吉備臣、稚武彦、御友別、品治部

August 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image吉備臣、稚武彦、御友別、品治部

吉備臣について 『書紀』孝霊二年二月条には「稚武彦命、是吉備臣之始祖也」とあ るように、孝霊と倭国香媛(ハエイ…

Read the full story here


コメント

  • 日本書紀 応神紀

    「秋九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。この島は難波の西にあり、巌や騎士が入りまじり、陵や谷が続いている。芳草が盛んに茂り、水は勢いよく流れている。大鹿・鳧・雁など沢山いる。それで天皇は度々遊びにおいでになった。天皇は淡路から回って、吉備においでになり、小豆島に遊ばれた。十日、また葉田の葦守宮に移りお住になった。そのとき御友別が来て、その兄弟子孫を料理番として奉仕させた。天皇は御友別が畏まり仕えまつる様子をご覧になり、お喜びの気持ちをいだかれた。それで吉備
     国を割いて、その子たちに治めさせられた。川島県を分けて長子の稲速別に。これが下道臣の先祖である。次に上道県を中子の仲彦に。これが上道臣・香屋臣の先祖である。次に三野県を弟彦に。これが三野臣の先祖である。また葉区芸県を、御友別の弟鴨別に。これが笠臣の先祖である。苑県を兄の浦凝別に。これが苑臣の先祖である。織部を兄媛に賜った。それで
     その子孫はいま吉備国にいる。これがそのもとである。」
  • June 2016 編集されました
    吉備臣について
    『書紀』孝霊二年二月条には「稚武彦命、是吉備臣之始祖也」とあ るように、孝霊と倭国香媛(ハエイロネ)との間に、倭迹々日百襲姫・彦五十狭芹彦(亦名吉備津彦)・ 倭迹々稚屋姫命をなし、ハエイロドとの間に、彦狭島・稚武彦をなすのだが、これに対応する『古事 記』孝霊段では、孝霊とオホヤマトクニアレヒメとの間にヒコイサセリヒコ(大吉備津彦)が生まれ、 吉備上道臣の祖とされる。また孝霊とハヘイロドとの間にワカタケキビツヒコが生まれるのだが、こ れは吉備下道臣・笠臣祖とされている。そして、『書紀』応神廿二年九月庚寅条は、周知の如く、御 友別を祖とする次のような系譜を伝える。
    浦凝別 苑臣(苑県) 稲速別 下道臣(川島県)
    御友別 仲彦 上道臣・香屋臣(上道県) 弟彦 三野臣(三野県)
    鴨別 笠臣(波区芸県)
    『書紀』応神二二年三月条にも「兄媛者、吉備臣祖御友別之妹也」とみえるように、御友別は吉備臣 の祖として位置づけられていた。

    門脇禎二は、吉備臣に関連する氏族が吉備上道臣・吉備下道臣・吉備窪屋臣など と吉備を冠して表現される場合のあることから、単に吉備臣とある場合は、吉備出身の中央化した氏 族をさすと考える 。たしかに、『新撰姓氏録』(巻五、右京皇別下)には「吉備臣 稚武彦命孫御友 別命之後也」とあるが、これは、『続日本紀』神護景雲三年(七六九)九月辛巳条で「河内国志紀郡人従七位下岡田毘登稲城等四人賜姓吉備臣」とみえるものが相当する可能性があり、これ以外に八世 紀以降の史料で吉備臣を確認することはできない
  • 式内社
      多祁伊奈太岐佐耶布都神社
    岩穴宮 岩屋権現
    また 原谷(この地名)の権現さん とも呼ばれている
    ご祭神 下道国造兄彦命 高梁川より西の小田川流域地方の古い地名と思われる「川嶋縣」の国造りをされた神 下道臣の祖
    大穴牟遅命 大国主命の御名で 大己貴命とも書く 当神社の古い文書に大穴母智命とも書いたものもある
      赤濱宮 伊奈多宿祢命 向って左のお社にお祀りしてあります
    神社のご由緒  第二十一代雄略天皇の御代のご鎮座と伝えられ「日本三代実録」という古い歴史書に 「備後の国 多祁伊奈太岐佐耶布都神社 従五位下を授く」とあり 千五百年にも 及ぶ古い由緒の神社で 延喜式神名帳に記され 祈年祭というお祭には 国から奉幣(供物) があった神社です
     権現信仰や神社名の長いこと また神主家の変遷や火災などによってか 式内社 であることが 分からなくなりましたが 明治時代となる直前に式内社として改めて確認され  阿部正桓藩知事が参詣され多種の武具や幕が奉納されました
     大石灰岩の洞窟の神さびたご神域は 広島県天然記念物に指定され 学術的価値も高く  洞内は夏は涼しく冬は暖く流れ出る清水と共に参拝すると身心のやすらぎを覚えます
     現在の社殿は相殿造のようになっていますが 向って右のお社が当神社で少し大きく左のお社は 赤濱宮で少し小さく建立してあります
    例祭日 夏祭
    秋祭 七月十九日
    十一月三日
      ご祭神 下道国造兄彦命について
     日本書記巻十に「第十五代応神天皇の御代二十二年九月 天皇が淡路から吉備の小豆島へさらに葦守宮に遊び 給うたとき 御友別という者が参り一族こぞっておもてなしをしたので 天皇は非常に悦ばれ 吉備国の中の川嶋縣と いう所を長子(長男)の稲速別に事依す是は下道臣の始の祖なり」と書いてあります この稲速別という 御方が当神社のご祭神であり 下道国造兄彦の御名は尊号で 命の国造りのご遺徳を賛えてお祀り 申しあげたのではないかと思われます
     日本の津々浦々の大小の神社は共通のご祭神であるお社が多いのですが 当神社のご祭神をお祀りした神社は 見当りません 明治時代になって 地区内の天王社他のお社の神々を 当神社へ合祀しましたので それ以後 当神社を 紹介した文書には 素盞嗚尊 奇稲田媛などの神々をお祀りしてあるようになっていますが これは この合祀によってつい 誤りが生じたものと推定されます 式内社として再確認される前後 ご祭神二座のうち いずれの御神が主神であるか 調査報告するようにとの通達に下道国造兄彦命が主神であると報告されており掲示の神がご祭神です
    (追記)
     岡山県矢掛町の町はずれに 下道氏の墓というのがあり 史蹟公園となり 真備公という方の顕彰石碑が 矢掛町により 建てられています

    -参道入口案内板より(原文のまま)
  • 05/29編集されました
    日本書紀の卷第十・譽田天皇紀の五.追隨妃兄媛歸省之吉備行幸に「庚寅、亦移居於葉田葦守宮時御友別參赴之」とある。これによれば、応神天皇が帰省した妃の吉備兄媛を追って応神天皇22年9月に行幸し、葉田葦守宮で兄媛とその兄・御友別命に饗応を受けたとされる。御友別命はこの行幸地に天皇の死後、天皇の遺徳を偲んで祭祀し葉田葦守宮を設けた。これが葦守八幡宮の始めであるとされている

    葦守八幡宮(あしもりはちまんぐう)は岡山県岡山市北区下足守にある神社。旧社格は郷社。建立年代の明らかなものとしては日本最古の鳥居がある

    ーーーーーー
    御鋤友耳命の子に御友別命が居ました。

    ※御友別命は吉備武彦命の子ではありません。

    御友別命は今の足守地域であろう葉田葦守宮に住んでいました。

    成人した頃に後の応神天皇となるホムタワケ命と出会いました。

    ホムタワケ命は大和王国の領土を視察するため、たまたま播磨の地から吉備の備前・備中に出かけており、その際に御友別命と出会い、お互い気が合い知己になったのです。

    また御友別命には、年の近い容姿端麗な妹がおり(兄媛)一目見てホムタワケ命が気に入ってしまったので、尚更、御友別命との親交も深くなっていきました。

    故あってホムタワケ命が王国の政権を奪取することを目指した際、御友別命は下道氏のみならず、上道氏にも働きかけて全力でホムタワケ命の援助をしたのです。

    ホムタワケ命の政権奪取が成功して天皇になったとき、下道氏は天皇の庇護を受けて最高に栄え、備中の地も潤いました。

    この時点で下道氏は上道氏の上に立ち、吉備氏の本宗としての立場を確立していきます。そして後には吉備氏=下道氏となり、兄・弟の2系統あった家系も元から1本であったように作り替えられていったのです。

    大古墳である造山古墳は応神天皇から称えられた御友別命の廟です。また兄媛の廟は足守川をはさんだ北側にある円墳、小盛山古墳です。少し南に父の佐古田堂山古墳があります。
  • 『古事記』景行天皇巻では、吉備臣らの祖の「御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)」が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたことが記されている。

    『古事記』の「景行天皇」の巻、「倭建命の東国征討」の段
    (現代語訳)
     そこで天皇は、また重ねて倭建命に仰せられるには、「東方十二カ国の荒れすさぶ神や、また服従しない人々を平定し従わせよ」と命じて、吉備臣等の祖先の、名は御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)という人を副えて遣わされる時、柊の長い矛を授けられた。
     それで、勅命を受けて東国に下って行かれるとき、伊勢の大神宮に参って、神殿を礼拝し、やがてその叔母の倭比賣(ヤマトヒメノ)命に申されるには、「天皇は、まったくわたしを死んでしまえばよい、と思っておられるからでしょうか、どうして、西の方の悪い人々を討ちに遣わして、都に返り上って来てから、まだ幾らも時が経っていないのに、兵士らも下さらないで、今度は更に東国十二カ国の悪者どもの平定にお遣わしなさるのでしょう。これによって考えますと、やはり私などはまったく死んでしまえ、と天皇はお考えになっておられるのです」と申されて、嘆き泣き悲しんで出で立たれるとき、倭比賣命は草薙剣をお授けになり、また袋をもお授けになって、「もしも火急のことがあったら、この袋の口をお開けなさい」 と仰せになった。
    (以下省略)

    吉備武彦と、御鉏友耳建日子が同一人物かという点については、御鉏友耳建日子について『古事記』で吉備臣等の祖先と断っていることから、可能性は高いと思われる。

    吉備武彦の出自について『日本書紀』に記載はない。『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子とする。

    子については、『日本書紀』景行天皇51年8月4日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。また『日本書紀』応神天皇22年9月10日条・『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、子として浦凝別(苑臣祖)・御友別(吉備臣祖)・鴨別(笠臣祖)・兄媛(応神天皇妃)らの名が記されている。

    また『新撰姓氏録』右京皇別 廬原公条では、景行天皇の時に稚武彦命の孫の「吉備建彦命」は東方に派遣され、毛人を討って「阿倍廬原国」に到ったのち、天皇に復命した日に廬原国を賜ったとする。

    ここで、倭建命自身が吉備下道臣の女性を母に持っていることに注目したい。
    『古事記』で、12代景行天皇が、吉備臣等の始祖若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の娘針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)を娶って5名の皇子が生まれ、その3番目が倭建命だと記している。
    ここに登場する吉備臣等の始祖若建吉備津日子は、『古事記』の「孝霊記」に、「若建日子吉備津日子命は吉備の下道臣と笠臣の始祖」とある、若建日子吉備津日子命と同じ人物であると解釈してよいと思われる。

    この御鉏友耳建日子、あるいは吉備武彦が吉備下道臣の一族かということについては、「吉備臣らの祖」とあるだけなので断言はできないが、その可能性は高い。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。