坂本臣、紀角宿禰、根使主、使主とは

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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皇妃を輩出した草香部氏 履中朝から雄略朝まで、草香部氏が皇妃を擁立している。五世紀中葉以降、皇妃の家柄は唯一草…

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  • ハタビという名を持つ后妃に着目したい。
     [応神] 日向泉長媛 ―(子)幡日之若郎女 (記)
     [仁徳] 日向髪長媛 ―(子)草香幡梭皇女
     [履中] 草香幡梭皇女 (紀)
     [允恭]         
     [雄略] 草香幡梭姫皇女
     履中朝・雄略朝とも草香部氏から皇妃が入り、どちらもハタビという名である。そして、応神・仁徳では九州から妃が入り、その妃の皇女の名がやはりハタビである。

    http://kodai4.net/moromoro/kusaka02.html

    允恭朝では草香部氏の名は現れず、皇妃は忍坂大中姫だが、この姫もやはり草香部氏との関係が想定されるのである。

    忍坂大中姫の皇子皇女をみよう。
      (A)名形大娘皇女
        但馬橘大娘皇女
        酒見皇女
      (B)穴穂皇子
        大泊瀬稚武皇子
      (C)木梨軽皇子・軽大娘皇女
      (D)境黒彦皇子・八釣白彦皇子

    (D)の境黒彦皇子・八釣白彦皇子は、眉輪王の安康殺害の時に、雄略に殺される
    (C)の木梨軽皇子・軽大娘皇女は、オシサカ氏の系譜を表すものと考えられる。こ
    (B)の穴穂皇子・大泊瀬稚武皇子は後に王位を争うことになる允恭の皇子である。
    (A)の三人の皇女
    酒見皇女の酒見は現在の加西市で、ここには玉岡古墳群という一七〇メートルの古墳を含む前方後円墳群がある。古墳中期の造営であり、允恭の頃倭王権に統属され、その地から妃が入れられたものとみることができる。

    さて、問題にしたいのは、名形大娘皇女(『記』は長田大郎女)と但馬橘大娘皇女である。名形(長田)は草香部氏と関係がある。
    安康に討たれた大草香皇子の妻が中蒂姫(長田大郎女)である。履中紀には中蒂姫(中磯姫)は履中皇妃の草香幡梭皇女の子であるという記載もある。
    草香部氏が長田から妃を迎えているということは、草香部氏が摂津長田に進出し、長田の勢力と結びついたということを示すものと解される。
     また但馬橘大娘皇女は難波吉士である但馬氏を示している。「橘」という后妃の名は、但馬守がトキジクノカクノミつまり橘を持ち帰ったという伝承に基づく名と考えられるが、じつは雄略の皇妃草香幡梭姫皇女についても、『書紀』はまたの名として「橘姫」と書いている。草香部氏も但馬氏もともに「橘」を象徴としており、緊密な関係を持つ勢力であったとものと考えられる。
  • 継体は、後に手白香皇女を迎えるが、それ以外にも『書紀』は七人の后妃を記している。にもかかわらず、目子姫の子である勾大兄皇子(安閑)・檜隈高田皇子(宣化)が天皇を継いでいる。目子姫が尾張の草香という一地方の豪族が出した后妃に過ぎないならばこうはなりにくい。草香部氏が履中・允恭・雄略を通じて皇妃を入れてきた氏族であるとすれば継体の草香目子姫という名もやはり草香部氏と解すべきであろう。
      ではなぜ尾張に草香部氏がいるのだろうか。もともと河内に居住していた草香部氏(難波吉士)が淀川を遡り、まず近江に入った。忍坂大中姫の大中は、近江大中の地名であり、弟姫衣通郎姫は近江坂田からやってくる。忍坂大中姫は近江に入った草香部氏が立てた妃を表すものであろう。さらに雄略朝を経て、継体の頃には草香部氏は尾張へ進出していた。それを表すのが尾張連草香目子姫である。
      草香部氏は、応神朝・仁徳朝では九州から、後には韓半島から后妃を仲介し、一方、西に東に列島の侵攻に忙しい氏族である。
      雄略が草香部氏に妃を請うた話が押木珠蔓の話で、この話自体は造作色が強いが、しかしこの話の元には雄略が草香部氏からかなり強引に皇妃をとったということがあるのではなかろうか。東漢氏を実体とする雄略王権からすれば、草香部氏から妃を入れるということが、王朝の正当性を主張するためにもぜひとも必要だったように見える
  •   雄略朝と継体朝の王権は、東漢氏と草香部氏の両頭体制であり、天皇は草香部氏の妃と東漢氏の妃の両方を入れている。
       草香幡梭姫皇女    草香目子媛
        |             |
      雄略             継体
       ├─ シラカ ─┐      |
       韓媛       └─ タシラカ(タ+シラカ)
  • 天皇は同母弟の大長谷王子のために、根臣を大日下王のもとに遣わして、「あなた様の妹の若日下王を、大長谷王子と結婚させたいと思うので奉りなさい」と詔した。
    大日下王は四度も拝み、「もしやこのような大命もあるのではないかと存じ、外出させずに置いておりました。恐れ多いことです。大命に従って奉ります」と言った。しかし言葉だけでは失礼であると思い、その妹の礼物として 押木おしきの 玉縵たまかずらを持たせて献上した。
    根臣はその礼物である玉縵を盗み取って、「大日下王は勅命を受けずに、『私の妹は同族の下敷きにはならない』とおっしゃって、大刀の柄を握ってお怒りになりました」と讒言した。
    それで天皇は激怒して大日下王を殺した。

    【古事記 下巻 安康天皇段】
  • 安康天皇(四)根使主は押木珠縵に目が眩む。大草香皇子の死
    この時、難波吉師日香蛟(ナニワノキシヒカカ)の父と子は大草香皇子に仕えていました。その君が無罪なのに死んでしまうことに心を痛めて、父は王(=大草香皇子)の首を抱き、二人の子はそれぞれ王(=大草香皇子)の足を持ち、唱えて言いました。
    「我が君!
    罪も無く死んでしまうこと!
    なんと悲しいことか!
    我々、父子三人は生きていたときに仕えだのならば、死んで殉死しないなど臣下とは言えないだろう!」
    すぐに自ら首を刎ねて、皇子の遺体のそばで死んでしまいました。
  •  新羅鎮守将軍、大矢田宿禰

     十四世孫川上眞稚命のあたりに小さな字で次のような系譜を記す。
    「又一本云、彦国忍人五世孫大難波命、児大矢田彦命、児大使主命、伝伝、往古よりつたえるところ当氏子細有り、伝伝」

    この彦国忍人(ひこくにおしひと)は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)で和邇氏(わにし)の祖とされる人である。その五世孫が大難波命。その子供が大矢田彦命、そしてもう一人が日触大使主命(ひふれおおみのみこと)である。これはまぎれもなく和邇氏の系譜でる。
  • 押木玉蔓・・・「おしきのたまかずら」。金冠のこと。半島の新羅で特に発達した金・金銅製品で、国王・王妃用の戴冠帽である。和語の「押木(おしき)」とは「押し金」のことで、金塊を叩いて(押して・圧して)平たく延ばし、冠型に仕立てたことからのネーミングだろう。また、「玉蔓(たまかずら)」とは、冠の上辺に施された渦巻き文様の様をそう名付けた。

    このような見方がある
    http://kamodoku.dee.cc/ankou-yuuryakuki-wo-yomu.html

     この「王者の戴冠品」を大草香皇子が持っていたということの意味を考えてみると、実は大草香皇子こそが安康天皇に匹敵、あるいは対抗して大王位にいたのではないか、という結論に向かわざるを得ない。
     それを、いわば騙し取り、あまつさえ皇子の后であるナカシヒメを我がものにした安康天皇こそが、大草香大王を滅ぼして王位を簒奪したのだろう。大草香の母は日向のカミナガヒメであり、河内の日下(クサカ=神武紀では「孔舎衙」)に本拠地を持ち、葛城勢力とも近い大王だったのだ。
  • 山背根子

    橿原の帝の御世に阿多根命(あたねのみこと)を山代国造とした。
    祖先
    天津彦根命または伊岐志邇保命。
    天津彦根命であれば、凡河内国造である凡河内氏と同系。
    神武朝に阿多根命が、成務朝に曾能振命が山代(山背)国造に任じられたとされるが、神武朝の設置は疑わしい。

    山代(山背)氏
    後に山氏。姓は直。天武天皇12年(683年)に連に、14年に忌寸に昇格した。
    一部の者は天長10年(833年)に宿禰を賜っている。同氏には魯の白竜王を祖とする渡来系氏族や、火明命を祖とする別系もある。

    後裔
    山背根子・・・・古墳時代の伝説上の人。山氏の祖。
    神功皇后の命で広田神社を祭った葉山媛と長田神社を祭った長媛の父。
  • 高良

    玉垂宮が北向きだった時代は不明ですが、大宰府から船に乗って筑後川を南下して阿志岐村に着くとそこで上陸。
    東西に鎮座する坂本神社を通り、山を登って参拝すると、玉垂宮の正面に出たといううこと

    阿志岐に鎮座した二つの坂本神社は現在、御子神社の右隣に遷っています。
    そして「坂本」という姓が志賀島の古い家柄にあり、これまた安曇を連想させる名前なのです。

    雄略紀に、「根使主(ねのおみ)・小根使主の父子が殺された。根使主の後が、坂本臣となったのは、これから始まる」とある。賜姓したとは書いていない。
    きわめて含みのある記述だ。

    志賀島の安曇姓の人たちが、大量に坂本姓に改姓している
  • 坂本臣(おみ)の祖。安康天皇が弟の大泊瀬(おおはつせの)皇子(雄略天皇)の妃に大草香(おおくさかの)皇子の妹草香幡梭姫(くさかのはたひひめの)皇女をむかえようとしたとき,使者として大草香皇子のもとにつかわされる。皇子が拒否したといつわって報告したため,皇子は殺された。のちにこのことが発覚し,雄略天皇に攻めほろぼされたという。「古事記」では根臣。
  • 堺市の日下と東大阪市の日下
     『古事記』には、雄略天皇が皇后若日下部王のところを訪ねる場面が登場しますが、
    ここでは、はっきりと、

     「初め大后、日下に坐しし時に」

    と、記しており、若日下部王が日下にいたことが分かるのです。

     この日下は東大阪市の日下であるとする説が大勢のようですが、堺市の日下である
    可能性も捨てきれません。
     『古事記』にある上の一文は、雄略天皇が日下にいる若日下部王を訪ねようと生駒山
    の南方にある直越(ただごえ)道を通っていた時に、山上から見た志幾大県主(しきの
    おおあがたぬし)の家が天皇の宮に似せて造られていることに怒るというエピソードの
    中に登場します。
     ただし、河内国の志紀大県主(志幾大県主)の拠点は志紀郡(現在の大阪府藤井寺市
    を中心とした地域)ですので、生駒山からはっきりと志幾大県主の邸宅が見えたのかと
    いう疑問があり、そうすると、日下は堺市の日下の可能性も考えられるのです。
     すると、この場合、天皇が志幾大県主の邸宅を目にしたのは志紀郡に入ってからか、
    もしくはその近くまで来た時ということになります。
     志紀郡から大鳥郡の日下に向かうと仮定すれば、こちらの方が生駒山の上から見た、
    というよりは理にかなっているように思えますが。
     ちなみに、藤井寺市の旧道明寺村は昔の交通の要所でもありましたが、現在ここには
    近鉄土師ノ里駅があります。
     志幾大県主の祭祀する志紀県主神社が鎮座する藤井寺市惣社もこのすぐ近くで、土師ノ
    里駅にそばには雄略天皇の父、允恭天皇の陵墓とされる市野山古墳もあります。


     若日下部王の兄、大日下王は安康天皇に殺されてしまいます。

     根臣が討たれた後、一族を2つに分けられ、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)
    として皇后に与えられ、もう一方を負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えら
    れた、と『日本書紀』は伝えます。
     根臣の子、小根使主は許されましたが、人に、
     「天皇の城は堅固にあらず。わが父の城は堅固なり」
    と、語ったのが天皇の知るところとなり、家臣に根使主の邸宅を見に行かせたところ、本当に
    立派過ぎる邸宅であったために、結局処刑されてしまいました。
     『日本書紀』は、この後、根使主(根臣)の本宗は坂本臣となった、と伝えます
  • 『日本書紀』には、道臣命ははじめ日臣命といった、とあります。
     神武天皇が大和に進軍する時に、天照大御神は八咫烏(ヤタノカラス。ヤタガラスとも)に
    道案内をさせます。この時、日臣命は先頭に立って、八咫烏が飛んでいく後を追い、道なき道
    を進んで道案内の役目を務めたので、神武天皇から道臣命の名を頂戴したのです。
  • 日本書紀』では、大伴氏の遠祖・日臣命が、導きの功によって道臣の姓を賜ったとある


    『土佐国式社考』では、多気神社は阿支奈臣の祖神、
    坂本神社は坂本臣の祖神を祀ると考えられているが
    阿支奈臣・坂本臣が当地に居住していたかどうかについては不明。

    多気神社は、昔、嶽明神とも呼ばれ、周囲の何処かの山頂にあったものか。
    あるいは、古事記に云う土佐の別名「建依別」を意味するのか。
    まさか、「武内宿禰」の武ってことはないだろうなぁ。

    古事記の神武東征の通過地である阿岐国多祁理の宮は、
    広島の安芸ではなく、高知の安芸で、
    多祁理の宮は、この多気神社の辺りだという説もあるらしい
  • 神武天皇

    治世二年の春二月二日、天皇は論功行賞をされた。

    宇摩志麻治命に詔して仰せられた。
    「お前の勲功は思えば大いなる功である。公の忠節は思えば至忠である。このため、さきに神霊の剣を授けて類いない勲功を称え、報いた。いま、股肱の職にそえて、永く二つとないよしみを伝えよう。今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とするように」
    そこで、宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)は共に拝命して、食国の政事を行う大夫になった。この政事を行う大夫とは、今でいう大連、または大臣のことである。
    天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神君の祖である。

    道臣命に詔して仰せられた。
    「お前には忠と勇があり、またよく導いた功績がある。そのため、さきに日臣を改めて、道臣の名を与えた。それだけでなく、大来目を率いて、たくさんの兵士たちの将として密命を受け、よく諷歌(そえうた)、倒語(さかしまごと)をもって、わざわいを払い除いた。これらのような功績でつくした。将軍に任命して、後代の子孫に伝えよう」
    その倒語の用いられるのは、ここに始まった。道臣命は、大伴連らの祖である。
    また、道臣に宅地を賜り、築坂邑(つきさかのむら)に住ませて、特に寵愛された。
    また、大来目を畝傍山の西の川辺の地に住ませた。いま、来目邑と呼ぶのはこれがその由来である。大来目は久米連(くめのむらじ)の先祖といわれる。
  • 久米 クメ 出雲風土記に意宇郡久米社を久末(くま)と註す。

    久米族は熊族(久末)と同じなり。古事記に「天降りの後、天孫は二人の部下(大伴連、久米直の祖先)を連れて、『此地は韓国に向ひ、甚吉き地』」と見ゆ。久米族は神代の時代に韓国の熊ノ国より渡来す。熊条参照。また、久米は久味(くみ)とも称す。伊予国久米郡は古代の久味国にて、国造本紀に「久味国造。応神朝、神魂尊十三世の孫伊予主命を国造と定め給ふ」とあり。神魂尊は朝鮮の神なり。入間郡久米村(所沢市)あり、三ヶ島村は久米庄を唱える。嘉元三年長井文書に武蔵国久米郷と見ゆ。久米村永源寺応永二十九年鐘銘に入東郡久米郷大龍山永源禅寺とあり。茨城県那珂郡那珂町九戸、東茨城郡小川町十三戸、美野里町九戸、行方郡北浦町九戸、石岡市二十戸、秋田県仙北郡仙南村六十戸、横手市六十五戸、鳥取県東伯郡東伯町八戸あり。
  • 古代日本における軍事氏族の一つで、『新撰姓氏録』によれば高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の2氏があった。久米部(「くめべ」と読む。来目部とも表記することもある)の伴造氏族。

    『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。

    ただ、『古事記』には天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる。

    また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である

    ウィキペディアより
  • 大伴氏の系図は、「続群書類従」の「大伴氏系図」によると、

    天中主尊→(中略)→高皇彦霊命→天忍日命→天津彦日中咋命→天津日命→道臣命→味日命→雅日臣命→大日命→角日命→豊日命→健日命

    となっており、健日命は、初号武日命で日本武尊東征のときに、吉備武彦と共に従軍している。 「北佐久郡志」では、祭神を武日命・月読命で一説には、武居大伴主神であるとしている。
  • 信濃における大伴氏と渡来人についてであるが、5世紀後半の飯田市の溝口古墳から衝角付甲(しょうかくつきかぶと)と三角板鋲留短甲(さんかくいたびょうどめたんこう)が出土しているがこれは当時の兜と鎧である。古墳の周辺には馬の埋葬があり機内政権とつながりのある馬の生産に関わった有力者の墓ではないかと言われている

    「日本書紀」の武烈天皇(499~506)3年11月条に天皇が大伴室屋大連に 「信濃国の男丁を発して、城を水派邑に作れとのたまふ。仍りて城上と日ふ」

    とあり大伴氏が信濃国に関係していることが分かる。したがって、当時の指揮官は大伴氏である。甲斐の国一の宮にある浅間神社の宮司の古屋氏の系譜は、近年大伴氏の古系譜と注目されている。その系譜の中の「室屋大連公(大伴室屋大連)」の譜文には、

    自遠明日香大宮至飛鳥八釣大宮五朝供奉長谷朝倉大宮朝丁酉年十一月朔為大連 (トホツアスカの大宮から、アスカヤツリの大宮に至る五朝にお仕え申し上げました。) と書かれている。

    上記の表から大伴室屋大連は、西暦412年ころから487年ころまでの間仕えたことになる。したがって日本書紀の武烈天皇(499年~506年)の記事は大伴室屋大連ではなく金村大連公が事実ではないかとされている。
  • 神社を見ると白長羽命、天之御中主神、素戔鳴命、天棚機姫命、豊受比売命、倉稲魂命と多種であるが、星の神で太一(北極星)と太白(金星)が一体となった神という人がいる(沢史生氏)。

    「喜久理比売命」については、この神社が白山権現とも呼称され全国の白山信仰が祭神を菊理媛神(くくりひめかみ)とすることから同神である。

    天日神祀る神社

    阿麻氐留神社 長崎県対馬市美津島町小船越字河岸川352
    高御祖神社 長崎県壱岐市芦辺町諸吉仲触81
    日前國懸神宮 境内 日前宮末社 和歌山県和歌山市秋月365
    大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
  • 天日神命(ヒニミタマ)。
    津嶋縣直の祖神として、『神名帳考 證』にも「阿麻氐留神是天日神命也」とあり、『特撰神名 牒』は、山城の天照御魂神社、丹波の天照玉命神社等と同 じく、当社も天照國照彦火明命なるべし、と考定してゐる。 阿麻氐留といふのは天照であり、それは本来この地方の神 名で、「天照神」だつたのではないか。それはまた照日神(テルヒノカミ) とも称したことは、『対馬神社誌』に明らかである。
    -『式内社調査報告』-
  • April 2016 編集されました
    壱岐の日月神

    式内社 壹岐嶋壹岐郡 高御祖神社
    御祭神 高皇産霊神 伊弉諾尊 伊弉册尊
    相殿 天日神命(天照皇大神) 天月神命(月讀大神)

    壱岐の東側、印通寺から芦辺町役場へ通じる道(23号線)の途中。印通寺から北上すると道路の左(西側)に鎮座している。

    御由緒
    當社は棚恵熊野三所大権現と奉称し社なり。延宝年中に高御祖神社と改め らる。(一千年以上の社なり)嵯峨天皇弘仁二年延喜式巻十神名帳に、壱岐國壱 岐郡高御祖神社と所載あり。壱岐國式内大社なり。一村一社で諸吉総氏神である。
    最初は今の村甲の地熊本山に鎮座ありしを中葉今の社地に移し奉る。
    寛永廿年十一月宝殿再建あり國主鎮信朝臣なり。
    同寛文八年十一月拝殿再建  鎮信朝臣
    天保八年八月拝殿再建源熙朝臣なり。  再建毎度白銀五枚國主より 奉納し給う。旧例なり毎歳九月十四日宵大神楽十五日國司代参奉幣儀式 ありて中原に神幸浮殿に浦相撲田楽流鏑馬等催し畢て還幸なし奉る。 大正十四年一月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
    大祭日 諸吉郷中より亦芦辺浦より壱岐最大の御幟御神幸あり芦辺 囃子奉納あり。

  • 天日神命。 
    タカギの第四子。 
    テルヒコと共にアスカへ下る。
      

    長崎県対馬市美津島町小船越字河岸川、阿麻氏留 (アマテル) 神社。
      

    ★『旧事』天日神命(あまひのかみのみこと)。対馬県主(つしまのあがたぬし)等の先祖。
  • 草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、生没年不詳)は雄略天皇の皇后。古事記には若日下(部)王(わかくさかべのみこと)或は波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)とある。父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)。大草香皇子の同母妹。子女は無し。
    安康天皇元年(454年)2月以降、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃となった。雄略天皇元年3月3日(457年4月12日)、雄略天皇の皇后に立后された。古代の部民である日下部氏は、この皇后の生活の資用に充てられた料地等の管理に従事した人々とする説があり、各地に配置された屯田兵のような軍事集団でもあったとされる。古来より、履中天皇の皇后である草香幡梭皇女と同一人物であるとする説もある。

    難波吉士の流れに連なる大草香部吉士も、名前からして尾張連草香との関係が疑われます。さらに、難波吉士には赤目子と言う人物までいます。「日本書紀」の雄略天皇8年には、高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、難波吉士赤目子などを新羅の救援に向かわせたとの記述も見られます。赤目子と目子媛?

    あれこれ書きましたが、結局断夫山古墳と二子山古墳の被葬者は尾張氏(尾張連草香と目子媛)なのか、物部氏なのか、難波吉士の流れをくむ草香部吉士なのか
  • 『武内宿禰』は、讃岐に最も深い関係を有する。「讃岐通史」によると、宿禰の讃岐で繁栄した子孫に、
       三豊郡の木臣(紀氏)・坂本臣、
       綾歌郡の都奴臣・坂本臣・蘇我臣、
       香川郡の川邊臣、
       木田郡の坂本臣・布師臣・林臣、
       大川郡の木臣・坂本臣が       挙げられる。

     木臣から出た刈田氏に平安朝の中頃「刈田種継」及びその子安雄・氏雄・今雄がいる。

     三豊郡粟井村には、その古跡があり、同村の「刈田神」(県社 粟井神社 境内)は、同氏との関係が深い神社で、旧豊田郡は古く刈田郡といい、この神の神領であった。

     三豊郡大野原村の「應神社」は県下最大の古墳「椀貸塚」の上に鎮座しており、延喜式内社「於神社」はこの社とも伝えられる。

    坂本臣からは岡田氏が出ている。

    大川郡志度町 岡田神社 は同氏関係の神社である
  • May 2016 編集されました
    道臣、
    神武即位前紀によれば、カムヤマトイワレビコ命(神武天皇)東征のとき、「大伴氏の遠祖」日臣命(ひのおみのみこと)が、大来目(記では大久米命)を率いて山を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。
    記中巻、神武即位の翌年、道臣命は築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/index.html 参照

    宣化天皇
    所在  奈良県橿原市鳥屋町 
    出自:継体天皇の第二皇子。母は尾張連草香の娘・目子媛。皇后は春日山田皇女
    古墳:鳥屋ミサンザイ古墳
    形状:前方後円墳、堀 全長138m、後円部径83m、後方部幅78m、二段築成の造出し有り。
    継体天皇の大和入り前の所生の皇子。安閑天皇崩御後、後嗣が不在だったため即位。大伴金村,物部麁鹿火に大連を、新たに蘇我稲目を大臣に任じて荒田に都を桧隈廬入野宮に遷す。麁鹿火と稲目に命じて各地の屯倉から那津(筑紫)に物資を集積、整備させる。一方、金村には半島対策(任那救援)を立てさせた。安閑同様に治世は短く、記述も少ない。身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ:奈良県橿原市鳥屋町)に葬られた。

    近くの鳥屋千塚
    奈良盆地の南部にある畝傍山の南方に広がる東西2キロメートル、南北約2キロメートル余りの丘陵(越智岡丘陵、標高約150メートル)に位置する、径約10〜15メートルの円墳など総数600基以上の一群の墳墓(群集墳)である。これらの墳墓は4世紀末から7世紀にかけて造営され、特に5世紀半ばから6世紀末まで盛んに作られた。「川西(かわにし)千塚」「鳥屋(とりや)千塚」とも呼ばれた。この古墳群の氏族ないし埋葬者は特定されていない。

    発掘調査は1947年(昭和22年)に始まり、1962年(昭和37年)には本格的調査が実施された。このとき粘土槨を内部主体とする500号(前方後円墳)を含む23基の古墳が発掘された。500号墳では古墳時代前期に類する副葬品が検出され、その中には懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。その後史跡にも指定されている。

    1960年代に同志社大学などにより調査が行われ、約130基が調査された。武具・馬具をはじめとして副葬品は豊富に出土したが、5世紀後半の126号墳からは金・銀・ガラス・ヒスイを用いた大量の装飾品が遺骨に装着したままの状態で出土し、また火熨斗(ひのし、炭を入れてアイロンとして使用した金属器)が日本で初めて出土したり、中国を経由せず西域から新羅経由でもたらされたと見られる[要出典]ローマンガラス製品が出土したりするなど、全国的に大きな話題となった。2014年には出土品のガラス皿について、化学組成がローマ帝国領内で出土したローマ・ガラスとほぼ一致することが東京理科大学の阿部善也らの蛍光X線分析で判明した。これは日本国内の古墳出土品のガラス器がローマ帝国伝来と裏付けられた初めての例である。

    根使主との関連が、、、
  • May 2016 編集されました
    五世紀後半
    近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。

    対外的には、雄略天皇8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走したと言う(雄略天皇8年を機械的に西暦に換算すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年(慈悲麻立干5年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年(慈悲麻立干6年)2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。

    20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたという(雄略天皇20年を機械的に西暦に換算すると476年となるが、『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。

    この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
  • 柏原市高井田の史跡高井田横穴公園内にある、5世紀の円墳、高井田山古墳に葬られているのは、百済(7世紀後半まで朝鮮半島南西部にあった国)の昆支(こんき)王か?

    柏原市教育委員会文化財課によると、可能性はゼロではないという。

     高井田山古墳は、日本で最古級の横穴式石室を持つ古墳で、韓国の武寧王陵と規模(直径約20メートルの円墳)や石室の状況、夫婦が埋葬されていると見ら れる点、さらに火熨斗(ひのし)型青銅器や金層ガラス玉製品が副葬されているなど共通点が多く、当時の百済との結びつきの強さを物語っている。ことに火熨 斗は、双子といってよいほど形が似ている。

     武寧王は、百済の第25代国王で、「日本書紀」(8世紀編纂)などによると、昆支王の子又は甥(兄の子)とされる。韓国の歴史書「三国史記」(12世紀編纂)では、昆支王の孫となっている。いずれにせよ、血縁関係が近いことに変わりはない。

    昆支王は、一般にはあまり知られていないが、柏原市の南に隣接する羽曳野市飛鳥には、昆支王を祭神とする飛鳥戸(あすかべ)神社がある。柏原市の大和川 南岸地区から羽曳野市にかけては、かつて河内国安宿(あすかべ)郡と呼ばれていた。飛鳥戸神社は、その安宿(河内飛鳥)に鎮座している。一帯は、昆支王と その子孫たちの本拠地だったようだ。昆支王は、百済の王族ではあるが百済国王には即位しておらず、日本書紀によると雄略天皇5年(西暦461)に日本に来 たとされる。

    高井田山古墳の築造時期は、副葬されている須恵器の編年によると、西暦450年から470年ごろであるとされる。高井田山古墳が西暦460年以前の築造 であれば、昆支王が葬られていることはあり得ない。西暦461年以後の築造だとしても、王は日本に来てすぐに死亡したことになり、少々不自然である。河内 飛鳥一帯を本拠とするには、一定の年数が必要だと考えられるからだ。

     しかし、須恵器の編年の別の見方によれば、高井田山古墳の築造時期は、西暦470年から490年ごろだと考えられるという。もし、そうであるとするなら、昆支王が葬られている可能性は極めて大きくなる。むしろ、昆支王以外の人物に候補者を求める方が難しくなるだろう。

     高井田山古墳に葬られている人物が、百済の王族クラスの人、それも「来日一世か二世」だろうということに研究者間に争いはない。  このように、昆支王が葬られている可能性は小さくない。 しかし、葬られているのが昆支王だと断定するには、残念ながら確証はない。都合のよい材料だけを組み立て、推測によって、そう考えられなくもないというに過ぎない。高井田山古墳に葬られている人物が、果たして誰なのかということについては、当分、謎のままであるようだ。
    出典:http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014082700046/?doc_id=1621
  • May 2016 編集されました
    坂本臣とは武内宿彌の子孫で、古くから坂本郷(坂本町、寺門町、今福町、観音寺町、桑原町、一条院町)附近を支配し紀伊国を本居とする。一族は大阪湾沿岸一帯に蟠居し讃岐国の方向にもその勢力を及ぼしていたという。
     坂本臣平は602年百済使の任についているからこの一族は海事に明るく、海外交渉の実務にすぐれていたに違いない。

    奈良県から西に向かって流れ、大阪府に入る大和川。この大和川に南から北流してきた石川が、柏原市役所付近で合流している。石川と大和川との合流点付近のこのあたりは、古代から何度となく戦いの舞台となってきた。

    西暦538年に伝来した仏教をめぐり、西暦587年7月、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との間に戦端が開かれた。
    餌香川とは、石川のことだと考えられる。現在の柏原市石川町・玉手町や対岸(西岸)の藤井寺市国府・道明寺などにかけての一帯が戦場となったのだろう。大和から河内に入った馬子の軍勢は、大和川との合流点付近の上流側(南側)で石川を渡ろうとし、迎え撃つ守屋の軍勢と衝突したものと思われる。馬子の軍勢が、龍田越えか竹内峠越えか、どのルートで河内に入ってきたにせよ、合流点付近か、その上流側(南側)のどこかで川を渡らなければならない。それより下流側(北側)は大和川となり、流れも複雑になる。渡るのは、非常に困難となるからだ。

     この戦いのとき、守屋が討ち取られた後も戦いを続け、最後には自刃した物部方の武人がいた。名を捕鳥部万(ととりべのよろず)という。現在の柏原市高井田や青谷のあたりを本拠とした、鳥取(ととり)氏の一族だと考えられている。万の飼い犬だった白犬は、バラバラに切断されてさらされた万の死体の中から頭を選び出してくわえると古い墓に納め、そのそばで餓死したという。

     当時、柏原市域を含めた河内一帯の中小豪族は、物部氏側だったと思われる。守屋の死後、生き残った物部の一族は、姿をかくし、名を変えて、散り散りになったようだ。
  • 橘はおのが枝々なれれども玉に貫く時同じ緒に貫く
      天智天皇は、天智四年、亡命してきた百済人四百余人を近江神前郡に住まわせ、同八年には七百余人を近江の蒲生郡に住まわせた。また佐平余自信、沙宅紹明に大錦下、鬼室集斯に小錦下を授けるなど百済人に官位を授けて取り立てた。こうした状況を風刺したのが冒頭に掲げたワザ歌である。
      別々のところに生った橘の種で一つのビーズの飾りを作るが如く、橘という氏族が一続きになっているというのがこのワザ歌の意味するところだが、さてここで「橘」として表されている氏族とはどういう氏族なのか。次のように「橘」を名に持つ一群の人物がある。
      允恭皇后忍坂大中姫の娘 但馬橘大娘皇女 
      雄略皇后 草香幡梭姫皇女(またの名橘姫)
      宣化天皇皇后 橘仲皇女 
      天智天皇妃 橘娘(たちばなのいらつめ)阿倍倉梯麻呂       大臣の女
      また用明天皇は橘豊日尊であるが、この名も橘勢力の擁立であることを示している。橘寺などもこの勢力の建立によるものであろう。
      「橘」というのはもともとが但馬守がトキジクノカクノミ、つまり橘を持ち帰ったという伝承に基づくもので、これは難波吉士といわれる人たちが、以来自らの象徴としてきた名である。百済人を引き立てているのは、この橘勢力、つまり難波吉士だと考えられるのである。
  • (履中)草香幡梭皇女
    (允恭)忍坂大中姫
    (安康)中蒂皇女(長田大娘皇女)=大草香皇子の妻
    (雄略)草香幡梭姫皇女
    忍坂大中姫は、その皇女に但馬橘大娘皇女、名形(長田)大娘皇女の名があることからして、大中姫の背後に、但馬氏や長田(現在の神戸市長田区)と関係を持つ草香部氏などの難波吉士の存在が認められる。少なくとも履中→允恭→雄略の間の皇妃擁立勢力は、一貫して草香部氏を中核とする難波吉士。
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