難波根子 建振熊、和邇氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
image難波根子 建振熊、和邇氏

『日本書紀』『古事記』とも、武振熊について和珥臣(丸邇臣)祖とのみ記しており、系譜の記載はない。 『日本書紀』…

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コメント

  • 王依姫尊は豊玉姫尊の妹で、葺不合尊(ウガヤフキアワズノミコト〕の皇后。神武天皇の母親である、玉俵姫尊は登玉姫尊の本当の姉抹ではないようた。香椎宮の社家系図には武内宿祢と壱岐・真根子の娘、豊子との間に生れれたのが武内宿祢の子であり、中臣、アマコの娘、玉津が武内宿祢の孫を産んでいる。壱岐・真根子の娘、豊子が豊玉姫として、中臣、アマコの娘、玉津が玉依姫とされたのではないだろうか。玉依姫という名は、拷幡千千姫尊は高産霊尊Φ娘・天忍穂耳尊の后として別牲であり、三島の溝杭耳神娘、活玉佐姫、また、建角身命の子 玉依姫がいる、加茂御神祖神は神武天皇の御親という説がある。
  • 大化改新(645)以前の地方制度に県(あがた)があり、その首長を県主(あがたぬし)といった。

    大阪府下では茨木市に三島県主、八尾市に三野県主(みのの)、柏原市に大県主(おおあがた)、藤井寺市に志貴県主(しき)、富田林市に紺口県主(こむく)、和泉の国に茅渟県主(ちぬ)の6首長があった
  • 「難波根子建振熊命」「建振熊命」

    和珥 臣(和珥氏)の遠祖。神功皇后摂政時における忍熊王反乱の際、その討伐に遣わされた ...http://ja.wikipedia.org/wiki/武振熊命
    『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、
    「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) - 大口納命 - 難波宿禰 - 大矢田宿禰」
    と続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、このうちの「難波宿禰」との関連が指摘される[2]。
    富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)系図[3]では、武振熊は第5代孝昭天皇六世孫とされる。同系図では曾祖父を彦国葺、祖父を大口納、父を大難波宿禰とし、『新撰姓氏録』真野臣条に見える「難波宿禰」の位置に大難波宿禰と難波根子建振熊の2代をあてる。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。

    また籠神社に伝わる海部氏系図では、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に同名の人物が記載されているが不詳。
    『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、
    「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) - 大口納命 - 難波宿禰 - 大矢田宿禰」
    と続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、このうちの「難波宿禰」との関連が指摘される[2]。
    富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)系図[3]では、武振熊は第5代孝昭天皇六世孫とされる。同系図では曾祖父を彦国葺、祖父を大口納、父を大難波宿禰とし、『新撰姓氏録』真野臣条に見える「難波宿禰」の位置に大難波宿禰と難波根子建振熊の2代をあてる。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている。

    また籠神社に伝わる海部氏系図では、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に同名の人物が記載されているが不詳。

    武振熊(たけふるくま)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
    『日本書紀』では「難波根子武振熊」「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」「建振熊命」と表記される。http://ja.wikipedia.org/wiki/武振熊命
    和珥臣(和珥氏)の遠祖。神功皇后摂政時における忍熊王反乱の際、その討伐に遣わされた人物である。


  • 大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。
    また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。]一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。

    米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)
    富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図[3]の米餅搗大臣命の注釈【若狭國三方郡和爾部神社是也】は、現在の福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社を指す。

    表記は「米餅搗大臣」の他、『新撰姓氏録』においては「米餅搗大使主」「米餅舂大使主」「鏨着大使主」の三通りがある。「米餅」の訓は、「鏨」の訓である「たかね / たがね」とされるが、上記の餅の伝承に関連して「しとぎ」

  • 春日井市の朝宮神社も上条町の和爾良神社も主祭神は、「阿太賀田須命(あたかたすのみこと)」で建手和尓命(たけたかにのみこと)という神様も併せてお祀りされているようです。
    阿太賀田須命は、赤坂比古命とも言われ、天理市和爾町にある和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の主祭神です。

    、『新選姓氏抄録』摂津国皇別に和爾部を大春日朝臣同祖、天足彦国忍人命之後也、また、同書に山城国皇別にも和爾部を小野朝臣同祖、大天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後、と記されています。すなわち和爾部の祖神が阿田賀田須命と言うことだろう 』とあります。
    つまり、阿太賀田須命は、和爾氏の祖先の神だという事です。
    朝宮神社がある場所は、春日井市ですがその「春日」という言葉は「大春日朝臣」から由来しているのでしょう。また、春日井は、書の達人として有名な「小野道風」生誕の地として有名ですが、それも小野朝臣と関係があるのかもしれません。
    *春日井市にある春日井市道風記念館
  • 応神天皇が丸邇氏の比布礼能意富美の娘の宮主矢河枝比売(ヤカハエヒメ)を娶って産んだ子が 宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ) 八田若郎女(ヤタノワキイラツメ) 女鳥王(メドリノミコ) です。

    「米餅搗大使主」のもとの名を「日布礼大使主」とする伝えがあります(参照:滋賀県神社庁小野神社の項など)。 『日本書紀』で応神妃・宮主宅媛の父は「和弭日触使主」とあり(『古事記』では「丸迩之比布礼能意富美」)、これは系図上では、米餅搗大使主の兄弟の「日触臣」のこととされています。 しかし『古事記』の「意富美」を「大使主」と見るならば、もとの名を「日布礼大使主」と見た米餅搗大使主と、和邇の祖「丸迩之比布礼能意富美」とは、無視できない関連性があります。


     神名牒考証他がいう矢田部氏とは、古事記・仁徳天皇段に
      「八田(矢田)若郎女(ヤタノワキイラツメ-応神天皇の皇女で仁徳天皇の后)の御名代(ミナシロ)として、八田部を定めたまひき」
    とある八田部を管掌した伴造(トモノミヤツコ)で、その出自は、
     ・新撰姓氏録(815)
      「大和国神別(天神) 矢田部 饒速日命七世孫大新河命(オオニイカワ)之後也」(左京神別・摂津神別・河内神別にも矢田部氏あり)
     ・先代旧事本紀(9世紀前半・物部氏系史書)・天孫本紀
      「仁徳天皇の皇后・矢田皇女に皇子が生まれなかったので、物部大別連公(モノノベオワケノムラジノキミ-ニギハヤヒ10世の孫)に命じて、皇子代(御名代)となって皇后の名を氏として、改めて矢田部連公(ヤタベノムラジノキミ)の姓を賜る」(大意)
    とある氏族で(崇神60年条に、先祖。物部武諸隅の事績あり)、物部氏の一族という。
     (物部氏系図によれば、大別連公は大新河命の3世の孫-饒速日10世の孫-にあたる)
  • 矢田若郎女(矢田皇女)について、古事記は
      「応神天皇が、丸邇(ワニ)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の女・宮主矢河枝比売(ミヤヌシ ヤカワエヒメ)を娶って生みし御子・宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)、次に妹・八田若郎女・・・」(書紀も同意)
    とするのに対して、先代旧事本紀は
      「応神天皇が、饒速日十世孫・物部山無媛連公(モノノベノヤマナヒメノムラジノキミ)を立てて妃とし、・・・矢田皇女・・・を生む。その矢田皇女を仁徳天皇が立てて皇后とされた」(大意)
    とあり、母親の名および出自が、古事記ではヤカワエヒメ-和邇氏、旧事本紀ではヤマナヒメ-物部氏と異なっている。

     通常、御名代は、その仕える皇族の母方の出身氏族があたると解され、とすれば、矢田部氏は和邇氏系ではないかと思われる。ただ、物部氏は、そのその勢力拡大の中で各地の氏族を傘下に収めているから、矢田部氏も本来は和邇氏系であったものが、物部氏の傘下に入り、八田若郎女の系譜を改変したのかもしれず、矢田部氏は物部氏系とするのが一般認識とはいえ、旧事本紀の記述を以て矢田部氏を物部氏系とするのは要注意かもしれない。
  • 新撰姓氏録』左京皇別下に、次のように記されています。 
    「和安部朝臣 大春日朝臣同祖。続日本紀合。彦姥津(ひこおけつ)命三世孫難波宿祢之後也 
    和安部臣 和安部朝臣同祖. 彦姥津命五世孫米餅舂大使主(たがねつきのおおおみ)命之後也
  • June 2016 編集されました
    建振熊
    http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/7-4-takefurukuma-kourousya.html
    『勘注系図』の十八世建振熊宿禰の注記に

    『息長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)、新羅(しらぎ)国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為(な)って以って奉仕(つかえたてまつ)るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后(のち)勳功により、若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直(あまべあたい)の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜う。
    品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇(みよ)国造(くにのみやつこ)として仕え奉る故に海部直亦(また)云う丹波直、亦云う但馬直(たじまのあたい)なり。

    建振熊が丹波、但馬、若狭の海人三百人を率いて渡海した新羅侵攻の翌年、大和に帰還しようとする神功側(太子側)と、これを阻もうとする仲哀の遺児、忍熊(おしくま)王が戦う。この戦いで建振熊が活躍する。忍熊王を琵琶湖のほとりで滅ぼし神功の時代が始まる。


    『勘注系図』の建振熊
    新羅侵攻に海人三百人を引き連れて出陣した人物は武振熊宿禰で、その功績により若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直(あまべあたい)の姓を賜ったと読める。
    ところうが事実は、参戦するのは、父親の建振熊命で若狭木津高向宮で海部の姓を賜るのは、その息子建振熊宿禰なのである。

    『勘注系図』の別の個所、そこでは武振熊命と建振熊宿禰とを明確に書き分ける。また武振熊宿禰の前に「男(こ)」を付ける。「男」とは息子の意味である。したがって神功朝成立の前年、海人三百人を率いて新羅侵攻に出陣したのは、父親の建振熊命。応神朝に海部の姓を賜ったのは息子の建振熊宿禰なのである。ただしこの建振熊宿禰も父親武振熊命と共に新羅の戦に従っている。

    建振熊宿禰は応神朝になって丹波、但馬、若狭にまたがる地域の国造となったのである。
    その支配の拠点は、若狭木津高向宮(わかさきずたかむくのみや)とされる。現在の福井県大飯郡高浜町であろう。そしてこの建振熊宿禰の時代から丹波の一族は海部(あまべ)と称するようになる。

    しかし建振熊宿禰が国造になる前、すでに成務の時代、丹波には大倉岐、但馬には船穂足尼(ふなほのすくね)などの国造が任命されている。したがって建振熊宿禰はこれらの、国造を支配下に置いた、丹波、但馬、若狭にまたがる、より上位の支配者なのである。それゆえに丹波直であり、但馬直なのである。

    和邇氏系図には武振熊宿禰という名を見ない。だが父武振熊命に従って新羅に出陣し、彼の地にとどまった大矢田宿禰という人物がある。この大矢田の宿禰が建振熊宿禰である。

    『勘注系図』では由碁理の子とする川上眞稚命の子、大矢田彦命の横に一云、難波根子武振熊宿禰とするが、『勘注系図』には大矢田彦命と大矢田宿禰との混同がある。
    何れにせよ建振熊命も建振熊宿禰も和邇氏の人物である。
    武振熊命の本拠地は大和和爾すなわち現在の奈良県天理市和爾である。一方建振熊宿禰は父親建振熊命と共に、新羅に出兵し鎮守将軍として新羅に留まる。後に帰国し応神朝に若狭木津高向宮で海部直(あまべあたい)の姓を賜るのは、息子の建振熊宿禰である。また仁徳の時代、飛騨の両面宿灘を討ったのも、息子の建振熊宿禰である。
  • 和珥は和邇とも丸部(わに)とも書く。系譜的には、和珥氏は孝昭帝の皇子・天足彦国押入命(あまたらしひこくにおしのみこと)の後裔とされている。奈良盆地東北部から京都盆地北東部にかけて勢力を張った在地豪族で、奈良盆地西南部を本拠とした葛城氏とともに初期大和政権を支えた有力氏族とされている。和珥氏は5世紀から6世紀から天皇家と婚姻関係を結んでいる。天皇家と婚姻関係を結ぶことで勢力を拡大した氏族は、他にも葛城氏や蘇我氏、藤原氏がいるが、その先駆けは和珥氏である。開化天皇を皮切りに、応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達と5世紀の天皇の過半数に后妃を出している。

    しかし、和珥系の后妃所生の皇子の中で即位したのは敏達天皇だけで、和珥氏は皇女を介して后妃関係を重複させて朝廷における勢力の維持に努めたのが特徴である。例えば、和珥臣深目の娘・童女君は第21代雄略天皇の后になり、春日大郎(かすがのおおいらつめ)皇女を生んだ。春日大郎皇女は第24代仁賢天皇の后となり、武烈、橘皇女、そして手白髪(たしらか)皇女を生んでいる。手白髪皇女は第26代継体天皇の后となり欽明天皇を生んでいる。和珥臣河内の娘・ハエ媛も継体天皇に嫁いでいる。
  • 新羅大明神は大矢田宿禰

    古くは新羅神社と呼ばれていたと考えられるが、現在は鎮座地の地名を冠した溝谷神社となっている。丹後半島の中央部竹野郡弥栄町字溝谷にあり、新羅大明神を祭っている。

    弥栄町と溝谷村

    太田南五号墳
    弥栄町は丹後半島の中央部に位置する竹野(たかの)川に沿った町である。北側の丹後町は、聖徳太子の生母穴穂部間人媛(あなほべはしうど)の出身地であり、蘇我氏と物部氏の仏教争いの際に、間人媛が難を避け一時非難したといわれている間人(たいざ)村がある。日本海に面し景色が美しいところから、丹後松島といわれている。弥栄町は昭和八年二月一日に溝谷、吉野、鳥取、深田の四村が合併して発足した町である。

    また、溝谷村は明治八年に外(との)、溝谷の両村が合併し溝谷村と称した。更に明治二十二年に溝谷、等楽寺の二村が合併、溝谷村となった。徳川幕府時代には宮津藩の所領で、明治四年の廃藩置県後は豊岡県の所轄、明治九年に京都の所轄となっている。溝谷は平野から山岳地帯までも含むが、平野部分が大きかったため、外村・等楽寺に比し石高も多く、城も大きかった。

    溝谷村は弥栄町の中心部分に位置し、丹後町の間人から続く竹野川の上流、溝谷川に沿った地域である。竹野郡弥栄町から溝谷を通り過ぎるあたりの船木には、奈具神社(祭神豊宇賀能売命)がある。

    当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

    溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

    「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

    其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

    「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

    溝谷神社本殿溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。
    溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
    『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
    『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
    『丹哥舊事記』
    溝谷神社 溝谷庄外村
    祭神 新羅大明神 素盞鳴命
    延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず
  • 『勘注系図』の十八世建振熊宿禰の注記に次のように記す。

      『息長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)、新羅(しらぎ)国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為(な)って以って奉仕(つかえたてまつ)るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后(のち)勳功により、若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直(あまべあたい)の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜う。
    品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇(みよ)国造(くにのみやつこ)として仕え奉る故に海部直亦(また)云う丹波直、亦云う但馬直(たじまのあたい)なり。』
  • 尾張氏が『記紀』伝承の中に登場するのは、五代孝昭の皇后になった世襲足媛(よそたらしひめ)である。
    世襲足媛は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)を生む。天足彦国押人命は和邇氏(わにし)の祖とされる人物である。また日本足彦国押人命は六代孝安天皇とされる人物である。
    この世襲足媛の兄、瀛津世襲(おきつよそ)は、孝昭の時代に大連(おおむらじ)と成って仕えたとするから、尾張氏は王権の中で相応の地位にあったと思われる。
    尾張氏系譜では、瀛津世襲や世襲足媛を彦火明命三世孫天忍男(あめのおしお)の子とする。
    ところがこの天忍男の子とする事には注意が必要である。
  • 『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、

    「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) - 大口納命 - 難波宿禰 - 大矢田宿禰」
    として和珥氏祖たる彦国葺命から続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、上記のうちの「難波宿禰」と武振熊との関連が指摘される[2]。

    富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)の大宮司家(富士氏)系図[3]では、武振熊は第5代孝昭天皇六世孫とされる。同系図では曾祖父を彦国葺、祖父を大口納、父を大難波宿禰とし、『新撰姓氏録』真野臣条に見える「難波宿禰」の位置に大難波宿禰と難波根子建振熊の2代をあてる。子としては米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰らの名が記載されている
  • 彦国忍人(ひこくにおしひと)は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)で和邇氏(わにし)の祖とされる人である。その五世孫が大難波命。その子供が大矢田彦命、そしてもう一人が日触大使主命(ひふれおおみのみこと)である。これはまぎれもなく和邇氏の系譜でる。
    また丹波大矢田彦命の近くにも、一本云、大難波根子、児大矢田宿禰として大矢田宿禰が登場する。私は和邇氏系譜に登場する大矢田宿禰が武振熊宿禰と考える。だからこそ『勘注系図』は「往古よりつたえるところ当氏子細有り」として和邇氏の系譜を一部記すのである。
    たいへん紛らわしいことであるが、『勘注系図』で十五世孫とする丹波大矢田彦命と、大矢田ノ宿禰は別人である。
    『勘注系図』は前者を川上麻須の子とする。後者は大難波根子といわれる和邇氏の建振熊命の子である。

     和邇氏の大矢田宿禰は、『新撰姓氏録』に真野臣(まのおみ)の先祖として次のように記される人物である。
    「真野臣、 天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)三世孫彦国葺命(ひこくにふくのみこと)の後なり。 男(こ)大口納命(おおくたみ)。男難波宿祢(なにわのすくね)。男大矢田宿祢(おおやたのすくね)。気長足姫皇尊(おきながたらしひめのすめらみこと)[いみな神功。]の新羅征伐に従い。凱旋(がいせん)の日鎮守将軍と為りて留まる。この時、彼(か)の国王猶榻(ゆうたふ)の女を娶(めと)り、二男を生む。二男兄、佐久命(さくのみこと)。次、武義命(むげのみこと)。佐久命九世孫和珥部臣(わにべおみ)鳥務大肆忍勝(とりのつかさおおつおしかつ)等。近江国志賀郡(おうみのくにしがのこおり)真野村に居住。庚寅(こういん)の年、真野臣姓を負うなり」とする。
    新羅鎮守将軍として新羅に留まった人物である。

     また京丹後市弥栄町溝谷の溝谷神社由緒記も、似たような伝承を伝える「丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞嗚尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」
    ここでは大矢田宿禰を丹波道主の子とするが、大矢田宿禰が鎮守将軍として彼の地に留まったという伝承は、『新撰姓氏録』と同じである。
  • November 2019 編集されました
    忍熊王側の将軍、難波吉士五十狭茅(いさち)宿禰の後裔は岸臣であり、吉備にも拠点があっ
    たと書いた。

    吉備の難波氏は、大和葛城国造(三島)剣根命の後裔であるといわれてきた。

    すなわち、日本書紀の欽明朝の記事に、「蘇我大臣
    稲目宿禰を備前児島に遣わして、屯倉を置き、葛城
    山田直瑞子を以て田令となす」とある。

    この瑞子は、剣根後裔と見てよいだろう。
    しかし、この瑞子が、吉備全土に広がる全ての難波
    姓の祖であると、言い切ってよいのだろうか。

    ーーー

    難波姓は岡山県に取り分け多い名字で妹尾、三宅などと並んで『難波』は岡山らしい名字の一つとされています。
    数年前のデータとはなりますが、難波姓は岡山で11番目に多い名字であるとランキングされています。
    この割合は他県からは抜きん出て高いもので全国の難波姓の3分の1以上を岡山県が占めているとされています。

    岡山県の中でも苫田郡鏡野町、賀陽町の難波姓の人口密度は抜きん出て高いものとなっております。
    ※賀陽町は平成の大合併により、2004年10月1日に加茂川町と合併して加賀郡吉備中央町となっております。

    これは平家一族に仕えた難波一族が平家滅亡とともに離散し各地に流れた為と考えられ、鏡野町や賀陽町は山間の奥地という事もあり、潜伏するには格好の場所であった為、これ等の地などに流れてきたのではないかとも考えられます。

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