かご坂王と忍熊王

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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仲哀天皇と大中姫の御子である 麤坂王と忍熊王の兄弟は応神天皇の異母兄弟 母は彦人大兄命の女・大中姫(大中比売命…

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  • 剣神社(福井県丹生郡織田町) ※越前国二の宮
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    祭神 素戔嗚尊、気比大神、忍熊王(都留伎日古命)
    神功皇后摂政十三年、忍熊王の創建と伝えられる。継体天皇の三国、気比神宮(越前国一の宮)にも、非常に近い地理関係だというのが興味深い。

    剣神社という名の神社は福井県に多く、山口県・徳島県・鹿児島県などに分布しているが、祭神は、素戔嗚尊、倭建命、経津主命、安徳天皇とまちまちである。

    滋賀県大津市の瀬田で死んだはずの忍熊王の、その後の消息を伝えるのがこの剣神社である。

    社伝は、「神功皇后13(873)年2月、忍熊王は都を去って越の国に入り、角鹿(敦賀)の海を渡って梅浦に着き、当地を害する梟賊を討伐せんとして霊夢を見、息長氏系の五十瓊敷入彦命(いにしきのいりひこのみこと・11代垂仁天皇の第一皇子。

    母は日葉酢媛命。倭比売の兄。)が鳥取川上宮(大阪泉南郡阪南町)で作った剣を、伊部臣が座ヶ嶽の山頂に祀っていたものを得て、賊を平定。

    忍熊王は、神剣を素戔嗚尊の御霊代として斎き祀り、この地に社を設けた。後、郷民が忍熊王の偉業を称え、都留伎日古命(つるぎひこのみこと)として慕い奉り、父神の気比大神と共に配祀した。」と伝えている。

    この場合の父神は忍熊王の父の仲哀天皇を指すと思うが、気比大神の伊奢沙和気(いざさわけ)の名は、息長氏の祖・天之日矛の神宝「胆狭浅(いざさ)の太刀」から来ているといい、元来は「剣の神」であったと思われる。気比大神は、素戔嗚尊の神剣「草薙剣」を賜った、倭建命ではなかったか? 祭神の一人、素戔嗚尊が八俣大蛇を切った「天羽斬剣」は、冒頭に述べた通り吉備の地にあるとも言われ、興味は尽きない。
  • 武内宿禰が 菟道に着き、河の北に駐屯すると、「私は天下を貪りません。ただ幼王を懐いて、君王に従うだけです。どうして戦うことがありましょうか。どうか共に武器を捨てて和睦しましょう。そして君王が皇位に登り、安んじて 万よろずの政を行えばよいのです」と言ってきた。そして軍中に令して、弓弦を断ち、刀を解いて河に投げ入れさせた。忍熊王は同意して、全軍に令して武器を河に投げ入れて弓弦を断たせた。ここで武内宿禰は三軍に令して、控えの弓弦を出して張り、真刀を帯びさせて、河を渡って進軍してきた。忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別と五十狭茅宿禰に「私は欺かれた。控えの武器も無く、戦うことが出来ない」と言って、兵を率いて退いた。武内宿禰は精兵を出して追わせた。たまたま 逢坂おうさかで遭遇して破られた。忍熊王は逃げ隠れする所も無く、五十狭茅宿禰を呼んで歌を詠んだ。

    「 伊い 裝ざ 阿あ 藝ぎ  伊い 佐さ 智ち 須す 區く 禰ね  多た 摩ま 枳き 波は 屢る  于う 知ち 能の 阿あ 曾そ 餓が  勾く 夫ぶ 菟つ 智ち 能の  伊い 多た 氐て 於お 破は 孺ず 破は  珥に 倍ほ 廼ど 利り 能の  介か 豆づ 岐き 齊せ 奈な」

    そして共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。

    【日本書紀 神功皇后摂政元年三月庚子条】

    日本書紀
     いざ吾君(あぎ) 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌(くぶつち)の 痛手負はずは 鳰鳥(にほどり)の 潜(かづき)せな
    古事記
     いざあぎ 振熊が 痛手負はずは にほ鳥の 淡海の海に 潜(かづ)きせなわ
  • 日本書紀 原文

    武內宿禰、出精兵而追之、適遇于逢坂以破、故號其處曰逢坂也。軍衆走之、及于狹々浪栗林而多斬、於是、血流溢栗林、故惡是事、至于今其栗林之菓不進御所也。忍熊王、逃無所入、則喚五十狹茅宿禰、而歌之曰、

    伊裝阿藝 伊佐智須區禰 多摩枳波屢 于知能阿曾餓 勾夫菟智能 伊多氐於破孺破 珥倍廼利能 介豆岐齊奈

    則共沈瀬田濟而死之。

    いざ吾君 五十狭茅宿禰(イサチスクネ) たまきはる 内(ウチ)の朝臣(アソ)が
    頭槌(クブツチ)の 痛手(イタテ)負(オ)はずは 鳰鳥の 潜(カヅキ)せな

    歌の訳
    さぁ、我らの君主の五十狭茅宿禰(イサチスクネ)! たまきはる(=枕詞)の武内宿禰の兵隊によって槌で負傷してしまう前に、カイツブリ(=水鳥の種類の名前)のように水に潜ってしまおう。

    敵の兵器で頭をかち割られて死ぬくらいなら、自ら水に入って死んでしまおう…という意味。
  • 古事記に

    忍熊王(オシクマノミコ)、難波の吉師部(キシベ)の祖先の伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に任命して戦いました。

    ホンダワケ皇子(=応神天皇)は、丸邇臣(ワニノオミ)の祖先の難波波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)を将軍に任命して戦いました。

    皇太子側が優勢で、戦闘はオシクマ王が後退していき、山城まで至りましたが、その後、オシクマ王は持ち直して、膠着状態となりました。

    伊佐比宿禰この後、死んでしまいます。しかし子孫はある。吉師部。この吉師部は阿部氏が統率していた儀式で踊る舞の集団。

    オシクマ王の軍勢は逢坂に退却し、そこで正面切って戦うことになりました。

    しかし、神功皇后の軍勢に追い詰められ、沙々那美(ササナミ)に敗走しました。

    忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)は追い詰められ、舟に乗って海で歌いました。

    さぁ、わたしの王よ
    フルクマに痛手を負わされるよりは
    近江の海に身を投げましょう

    すぐに海に身を投げて二人とも死んでしまいました。

    古事記
    歌曰、 伊奢阿藝 布流玖揺賀 伊多弖淤波受波 邇本杼理能 阿布美能宇美邇 聟豆岐勢那和 來入レ恭、共死也。
  • 神功皇后の遠征と吉備氏族
    書紀は、吉備氏のうち、鴨別命が神功皇后に従軍し、熊襲国を撃ったと記す。

    逆に言えば、吉備氏の中心である御友別命以下は、動かなかった。
    吉備の血を受けた皇子たちと、難波吉士氏が反旗を翻しても動かなかった。

    この功績が、応神朝における御友別命の子供たちの、国造任命や兄媛の入内につながったと見る。

    また、吉備氏ではないが、牛窓の吉備海部直一族も、遠征に加わったとされる。(改訂邑久郡史上巻)
    これが、大伯国造任命や黒比売の入内につながったか?
  • 神功皇后に従って香坂王・忍熊王の軍と戦った将軍は、古事記に丸邇(わに)臣祖難波根子建振熊命があり、日本書紀では和珥臣の祖武振熊とある。

    海部穀定氏によれば、一伝に大矢田宿祢―大振熊―難波根子建振熊―建振熊という系譜があり、三代にわたる熊は熊野郡の熊に関係があり、難波根子建振熊命は和珥臣の祖であるばかりでなく海部氏の祖でもあるという。
    忍熊王と戦った難波根子建振熊あるいは武振熊が熊野郡の熊と関係あるなら、忍熊王の熊も熊野郡の熊と関係があるのではないだろうか。また、香坂王・忍熊王の母大中津比売の父は大江王であり、大江王は景行天皇が倭建命の曾孫で須売伊呂大中日子王の娘の河具漏比売に生ませたという大枝王と同一人物であろう。

    海部氏に伝わる一伝では、神功皇后の新羅出兵に従軍したのは大矢田宿祢あるいは建振熊宿祢ともいわれ、新撰氏姓録にも神功皇后の新羅征伐に従って凱旋後鎮守将軍とされたとあるという。そうすると、忍熊王と戦ったのが大矢田宿祢すなわち大倉岐命だった可能性もあ
  • 神功皇后、事代主、

    忍熊王(オシクマノミコ)は住吉(スミノエ)に駐屯しました。
    そのとき皇后は忍熊王が師(イクサ=軍隊)を起こして待っていると知っていて、武内宿禰に命じて、皇子を抱いて、(神功皇后に対して)横を通り、南海から出て、紀伊水門に泊まりました。皇后の船は、直に難波へと向かいました。
    皇后の船は海で回って進むことが出来ませんでした。そこで務古水門(兵庫県尼崎市武庫川)に帰って占いました。すると天照大神は教えて言いました。
    「私の荒魂を皇后の近くに居られない。その御心は広田国(摂津国武庫郡広田神社=現在の兵庫県西宮市大社町)に居るべきだ」
    すぐに山背根子の娘の葉山媛に祭らせました。また、稚日女尊が教えて言いました。
    「吾は活田長峽國(摂津国八部郡生田神社=現在の神戸市生田区下山手通)に居る」
    そこで海上五十狹茅に祭らせました。
    また事代主尊が教えて言いました。
    「吾(ワレ)を御心の長田国(摂津八部郡長田神社=現在の神戸市長田区長田町)に祀れ」
    それで葉山媛の妹の長媛に祭らせました。
    また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が教えて言いました。

    「吾の和魂を大津(大きな港のこと?)の渟中倉(ヌナクラ=地名だが未詳)の長峽(ナガサ=地形)に居る。行き交う船を見ていた」
    そこで神の教えのままに鎮めて祀りました。
    するとすぐに(進めなかった船が)平和に海を渡ることができました。
  • 九州に地盤のあった阿蘇氏や敷桁彦命を祖先に持つ多氏、更には大分国造や火国造などを輩出した健緒組命とも「同祖」だと主張している

    姓氏録には、これとは別にもう一家、興味深い氏族が顔を見せています。それが、

      茨田勝  山城国皇別       景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後なり

    「茨田勝(まんたすぐり)」家です。

    この皇子の名前は、日本書紀には見えず、先代旧事本紀にはよく似た息前彦人大兄水城命(奄智白幣造の祖)の名が天皇本紀に見えており、古事記には伊那毘若郎女(播磨出身、皇后の妹)との子供に日子人大兄王が居たとあります。また、書記の仲哀二年春正月条には、

      気長足姫尊を立てて皇后とす。これより先に、叔父彦人大兄が女、大中姫を娶りて妃としたまう。香坂皇子、忍熊皇子を生む。
  • 伊佐比宿禰(いさびのすくね)
    難波の吉師部の祖。

    筑紫の国で第十四代仲哀天皇が急死し、その皇后である神功皇后が三韓征伐し、筑紫に戻ったら子を産み、今度その子とともに畿内に戻ってくると聞き、またその御子がすでに死亡したという情報を得たので、仲哀天皇の皇子である香坂王と忍熊王は反逆することに。

    戦前の狩りにおいて、兄の香坂王は、大きく怒れるイノシシな神、つまりおっことぬし様に食い殺されて脱落するが、弟の忍熊王はこの凶事にもめげずに進軍、この軍の将軍に任命されたのが伊佐比宿禰。

    伊佐比宿禰は忍熊王とともに善戦するが、皇后及びその御子(死亡情報はデマ)の軍はタケフルクマを将軍に立て、戦況が芳しくないと知ると、タケフルクマは皇后は逝去したとまたデマを流して投降。これに油断して、反撃を喰らったために、忍熊王と伊佐比宿禰は逢坂、さらには近江へと撤退。

    近江で壊滅的な敗北を経て、忍熊王と伊佐比宿禰の二人は琵琶湖へ船で逃れ、その湖上で入水自殺する。
  • 海上五十狭茅(うながみのいさち)とは、生田神社社家の先祖。

    上総国海上郡の海上氏(祖 天穂日命)との関係も考えられるが、不明。神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代生田神社祭主となったという。麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう。なぜ戦った相手の子に奉祀させたかは不明。本当であるとすると、壬申の乱の後の石上麻呂の様に、敗者側関係者が栄達?を遂げたこととなる。子だけ、神功皇后、応神天皇側についたのかも知れない。

    名前の五十(い、いと、いそ 等)の部分は皇室関係の古い名に散見されるが、意味は不詳。

    海上五十狭茅の子孫は、海上氏だけでなく、村田氏、後神(ごこう)氏などの名前を称するようになってゆく。
  • 山城(宇治郡)の式内社/宇治彼方神社
    京都府宇治市宇治乙方
    祭神--不詳
                         

     延喜式神名帳に、『山城国宇治郡 宇治彼方神社 鍬靫』とある式内社。社名はオチカタと読む。

     宇治橋・北詰(京阪宇治線・宇治駅前)から、府道7号線を東北方に50mほど行った左側の、低い石垣の上に鎮座する。
     曾て、境内に2本の椎の木があり、源氏物語(宇治十帖の第2帖)の“椎本”の帖に因むとされ、社頭に「椎の本古跡」との石標が立っている。

    ※由緒
     社頭に「式内 彼方神社」との石標が立つのみで案内板もなく、また当社に関する資料も皆無に近く、祭神・鎮座由緒・時期など不明。

     今、式内・彼方神社は宇治橋の東北方すぐに鎮座するが、当地以外にも“旧大鳳村”(曾て、当社の北方にあったという大鳳寺村か)にあったともいわれるが(山城名勝志・1705・江戸中期)、その所在地を含めて詳細は不明。

     当社の社名・彼方(オチカタ)の語源として、
     ・川(宇治川)が流れ落ちる彼方とする説(オチカタは落方で、川の流れる方向を指すという)
     ・宇治橋から三室戸に至る宇治大路の、大路方(オオジカタ)がオチカタと転訛したとする説
    があるが、祭神が水に関係していることから、川の流れ落ちる彼方との説が有力という。ただ、旧街道筋という立地からみて、オオジカタの転訛というのも捨てがたい。

     なお、日本書紀・神功皇后紀に、九州から幼子・誉田別命(応神天皇)を擁して大和に帰還した神功皇后の軍と、皇位継承を目論む異腹の皇子・忍熊王(オシクマ)が宇治の地で戦ったとき、皇子軍の先鋒・熊の凝(クマノコリ)が味方を励まして歌った歌に、
     「彼方(オチカタ)の荒松原(アララマツバラ)、松原に渡り行きて 槻弓(ツクユミ)に鳴矢(ナリヤ)を副へ 貴人(ウマヒト)は貴人どちや 従兄弟はも従兄弟どち いざ遇(ア)はな 我は」
     (彼方の疎林の松原に進んで行って、槻弓に鏑矢をつがえ、貴人は貴人同士 親友は親友どうし さあ戦おう われわれは)
    とあり、ここにいうオチカタが所謂・彼方(カナタ)なのか、オチカタという地名なのかは不詳だが、後者であるとすれば、書紀が編纂された8世紀初めには、当地にオチカタとの地名があったことが窺われる。ただ、彼方神社の存否は不詳。

    ※祭神
     当社祭神に定説はなく、管見のかぎりでは
     ・宗像神--大日本史神祇志(1873)
     ・諏訪神--境内に「諏訪大明神」(享保18年-1733-11月建)と刻した石燈籠がある。
     ・大物主命--出典資料不明
    の3神がみえる。

     宗像神とは、アマテラスとスサノヲによる誓約の際に生まれた三柱の女神のことで、海神・航海の神であり、諏訪の神も信州・諏訪の地に坐す風の神・水の神であって、いずれも水の神ということでは共通し、宇治市史(1973)は
     「宗像神は海神であり、諏訪神も風・水の神であって、宇治川の流れ落つる彼方(乙方)にまつられるに相応しい神である」
    と記す。

     当社が宇治川の畔に鎮座することからみて、宇治川の舟行守護・氾濫防止などを祈って水神を祀ったものと思われ、はじめ宗像神として崇敬され、何時の頃(江戸中期以前)かに諏訪の神に替わったと思われるが、境内には“諏訪大明神”と刻した石燈籠はあるものの、宗像神を祀った痕跡は見えない。
     また、水神を祀ったとはいえ、遠い諏訪の神を祀った由緒は不詳。

    大物主命とはネット資料に記す祭神だが、今の境内にその痕跡はなく、根拠資料も不明。
  • 森氏の視点
    劔神社
    敗者の視点から古代史を綴るきっかけは、意外なところにあった。2年前の3月11日に起きた東日本大震災の翌日、森氏は福井県越前町で講演された。越前町は小生の郷里に近い丹生郡に位置する新しい町で、2005年2月1日に旧来からの越前町と、織田町、朝日町、宮崎村の3町1村が合併して誕生した。その講演のとき、越前二の宮にあたる地元の剱神社で忍熊王おしくまおうが剱御子つるぎのみことして祀られていることを思い出された。

    忍熊王は仲哀天皇が若いとき彦人大兄の娘の大中姫おおなかつひめを妃として設けた皇子で、武勇で名高いヤマトタケルの直系の孫にあたる皇位継承者だった。その忍熊王が、新羅遠征の後伊都国で出産した誉田別(後の応神)を連れて東進してくる息長足姫おきながたらしひめ(神功皇后)の軍と宇治川を挟んで戦った。

    宇治川での戦いでは、忍熊王側が優勢だったが、竹内宿禰たけちのすくねの詐術によって破れ、『日本書紀』では近江の瀬田川で投身自殺したことになっている。ところが、劔神社の古伝では、忍熊王は逃げ延びて織田へ来て、この地方で人々を悩ませていた山賊を平定してから若死にしたという。そこで、人々は皇子を剱御子として祀ったとされている。忍熊王のような敗者の立場で歴史をみてみると、事件の別の姿が見えてくるのでは、と森氏は考えられた。
  • 『古事記』では、垂仁天皇の最初の皇后サホビメが生んだ皇子ホムチワケは成長しても言葉を発することがなく、出雲大神の宮を訪ねることで口がきけるようになった、とあります。

     この時ホムチワケの供をしたのが曙立王(アケタツの王)と莵上王(ウナカミの王)の兄弟でした。

     『常陸国風土記』の久慈郡薩都(さつ)の里の条には、莵上命(ウナカミノミコト)が土雲を誅した、とあります。

    この莵上命が莵上王と同一人物なのかどうかはわかりませんが、莵上という名は、常陸の莵上郡(海上郡)に関係していると考えてよいでしょう。

     それに『古事記』は、

     「アメノホヒの子建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)は、出雲国造、无邪志国造、上莵上国造、下莵上国造、伊自牟国造、津島縣直、遠江国造等の祖」と、記しており、上莵上国造と下莵上国造は出雲国造と同じアメノホヒ系になるのです。(ただし、大国主の出雲神族の可能性が高い)

    莵上王を祀る神社は、実は三重県にあります。いなべ市の莵上神社と四日市市の菟上耳利神社(うなかみみみとし神社)がそれです。
    四日市市の神社の名前が莵上耳利とあるのは、明治時代に耳利神社が合祀されたためで、それまでは莵上神社でした。どちらの神社も祭神は莵上王です。

    なお、愛知県豊川市に鎮座する莵足神社の祭神莵上足尼命を莵上王のこととする意見もありますが、よくわかりません。

     ただ、伝承によれば、この莵上足尼命は葛城襲津彦の子孫とあるので、垂仁朝よりもっと後世の人物ということになります。

  • 【香坂王忍熊王】
     仲哀天皇段に、「娶大江王之女・大中津比売命、生御子、香坂王、忍熊王。」とある。 香坂王・忍熊王は息長帯比売命(神功皇后)への反乱を試みた。

    【大枝王・銀王】
     系図を書き出してみると、景行天皇が自身の四世の孫(迦具漏比売命)を娶り、さらにその間に生まれた子(大枝王)が景行天皇の子(銀王)を娶る という奇妙なことになっている。 どうも景行天皇の皇子について別系統の言い伝えがあり、それらを合成した結果のようにも思われるが、合理的に理解することは、不可能である。
     なお、女性名「銀王」は異例である。「しろがねのみこ」と発音するとしても「銀皇女」などと表記すべきであろう。 その母名も示されず、不思議な存在である。
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