彦坐王、日本武尊、息長氏

December 2018 編集されました カテゴリ: ヤマトタケル
image彦坐王、日本武尊、息長氏

彦坐王と日本武尊はともに皇族なのでこの流れは皇別氏族である。 日本武尊と妻(『記』不詳、『先代旧事本紀』では橘…

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コメント

  • 筑紫国造家のお膝元、背振山の南に末多君(めたのきみ)という息長宿禰の末裔が存在している。今の吉野ヶ里遺跡がある神崎郡三田川地域である
  • 香春岳旧社の祭神として祭られている息長帯姫大目命(おきながたらしひ・おおまの・みこと)という名前があることだ。例の英彦山にも祠があったとされる忍骨命の母親とされている。ここはまずは豊前秦氏のメッカで、香春神社は秦氏の祭った祭神であるはず。しかも近隣に敦賀のツヌガアラシトを祭る現人(あらひと)神社も存在し、ツヌガアラシトやアメノヒボコは多くは秦氏と関連付けられる渡来系の神々である
  • April 2016 編集されました
    倭建命と布多遅能伊理毘売命ー帯中津日子命/仲哀天皇

    倭建命と弟橘比売命ー若建王

    倭建命と布多遅比売命ー稲依別王(犬上君、建部君の祖)

    倭建命と大吉備建比売ー建貝児王

    倭建命と玖玖麻毛理比売ー足鏡別王(鎌倉之別、小津の石代之別、漁田(ふきた)之別の祖)

    倭建命とある妻ー息長田別王ー杙俣長日子王ー飯野真黒比売命/息長真若中比売/弟比売

    倭建命と弟橘比売命ー若建王(妻、飯野真黒比売命)ー須売伊呂大中日子王(妻、柴野比売)ー迦具漏比売(夫、景行天皇)ー大江王(妻、銀王)ー大中比売命(夫、仲哀天皇)ー香坂王、忍熊王を生む

    大中比売命は、
    書記では景行天皇皇子の日子人之大兄王の娘という
    仲哀天皇の妻となり香坂王、忍熊王を生む

    建貝児王は、讃岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首宮首之別の祖
    書記では吉備武彦の娘、吉備の大穴武媛との間に武卵王(綾君の祖)と十城別王(伊予別の祖)を生んだという。
  • 讃岐国造と神櫛王、鷲住王
    履中6年2月紀には,鮒魚磯別王の女太姫郎姫・高鶴野幌を嬢としたとあるが,「記』には みえない.2妃の兄鷲住王は住吉邑にいたとあるので,鯉魚別王は実在したとしても,中央居住の王族であったと考えられる.

    平中6年2月紀に鷲住王を 讃岐国造の祖としている

    景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君
  • 出典
    http://www.ten-f.com/kawachi-to-okinaga.htm
    仲哀帝は、大々杼黒城に嗣子の無いことを聞き及び、日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を黒城の娘・黒姫に配せしめられたが、二人の間には杭俣長日子王が産まれ、田別王は狭山池の水を引いて田を作り、息長河を掘って水を淀川に注がしめた。
  • 「様々に伝えられてきた継体帝の「系譜」を整理してみると、二つの「血筋」が浮かび上がります。先ず一つ目が応神帝の母・息長足姫尊(神功皇后)から息長宿禰王、山代之大筒木真若王、日子坐王、開化帝へと繋がる『神功ライン』であり、もう一つが伝説上の人物だとされる日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を「祖」とする『河内ライン』です。」

    「そして応神の妻の一人が田別王の子・杭俣長日子王(くまたナガひこ)の娘・息長真若中比売なのですから、ホムタワケ応神を核として、また仲哀帝をジョイント役にして二つの「聖なる」息長の血筋が何代かぶりに収斂していることになります。」
    出典
    http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55571313.html
  • 熱田神宮の元宮である氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町)には、向かいの氷上山頂に現在地よりもさらに元宮伝承地があって、そこに倭武
    天皇とミヤスヒメの居住地跡の石碑が見られます。ここでも倭武天皇です。
    この建造は明治時代と新しく、証拠文献になりませんが、、、、
  • 神門臣古禰(かんどのおみ こみ)を健部とお定めになった。
    健部郷、日置郷が置かれたところは出雲郡、神門郡といった西出雲にあたる地域

    波迦神社 出雲国風土記に「波如社」と記されている
    主祭神 倭建命・建部臣古彌命
    由緒 出雲国風土記に「景行天皇が “私の皇子の偉大な功名を永遠に忘れないようにしたい”と仰せられて、御子神の名を後世に伝えるための部族として、建部という姓を定められ、神門臣古彌を建部臣とされた。それでこの建部臣たちは今に至るまでこの郷に住んでいる」とある。
     このような理(ことわり)により、この地に御祭神二柱が御鎮座になっている。
    斐川町『田園空間博物館』

    天神。出雲国宇夜輝の山峯に天降りした。

    出雲国風土記、出雲郡建部郷の由来に、「先に宇夜の里と名づけたわけは、宇夜都弁の命が、その山に高天原からお降りになった。つまりその神の社が、今に至ってもやはりここに鎮座しておられる。だから、以前は宇夜の里といった。その後、改めて健部と名づけたわけは、纏向の槍代の宮で天下をお治めになった天皇(景行天皇)がおっしやったことには、「わたしの御子、倭健の命の御名を忘れまい」と仰せられて健部の制を定め給うた。その時、神門の臣古祢を、健部とお定めになった。そこで健部の臣らが、大昔から今になるまで、ずっとここに住まいしている。だがら、健部という。」とある。
  • 式内社 出雲國出雲郡 神代神社
    旧郷社

    御祭神
    宇夜都辨命
    相殿 大己貴命 大年神 誉田天皇

    島根県出雲市(旧斐川町)。
    荒神谷遺跡のそば、東の宇屋谷の丘の上にある。
    道路から大きな灯篭が見えるが、鳥居はない。

    狭く、暗く、なんとも怪しげな雰囲気の参道を登る。

    創祀年代は不詳。
    式内社・神代神社の論社で、出雲国風土記に「神代社」とある神社。

    延宝元年、高瀬城主米原氏によって八幡宮が勧請され
    明治までは、宇夜八幡宮と称していた。

    明治になって神代神社と改称し、明治四年郷社に列した。

    出雲国風土記に、
    宇夜都辨命が、山に降臨した地で、この神を祀った社がある地。
    宇夜の里といっていたが、「健部(たけるべ)」と名を変えたとある。
    その理由は、景行天皇が「朕が御子、倭健命の御名を忘れじ」と云ったため。
    その時に、神門臣古禰(=出雲振根)を健部と改名したともある。
  • 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。そこで日本武尊は言いました。
    「わたしは弓を射つのがうまい人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射つのがうまい人はいないものか」
    ある人が言いました。
    「美濃国(ミノノクニ)に弓を射るのがうまい人が居ます。弟彦公(オトヒコキミ)といいます」
    そこで日本武尊は葛城(カヅラキ)の人の宮戸彦(ミヤトヒコ)を派遣して、弟彦公を呼び寄せました。弟彦公はついでに石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タゴノイナキ)・乳近稻置(チチカノイナキ)を連れてきました。すぐに日本武尊に従ってついて行きました。
  • 常陸国風土記
    日本武=倭武に関係のあるところを列挙。(口訳・常陸国風土記さんのHPより)


    倭武(やまとたける) の天皇が、東の夷の国をお巡りになったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水をお褒めになり、
    そして手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となったともいふ。

    五、信太郡
    昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。

    六、茨城郡
    倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。

    七、行方郡
    倭武の天皇が、天の下を巡幸され、霞ケ浦より北を言向けられたとき、この国を過ぎ、槻野の清泉に出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。
     さらに車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。諺に「立雨(たちさめ)ふり、行方の国」といふ。また、この丘は、周囲からひときは高く顕はれて見える丘なので、現原(あらはら)と名付けられた。

    十、久慈郡
    郡家の南近くに、小さな丘があり、そのかたちが鯨に似てゐたことから、倭武の天皇が、久慈と名付けられた。
    ここから東北へ三十里のところに助川の駅がある。以前は遇鹿といったのは、むかし倭建の天皇が、ここに出かけられたとき、皇后様と行き逢ふことができたので、その名がついた。

    十一、多賀郡
    倭建の天皇が東国を巡られたときに、この野で宿をとられた。ここの村人がいふには、野には無数の鹿が群れ、その角は枯れた葦の原のやうで、息は朝霧の立つやうだ。海には八尺の鰒がゐて、その他の珍味や、鯉もゐるといふ。そこで天皇は野に出て、また橘皇后は海に出て、野と海で獲物の幸を競ふことになった。天皇の野での狩りには何も獲れなかったが、皇后の海では大漁だった。天皇は「野のものは得ずとも、海のものは飽きるほどだ」といはれたので、後に飽田村と名づけられた。
  • June 2016 編集されました
    羽咋神社
    石川県羽咋市川原町エ164
    由緒
      能登国羽咋郡の式内社。
     往古の当地の中心的豪族である羽咋君ゆかりの神社とされている。『古事記』垂仁記によれば、羽咋君の祖は垂仁天皇と山代の大国の淵の女弟刈羽田刀弁との間に生まれた石衝別王であり、これは『新撰姓氏録』にも記されている。また『先代旧事本紀』国造本紀には、雄略天皇の御代に石衝別命の児石城別王が羽咋国造に定められたとある。これにちなんで祭神は上記のようになっている。道反大神はは三俵苅神社の祭神という。
    平成祭礼データによれば
     磐衝別命、父君垂仁天皇の詔のまにまに羽咋に居を構え、農耕指導を中心に人民を愛撫し給い、その御子磐城別王命羽咋の国造となり、父の志を継ぎ善政をしき給えば、死後磐衝別命の母君弟苅羽田辨命と併せ、社殿を造り産土大神と斉奉り羽咋神社と称す。
     延喜式に登史され、明治十四年県社に列し、大正六年九月二十七日御祭神の両墓所宮内省より御治定、翌七年五月二十日聖旨により当社之金四千百円也る御下賜、同年十月二十三日東久邇宮殿下親しく幣帛を奠め王串を捧げられる。
     七塚、例祭日の唐戸山神事大相撲等祭神に関する伝説多し。

    五十日足彦命

    日本書紀』によると、垂仁妃・苅幡戸辺の子。
    兄:祖別命、本人:五十日足彦命、弟:胆武別命
    『古事記』によると、垂仁妃・苅羽田刀弁の子。
    兄:落別王、本人:五十日帯日子王、弟:伊登志別王
    『先代旧事本紀』によると、垂仁妃・薊瓊入媛の子。

    落別命は、『古事記』に登場する「落別王」で、第11代垂仁天皇と山代の大国之淵が女、刈羽田刀弁との間に生まれ、「小月の山の君(小槻山君氏)・三河の衣君の祖先である」と記される。一木造。黒い幞頭冠をかぶり、筒袖風の古風な袍を着る。『日本紀略』に、延喜11年(911)に「小杖神」に従四位下の位が授けられたことが記されている。この身分の衣は、朝廷の衣服令によると深緋色とされ、この木像の袍もまた朱色に彩色されている。滋賀県栗東市に残る神像の中では最も古いもののひとつで、古代における小槻山君氏の強い勢力がうかがえる。

  • June 2016 編集されました
    『夕田茶臼山古墳』 岐阜県指定史跡

     富加町夕田地区に所在します。丘陵の尾根の上に築かれた前方後円墳です。全長は39.5mで、出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀前半と判明しました。埋葬主体部の調査は行っていませんが、木棺直葬で保存状況は良好であると確認しました。築造方法は弥生時代の墳丘墓の伝統を引き継いでおり、美濃の前方後円墳の誕生を知る上で、非常に貴重な資料であるといえます。夕田地区には他に2基の前方後円墳(蓮野古墳、杉洞1号墳)があり、町内でも早くから開かれた地域であると考えられます

    富加町では、現在51基(岐阜県遺跡地図より)の古墳が確認されており、主に町内の丘陵地に、前方後円墳・円墳・方墳・群集墳など、様々な古墳が点在しています。確認されている古墳の数で言えば、美濃地方でも有数の古墳密集地であるといえます。近年には平成21~24年度に夕田茶臼山古墳の確認調査が実施され、岐阜県最古の前方後円墳であることが判明しました。また、町内大平賀地区に所在する「後平茶臼古墳」発掘調査では、朝顔型埴輪や円筒埴輪、馬具などが出土し、当地の古墳時代の解明に大きな前進がありました。

    縣主神社 (美濃加茂市) - Wikipedia

    創建時期は不明。社説に当地を治めた鴨県主が祖先の彦坐王を祀ったものといい、また彦坐王がこの地にやってきて治めていたのだが、その子孫が県主となり創建したともいうが、鎮座地付近には群集墳があり、当地を開発したであろう鴨県主一族との関連が疑われる。なお、彦坐王は美濃国本巣郡の豪族と思われる本巣国造の祖である神大根王の父王とされ、その神大根王は美濃国造ともされ、同国武芸(むげ)郡の豪族と思われる身毛津君(むげつのきみ)もその祖である大碓命が神大根王の女(むすめ)を娶るなど、本巣、武儀両郡に関係しており、そこから加茂郡とこの両郡は統治者が血縁関係にあって、それぞれが密接な関係を持ちつつ発展したものと考えられ、大宝2年(702年)の戸籍(『正倉院文書』)にも鴨県主と身毛津君との姻戚関係を窺わせる記録がある。
  • June 2016 編集されました
    岐阜県の『白鳥神社』
    岐阜県本巣市神海字東山597番地に鎮座する『白鳥神社』である。
    主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)

    岐阜県加茂郡七宗町白鳥9672番地の2に鎮座する『白鳥神社』である。
    由緒由来不明 
    異本武儀郡神名帳正五位下白鳥天神是なり。
    主祭神 倭建之命(やまとたけるのみこと)

    大縣神社(おおあがたじんじゃ)
    愛知県犬山市にある神社である。旧社格は、式内社(名神大)・尾張国二の宮・旧国幣中社・別表神社。社伝によれば「垂仁天皇27年(紀元前3年)に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とある。
    祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。 境内には、いくつかの境内社がある。かつては別宮二社、末社52社があったとされる。その中の一つの摂社の姫の宮には、玉姫命が祀られている(倉稲魂神とする説もある)。ここは古来より安産・子授など女性の守護神として崇敬されており、女陰をかたどった石などが奉納されている。これは小牧市田縣神社の男根に対応するものである。本宮山の山頂には、大縣大神の荒魂を祀る本宮社がある。


    「大縣神社」 (大県神社・延喜式内名神大社・旧国幣中社・尾張国二の宮・犬山市宮山鎮座)
     (おおあがた神社)

    御祭神:大縣大神

    当社ははじめ本宮山の頂に鎮座していたのを垂仁天皇27年に現在地に遷座とされる。(紀元前3年)
    延喜式内の名神大社。
    尾張国二ノ宮として崇敬され、大正7年に国幣中社に列格。社殿は尾張藩主二代目徳川光友再興の建造物で尾張造、国重要文化財に指定。
    本宮山(293メートル)頂上には奥社「本宮社」が鎮座しており大縣大神荒魂を祀る。

    境内社
    姫之宮 御祭神は大荒田命の御子玉姫命を祀る。
    大国恵比須神社 大国主神・事代主神を祀る。

    また同神社は、愛知県で二番目に大きい前方後円墳である茶臼山古墳(青塚古墳)も管理している。付近には、円墳などの古墳群が点在する。
    青塚古墳は、犬山市南部に位置する。墳長は123メートル、後円部は直径78メートル・高さ12メートル、前方部は長さ45メートル・幅62メートル・高さ7メートルの前方後円墳で、愛知県内の古墳では断夫山古墳に次いで2番目の規模の古墳である。古墳時代前期の4世紀半ばに造営されたと考えられている。頂上部には、三等三角点(標高43.39メートル、点名「学伝」)が設置されている。

    大縣神社飛地境内地。大荒田命の墳墓と伝えられる。愛知県下で二番目に大きい前方後円墳。

    小牧市の田縣神社
    御歳神(ミトシノカミ)玉姫命(タマヒメノミコト)
     御歳神は素戔嗚尊(スサノオノミコオ)の孫で、大歳神(オオトシノカミ)の子。農業をつかさどる神様で五穀豊穣の守護神です。
     玉姫命は尾張地方開拓の祖神である大荒田命(オオアラタノミコト)の王女。尾張氏の健稲種命(タケイナダネノミコト)の妃。二男四女の子宝に恵まれましたが、夫亡き後は故郷荒田の里(現鎮座地)に帰り、父を助け開拓に励み、子女教育に勉められ、その功績を称え、後に合祀しました。
    御歳神について『古語拾遺』には、次のような神話が記されております。あるとき土地の者が田植えの前に百姓に牛肉を食べさせました。それを知った御歳神は大変怒り、田に蝗(いなご)を放して稲を枯らしてしまいます。困った土地の者達は、御歳神に白猪・白鶏・白馬を捧げて謝罪します。御歳神はこれを許し、糸巻き・麻の葉・鳥扇等と共に男茎を用いた蝗除けのまじないを教えました。こうして稲はもとの緑色を取り戻し、田は豊作となったと言います。

     また当神社に合祀された玉姫命は、『尾張国熱田太神宮縁記』などの史料によると、爾波縣君祖大荒田命の娘として生まれ、尾張氏の建稲種命と結婚しました。子宝にも恵まれて幸せに暮らしていた夫婦でしたが、建稲種命は日本武尊のお供として出征し、遠江で運悪く戦死してしまいます。一人残された玉姫命でしたが、故郷に戻った後は母親として立派に子供達を育てあげ、民達のお手本として懸命に働き、在地の発展と子孫繁栄を成し遂げたそうです。
  • 式内社 尾張五社 針綱神社
    愛知県犬山市鎮座
    御祭神
    尾治針名根連命(主祭神、おわりはりなねむらじのみこと)
    玉姫命 伊邪那岐命 菊理姫命 大己貴命
    建筒草命 建多乎利命 建稲種命 尻調根命(尾綱根命) 大荒田命

    御由緒
     針綱神社は延喜式神名帳所載の式内社です。太古より犬山の峰(現在の犬山城天守閣付近)に鎮座され、濃尾の総鎮守でありました。
     創建年は不明ですが、延喜式に記載されていることから1000年以上この犬山の地に鎮座しています。
     先述の通り、古くは現在の犬山城天守閣付近に鎮座していましたが、天文6年(1537年)犬山城築城に際し、白山平(現在地より東方にある山)に遷座、その後の慶長11年(1606年)市内名栗町に遷座されています。そして明治維新の後の明治15年(1882年)、現在の場所に再び遷座されました。過去鎮座された白山平(小島町)と名栗町には犬山祭の際、御神輿が渡御されます。
  • ホムチワケの母(狭穂姫)は、開化天皇の孫で、狭穂彦王の妹です。古事記、日本書紀で語られる狭穂彦王の叛乱は、
    “「崇神 - 垂仁」に対立する「彦坐王 - 狭穂彦」の皇統があったとする説もある。”
    ようです。

  • June 2016 編集されました
    一宮大明神 大宜都比売命
    大阿波姫命、伊古那姫命

    当社は大宜都比売命を奉祭社に而御座候。
    此神粟を作り初め給う故、大粟姫命と申奉る。御神系は伊奘諾尊、伊将冊尊二柱の御神の御子にて、伊予国大三島に御鎮座始めは伊予国丹生之内より、神領村に御鎮座あり、其後鬼籠野村に御鎮座ありといへども年月不分明其後人皇十三代成務天皇御宇日本武尊の御子息長田別皇子阿波国造となり給ひ府中村に在し給ひし時、大宜都姫神を崇敬し給ひ一宮村に鎮座なさしめ給ふよしに候。(略)
    其御四十五代聖武天皇勅願として、天平年中諸国に一宮国分寺に建立ましまし候節、大宜都比売命を阿波国一宮大明神と被成由。依而地名も一宮村と申候。
    其後 五十二代嵯峨天皇御宇 弘仁年中 弘法大師四国順拝の時一宮大明神を十三番札所に入即詠歌に「阿波の国 一宮とはゆうたすきかけて たのめよこの世 後の世」
    其後 元暦の比 源義経平家追討のため讃州八島へ御発向の砌り一宮村滝下と申所御通り被成候時一宮大明神遥拝あり、中指の鏑矢二筋宮御願書等其辺の松に御かけ被成候。由申伝候。
    只今其所を伏拝八幡と勧請仕一宮末社にて御座候。
    八島の軍勝利を得給ひ凱陣の節 永楽銭三千貫御寄附ありし由申伝え候。其後天正の乱の時 長曽我部のため社を焼失され神耺長門守も歿落の砌 御願書も灰燼と相成候由申伝候。
    一社伝云。大阿波姫命 鹿に乗せられ伊予国大三島へ通はせ給ふ御使の鹿も伊予国に毎々通ひけるに女鹿は麻植郡にて殺されけるとぞ。殺人も神罰にて家断絶しけるとなん。故に一宮末社の中に鹿ノ社とてあり。
    大阿波姫命伊予へ通はせ給ふ折から高越の神と闘争し給ふ事ましまし互に石を投げ合給ふ中に立て御扱の神あり。
    その石歯に中りて甚疼み給ふ故此後歯を疼むものは吾快くして得さすべしと宣ふ御誓ひにて、今に広野村行者野に歯辻明神とて小社あり。
    右投げ合いし石 入田村大畠と申所の山上に数万の河原石あり。この争の後は大三島への御通ひ路を深く忍び給ひ候由申伝候。
    前に記す女鹿は殺された男鹿まで残り折々は神使に参りしを北方辺にて見たるものも有之由承候然れ共是等の事は神変にて是ぞと申慥なる証拠御座なく候。

    右高越神と一宮神と御争の証しと申は今に一宮氏子の者は高越参詣不仕勿論縁組等も不仕候。

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    一宮大明神の氏子はその後、高越大権現の参拝は絶対に行わず、高越大権現の氏子との婚姻は不可とされたことです。これについては一宮大明神氏子のプライドの高さと根底に鬱積が浸漬し、その恨み(?)を代々継承していたと確認できる
    ----
    上一宮大粟神社 御縁起
    鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
    又の御名
    御祭神 大宜都比売命 又の御名 天石門別八倉比売命、大粟比売命
    御例祭 歳旦祭(一月一日)
    例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
    新嘗祭(十二月十一日)
    一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
    一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
    一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
    一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
    撰 宮司 阿部千二     氏子会     大粟山保勝会
  • June 2016 編集されました
    小松島市中田町に鎮座いたします「建島女祖命神社(たつしまめおやのみことじんじゃ)」。
    ここは、滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する、木津荘の惣社である波爾布神社(はにふじんじゃ)が天平13年に御祭神である「波爾山比賣命(はにやまひめのみこと)」を勧請した。
    まあ、カッコ内のはなしは置いといて、
    聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平13年3月神輿一基、神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。
    事より、近畿圏内では「波爾山比賣命」といえば、この神社を指していたそうです。
  • 楯原神社
    大阪府大阪市平野区喜連6丁目

    祭神は、武甕槌命と大国主命

    『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡に、「楯原神社」がみえます。
    社伝に、崇神天皇の治世六年、当地の国造・大々杼名黒が国造館に奉斎していた国平大神と武甕槌命を同床共殿に祀るのは恐れ多いので、別殿を造営するよう詔を受けたことにより、武甕槌命を楯之御前社、国平大神を鉾之御前社としたのが創建といいます。
    神功皇后の時代に、楯之御前社の社号を楯原神社に改めたとされます。
    武甕槌命は神去る際に孫の大々杼命へ、自らの佩剣を霊代として祀るように命じ、子孫の大々杼彦仁は神武東征にあたって、神宣によりその十握剣を持って熊野へ赴き、これを奉ったため大和平定の功が成ったといいます。彦仁は功績により大々杼国造に任じられ剣臣の名を賜ったとされますが、古代史上にはこのような国造の存在は確認できません。
    武甕槌命の佩剣が熊野に天降り、高倉下を経て神武天皇に献上される話は『記』『紀』に見え、石上神宮の古社伝、もしくは物部氏伝承を原資料とすると見られますが、これを元に改変したか、異を唱える内容といえます。
  • July 2017 編集されました
    忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。

    日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。

    百師木伊呂弁 ももしきのいろべ

    「古事記」にみえる女性。
    応神天皇の皇子である若野毛二俣(わかぬけふたまたの)王(稚野毛二派皇子)の妻。二俣王の母息長真若中比売(おきながまわかなかひめ)の妹。意富富杼(おおほどの)王ら7人の子を生んだ。別名に弟日売真若比売命(おとひめまわかひめのみこと)。
  • 記紀の衣通姫

    『古事記』には、允恭天皇皇女[1]の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名[1]とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。

    『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ[1]、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み[1]、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。
  • 『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。

    四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされている。

    東宮山古墳   四国縦貫自動車道三島川之江インターチェンジの東に東宮山がある。海抜80㍍ほどの小高い独立丘を成す山。裾野は住宅と田圃が混在するのどかな田園地帯である。
      急な石段を登ると、山の頂上に直径約15㍍の円墳状の古墳がある。東宮山古墳と通称され、宮内庁の管理墓。 被葬者は允恭天皇の皇子・木梨軽太子。古事記は、同母妹の軽大娘女との道ならぬ恋の末、伊予に流され、太子はあとを追って当地にやってきた大娘女と心中したと伝えている。
      東宮山古墳はまた、内行花文鏡、金銀透彫帯冠、衝角式甲、馬鐸等々目を見張る副葬品が出土した古墳としてよく知られている。陪塚とみられる近くの古墳から弥生期の銅鉾などが出土している。
      古墳と木梨軽太子あるいは軽大娘女とのかかわりについて、古事記と日本書紀の記述が異なることなどから墳墓の比定等につき諸説がある。馬鐸など副葬武具の豊富さ、特異さなどから単純にこの王墓が武具の生産ないし流通に深くかかわった王族墓ではないかと考えてしまうが、その王こそが当地の豪族と何らかの縁があった木梨軽太子ではなかったか。中央での権力闘争の敗北や悲恋が重なって、太子縁の伊予に向かわせたのではないだろうか。いろいろと夢のある古墳である。-平成16年8月-
  •  川之江市に伝わる伝承は次のようなものです。瀬戸内海を伊予に流されて行く途中、川之江沖で木梨軽王子は嵐に遭い、からくも海岸に漂着しました。「そこから先へは行くに及ばす」という中央の赦しがあったのかどうか、木梨軽王子は流刑予定地の伊予の湯(松山市の道後温泉)まで行くこともなく、そのままその地に定住することになりました。後に軽大郎女も王子を慕って伊予まで追って来ましたが、近親相姦は獣の行為と現地の人々にも忌み嫌われたのでしょうか、心中して果てます。

    木梨軽王子の陵は「東宮山陵墓参考地」として川之江市に残されています。場所は高速道路「三島川之江インターチェンジ」のすぐ東の小高い丘で、東宮山古墳(とうぐうさんこふん)と呼ばれています。横穴式石室を持つ円墳で、石棺は盗掘を免れたため内行花文鏡(ないこうかもんきょう)・衝角付冑(ついかくつきかぶと)・金透彫帯冠(きんすかしぼりたいかん)などの多数の副葬品が出土し、現在は宮内庁に収蔵されているそうです。また、この古墳のそばには王子を祀る東宮神社があり、契川・姫原・相寝の浜・恋の池など、軽兄妹ゆかりの地名が残っているそうです。

  • July 2017 編集されました
    飯積神社

    飯積神社(いいづみじんじゃ)は西条市下島山(しもしまやま)に鎮座する旧郷社である

    「下島山村」(新居郡・島山郷・大町組)
    村名之事、島とは、海中にある山を云也、 當村ハ、海邊の舩屋村に隣り、海近けれバ、徃古ハ潮のぼり、 山皆ナ海中の【島の】如く見ヘしより、此村名を得たるなるべしと云ものあり、 地形を来り観れば、其謂あるに似たり、 いつの頃よりか、村を上下に分ち、上島山村、下島山村あり、
    飯積神社の社叢
    往古は島か、海に囲まれた小高い岡だったようである。『西條誌』の絵図を見ても、飯積社のすぐそばまで海岸線が迫っているように見える。
    飯積ハ、山の名也、田の中に小高く起り、上に神 社を建ツ山に櫟樹多し、旧ハ潮水のぼる、 仲哀天皇、神功皇后、龍舟に駕して當山に着玉 ひ、櫟を折て笏となし玉ふと云事、社傳に見へ たり、舩着なれば櫟津と名く、名所にて古歌あり、

    この櫟津の岡の上にある。創始の年代は不明だが、祭神は5座である。首座が倉稲魂神(うかのみたまのかみ)とあり、飯積神社の社名からも稲魂(いなだま)を祀っているのだろう。社紋も稲穂になっている。神社の話では外宮の豊受神(とゆけのかみ)を奉祭し、伊曽乃神社の天照大神に対応させているとのことだが、倉稲魂神と同神だとも言っておられた。次に伝承による足仲彦尊(仲哀天皇)と気長足姫尊(神功皇后)、それに国魂愛比売、十城別王(とおきわけのみこ)である。

    十城別王については、飯積神社の標柱に「武国凝別命の孫、十城別命」との説明がある。地元の説とのことで、和気系図あたりに依拠するものかもしれない。ただし、系図に名があっても、その当時に十城別王が着任して、後に伊予和気の3代目にされていることもあり得る。直系の子孫でない場合もあり得るので、何とも言えない。
    十城別王は、『日本書紀』によると、吉備武彦の女(むすめ)吉備穴戸武媛(きびあなとたけひめ)と日本武尊との間に生まれた子とある。
    吉備穴戸武媛は妃として、武卵王と十城別王を生んだ。武卵王は讃岐綾君の先祖である。十城別王は伊予別君の先祖である。
    と記されていて、武卵王(たけかいごのきみ)とは兄弟だとされている。
    一方『古事記』では、吉備穴戸武媛は吉備武彦の妹(いも)となっていて、子は建貝児王(たけかいこのみこ)1柱のみを記し、
    讃岐綾君、伊勢之別、登袁別(とおのわけ)、麻佐首(まさのおびと)、宮首之別(みやのおびとのわけ)等の祖
    と説明している。
    これは、讃岐から伊予にかけての皇族の後裔を一括して説明しているように推察される。が、ここにある登袁別(とおのわけ)の先祖がおそらく十城別王であろう。武卵王の母が吉備武彦の女(むすめ)ではなく『古事記』では妹となっているため、十城別王が武卵王の子ではないかと考えられたところから、武卵王を「登袁別(とおのわけ)祖」としているのではないだろうか。その辺ははっきりしない。
  • 『古事記』の「伊勢之別」

    『古事記』の「伊勢之別」については、多くが「伊予之別」の誤記としているが、、、、、

    もしかしたら『古事記』編纂の当時、伊予御村を伊勢の別れと認識していたがために、あえてこの表現を採っているのではないだろうか。だとしたら、伊曽乃神社の祭神が当時から天照大神であったことの一証にもなりそうである。それに、これが伊予之別なら、「登袁別(とおのわけ)」と重複することにもなるだろう。
    これらの命はみな景行天皇の同族であったために、子孫も互いに関連があったものと推測される。後世の姻戚関係によってもいろいろ変わってくる。因みに、麻佐首(まさのおびと)は味酒(みさけ、まさけ)で、宮首之別は宮窪(みやくぼ)のことでもあろうか。東から順番に並記されているようだ。
    また、飯積神社の祭神にこの十城別王が祀られていることから、十城別王は西条に居住したのではないかとの説も考えられなくはない。しかし、西条では十城別王の伝承は何も聞かない。完全に否定するわけではないが、まず、ないだろうと思う。十城別の十は登袁(とお)に当てたものであり、城は村の意味であるから、十城は「登袁村」になり、「御村」を三村や御城としている用法と同じである。登袁別(とおのわけ)はたぶん、遠くの方の別と言う意味で、十城と同じ土地を言うのであろう。伊予の国にもいろいろ別があるが、東予地方では御村別、中予地方では伊予別が代表的な例である。どこから見て遠い方かと言えば、大和地方から見てであるから、近いほうが御村別であるなら、遠いほうの別は伊予別、つまり、現在の松山市の和気あたりを中心とした地域を指していることになる。おそらく、十城別王はこの地にいたのであろう。
    そのことは、次の点からも補説できる。一は『日本書紀』に「伊予別君の先祖」と書かれているが、これは伊予国全体ではなく、普通、伊予地方の和気郡(現在は松山市)のこととされている。二はこの和気郡には阿沼美神社(あぬみじんじゃ)があり、ここに武国凝別命と十城別王の宮があったとの伝承が残されている。三に飯積神社には十城別王のほかに国魂愛比売命(くにたまえひめのみこと)が合祀されているが、愛比売命は伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ。通称椿さん)など松山周辺の祭神に多く見られる神名であるので、十城別王とともに、そちらから勧請したことが考えられる。
  • 岐阜県山県郡美山町柿野にある柿野神社
    社記には、
    「日本武尊が牛に乗って大碓命の後を尋ね、乱賊を征伐しながら当地にやって来たので、のちにその心霊を奉斎したものである。」

    と書かれている。

    『記紀』にあるようなヲウスの残酷さは、この社記からはうかがえない。
    全国にヤマトタケルを祭神とする神社は大変多い。しかし、ヲウスを祀る神社はほとんどない。言わずと知れた皇祖神アマテラスは、その本名であるオオヒルメムチの名で祀られていることが多くみられる。ヤマトタケルはなぜ、ヲウスという名で祀られることがないのか。それは、ヲウスとヤマトタケルとは、本来別人であったから、、、、?
  • おそらく、オオウスは何らかの理由で、「大和」から逃げ出しだのだろう。『日本書紀』はその理由を、景行天皇により美濃国に遣わされたオオウスは、「美濃国」の美人姉妹と通じて復命しなかったと記すが、「美濃」と通じたことは案外本当なのかも知れない。

    オオウスは、原ヤマト政権の皇太子であったと思う。ところが、「美濃」から戻ることがなかったため、弟のオウスが皇太子に任ぜられたのであろう。
    さらに『記紀』は同時にもう一人の皇太子を記している。イホキイリヒコである
  • ヤマトタケルを総大将とする東国遠征軍は、吉備、大伴、久米の各武将を率いて、「大和」から「伊勢」を経て「尾張」へ入っている。
    「尾張」の駐留地は、現在の名古屋市緑区大高町にある氷上神社である。
    ここの元宮が同地火上山山頂にあるが、ここが当時の尾張の本拠地だったらしい。

    ここで新たにタケイナダネが参軍し、一行は現在の名古屋市緑区鳴海町の「成海神社」から出航しているらしく、成海神社では、ヤマトタケルの出航故事を伝える「御舟流しの祭り」が伝承されている。

    最初の上陸地は、静岡県清水市であるらしく、ヤマトタケル軍の武器庫伝承がある、矢倉神社(清水市矢倉町)が遺跡であるらしい。
  • タケイナダネという人物は実に不思議な人で、『熱田太神宮縁起』では、ヤマトタケルに参軍した武将として、『先代旧事本紀』では丹波国国造として、七十二巻本の『先代旧事本紀大成経』では、神功皇后とともに新羅遠征で活躍した武将
    として書かれている。

    つまり、その名声とは裏腹に、実年代がはっきりしないのである。
      
    タケイナダネの名前にみられる「建(武)」の文字は、武勇に優れた人物に与えられる称号であり、「建御名方命」や「武甕槌命」、「建速素戔嗚命」すべて勇武な人物ばかりである。
  • 「宮簀媛」の名は『海部氏本紀』にはない。ー小椋一葉氏は、「宮簀媛」は本来「宮主媛」であったのだろうと述べているが、そうであれば「宮簀媛」という固有名詞ではなく、「天叢雲剣」を斉祀る宮の主とい
     う普通名詞であろう。

    『古事記』は、「宮簀媛」が尾張国造の祖であるという。国造とは今で言う県知事みたいなものだから、尾張国女王といっても差し支えない。

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