熊鰐、豊玉姫、鰐船

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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熊鰐とは、岡県主の先祖の熊鰐 熊鰐が賢木の枝にかけた「白銅鏡、十握剣、八尺瓊」と周芳の沙麼 日本書紀 「仲哀天…

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  • 熊鰐の子孫は、豊山八幡神社(北九州市八幡東区春の町)と春日神社(北九州市八幡西区藤田)の宮司にもなっておられる。現在は「波多野」姓になっているが、両家に中世から伝わる古文書10通は波多野文書として市指定有形文化財になっている。

     熊鰐は帆柱山(488m、北九州市八幡東区)の大きな杉の木を切って、神功皇后の船の帆柱を造ったと伝えられる。八幡東区には「帆柱」の地名も残っており、帆柱稲荷神社も鎮座している。
     帆柱山の東の皿倉山(622m)に神功皇后が登って国見をしたという伝説から国見岩があり、この故事を詩人の野口雨情(1882年-1945年)が歌にした石碑もある。
       くきの海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についた熊鰐が
       山で帆柱切りました その時切った帆柱は 帆柱山の杉でした
     地元の人は皿倉山を帆柱山とも云うらしい
  • 熊鰐の勢力地は阿曇や宗像に近く、宗像氏は出雲の大国主を祖神とする。安曇と熊鰐の先祖は綿津見豊玉彦で海神だった。

     熊鰐の勢力地である遠賀川の上流には、鮭神社が鎮座。鎮座地は福岡県嘉穂郡嘉穂町大隈(おおくま)で、祭神は豊玉毘売命である。豊玉姫は綿津見豊玉彦の娘で出産の時に八尋熊鰐になっている。豊玉姫の孫が神武天皇となる
  •  穴門・穴戸(あなと)は関門海峡のことであり7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半には長門国と改めた。関門海峡は元々陸続きであった。

     本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
     それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う
  • 山口県下関市彦島迫町に鎮座の彦島八幡宮(祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇)の由緒説明によると、

    『古代は、関門海峡は門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴が開いていて外海と内海の潮が行き来していた。
     いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門、あなと」と呼んだ。日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。後に山口県の西半分を長門の国と云うようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」に訛ったのだと云われている。
  • 岡田宮は熊鰐の祖神を祀る神社で、この地を「熊手」と号す。現在では黒崎熊手地区50余町の産土神と崇敬され、広く北九州圏一帯よりの参詣が多い。
     祭神は中殿(岡田宮)に神日本磐余彦命(神武天皇)、右殿(熊手宮)に大国主命、少彦名命、県主熊鰐命、左殿(八所宮)には八柱の神が祀られている。
     八所宮には高皇産霊神をはじめとして事代主神も祀られている。事代主は摂津国で「八尋熊鰐」に化けて玉櫛媛に通った。生まれた子は媛蹈鞴五十鈴媛で神武天皇の正妃となる。
  • 一宮神社 
    北九州市八幡西区山寺町


    一宮神社
    一 由緒
    この地方の氏神、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社を昭和25年6月吉日に合祀し、社号を一宮神社と称します。

    王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。

    大歳神社は三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
    諏訪神社は花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。

    一 祭神
    天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 神武天皇(じんむ)(元王子神社)
     大歳神(おおとし) 事代主命(ことしろぬし)(元大歳神社)
     建御名方神(たけみなかた) 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 (元諏訪神社)


    神武天皇の磐境神籬が現存していた


    仲哀天皇は下関の忌宮神社に約6年も滞在
    記紀はその事情を語りませんが、その答えは北九州の各神社の伝承に残っていました。
    その期間は軍船を造っていたのです。

    その数は48隻というのが志式神社や他の神社に伝わっていますが、北九州市では材木調達と造船をし、船団を整えていました。
    山口県や大分県の海岸沿いなどでも船を造っています。船の帆や幡など布製品は宗像市や福津市です。

    これで分かるのは、最初から新羅との戦いを準備していた事です。
    記紀では「熊襲よりも新羅を」と神々が託宣したように書かれていますが、造船をしたと言う事は明らかに最初から新羅戦を前提としていた証拠になります。
    戦った熊鷲たちは山に住んでいた。

  • 鰐河神社
    わにかわじんじゃ
    [香川旅行] 香川県木田郡三木町下高岡

    香川県三木町にある。
    高松琴平電鉄白山駅から真っ直ぐに南1.5Kmほどの四條。

    社前を新川が流れる境内は南向き。
    石橋を渡って、境内に入ると正面に社殿がある。

    境内右手に境内社が2つ並んでいる。
    本宮神社(玉依姫命)と若宮神社(宇治稚郎子命)だろうか。

    創祀年代は不詳。

    祭神は、豊玉姫命。
    社伝によれば、豊玉姫命は、
    讃岐国山田郡(高松あたり)に亀に乗ってやって来て、
    ウガヤヒキアエズ尊をお生みになり、
    鰐魚に乗って、川を遡り、当地に鎮座したという。
    よって、当社は鰐河神社となった。

    拝殿には、鰐に乗った姫が当社へ向かう絵が奉納されていた。
    古事記では、豊玉姫命自身が鰐であったことになっている。
    延喜8年に八幡を配祀し、以後、高岡八幡とも称していた。

    八幡宮でもあったからだろう、神紋は、三つ巴。

    鰐河神社

     太古の昔、豊玉姫神、鰐魚に乗り、この地に来たり社を建立緒神緒仏遊戯の地となりぬ延喜式内、和称賀波神社はこの産社なり。僧行基の建。郷社、高岡八幡宮とも奉称す。
     後鎌倉時代に元軍退治の祈祷所となり、明治五年鰐河神社と改称し郷社に列す。旧応神寺別当。さぬき十五社四番。

    -『平成祭データ』-
  •  香川県の高松市沖には、南から北に、女木島、男木島、豊島という島が連なっています。これらの島などには、記紀の物語に登場する山幸彦と豊玉姫にまつわる神社、地名、伝説が数多く残されています。
     その中心舞台が男木島です。この島には、豊玉姫を祀る「豊玉姫神社」と、山幸彦を祀る「加茂神社」があります。山幸彦と豊玉姫は「神井戸」で出会い、「殿山(でんやま)」の東の「御宅(みやけ)」で暮らし、豊玉姫は「こもが浜」でお産をしたといわれています。その場所は現在の男木島灯台の辺りだといわれています。そして、豊玉姫が安産の祈願を願いながら籠もり余生を過ごしたところが「豊玉姫神社」のあるところだといわれています。
     また、女木島には玉依姫を地上に送ったという鰐(わに)を祀った「荒多神社」があります。玉依姫を海の国へ連れて帰るものだと思っていた鰐は、女木島と男木島の潮の流れの速い瀬で玉依姫を待っていましたが、姫がいつまでたっても現れないのでそのまま石になってしまったといわれています。
  • 「応神天皇五年十月、伊豆国に命じて船を造らせたとところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という記述。
    これが、おそらく歴史書に出てくるもっとも古い伊豆に関する記述と思われます。

    天武天皇の時代の、653年に三位麻績王という皇族の息子が伊豆島に流されたという記述があるのをはじめ、686年には、に大津皇子という皇子の家臣で、張内礪杵道作(張内という場所に住んでいた、「ときのみちつくり」という人)が伊豆に流されたという記述があるそうです。大津皇子は、朝廷に謀反の意があると言われ、朝廷から自害を命じられており、「ときのみちつくり」は、これに連座したのです。

    また、699年には、役小角(えんのおづの、おづぬ)という人が「伊豆島」に流されたという記述が出てくるそうですが、この伊豆島とは、伊豆大島のことを指しているという人もいるようです。

  •  12代景行天皇(285年頃-350年頃、纏向の日代宮)は菟名手(うなで)に豊国直(とよくにのあたい)の姓(かばね)を与えて豊国を治めさせた。菟名手は国前(くにさき)氏・豊国氏の祖。
     菟名手は7代孝霊天皇(240年頃-286年頃)の皇子・吉備津彦の子孫であると云われ、吉備津彦の母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)、別名は紐某姉(はえいろね)である。

     豊後国風土記によると、菟名手が「仲津郡に白鳥が飛来し、まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と景行天皇に報告し、芋を献上したので、「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を豊国と名付けたと云う。

     日本書紀によると、13代成務天皇(311年頃-355年頃)は天下を安定させるために国郡(くにこおり)に長(おさ)を置き、県邑(あがたむら)に首(おびと・かみ)を置いた。
     先代旧事本紀の国造本紀によると、成務朝の御代に伊甚国造(いじみのくにのみやつこ、上総国・千葉県)と同祖の宇那足尼(うなのすくね)を豊国造(とよのくにのみやつこ)に任じたとある。
     出雲郡建部郷(松江市宍道町伊志見)に伊甚神社(いじむじんじゃ、伊自美社)があり、伊甚国造一族の斎祀る神社である。祭神は大年神、倉稲魂命、武御名方命(たけみなかたのみこと)。
     宇佐市安心院町(あじむまち)の「あじむ」の地名由来は、「葦生(あじぶ)」であるとか、松本清張説や地元伝承によると「安曇(あづみ)」であるとの説があるが、「伊甚(いじむ)」が由来かもしれない。

     また、宇那足尼と菟名手は同一人物と云う説もあり、同一人物であれば12代景行天皇からは豊国直の姓を賜り、13代成務天皇からは豊国造に任じられたことになる。

     尾張氏・海部氏の祖・彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、230年頃出生)は孝霊天皇に仕え、別名は大宇那比命・高天彦で、弟に建宇那比命、妹に宇那比姫命がいる。
     成務天皇が豊国造に任じた宇那足尼(うなのすくね)は建田背命より80年ほど後の人であるが、海人族の豊国と「宇那」のつながりで見ると、宇那足尼・菟名手は尾張氏・海部氏ではないかと考えています。
  •  景行天皇が周防国娑婆(さば、山口県防府市)に居留していた時、対岸の国東半島・伊美(国東半島の北端、国東市国見町伊美)を毎日見ていた。一度伊美へ行ってみたいと思い、わざわざやって来た。そして国見をすると素晴らしい国であったので、遠隔地の国をやっと見ることができたと感動した。
     伊美郷の地名由来は景行天皇の「国見」が訛って「伊美」となったと云う。天皇に見出された国として豊後の国は位置づけられた。
     伊美の郷のある国埼郡は国前臣(くにさきのおみ)の本拠地である。国前臣の祖は菟名手であるが、先代旧事本紀・国造本紀によると、国前国造は13代成務天皇の時に吉備臣と同祖である吉備都命の6世孫の午佐自命(うまさじのみこと)を国造に定められたとある。
  • August 2017 編集されました
     古事記の国生みによると、豊国は筑紫島(九州)の4面の一つ、豊日別(とよひわけ)と云う。
     豊後国は8郡44郷があり、日田郡(日高郡)、球珠郡(玖珠郡)、直入郡(なおいりぐん)、大野郡、海部郡(あまべぐん)、大分郡、速見郡(はやみぐん)、国埼郡(くにさきぐん、国東郡)である。

     12代景行天皇(285年頃-350年頃、纏向の日代宮)は菟名手(うなで)に豊国直(とよくにのあたい)の姓(かばね)を与えて豊国を治めさせた。菟名手は国前(くにさき)氏・豊国氏の祖。
     菟名手は7代孝霊天皇(240年頃-286年頃)の皇子・吉備津彦の子孫であると云われ、吉備津彦の母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)、別名は紐某姉(はえいろね)である。

     豊後国風土記によると、菟名手が「仲津郡に白鳥が飛来し、まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と景行天皇に報告し、芋を献上したので、「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を豊国と名付けたと云う。

     速見郡(はやみのこおり)には別府温泉があり、景行天皇が到着すると速見郡の女王・速津媛(はやつひめ)が出迎え忠誠を示す。それで速見と名付けた。
     大分県由布市では宇奈岐日女神(うなきひめのかみ)が湯布院盆地を開拓し、宇奈岐日女神社に祀られていたが、現在の祭神は男神6柱に替わっている。
     別府湾岸部の海人族は大和朝廷と早くから提携して交易を進め、富を蓄え古墳が多く、前方後円墳もある。

  • 海部郡
    天平12年(740年)頃までに成立したとされる『豊後国風土記』において、豊後国の8つの郡のひとつとして海部郡が挙げられている。
    同書の海部郡の条には「この郡の百姓は、みな海辺の白水郎(あま)なり。よりて海部の郡という。」と記されており、海部郡の名は、海人が多く住んでいたことに因んで付けられたとされる。

    また、承平年間(931年 - 938年)に成立した『和名類聚抄』には、海部郡に、佐加(さか)、穂門(ほと)、佐井(さい)、丹生(にう)、日田、在田、夜開、曰理、叉連、石井の10郷があったと記されているが、実際には、佐加、穂門、佐井、丹生の4郷が海部郡に属し、他は日田郡に属していたと考えられている。このうち、佐加、佐井は現在の大分市の東部にあたり、丹生郷は大分市東部から臼杵市にかけての地域、穂門郷は臼杵市、津久見市から佐伯市に及ぶ広大な地域であったとされる。
  • 穴門 (穴戸) とは、
    綾羅木郷遺跡の貯蔵穴群
    鼻ヅラにあった天石窟

    穴門
    豊浦宮  (二)巻  P126
    穴門直の祖践立  同  P130
    山田邑  同  P156
    穴門館  欽明22年  (三)巻  P328

    穴戸
    穴戸直の践立が所貢れる水田、名は大田  (二)巻  P152
    穴戸国司草壁連醜経、白雉  (四)巻  P308

    古事記
    穴戸の神
    穴門の豊浦宮
    近江の吾名邑  垂仁3年3月 註  (2)巻  P24
    婀娜国  あなのくに   安閑2年5月  (3)巻  P224
  • 玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。


    このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、
    やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
  • 志式神社の神楽の「磯良舞」

    白髪の神さまが出て来た舞

    磯良舞   (いそらまい)   ( 武内神 豊姫神 磯良神 海神 )  
    神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
    48艘の船団でいよいよ新羅へ。
    その時、武内神が干珠満珠を貰い受けようとしました。
    磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。

    いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
    なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。

    すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。

    豊姫はそれを武内神に渡す。でした。

    干珠満珠が出て来た
    珠を授けている赤い髪がモシャモシャした神が海神です。
    (同じような話は海彦山彦にも出て来ます。⇒豊玉姫)

    玉を授ける神は海神なのです。

    「玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神」
  • July 2019 編集されました
    「伊賀彦社」という扁額が目に留まりました。
    わあ、すごい。ここに祀られている!
    この伊賀彦は「舵取りで、倭国の莬田の人で祝として祭らせた」
    と日本書紀に書いてある人、そのものです。

    ウダの伊賀彦

    伊賀彥王【先代旧事本紀】(いがひこのみこ)伊賀彦王

    日本武尊やまとたけるのみこと 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】

    弟橘媛おとたちばなひめ 【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 成務天皇四十八年三月庚辰朔条】


    十河氏の先祖は神櫛皇子だと伝わります。

    神櫛皇子(かみくし)は第12代景行天皇の皇子です。

    次妃五十河媛、生神櫛皇子・稻背入彥皇子、其兄神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也、弟稻背入彥皇子、是播磨別之始祖也。

    日本書紀 巻第七 景行天皇より

    次の妃の五十河媛は神櫛皇子、稲背入彦皇子を産みました。兄の神櫛皇子は讃岐国の始祖です。弟の稲背入彦皇子は播磨別の祖です。

    神櫛皇子の子孫が讃岐氏を名乗り、その庶流が植田氏、更に分かれ十河氏が誕生しました。

    神櫛王(カムクシ)は、木国(キノクニ)の酒部阿比古(サカベノアヒコ)・宇陀の酒部の祖先です
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