大伯国造、吉備海部、牛窓、天日方奇日方命、神祝命

December 2018 編集されました カテゴリ: 神武ー開化
image大伯国造、吉備海部、牛窓、天日方奇日方命、神祝命

吉備の牛窓 瀬戸内海に南面した、岡山県瀬戸内市牛窓には、牛窓天神山古墳をはじめ、5基の大型前方後円墳が残る。 …

Read the full story here


タグ付けされた:
«1

コメント

  • 景行天皇の18年4月条、『海路より葦北の小嶋に泊りて、進食(みをし)す。時に、山部阿弭古(やまべのあびこ)が祖小左を召して、冷き水(みもひ)を進(たてまつ)らしむ。』(紀上 294頁)

    日本書紀で初見となる『山部』氏の、その『阿弭古』なる名は「熊本県上天草市松島町『阿』村」を拠点とした『阿多海人族の小左(をさ・長)』を『祖』とし、『阿蘇の高橋氏』や『阿蘇神官家の山部氏』も歴史的背景は同じだったのでは???
  • 肥前国風土記にも「浮穴」が出てくる。
    彼杵郡・浮穴郷 例によってツチグモ征伐した話。次に抄出しておく。

    彼杵郡・・・浮穴郷 郡の北にあり同じ天皇(景行天皇)、宇佐の浜の行宮に在まして、神代直に詔りたまひしく、「朕、諸国を暦巡りて、既に平け治むるに至れり。未だ朕が治を被らざる異しき徒ありや」と。神代直奏ししく「その烟の起てる村は、猶治を被らず」と。やがて、直に勅せて、この村に遣りたまふに、土蜘蛛あり、名を浮穴沫媛といふ。皇命に捍ひて甚く礼なければ(甚だ無礼)、やがて誅ひき。よりて浮穴の郷といふ。
     彼杵郡を地図で見てみると、そこには、七釜鍾乳洞(西海市西海町中浦北郷2541-1) が見つかる。「浮穴」とは、、、やはり鍾乳洞か。

    なお、浮穴を現在の有喜町に比定する説がある。しかし、肥前国風土記では「郡北」にあるということと、有喜町は高来郡に属するとして、吉田東伍さんも否定的。その吉田さんが浮穴は「長崎より西南、野母肥御崎までかけてをいう名なるべし」とするのも「郡北」に全く合わず不審だ。
  • 山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。

     この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。

    久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた(『加世田市史』)。これはその地方に久米族のいた動かぬ証拠である。そこは南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多は知る通り阿多隼人の本拠である。こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。

  • 〒501-6209 岐阜県羽島市足近町直道1088番地の2

    由緒由来
    勧請年紀不詳。葉栗郡西門間荘足近郷直道村に鎮座。旧号八剣宮。古来足近郷十ヶ村の惣社なり。十ヶ村は直道村、川口村、島村、南川村、市場村、小荒井村、南宿、村北宿村、坂井村、東小熊村を云ふ。古へ尾張國葉栗郡の内なり。延喜式神名帳に曰く、尾張國葉栗郡(十二座の内)阿遅加神社。尾張國神名帳は葉栗郡(十二座の内)従三位阿遅加天神(一本作正四位下)は当社なり。尾張國神名帳集説に曰く、従三位阿遅加天神一本作足近按日本紀に曰く、応神天皇二十年倭漢直祖阿知便主来皈云。万葉集曰く味?綾云々阿知織欣秘曰く、旧日本事記曰く、宇麻志麻能命十五世物部阿遅古建公云々。加與古昔通蓋祭此連公。尾張志曰く、足近今は美濃國足近荘直道村は八剣社是なり。又濃陽志略に曰く、葉栗郡直道村八剣宮伝云為足近十郷惣社云々。新撰美濃志曰く、直道村云々。郡村記には、足近荘とす。足近は十郷ありてここを本所とす。境川は村の西北にあり。昔は足近川と云ひしにや。東鑑に文治九年十月二十五日云々可令田足近洲俣渡云々。俣嘉禎四年二月九日西去夜風雨洲俣足近両河浮橋流損云々。里伝曰く、当社八剣神を祭れる由、其の所以は往昔日本武尊東夷征討ふる時皈途尾張國尾張氏の女宮簀媛所に逗留し給ひし所、近江國伊吹山に荒神ありと聞き給ひて此処を出にして息吹山へ行き給ふ時、海東海西中島の三國を経て葉栗郡に入り給ふ。即ち現今の社地栄井に霊泉あり。依て暫の憩給ふ時に御饌を奉りしに、其した愛で給ひて味佳と記し給ひてあり。即ち阿遅加の地名は起こるなり。斯くて後伊勢國能褒野にて薨じ給ふ。御子若武彦王は深く是を悲悼し給ひ父命の憩給ひし此処に宮造りて其の跡を残し給ふ。即今の阿遅加神社の地是なり。

  • 阿遅古連

    肥前風土記、姫社占いは、神功摂政
    姫社の郷(ひめこそ)・・・荒ぶる神を鎮める話
    道行く人が倒れるので、宗像郡の阿遅古連が祀るようにと、荒神が催促する。
    阿遅古連が占う。幡を飛ばして落ちた所は、姫社の社だった。女神と解り、姫社神社とした。小郡市大崎町:七夕神社(肥前風土記)です。
    ここは、宝満川流域で、下流で筑後川と合流する。

    アジコではなく、漢音アチコ、呉音アジク、です。
    阿遅古は、漢音アチコです。従って、閼智古と同じです。

    閼智古は、閼智の箱の義です。この場合、女神でした。後述の女山と関係します。

    御勢大霊石神社(小郡市大保)
    仲哀と神功皇后ゆかりの地です。副神(そえかみ)の天照大神を祀る。
    仲哀の熊曾と戦った現地です。神功は、神護石(こうごいし)を得て、豊前新羅征伐に切り替わるところです。

    豊前の閼川(一般名詞)
    阿川、於川、小川の音で、太子川(彦山川)です。田川市を流れます。天忍穂見命は、天照大神の系譜で、太子です。閼の字に注目。

    宗像郡の阿遅古連は、胸形
    大巳貴は、宗像三女神の長女と結婚しています。
    大巳貴の別名八千矛命は、沼名川姫をも貰って居ました。
  • 吉備の姫社神社

    交通案内 伯備線豪渓駅から高梁川を南に渡り、上流へ1km

    祭神 比賣許曾神



    由緒
     比賣許曾神は、天日槍命により新羅国から追いかけられた女神である。阿迦留姫命と言う。
     列島への上陸は筑前国怡土郡(高祖神社)、筑後国御原郡(媛社神社)、豊後国国東郡姫島(比賣語曽社)、摂津国のルートのようで、クッキリと足跡が残っている珍しい神である。当社の鎮座の歴史は不明だが、阿迦留姫命が立ち寄ったのかも知れない。
     当地は地名を秦と言う。兵主ー天日槍ー秦、この関係は西日本に多く見える所である。 当地もごたぶんに漏れないようだ。

     上田正昭著『東アジアと海上の道』には以下のように当社のことが記されている。
     岡山県総社市の秦村福谷、姫社神社があるということを聞いた。この地の小幡さんと言うお家、古い居住者なのだが、そこへおじゃまをして文書を見せていただいた。その文書にも室町時代にヒメコソ祭りの行なわれていたことが記されてあった。少なくとも室町時代にはこの姫社神社の祭りがあったということは間違いない。この地は高梁川の上流に位置する。それを加えるとヒメコソの分布は来た九州とそれから岡山県、昔の吉備国、播磨というふうに瀬戸内海周辺に分布していることがわかる。

     天日槍命や阿迦留姫命は秦氏の産鉄民が齋祀った神であり、真金吹く吉備の地に祀られている当社は、神社境内にある標識のように鉄造の神社であろうが、この付近の土壌には鉄が多いようには思えなかった。
     当社のことは天文年間(1532~1554年)の古文書に書かれているようだ。これが上田先生の見た古文書だろう
  • 大物主大神
       ・
       ・――――――――――大田田根子命(三輪君等始祖)
       ・
    活玉依ヒメ(陶津耳之女)
    (または奇日方天日方茅ヌ祇女)


    記と紀では、古事記は神君(みわのきみ)と鴨君(かものきみ)の祖と書くのに対して、日本書紀は三輪君だけをあげている。鴨君は「丹塗り矢伝説」を持つゆえに祖先は三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の系譜から出ており、これは後世の付会である。(阿部真司)

    ■陶津耳
    須恵器集団の長という名前である。
    河内の美努村というのがいわゆる陶邑のことで、泉北地方である。
    つまり疫病神、祟り神としての大物主を入れる壷を作るという意味になる。
    その壷とはすなわち墓のことである。
    前方後円墳がそうであるように壷形とは=子宮=母なる大地神の胎内であり、祟りなす暴れ神を母の胎内に押し戻し鎮魂するのが陶の陶器集団だったオオタタネコ、三輪君の役目だということになろう。壷とは籠同様、悪霊を封じ込めることができる祭器でもあった。

    大阪府の泉北丘陵に古事記が「河内の美努村」、日本書紀が「茅ヌ県陶邑」と書いた陶器製造遺跡が存在する。広くは旧陶邑で、「見野」村が含まれるから、正しくは河内の泉国の陶コクユウにある見野村になる。
    「邑」には村よりも「国邑コクユウ」の意味が強い。
    考古学的に5世紀前半から15世紀ころまで存続。半島渡来技術集団がいた場所である。最盛期は6世紀。
  • 牛窓町史」(2001年牛窓町)によると、
    「邑久郡は、和銅6年(713年)の地名改正以前は、大伯(おおく)郡と表記されていた。
    当初の郡域は、東は播磨国境から、西は吉井川まで。北は美作国境という広大なものが、かっての大伯国造の統治範囲だった」と書いている。

    仁徳天皇が饗応を受けた、山方の名を持つ山方村は、吉井川上流の岡山県赤磐郡にあった村。
    また、饗応を受けた場所を、赤磐市是里にある宗形神社とする伝承もある。

    いずれの地も、美作との国境に極めて近い場所。そこまで、吉備海部直の支配が及んでいたということになる。
    これは、大伯国造を兼ねていたからか
  • <神祝命7世孫大伯国造>
    大伯国造の任命時期は応神朝。

    葛城国造(後の葛城直)三島剣根のいとこで、天日方奇日方命
    (あまひかたくしひかたのみこと)。

    ニギハヤヒ命と三島玉櫛媛の間には、一男二女。
    天日方奇日方命(大物主家祖)
    五十鈴媛(神武后)
    五十鈴依媛(綏靖后)

    吉備古代史の核心ともいえる、備中一宮吉備津神社。その本殿の外陣西南隅に、吉備海部直の祖が祀られている。

    櫛振(吉備海部直祖)
    小奇(同、女)
    真振(同、男)

    小奇と真振は、櫛振の子供とされる。櫛(くし)と奇(くし)。

    ニギハヤヒ命は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が、正式な御名。
    そして、御子の天日方奇日方命は、先代旧事本紀によれば、またの名、阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)。「くし」が、大物主家出身の証拠と見る。

    ホツマツタエでは、アタツクシネ(天櫛根命)を、天日方奇日方命と日向カンドミラ媛の間に生まれた御子とする。
    カンドとは、大和入りした神武に代り、統治を託された代王。その血が、大物主家に入っている。

    天日方奇日方命の女(ホツマでは孫)ヌナソ媛は、 r3代安寧天皇の皇后となり、懿徳天皇を生む。

    ホツマツタエには、アタツクシネについて、「大三輪社を造り、神名備を祀る。
    大三輪の姓を賜り、綏靖の大物主となる」とある。

    一族は、大物主として代々務めるが、開化天皇の時、オオミケヌシ命が、イカガシコメの立后に反対し、宮中から追放されてしまう。しかし、崇神朝に、オオタタネコが大三輪社の祀りに復帰する

  • 神皇産霊尊

    大国主が、八十神の迫害を受け、焼けた石で火傷をして死にそうになった時、 治療をさせた、あるいは蘇らせた。

    また、大国主神の国土経営の際、御子・少名毘古那神を派遣して 「神産巣日神の御子少名毘古那神なりと答白しき。故に爾に神産巣日御祖命に白し上げしかば、此は実に我が子なり。 子の中に、我が手俣よりくきし子なり。故れ汝葦原色許男命と兄弟と為りて、その国を作り堅めよとのたまひき」

    また、高御産巣日神、神産巣日神をそれぞれ男神、女神とする説があり、 高天原に鎮まる天津神、「皇親神留伎命」「皇親神留弥命」で
  • スクナヒコナ
    久延毘古(案山子)に「神産巣日神の御子少名毘古那神である」と聞いた大国主神が、 神産巣日神にこの旨申し上げると、神は「これは確かにわが子だ。私の手の俣より落ちこぼれた子である。 あなたと兄弟の契りを結んで国を作り堅めよ」と言われたので、 二人でこの国を経営した、その後少名毘古那神は常世の国へ渡られてしまう。


    『伊予風土記逸文』では、大穴持命(大国主神)が病に伏したとき、少彦名神が癒そうとして、 大分の速見湯を下樋から持ってきて浴みさせると、やがて回復した。これが伊予湯郡の温泉(道後温泉)の源である。

    大国主・少彦名の二神を温泉神とする信仰は、広く崇められており、 また、医療や禁厭の法の制定者でもあり、 さらにまた神功皇后の大神神社での酒の神としての御歌もあり酒の神としての信仰も強い。 久斯神とは、酒の神の意味。
  • 天日方櫛日方命
    鴨部美良姫命 (かもべのみらひめのみこと)は、もともとこの土地をまとめていた豪族 和邇氏(わにうじ)の阿田賀田須命(あたかたすのみこと)の妻で、その子供が大直禰子(おおたたねこ)と伝えられています。
  • 古事記では、大物主が陶津耳の娘、活玉依毘賣を娶って産ませた子を「櫛御方」とする。母の名前が一緒だし「奇日方」(クシヒカタ)と「櫛御方」(クシミカタ)の酷似
  • 事代主と葛城王朝

           日向賀牟度美良姫
                ∥――+健飯勝命
           +天日方奇日方命|      ○
     三島溝杭姫 |       +渟名底仲媛 ∥――天豊津媛命
      ∥――――+五十鈴姫      ∥ +息石耳命  ∥
      ∥      ∥――綏靖天皇  ∥ |      ∥――孝昭天皇
      ∥     神武天皇  ∥   ∥―+――――懿徳天皇
     八重事代主神       ∥――安寧天皇
      ∥―――――――――五十鈴依姫
      ○

  • 事代主神(ことしろぬしのかみ)は大国主神と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の間の子供です。
    神屋楯比売神の出自は不詳ですが、旧事本紀には「坐辺都宮・高降姫神」と書かれており、兄の味鋤高彦根神(賀茂大神)の母が「坐胸形奥津宮神多紀理比賣命」と書かれていますので、ひょっとしたら同じ宗像の辺都宮の神・田寸津姫の異名かも知れません。つまり「高降」は「たぎつ」と読む可能性もあります(降=来か?)。ただし田寸津姫については別の神との婚姻の記録もあります。
    http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/kotosironusi.htm

    石津神社は事代主神で事代主神はここに五色の石をもって御降臨したとも伝えられています。

    出雲の事代主
    事代主神は出雲に移動なさったようです。神話の時代は逆行してしまうのですが、国譲り神話の際に父・大国主神の代理として武甕槌神と交渉なさり、国譲りに同意して美保関に引き籠もられる神話が出てきます。この美保関の美保神社にも事代主神は義母の美保姫とともにお祭りされています。

    出雲にはその事代主神が揖屋の溝杭姫の所に通っていて「ワニに足を噛まれた」という神話が残っています。この話は上記の淀川の事代主がワニに化して溝咋姫の所に通ったという話が変形したものと思われます。揖屋に溝咋姫(溝咋玉櫛媛・活玉依姫・勢夜陀多良比売)ゆかりの神社があっても良さそうなのですが、まだ発見していません。(すなおに揖屋神社かも知れません)
  • 「旧事」日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)
    秀真伝に櫛甕玉。櫛御方命。天日方奇日方命の妻となって、阿田都久志尼命(クシネ)を産む。

    http://gejirin.com/src/A/atatukusine.html によれば、
    注)* クシネがどこの県主にされたのか、ホツマツタヱには記載がない。記載がないのは、"記載する必要が無いほど当り前な場所" ということで、"橿原宮が所在する県" ということなのだと思われる。橿原市久米町に 久米御縣神社 があって、祭神の一人に「天櫛根命」という人がいる。これは「アタツクシネ」を指すと思われるので、クシネは久米県の県主だったと考えたい。


    三代大物主(コモリ)とイクタマヨリ姫ー太田命 (オオタ)ー 日向賀牟度美良姫(ミラヒメ)

    1.天神立命。 コモリの長男。 テルヒコと共にアスカへ下る
    2.積羽 (八重事代主神)。 コモリの次男。 三島大明神。
    3.溝咋。溝杭耳。三島溝咋。コモリの第11男ミシマの別名。ホノアカリムメヒトのスケ・イクタマ姫とウチメ・イクヨリ姫の父。またツミハの妻タマクシ姫の父。

    玉櫛姫命。ミシマミゾクイの娘。
    ツミハの妻。クシミカタマ、クシナシ、タタライソスズ姫の母。
      
    三代大物主(コモリ)とイクタマヨリ姫ー三島溝咋ー玉櫛姫(夫が積羽八重事代主)ー天日方奇日方命、櫛梨、蹈鞴五十鈴媛。 




  • 神坐日向神社

    大神神社の摂社、末社 奈良県桜井市三輪字御子ノ宮
    大神神社の拝殿より南約150mの小高地の一角に鎮座。
    櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命
    ・櫛御方命(くしみかた):大物主と活玉依姫との子
    ・飯肩巣見命(いいかたすみ):櫛御方命の子
    ・武甕槌命(たけみかづち):飯肩巣見命の子
    ・大田田根子:武甕槌命の子(日本書紀では大物主と活玉依姫の子)

    鎮座の年代不明。貞観元年(859)従五位下から従五位上に昇叙(『三代実録』)され、延喜の制では大社に列せられ、祈年・月次・新嘗祭に案上官幣に預かった。中世以来三輪山の山頂の高峰に鎮座の説が多かったので、大神神社から内務省へ高宮神社(山頂)と山下の当社と誤って入替わっているので訂正方を上申したが同省からの保留の通達があった。明治十年三月大神神社の摂社に指定された。
  • 向日神社の近隣に物集女(もづめ)という地名があり、渡来人系の氏族に物集氏がいて、『続日本後紀』の承和元年2月の記事に、「葛野郡の人、物集応永に秦忌寸の姓を賜る」とあり、向日市の物集氏は秦氏と同族である。

    向日神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるという。
    後に火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)を併祭し、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
    ホームページによると、火雷神(ほのいかづちのかみ)は、上賀茂神社の御祭神別雷神(わけいかづちのかみ)の親神様であり、この神様をお祀りしていたカモ族が、この地(井ノ内)から上賀茂に移り住んだものと考えられます。とのこと

    向日神社のある向日山は、3世紀の後期、京都盆地で最初の古墳、元稲荷古墳が造られました。箸墓古墳と同時代の古墳である。
  • 葛城国造(後の葛城直)三島剣根のいとこで、天日方奇日方命
    (あまひかたくしひかたのみこと)。

    ニギハヤヒ命と三島玉櫛媛の間には、一男二女。
    天日方奇日方命(大物主家祖)五十鈴媛(神武后)五十鈴依媛(綏靖后)

    御子の天日方奇日方命は、先代旧事本紀によれば、またの名、阿田都久志尼命(あたつくしね
    のみこと)。「くし」が、大物主家出身の証拠
  • 吉備古代史の核心ともいえる、備中一宮吉備津神社。
    その本殿の外陣西南隅に、吉備海部直の祖が祀ら
    れている。

    櫛振(吉備海部直祖)
    小奇(同、女)
    真振(同、男)
  • 秀真伝の
    ホツマツタエでは、アタツクシネ(天櫛根命)を、天日方奇日方命と日向カンドミラ媛の間に
    生まれた御子とする。
    カンドとは、日向の統治を託された代王。その血が、大物主家に入っている。

    天日方奇日方命の女(ホツマでは孫)ヌナソ媛は、3代安寧天皇の皇后となり、懿徳天皇を生む。

    ホツマツタエには、アタツクシネについて、「大三輪社を造り、神名備を祀る。
    大三輪の姓を賜り、綏靖の大物主となる」とある。

    一族は、大物主として代々務めるが、開化天皇の時、オオミケヌシ命が、イカガシコメの立后に反対し、宮中から追放されてしまう。
    しかし、崇神朝に、オオタタネコが大三輪社の祀りに復帰。
  • 宗像の子が住吉で、住吉の子が宇佐である。 宗像大社の伝承

    「出雲神と宗像神の間にできた子が事代主神である」と記している
    つまり大国主命と多紀理姫の子供が鴨族の事代主神となるわけである。


    「八重事代主は三島の溝咋の子の玉櫛姫と結ばれて、櫛御方命(和邇彦)と櫛無(那珂彦)を生んだ」という。
    讃岐の金比羅宮に八重事代主が祀られ、那珂郡と呼ばれて、櫛無神社がある。

    宇佐神宮の記録
    「神武天皇東征の折、菟狭津彦・菟狭津媛、菟狭川の川上に一柱騰宮を造営する。」

    宇佐国造は宇佐(菟狭)国(現・大分県宇佐市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると神武天皇(初代)の時代、大伴氏の祖・高魂尊(たかむすびのみこと、高皇産霊尊)の裔孫である宇佐都彦命(うさつひこのみこと、菟狭津彦)を国造に定めたことに始まるとされる。日本書紀によると、宇佐津彦と宇佐津姫(うさつひめ)の2人が祖とされ、また天神本紀(先代旧事本紀)によると、宇佐神話の中の3女神・天三降命(あめのみくだりのみこと)が祖とされている。国造氏族は宇佐君(うさのきみ)であり、宇佐氏の伝承では宇佐都彦命を祖とし、当初は大神氏と共に宮司に補せられてたが、大神氏が衰えた後は大宮司を世襲し、代々、宇佐八幡宮の神主家として存在したという。宇佐神宮は、分祀が全国に2万4千以上もある八幡社の総本社で、主祭神は応神天皇だという。
  • 山代国の神武の代の国造は阿多振命と国造本紀にある。祟神紀に武埴安彦が山 背国から反乱軍を興した記事があり、共に果敢に戦った妻の名は吾田媛である。 また「山背国隼人計帳」に阿多君古売の名がみえる。さらに『先代旧事紀』の 各巻に、神武の妃の媛蹈鞴五十鈴媛命の兄に天日方奇日方命の名が出てくるが、 巻四の地祗本紀には、又の名を阿田都久志尼命というとある。同母兄妹だから、 その親元の摂津国で大山祇神を祭る三嶋溝杭耳も吾田隼人かもしれず、そうだ とすると神武はここでも吾田の女に娶ひたことになる。

    通説では吾田隼人は最も早く天孫族に服従したとされているが、こうした事例 をあげてみると話は逆さまであることが分る。

    筑紫国に宗像神社を祭る宗像氏がいる。姓氏録の宗形朝臣は吾田片隅命の後と ある。また、大和国神別の和仁古も大国主六世孫の阿太賀田須命の後也とある のと同人であろう。和仁古は和迩氏に属する一族で、後世に大神朝臣を賜姓し ている。旧事紀の天日方奇日方命は大神氏の祖とあり、その子孫に阿太賀多須 命が位置づけられており、したがって姓氏録の宗形朝臣も大神氏の同祖とある。 神武東征の筑紫迂回は、こうした系譜をたどる航海だったのである。
  • 陶津耳命
    大物主神の妻となった活玉依毘売の父。
    三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』には、大陶祇命とあり、娘の活玉依比売命は 天事代籤入彦命(事代主神)の妃で、天日方奇日方命の母。

    陶津耳命 を祀る神社
    大川上美良布神社 高知県香美市香北町韮生野大宮243
    須部神社 福井県三方上中郡若狭町末野字神ヶ谷36-11
    坐摩神社 境内 火防陶器神社 大阪府大阪市中央区久太郎町4-3

    大川上美良布神社
    美良布の川上さまとして知られる名社。祭神は大田田根子命。
    大物主命、活玉依比賣命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比賣命、健甕槌命を合祀。
    古くは「川上大明神」「大河上宮」とも呼ばれており、韮生郷50ヶ村の総鎮守である。幕末の嘉永5年12月2日(1853年1月11日)、勅宣により神階が最高位の正一位となった。
    物部川沿いの神宮。社殿の規模は大きく木割も堂々として落ち着きを感じさせ、屋根は幕末の造りにしては美しく優美といわれています
    現在の社殿は慶応元年(1865年)に起工し、明治二年(1869年)に落成したものです。
    一に一宮の志那祢さま、二に韮生の川上さまと称され、大勢の人出でにぎわいます。古式にのっとった神輿のおなばれ行列で知られています。社宝には県指定文化財である袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸2基があります。

    須部神社
    寛延二年の『若狭國志』によると養老二年(718)九月二十八日の垂跡。若狭国内神名帳に「正五位酒部明神」と記されている古社
    寛延二年の『若狭國志』によると
    養老二年(718)九月二十八日の垂跡。
    通称はえべっさんだが、別に西の神さん・西宮・西神社とも呼ばれ、
    祭神は、蛭子大神(恵比須)。
    正式名は須部(すべ、すへ)神社。配祀に陶津耳命。
    式内社・須部神社に比定されており、本来の祭神は陶津耳命で、後に蛭子大神を勧請したと思うのだが、社記によれば、養老三年三月二十三日、蛭子命を祀る社殿を再建したとある。
    当社は「子らの守り神」としての信仰が篤く、福井県内はもとより、京都・大阪・滋賀・石川・岐阜・愛知などから参拝者が相次いでいる。
    当地は古代製陶所遺跡として、末野の山麓には多数の土器破片を堆積した遺跡がある。鎮座地名の末野(すえの、すへの)は、陶ノ宮が変化したものだと考えられる。当社の神紋は桜紋。
    境内社の大國主社は、瘡神社とも称す。
  • 坐摩神社(いかすりじんじゃ)
    大阪府大阪市中央区にある神社。式内社(大社)で、摂津国一宮を称する。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
    神紋は「白鷺」。
    生井神 (いくゐのかみ) - 井水の神(生命力のある井戸水の神)
    福井神 (さくゐのかみ) - 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
    綱長井神 (つながゐのかみ) - 井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清らかな井戸水の神)
    波比祇神 (はひきのかみ) - 竃神(屋敷神。庭の神)
    阿須波神 (はすはのかみ) - 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
    祭神の5柱の神は、『古語拾遺』等によると神武天皇が高皇産霊神・天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされ、神祇官西院で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていた。
    『延喜式』によれば、坐摩巫には都下国造(つげのくにのみやつこ)の7歳以上の童女を充てるとされ、西から来る穢れを祓う儀式を行うといわれる。なお、都下とはこの神社が最初にあった淀川河口の地で、摂津国の菟餓野(とがの、都下野とも書く。現在の上町台地一帯)を指すと見られ、世襲宮司の渡辺氏はこの都下国造の末裔でもあり、滝口武者の嵯峨源氏の流れを汲むともいわれる。

    当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している

    創建時の社地は現在と異なり、渡辺津・窪津・大江などと呼ばれたかつての淀川河口である。
    旧社地は遷座後に御旅所が置かれた現在の中央区石町(こくまち)に推定され、天神橋 - 天満橋間の南、近世以降「八軒家」と呼ばれる地に概ね該当する。なお、石町には摂津国の国府も置かれており、町名は国府の転訛と言われている。

    平安時代後期には源融にはじまる嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)が渡辺津に住んでこの神社を掌り渡辺を名字とし、渡辺氏を起こした。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。

    渡辺津は窪津ともよばれ、京からの船が着く熊野古道の基点でもあった。熊野三山への参詣道沿いに立っていた「熊野九十九王子」のうち、最初の「窪津王子」はこの坐摩神社行宮の場所にあったと思われる。
  • 宅神とされる坐摩の神ですが実は「生井、福井(さくい)、綱長井(つながい)、波比岐、阿須波」の五柱の総称が「いかすり」で、同社では、その意について「居所知=いかlしり」が転じたものだと解釈しています。ただ一見して分かるのは「井」つまり「井戸=水」の神様たちが祭神の中核を成している事実です

    凡座摩巫取都下国造氏童女七歳已上者充之、若及嫁時申辨官充替    (「延喜式」三巻、臨時祭)

    国の格式(律令)の施行細目の中で、特定の神社の巫女さんを選ぶ基準が定めてある例を他には知らないのですが、朝廷は明らかに坐摩神を祀る巫は『都下国造』の娘でなければならないと規定しています。


    都下(つげ)国造
    神八井耳命は
    意冨臣、小子部連、火君、大分君、阿蘇君(中略)、都祁直‥‥などの祖


      意冨臣、小子部連、火君、大分君、阿蘇君(中略)、都祁直‥‥などの祖

    国立国会図書館が収蔵している「諸系譜」の第一冊に納められている『東国諸国造・天津彦根之裔』と題された系図

    始祖・天津彦根命--天目一箇命--意冨伊我都命と続いた後、四代目の三兄弟の内の一人が「彦己曽根命(ヒコオゾネ)」で、注意書きの部分に「凡河内国造、大縣主、都下国造等の祖」とあります。
    もう一人の兄弟は、阿多根命(山代国造の祖)とあります。

    この意富伊我都命の嫡系は「彦伊賀津命--阿目夷沙比止命--川枯彦命--坂戸毘古命」とつなぐ近江の三上祝家(御上神社)です。
    宮中で祀られる坐摩神の斎主が凡河内一族である可能性は高いと思われます。


    恭仁京(くにきょう、くにのみやこ)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地。現在の京都府木津川市加茂地区に位置する。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも。橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都。
  • May 2016 編集されました
    神功皇后は夫の仲哀帝が「神の教に従がわずして早く崩御した」後、自らが神を祭る主人役(神主)となって再び「神の教」を聞こうとします。
    その時、皇祖アマテラスと一緒に顕れた事代主命の名を書紀は『天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神』と格別な表記を採っています(摂政前紀、仲哀九年三月条)。

      また曰く、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝樴姫、或るは云わく、玉櫛姫というに通いたまう。
      しこうして児、姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。            (神代紀より)

    とある神武(天孫)と事代主命(地祇)の姻戚関係によるものだとも考えられます。

    「三嶋溝樴(溝杭)耳神」について
    伝えられた内容をそのまま写しています。

    田使首系譜  ①伊久魂命----②天押立命(神櫛玉)③陶津耳命----④玉依彦命----⑤剣根命
     (註・陶津耳の兄弟が都留支日子=剣彦)

    葛城御県神社    劔根命 (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命  
    劔根命は『新撰姓氏録』には、高御魂命の五世孫の劔根命の名が登場し、劔根命之後也として
    大和国神別に葛木忌寸、河内国神別に葛木直、和泉国神別の荒田直が出てくる。
  • 葛木男神社(かつらきおじんじゃ/かずらきのおじんじゃ)は、高知県高知市布師田(ぬのしだ)にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
    昭和47年(1972年)に同じく式内社の葛木咩神社(かつらきひめじんじゃ、旧村社)を合祀している

    所在地  高知県高知市布師田1358
    主祭神  高皇産霊神
         葛木男大神
         葛木咩大神
    神体   神鏡
    社格等  式内社(小)2社
         旧郷社
    創建   不詳
    別名   高結大明神
  • May 2016 編集されました
    『新撰姓氏録』において葛木直・葛木忌寸を高魂命(高御魂命/高皇産霊命)の後裔とすることに基づく説。

    近世に見える社名「高結大明神宮」「高魂大明神宮」「高結社」等はこの祭神に起こるとし、また葛木氏(葛城氏)を奉斎氏族と推測する。ただし、同じく高皇産霊命後裔の忌部氏を奉斎氏族とする説もある。

    逸文では、土左の郡家の内に社あり。神の名(みな)は天の河の命とせり。その南なる道を下れば社あり。神の名は浄川媛の命、天の河の神の女(むすめ)なり。その天の河の神は土左の大神の子とせり。

    として、土佐郡の郡家内には土左大神(土佐神社祭神)の御子神の天河命(あまのかわのみこと)を祀る社が、郡家南の道には天河命の娘神の浄川媛命(きよかわひめのみこと)を祀る社があると見える。

    この天河命・浄川媛命は他文献に記載のない神々であるが、後述のように土佐郡家が葛木男神社の旧鎮座地付近に推測されることから、両神を葛木男神・葛木咩神に比定する説がある。

    土佐郡家は、古くから存在した天河命の社を取り込む形で成立したと見られており、この一帯が土佐郡成立以前の豪族の都佐国造(土佐国造)の中心地であったと推測される。

    この都佐国造は大和葛城地方の賀茂氏に連なる系譜といわれ、当社の社名「葛木」とも関連を有している。しかし古くは葛木男神が土左大神の御子神であったとしても、現在の土佐神社と葛木男神社との間に祭祀関係は伝わっていない。

    劔根命は『新撰姓氏録』には、高御魂命の五世孫の劔根命の名が登場し、劔根命之後也として大和国神別に葛木忌寸、河内国神別に葛木直、和泉国神別の荒田直が出てくる。
  • 劔根命は『新撰姓氏録』には、高御魂命の五世孫の劔根命の名が登場し、劔根命之後也として
    大和国神別に葛木忌寸、河内国神別に葛木直、和泉国神別の荒田直が出てくる。

    オオタタネコの本拠、陶邑に比定される地には陶荒田神社が鎮座しています。
     祭神は高魂命(タカミムスヒノミコト)、剣根命、八重事代主命、菅原道真で、荒田直が祭祀氏族でした。 
     社伝では、オオタタネコが初代の神主で、陶荒田神社も当初はオオタタネコの祖霊を祀っていたといいます。
     祭神の剣根命(ツルギネノミコト)は荒田氏の始祖で、この神は高魂命の五世の子孫とされています。
     この神の名にも剣という言葉が含まれているところが興味深いところです。

     『新撰姓氏録』によれば、葛城国造もこの剣根命の子孫とあります。このことは、『日本書紀』にも、

     「また剣根という者を以って葛城国造とす」
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。