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『新選姓氏録』には 吉志 難波忌寸同祖 大彦命之後也 となっている。大彦命は第八代孝元天皇の子であるから皇別氏…
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応神十五年 百済王、阿直岐を派遣して良馬二頭を献上。
応神二十年 倭漢直の祖阿知使主、十七県の党類を率い
て来朝。
肩書は、応神天皇の異母兄である忍熊王・香坂王派の将軍。
名前は、書紀は、吉師の祖、五十狭茅(いさち)宿禰。
古事記は、難波吉師の祖、伊佐比宿禰。
難波吉士氏は、6世紀後半(欽明朝)から7世紀中葉(天智朝)まで、任那・新羅・百済・隋・唐との外交使節として活躍する。
二人の皇子は、父系(仲哀天皇)からも、また母系(大中姫)からも、吉備氏の血が濃厚な人物たちと理解される。
父方の祖父母は、ヤマトタケルとフタジイリヒメ。
戦いに敗れた忍熊王と五十狭茅宿禰は、瀬田の渡に共に身を投じた。
かほどに親密な関係は、五十狭茅宿禰も吉備出身者であり、皇子と共に育ったからだと見てよいと思う。
太田亨氏「姓氏家系大辞典」の吉士(キシ)條に
「岸臣は、伊佐比宿禰の裔ならん」
岸氏は全国で1万件を超える。
首都圏を別にして、件数の多い市町村を並べると、
1位 岡山市 206件
2位 出雲市 158件
3位 一宮市(愛知) 155件
4位 大阪市 137件
神功皇后の遠征と吉備氏族>
書紀は、吉備氏のうち、鴨別命が神功皇后に従軍し、熊襲国を撃ったと記す。
逆に言えば、吉備氏の中心である御友別命以下は、動かなかった。
吉備の血を受けた皇子たちと、難波吉士氏が反旗を翻しても動かなかった。
この功績が、応神朝における御友別命の子供たちの、国造任命や兄媛の入内につながったと見る。
また、吉備氏ではないが、牛窓の吉備海部直一族も、遠征に加わったとされる。(改訂邑久郡史上巻)
これが、大伯国造任命や黒比売の入内につながった。
の謎を解くヒントは、日本書紀雄略紀8年の記事にあった。
「高麗王が新羅に侵入した際、新羅王は任那王に対して、救援を求めた。
任那王は、日本府の将軍、膳臣、吉備臣、難波吉士に、新羅救援に行かせた」
任那王とは、後に新羅と婚姻関係に入った大伽耶国王か。
膳臣は安倍氏族。若狭を領地としたほか、慶雲2年(705年)の資料には、豊前国みやこ郡に膳臣広国の名が残る。(日本霊異記)
吉備臣は、伽耶の利権を、吉備の尾張氏から受け継いだと見る
出典
http://tsurugine.blog.fc2.com/blog-entry-128.html
大国主のもう一人の子、趨後のヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタが最後まで抵抗したというから、もっと東の北陸の勢力は、この出雲征服時にも従わず反抗の気勢をあげていたのだ。であれば、東方進出の基地となる美保の豪族との同盟を固めておくことは、下関の勢力にとっておおいに意味がある。
下関から出雲へというイツツヒコ一族の征服経路は、もちろん玉の交易路を押さえることが目的の第一だったろうし、その玉交易こそ、イタテ神やイタケルが朝鮮半島から出雲に来たった最大の要因だったろう。
イタテ神が合祀されていたという玉作湯神社は、名前の示すとおり、玉作りの神を祀り、付近の山にはメノウを産し、古代の玉作りの工房跡も発掘されている。こうした玉製品は、もちろん下関の遺跡からも発見されている。現在発見されている工房跡は四世紀末くらいに年代が下がるようだが、原石を近くに産することからみて、この付近でもっと古くから玉作 りが行われていたことは確実だろう。
下関のイツツヒコは、この日本海から朝鮮半島に連なる玉交易のルートを押さえて、王を自称し、大和の崇神朝などを眼中に置かないほどに強勢を誇ったのだ。
当地は仁安二年(1167年)の『兵範記』に「摂津国垂水東牧吉志部村云々」とあり。古くから吉志部(きしべ)と呼ばれていたようである。
大彦命が蝦夷の征伐に派遣され、兎田の墨坂(奈良県宇陀町)を通りかかると、嬰児の泣き声が聞こえたので付近を探してみると、一人の嬰児が棄てられていた。そこで大彦命は兎田の弟原媛を乳母として養育され、この児は立派に成長し、大彦命のもとに送り届けられた。大彦命は自分の子として愛育し、得彦宿禰と名付けた。これが難波忌寸の祖である。
近世魚崎の松尾綾平なる人は摂津国の皇別佐々貴山君の住んだ地として正しくは「ささいの松原」と読むべきだとし、更に『古事記』と『日本書紀』での仁徳天皇の名に含まれる「ササキ」の用字が雀と鷦鷯が通じて用いられ、その「ササキ」が「ササイ」に音便変化する事を挙げてこの説を補強している