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鎌倉時代には、近江源氏とも呼ばれる佐々木氏一族は中国山地の製鉄にも深く関わって、美濃の関の刀鍛冶用に近江商人の…
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仁明天皇の大宵祭、天長10年(833)の歌であり、備中の下道郡が主基となっているので、
吉備の中山は備中国内の山となり、備中国一宮吉備津神社背後の山塊をさすことは確実で あろう。
『記紀』は垂仁時代皇子の五十瓊敷命(いにしきみこと)が一千口の剣を作ったことを記す。この作刀に携わったのが川上部(かわかみのとも)である。この川上部は丹後の集団で、彼らこそ大和王権の鉄の入手と加工の担い手であった。
『日本書紀』垂仁紀は次のように記す。
三九年冬一〇月、五十瓊敷命(いにしきみこと)、茅淳(ちぬ)の菟砥(うと)川上宮(かわかみのみや)に坐(いまし)て、剣一千口を作る。よりて其の剣を 名づけて川上部(かわかみのとも)という。亦の名は裸伴(あかはだがとも)という。石上(いそのかみ)神宮に蔵(おさ)む。この後に、五十瓊敷命に命じ、 石上神宮の神宝を主(まつ)らしむ。
また一に云うとして、
五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上に坐(いま)して、河上という名の鍛(冶)を呼び太刀一千口を作らしむ。後略・・・。
『勘注系図』は古本系云うとして次のような伝承を記す。
一に云う。倭宿禰、またの名大熊野命、またの名大振熊、またの名川上眞若命、またの名倭得玉彦命(やまとえたまのみこと)、五十瓊敷入彦の御子、大足彦 (おおたらしひこ)天皇(十二代景行)の御宇、茅淳菟砥川上宮に坐して、宝剣を作るを令す。是を石上神宮に献じ、以って奉仕いたす。川上部の祖なり伝伝。
『記紀』と『勘注系図』の記述は若干異なる。前者が垂仁の時代で、後者は景行の時代とする。
若干の違いはあるが、後に川上部と呼ばれる者たちが、垂仁の皇子、五十瓊敷命の命を受けて剣を作ったという伝承は一致する。