吉備海部、吉備臣

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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日本書紀は崇神紀で吉備津彦を四道将軍の一人として西海道の派遣したり、 応神紀で領土を分け与えたりする記述を行う…

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  • 吉備海部直の女黒比売
     古事記仁徳天皇段。皇妃となるが故郷へ帰る。天皇は比売を慕って吉備へ行幸する。
     
    吉備品遅部雄?(おふな)
     仁徳天皇四十年二月、佐伯直阿俄能胡(あがのこ)と共に隼別皇子、雌鳥皇女を追討する。
     
    吉備弓削部虚空(おおぞら)
     雄略天皇七年条。官人であったが、帰郷した時、吉備下道臣前津屋に引き止められて帰任が遅れたことを咎められ、前津屋の不敬を讒言する。
     
    吉備海部直赤尾
     雄略天皇七年八月条。吉備上道臣田狭の子、弟君と共に新羅を討つために半島に渡り、弟君がその妻樟媛に殺された後、樟媛と共に百済の工芸技能者を率いて帰国する。
     
    吉備海部直難波
     敏達天皇二年五月、越の海で難破漂着した高麗の使者を送り返す役を仰せつかるが、使者を海中に投じて引き返す。その言動を疑われて帰郷を許されず、雑益に使役されたが、やがて悪事が露見して処罰される。
     
    吉備海部直羽嶋
     敏達天皇十二年七月。肥後国葦北郡の国造の子で、百済で高官になっている日羅を、我が国に招くために、紀国造押勝と共に百済に行く。
  • 吉備の上道国造の田狭は、自分の妻である稚媛の自慢をした
    化粧をしなくても、こまやかに、さわやかにして、もろもろの好(かお)備わ
    れり。あからかに、にこやかにして、くさぐさの相(かたち)足れり」田狭の言
    葉を聞いた雄略天皇は、田狭を任那国司として派遣し、その留守に稚媛を宮中に
    召し出し、妻とした。
    稚媛は、田狭との間に、兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)をつくり
    雄略天皇に奪われた後、磐城皇子と星川皇子が生まれた。
    そのことを知った任地の田狭は、新羅と組んで謀反を起こした。

    討伐に、田狭の子供の弟君が派遣されたが、百済で自分の妻である樟媛に殺害
    され、田狭も行方不明となった。

    その16年後、皇位継承をめぐり、皇太子白髪皇子に対抗し、クーデターを計
    画し失敗、稚媛、兄君、星川皇子などが、焼き殺された。
    そのクーデターに、上道臣が関連したとして、「山部」を奪われた。
    その後、急速に吉備の国は衰退していった。
  • 吉備の古墳
    最古段階の古墳(三世紀後半)で、特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が使用されている。

     第一は、岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳である。墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳である。

     大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられている
  • 牛窓天神山古墳
    天神社の社殿の背後に伸びる天神山の山頂尾根を加工して築造された前方後円墳。全長はおよそ85m。

    南に向かって突き出た前方部は、後円部に比較して低く、幅も狭い…という古墳時代前期の前方後円墳の特徴を備えています。
    後円部の頂上には板状の割石が少し露出しており、竪穴式石槨の一部だろうと考えられています。

    墳丘から見つかった円筒埴輪や壷形埴輪の破片、そして墳丘の形などから、牛窓天神山古墳が築造された時期は4世紀中葉~後半頃であろうと推定されています。
    オリーブの丘一帯に横穴式石室の円墳が点在する

    海上交通路の拠点として、古代から栄えた牛窓の地。その首長たち歴代の墓と思われるのが、牛窓湾を取り囲むように分布する5基の前方後円墳です。それら天神山・黒島・波歌山(跡)・鹿歩山・二塚山のうち
    最初に築かれたのが、牛窓天神山古墳だとされています。
  • 安仁神社
    Wikipedia の「歴史」のところでは、
     『創建の年代は不詳である。社伝では、神武東征の際に五瀬命が数年間この地に滞在し、神武天皇が即位の後に五瀬命ら皇兄たちをこの地に祀って「久方宮(ひさかたのみや)」と称したのが起源としている。
     国史の初見は『続日本後紀』の841年(承和8年)2月8日条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあるもので、平安時代後期に編纂された『延喜式神名帳』では備前国では唯一の名神大社に列せられている。元々は当社が備前国一宮となるはずであったが、939年(天慶2年)における天慶の乱において当社が藤原純友方に味方したため、一宮の地位を朝廷より剥奪されたとされる。その後、備前国一宮の地位は天慶の乱勃発当時に朝廷に味方した備中国の一宮である吉備津神社より御霊代を分祀されて創建した吉備津彦神社(岡山市北区一宮)に移ったと伝えられる。』
     となっている。
  • 葦北国造(肥)
    景行天皇の時代、吉備津彦命の子である三井根子命を国造に定めたことに始まるとされる。国造本紀には葦分と名が記され、また記紀では火葦北国造とも表されているので、火国造の支流とも見られている。
    三井根子命後、日奉(ひまつり)部・日奉直・日奉宿禰等を賜姓される。三井根子命の子・刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)は大伴金村によって朝鮮に使わされた国造で、その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)、百済では達率(高官の1つ)となり、武人・賢人として知られる。葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており、逸話も多い。宇土半島にある鴨籠古墳の被葬者は、その棺の大きさから葦北国造の息子と考えられている
  • 瀬戸内市以前は邑久郡邑久町で、町域の中部にあたり千町平野の中央にあり、東西に長い区域をしている。
    西大寺・鶴海間の主要地方道に沿って町筋をつくり、区域の西部は郵便局や学校などが集まる周辺地域の中心地である。一方、東部では千町川を境界線とし、幹線道路沿線以外は田園地帯となっている。
    和名抄に載る備前国邑久郡の尾張郷の一部であったといわれ、同郷の遺称地であるとされる。慶長10年『備前日高物成帳』では、尾張保の中に包松・尾張・山手・郷村・円張・笠加下・笠加上の7村が含まれている
  • 牛窓古墳群の西に安仁神社があります。紀元元年のころは、ここが海岸線でした。右上を見て頂きますと、丸山古墳と書かれた円墳があります。その下に、4つの前方後円墳があります。上から天神山古墳、花光寺古墳です。

  • 安仁神社とともに備前の一宮を称するもう一つの神社

    岡山県赤磐市(あかいわし)にある、石上布都魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)という。フツノミタマとは、スサノオがヤマタノオロチを切った剣とされている。

    明治時代には十握剣(とつかのつるぎ)と神話の記述にならった名前にしている。そのすぐ後に祭神はスサノオになっている。フツノミタマの剣は奈良県の石上神宮に(いそのかみじんぐう)に移されたとしている。


    石上神宮の布都魂(ふつのみたま)を読み方を変えると、「ふとだま」になる。

    ふとだまとは忌部氏の祖神の名前である。石上神宮は物部氏の神社だが、忌部氏の姿が垣間見える

  • November 2016 編集されました
    花光寺山古墳 瀬戸内市長船町牛文
    全長100mの前方後円墳
    後円部径54m・高さ8.5m 前方部前端幅28m・高さ4.5m
    南南東に前方部がある。
    葺石あり(7,8cm大の円礫) 後円部には円筒埴輪が3重にめぐる。1936年の調査では、後円部中央に凝灰岩製の組合式長持型石室(棺?)が直葬されていて、室の前後に小石室が付設されていた。
    石棺の蓋には前後と左右に1対ずつ縄掛け突起があり、
    身の内法は長さ1.6m・幅0.5m・深さ0.55mで赤色顔料が付着していた。
    北側の小石室から遺物が出土、鏡2面、太刀、素環頭太刀、短剣、槍先、刀子、銅鏃、鉄鏃など(東京国立博物館蔵)
    1870年、後円部中央の割石小口積みの竪穴式石室が掘られ、現在はその上部が失われ、家形石棺が露出している。
    石棺は阿蘇熔結凝灰岩製と考えられている。
    鏡・玉類・武具・馬具などが出土。
    5世紀後半の築造と推定されている。
  • 宗形神社 岡山県赤磐市。
    旧吉井町役場から西へ4Kmほどの吉備高原にある。

    社伝によると、崇神天皇の御代に勧請された神社。
    仁徳天皇が黒比賣を当社へ迎え、
    やまかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬしくもあるか
    と詠んだとも云われている。

    当社の西にある「血洗いの滝」は、素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治した後、剣についた血を洗った滝だという。

    祭神は、宗像三女神。明治四十三年に以下の神々を合祀した。

    神峰神社(大己貴命)、神峰伊勢神社(大日孁命、豊宇気比賣命)、
    剣拔神社・素盞嗚神社(須佐之男命)、天満宮(菅原神)、
    熊山神社・熊野神社(伊邪那美命、速玉男命、事解男之命)、
    日吉神社(大山咋命)。

    本殿の扉に、丸に三巴がついていた。多分、これが神紋。

    境内は鬱蒼とした森の中。境内入口は、朝日を浴びて輝いていたが、参道は暗かった。
    参道途中に神門があり、奥に社殿。本殿は三間流造。

    境内左手の境内社、稲荷神社
    香椎神社、小祠、武内宿祢神社

    創立年代を詳らかにすることはできないが、神 社明細書(昭和二十七年)には
    「當社は人皇十代崇神天皇の 御宇勧請にして式内の舊社なり。人皇六代仁徳天皇吉備國 海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝 を當社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉る。帝欣然御製に”や まかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬ しくもあるか”と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸 人擧て山方の大宮と稱する所以なり。當時、帝より宗形神 社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今 に其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長八年池田忠繼公、 備前に封せらるゝや深く當社を崇敬し、同九年検地の節、 本村の内中田二反、高三石貳斗社領として附置かれ、明治 四年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位従四 位上に叙せられ、後世一位に昇進贈位に預る。現今の社殿 は貞享四年八月廿八日著手、仝五年五月十六日落成(棟 札)の建築にして、氏子及大氏人民の協力造営に係り、當 時の國主池田綱政公より再建費として玄米拾石下賜せられ たり。往古、氏子は七十五ヶ村ありて、其區域西南は本郡 高月村大字牟佐に至り、東北は津山市小桁に至れりと云ふ。 故を以て古今古式祭には社家(當家)より神酒七十九樽・神 饌七十五膳・神餅七十五臺(河見社(當)より各四十、山方 社(當)より各三十五)、甘酒貳瓶を献供す。これ往古より の舊例にして年々欽行し、舊式を廢することなし。明治十 四年六月十五日郷社に、同年十二月二十二日縣肚に昇格せ らる。」と記してゐる。
    -『式内社調査報告』-
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