忍坂日子人大兄皇子、息長氏、播磨

December 2018 編集されました カテゴリ: 播磨
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景行天皇は、、若帶日子命と倭建命とまた五百木入日子命の三王を太子(ひつぎの みこ) とし、その餘(ほか)の七十…

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  • 忍坂坐生根神社

    祭神 少彦名神
        天津彦根命
    境内社
        神女神社・愛宕神社・天満神社
    当社は天平2年(730)の「大和国正税帳」に、また延長5年(927)の「延喜式内社」にも名前がみえる古社で本殿を持たず宮山をご神体とし拝殿の北側に神が鎮座する「石神」と称する自然石十数個を並べた「磐座」があります。
    ここ忍阪の地は隅田八幡宮所蔵の国宝人物画像鏡に刻まれた「意柴沙加宮」の地ともされ第26代継体天皇が磐余玉穂宮に即位される以前におられた処とされています。
    また忍坂大中姫命や衣通姫が居られたとも伝わり、「大和志料」では額田部氏の祖天津彦根命を祀るとも記され、平安時代の医書「大同類聚方」に当社相伝の「以久禍薬」(額田部連の上奏)のあることを伝えています。その薬の製法は昭和の初頭まで伝わり、また額田部氏が居住したとするこの地で額田王と鏡女王姉妹との繋がりや息長足日広額天皇(第34代舒明天皇)の陵墓があることから息長氏の大和での拠点の一つであったとされています。

    忍坂坐生根神社

    近鉄大阪線朝倉駅の南方約1kmの字宮山の通称外鎌山(高円山)を神体山(神奈備)とする神殿のない古代の祭祀形態そのものの神社である。祭神は少彦名命で、『日本書紀』の一書に、大己貴命の国土経営に協力した外、病苦を抜除する医薬の神として信仰され、しかも石として出現される神であることは、『古事記』仲哀天皇の条の歌謡の「常世に坐す 石立たす 少彦御神の 神寿ぎ」や『日本書紀』神功皇后の条に「此の御酒は吾が御酒ならず神酒の司 常世に坐すいわたたす少御神の豊寿き・・・・」 とあることからも理解できる。境内の磐座(石神)は普通21個といわれ平べったい丸石で幅30-50cm、地上の高さ40-10cm、花崗岩で、宮座の人々が毎月三回神酒を供え、秋祭りには「キョウの飯」という御供と「ドヘ」の御幣を供えるという(『桜井市史』)。例祭は10月18日。宮座文書の「忍坂庄神事勤帳」は延徳4年(1492)以降のものが揃っている(同前)。
  • 押坂、忍阪(現桜井市忍阪)は息長氏の拠点

    【允恭皇后の忍坂大中姫命】
    允恭皇后の忍坂大中姫命は息長氏の始祖稚渟毛二岐皇子の娘である。
    宴席で夫の允恭帝に美女の誉れ高い妹の衣通郎姫を奉ると宣言する。
    大喜びの允恭帝は使者を衣通郎姫の住む近江の坂田へ派遣している。
    近江の坂田は息長氏の本拠地として知られている。
    つまり忍坂大中姫命も衣通郎姫も息長氏であることが前提となった説話である。
    この後允恭帝と衣通郎姫は嫉妬に狂う忍坂大中姫命を避けるようにしながら逢瀬の機会を作るストーリーが続く。

    【息長氏と新羅の深いつながりを示す忍坂大中姫命の夫允恭帝】
    允恭帝の諡は「雄朝津間稚子宿禰天皇、朝妻の名を有している。
    大和の朝妻は新羅系渡来民が多く住む場所と言われており、
    近江の朝妻は息長川(現天野川)が琵琶湖に流れ込む河口にあたる地域である

    【皇祖大兄=押坂彦人大兄皇子】
    敏達紀四年敏達帝は息長真手王の女広姫を娶り、押坂彦人大兄皇子を儲けている。
    押坂彦人大兄皇子は舒明帝の父親で、
    孝徳紀に「皇祖大兄」と書かれている。
    いわば近畿天皇家の祖ともいえる存在である。
    皇極紀には舒明帝を押坂陵に埋葬したことが記されている。
    岩波版の注によると、
    「陵墓要覧では所在地を奈良県桜井市大字忍阪字段ノ塚とし、上円下方墳。忍坂彦人大兄皇子・妃糠手姫皇女と合奏する。」
    となっている。
  • 彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

    2、彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

    3、皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

    4、大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。

    5、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。


    ●彦人大兄と馬子が同一⁇

    6、推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人大兄に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。

    7、蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人大兄と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人大兄の像があって馬子の像がないのか。前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である。馬子の像がないのは彦人大兄と馬子が同一人物だからではないか。

    8、その後、中臣勝海連は守屋を裏切り彦人大兄側に付こうとし、その宮に行くが出たところを彦人大兄の舎人の迹見赤檮に斬殺された。「聖徳太子伝歴」はこの事件のことを中臣勝海連は馬子の命を受けた迹見赤檮に殺されたと記している。

    9、蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人大兄についての消息が全く不明である。 彦人大兄の舎人の迹見赤檮が馬子と守屋の戦いにおいて馬子の配下として行動している。しかし戦いに彦人大兄の名は見えない。なお7-9については別途「中臣連勝海の暗殺と迹見赤檮」において論述している。

    10、彦人大兄の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人大兄のために造られたのか。一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。
  • 播磨国宍粟郡の伊和神社、播磨国明石郡の海神社、播磨国揖保郡の粒坐天照神社の三社。播磨国屈指の神社として、長らく朝廷の尊崇を受けた三社である。

    伊和神社は播磨国一宮だが、海神社、粒坐天照神社ともに二宮から五宮までには含まれない
  • 蘇我氏の圧迫から逃れて播磨国の坂越に入り、赤穂市内から坂越湾に流れる千種川流域の開拓をしたのはかの有名な秦川勝でした。川の流域一帯には多数の大避神社が鎮座しています。つまり千種村は秦川勝に関連する秦氏地名であり、江戸時代に信濃国から秦氏が移住して菰野町に秦氏が多くなった訳ではないのです。
  • September 2018 編集されました
    五十狭城入彦
    日本書紀によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子である。
    『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても景行天皇皇子として五十狭城入彦の名が見え、さらに同書では五十狭城入彦が三河長谷部直の祖であるとする。

    また『新撰姓氏録』左京皇別 御使朝臣条・右京皇別 御立史条では、景行天皇皇子の気入彦命(けいりひこのみこと)が応神天皇の命により、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える。この「気入彦命」の記載は『日本書紀』『古事記』には無いため、五十狭城入彦と同一視する説がある

    和志山古墳

    被葬者は明らかでないが、宮内庁により「五十狭城入彦皇子墓(いさきいりひこのみこのはか)」として第12代景行天皇皇子の五十狭城入彦皇子の墓に治定されている。

    概要

    岡崎市街地から西方、矢作川右岸の段丘南端部に築造された古墳である。一帯には古墳数基からなる和志山古墳群が分布するが、本古墳はそのうちの主墳になる。古墳には曹洞宗蓮華寺が隣接し、その建立の際に墳丘に改変が加えられている。現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理下にあるが、これまでに2010年度(平成22年度)の宮内庁書陵部による墳丘測量調査などが実施されている。

    墳形は前方後円形で、前方部を西南西方に向ける。段築は不明]。現在の墳丘長は約58メートルを測るが、築造当初は60-80メートル程度と推定される。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列の存在がほぼ認められているが、墳丘に造出は伴わなかったものと見られる。また墳丘周囲に分布する古墳数基は、本古墳の陪塚と推測される(宮内庁治定の陪冢は無し)[注 1]。

    この和志山古墳は、出土埴輪より4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定されてる。

    鷲山ーー和紙ーー美濃と近江の交易ーー沙沙貴山君



    十五年秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子・菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は、阿直岐を師とされた。ここに、[応神]天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君祖(かみつけのきみがおや、)荒田別(あらたわけ)、巫別(かむなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。
    — 『日本書紀』 巻第十(応神紀)
  • 82 左京 皇別   御使朝臣 朝臣   出自謚景行皇子気入彦命之後也 誉田天皇御世。御室雑使大壬生等。逋逃不仕。天皇遣使尋求。並不復命。於是気入彦命。奉詔括追於参河国。捕獲参来。天皇嘉合使旨。賜姓御使連也 続日本紀合 164

    83 左京 皇別   犬上朝臣 朝臣   出自謚景行皇子日本武尊也     164
  • 奈良県桜井市忍坂(おっさか)集落 舒明天皇陵(息長足日広額天皇) 忍坂坐生根神社
    また忍坂集落の伝承によるとこの地は往古、息長庄と呼ばれていた時代もあったということです。この当時は息長氏の本願地は近江から、ここ忍坂に移っていたのだろうか、それともここには近江息長氏とは別系統の倭(やまと)息長氏がこの地を新たな本貫地として中央進出をしていたのかも知れません。いずれにしても中央政府のある京(みやこ)で活躍するには京の近隣地に居住地を求める必要があります。また忍坂の地名と息長氏の関連は隅田八幡宮の人物画像鏡の銘文「男弟王在意柴沙加宮」にあるようで男弟王を「記」の袁本杼命(をほどのみこと)・「紀」では男大迹(おほど)とし即位前の継体が忍坂に一時期居住しており、この忍坂宮は大郎子(おほいらつこ)の妹、忍坂大中津比売(おしさかのおほなかつひめ)の宮で近江息長氏の別業(別宅)で都に所用の折りに利用していた。皇子女の養育所で息長氏が天皇家から管理を任されていたといわれており、日本書紀の允恭天皇二月十四日条、忍坂大中津比売を立て皇后とされた。またこの日に皇后のために刑部(おしさかべ)を定めた。

    また以前皇后がまだ母と一緒に家においでになつた頃、闘鶏国造(つげのくにつくり)が側を通りかかり大中津比売に無礼なおこないがあったことを忘れずに皇后になられてから、その折の無礼な振る舞いを責めて姓を稲置(いなき)に落とされた記述があり、この時大中津比売が居たのが忍坂宮で闘鶏国造とは今の奈良市都祁(つげ)の事だと思われます。この時点では大中津比売は母の弟比売真若(おとひめまわか)と忍坂に居住、此処で成長したので忍坂の名が付いたのでしょう。

    またこの忍坂に居住していたのは皇后になる十年から十五年前ぐらいと推定すると允恭二年は西暦413年ですから398~403年頃となります。「書記」(646)大化二年三月二十日条、に『群臣・連・及び伴造(とものみやつこ)・国造(くにつこ)の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代)の入部(いりべ)皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄(すめみおやのおおえ)の名入りの部五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上します』という皇太子、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の入部・屯倉献上の記述があります。

    この入部・屯倉は「皇祖御名入部」で大和国忍坂だといわれていて允恭天皇皇后の忍坂大中津比売の名代(なしろ)で、この忍坂部が忍坂大中津比売から一世紀を経て忍坂日子人太子→田村皇子(舒明)→中大兄皇子にと引き継がれています。この膨大な「皇祖御名入部」の管掌者が息長氏であったともいわれています。因みに忍坂日子人太子は敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・比呂比売(広姫)で舒明天皇・茅渟王の父に当たる人です。
    http://music.geocities.jp/mtaketoshijp/newpage9.htm
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