)、勧修寺(吉利具)八幡宮(八五三年)、郷社であった諸羽神社(八六二年・四ノ宮地域)、元慶寺の鎮守社として建立された北花山六所神社(八八七年)、延喜三年(九〇三)に醍醐天皇の勅命により創建された花山稲荷神社(西野山地域)、応永三年(一三九六)に後小松天皇から大般若経六〇〇巻を寄贈された三ノ宮(九一〇年頃創建、東野地域)、藤原道長の姉(詮子)が創建したと伝えられる慈徳寺(八八〇年・現在の華山寺付近)などが古い由緒を持っている。 毘沙門堂、勧修寺(かじゆうじ)、随心院の三寺は門跡寺院となっている。
・・・・又前に奈良の朝廷に奉仕したるものは遷幸のあるに従ひて新宮に供奉したりしか平安城に定都し玉ふの後は永く郷里に土着して大内に奉仕せしめ玉ふ・・・・(『山科郷史』)
・・・・桓武天皐既に千年の大計を垂示し玉ひて列聖叉之を守り山科の御料所亦終に面目を改めす衛門の職毫盤の任世々に之を奉任し新嘗の穀内膳の籾百代に献納し以て近世に継承したるなり。(『山科郷史』)
桓武天皇の平安遷都において奈良から随従し、この地に住み着いた者があるとされ、実際、山科の中で、この「桓武天皇随従」を系譜とした山科郷士がいたことも確認できる。
「供御」の内容は、平安時代においては、①御門の守衛、②新嘗会のおける五穀・内膳の献上、③「御清所」(厨子・台所)への奉仕、④「内侍所」への勤仕、⑤中宮・女御入内、立后時の衛士、⑥皇太后藤原順子葬儀への奉仕、⑦皇太后藤原胤子葬儀への奉仕、⑧醍醐天皇葬儀への奉仕、などが確認できる。これらの背景には、山科全体が、天皇及び皇族系統の「禁裏御料」「荘園」、また藤原氏の系統の寺院・神社を多く持つ地域であり、そこに住む山科郷民が、こうした天皇・朝廷を支える「供御人」としての役割を果たしていたことがあったと考えられる。