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石部神社は式内社合計で十六社 その分布をいうと、西側から見て、但馬3、丹後1、丹波2、播磨1、東側では近江2、…
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大国の里に山あり。名を伊保山という。帯中日子命(仲哀帝)を神に坐せて、
息長帯日女命、石作連大来を率いて、讃岐の国の羽若の石を求ぎたまいき。
つまり夫である仲哀の陵に使うための石材を「石作連」に命じて讃岐まで派遣したと言うのですが、書紀の神功皇后摂政前紀でも、応神の異母兄にあたる香坂王、忍熊王たちが「密かに謀って」、
偽りて天皇のために陵を作るまねにして、播磨に至りて山陵を赤石に興つ。
よりて船を編みて淡路嶋に渡して、その嶋の石を運びて造った
のだと明記しています。
どちらの言い分が正しいのかは別にして「当時の」大王に仕えていた「石作」たちが播磨や讃岐に適材を求めていた事は確かなようで、この石作「連(むらじ)」が、有名な「竹取物語」の主人公・かぐや姫に無理難題をふっかけられる貴族の一人・石作皇子のモデルだとされる多治比真人嶋(624~701)と「同祖」だとする通説もあるのですが、果たして本当なのか?
播磨国風土記は重ねて「土師」弩美宿禰が出雲に向う途中病を得て亡くなり、出雲の国の人が墓の山を石で築いた所が「立野(竜野)」であると記しているが本当なのか!それに答える前に先ず、継体親子の妻たちの出自をひも解くことにしましょう。多くの「解説本」が継体大王たちの后妃については尾張氏と息長氏に関連付けて語り、それはそれで間違いではないのですが、継体・安閑・宣化三代の皇后の血統を軸にした別様の見方をすることも可能なのです。
摂津国津守宿禰は、
「摂津国 神別 天孫 津守宿祢」
「摂津国 神別 天孫 六人部(むとべ)連」
「摂津国 神別 天孫 石作連」とあり、
和泉国津守連は、
「和泉国 神別 天孫 石作連」
「和泉国 神別 天孫 津守連」とあり、
いずれも津守氏と石作氏がセットで出てきていることである。
石作氏は石工のことであり、津守氏は言われているような「港の管理者」ではなく、「土盛(つちもり)」の「ち」が欠落したものではないか。即ち、津守氏は土工のことを言ったものか。端的に言うと、津守氏と石作氏は古墳築造の現場監督(伴造)とも言うべき人たちで、摂津国津守宿禰は摂津国の古墳(例、西求女塚古墳等)築造に関わり、和泉国津守連は和泉国の古墳(例、百舌鳥古墳群)築造に関わったのではないか。
「出石心大臣命(いづしごりのおおおみのみこと)」は物部氏の家譜とされる「先代旧事本紀」の中では饒速日命3世の子孫と紹介されている。また、その子「大水口宿禰(おおみくちのすくね)」は日本書紀の中で第10代崇神天皇に仕え、奈良県大神(おおみわ)神社の祭主に「大田田根子(おおたたねこ)」を推挙した人物として登場しているので、「出石心大臣命」は第9代開化天皇の頃、活躍した人物であろう。中国人が、倭人から聴き取り、その音に該当する「都市牛利」の文字を当てはめたのである。
「都市」に関しては異論もある。吉田孝氏はその著作「日本の誕生(岩波新書)」の中で『「魏志倭人伝」に次使都市牛利が4回でてくるが「都市牛利」は最初だけで、後の3回は「牛利」とのみ記されている』ことに注目した見解を述べている。それによると、中国では古くから「都水」「都船」など「都○」という官があり、のちの時代にも広く用いられている。そして「都市」と刻まれた伝世の官印があり、市を統(す)べる官と解されていることから「都市牛利」の「都市」も、倭の「国々の市を監する大倭」を中国風に表記したという可能性が強いとしている。