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岡の県主の祖・熊鰐仲哀天皇8年(199年)1月4日、帶中日子天皇が熊襲征伐の砌に「筑紫」【九州】においでになる…
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祭神は中殿(岡田宮)に神日本磐余彦命(神武天皇)、右殿(熊手宮)に大国主命、少彦名命、県主熊鰐命、左殿(八所宮)には八柱の神が祀られている。
八所宮には高皇産霊神をはじめとして事代主神も祀られている。事代主は摂津国で「八尋熊鰐」に化けて玉櫛媛に通った。生まれた子は媛蹈鞴五十鈴媛で神武天皇の正妃となる。
熊鰐の勢力地である遠賀川の上流には、鮭神社が鎮座。鎮座地は福岡県嘉穂郡嘉穂町大隈(おおくま)で、祭神は豊玉毘売命である。豊玉姫は綿津見豊玉彦の娘で出産の時に八尋熊鰐になっている。豊玉姫の孫が神武天皇となる。
岡田宮と言えば、記紀の神武天皇の巻に出て来るあの岡田宮でしょうか。
古事記と日本書紀の該当の部分を読んでみましょう。
古事記
イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。
そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年間滞在しました。さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。
一例目は、大国主が、光る海から来た三輪の神(大物主)に出会うところの一書6である。 この「熊鰐」は。事代主は大国主が神屋楯比売との間に生んだ子。のちに国譲りの際大国主に先だって交渉に当たり、国譲りに同意した後海に飛び込む。
その一書6内で別説として、事代主は八尋熊鰐(一般的にくまわにと訓まれる)となる。八尋熊鰐が産ませた姫踏鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)は神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の妃となる。
二例目は、ここである。
三例目は筑紫国の岡県主の祖の名前。伝統的にわにと訓まれる。熊鰐は、中哀天皇が筑紫を訪れたとき、舟を仕立てた。 また、書紀には和珥(わに)氏という氏族も出てくる。孝昭天皇の子、天足彥國押人は、(書紀/孝昭天皇)「天足彦国押人命、此和珥臣等始祖也」とあり、和珥(わに)氏の祖とされる。