往来は心安かれ空の海、空海、弘法大師

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コメント

  • 興福寺はそもそも山階寺(やましなでら)といい、藤原鎌足の重病平癒を祈り夫人の鏡女王が山城の私邸に建てたものである。その後それを飛鳥の廐坂(うまやさか)の地に移し廐坂寺といった。さらに遷都とともに平城京左京三条七坊の地に移され興福寺となったのである。
     爾後、天皇家や藤原氏の力によって次々と堂塔伽藍が整備され、平城京の時代には四官大寺、平安京の時代には七官大寺の一つに数えられた。摂関家である藤原北家の庇護のもとで寺勢は大いに盛んになった。

     仏教寺院であるにもかかわらず、平安時代には春日大社の実権をにぎり、大和国を領地とするほど権勢を誇った。鎌倉~室町時代には、幕府は大和国に守護を置かないほどだった。江戸時代には2万1000石の朱印が与えられ、奈良の官大寺が次々と衰退していくなか国家仏教の特権的地位はゆるがなかった。しかし明治の神仏分離・廃仏毀釈はこの興福寺にも致命的なダメージを与え、伽藍は荒廃の一途をたどった。
     今は鹿が遊ぶ奈良公園のなかに、ひっそりと仮の講堂・五重塔・東金堂・国宝館・南円堂・北円堂・三重塔が点在するばかりで往時の栄華を偲ぶ姿にない
  •  興福寺は朝廷貴族の筆頭藤原氏一門の氏寺である。私寺であって官大寺であった。南都法相の論学をもってその法統とする。その故に、北円堂にはインド大乗仏教瑜伽行派(唯識派)の論師として名をはせた無著(むぢゃく)・世親(せしん)兄弟の尊像が祀られている。

    その北円堂に対する南円堂の設計監督を空海が行っている。空海が手がけた初の密教様式の建築であった。北円堂の唯識、南円堂の密教、当時の南都仏教の実際を象徴している

    冬嗣は、「薬子の乱」の折嵯峨天皇の側近(蔵人)の一人として頭角をあらわし、乱平定に功をあげていた。冬嗣は当然、嵯峨から空海の人となりや事蹟について聞いていたはずである。父が空海に頼んだ南円堂建立の事業を自分が継続して行う縁に恵まれたことを大いに喜んだにちがいない。
  • 「劫」というのは期間を表します。「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ」て聞いたことありますよね?「じゅげーむ、じゅげーむ」ってやつです。
     天女が時折泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減っていき、その繰り返しでその岩が無くなってしまうまでの期間を一劫をいうそうです。
     時間に表すと40億年ほどになるそうで、五劫はその5倍、つまり200億年ほど
  • 九条兼実ゆかりの西岸寺を右に見て、伏見街道を南下します。この寺にある玉日姫(親鸞の正妻と言われる)の墓所が最近発掘されたことはニュースになりました。玉日姫は九条兼実の子と言われています

    西福寺 西九条
    堂宇の前には安産石薬師如来と綜芸種智院跡の二つの石碑が建っています。寺院縁起駒札でかろうじてここがかつて藤原三守(ふじわらのただもり)と云う公卿の九条邸の跡地であって、ここに空海(弘法大師)が私学を創設したと云うことが解ります。西福寺と云う寺院名については屋根の瓦の前面にその寺院名が浮き出されているので解る程度のもので、実態は現在では知る由もありません。地元の人は通り過ぎる時に軽く一礼するか、手を合わせて通っておられます。地元の崇敬を集めていたのが窺い知れます。当時、学校は一定の身分がないと入れないところであったが、空海は身分に関係なく学べる場を提供しようとしてこの綜芸種智院を創設したとのことです。

    空海は弘仁14年(823)五重塔の建設の際に伏見稲荷の神域の山より材木を切り出したことで稲荷神の怒りを悟った空海が工事を中止し、非礼を詫び、伏見稲荷のご分霊を東寺の守護神として招き境内に社を建て東寺の鎮守として祀ったとされ。これにあやかり全国の寺院建設の際には稲荷神を招きお祀りすることになったとされています
  • 真雅(しんが、延暦20年(801年) - 元慶3年1月3日(879年2月1日))は、平安時代前期の真言宗の僧。父は佐伯田公。空海は兄にあたる。讃岐国多度郡屏風浦の出身。空海の十大弟子の一人。清和天皇の誕生以来の護持僧で、天皇とその外祖父藤原良房から厚い信任を得る。
    清和天皇の御願寺である貞観寺の開基。貞観寺僧正・法光大師と称される。

    経歴

    大同4年(809年)、9歳のとき故郷を離れ上京[1]。
    弘仁7年(816年)、16歳のとき空海の弟子となる。
    弘仁10年(819年)、19歳のとき具足戒を受ける。
    弘仁14年(823年)、23歳のとき勅により参内し、天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。その声のすばらしさは聴衆を圧倒し、天皇は大いに悦んだという[2]。
    承和2年(835年)、弘福寺別当に任ぜられる[3]。また、一説に東大寺真言院を委託される。
    承和14年(847年)、東大寺別当に任ぜられる。
    嘉祥元年(848年)6月、権律師に任ぜられる。9月、律師に任ぜられる。
    嘉祥3年(850年)3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(11月、立太子。後の清和天皇)を生む。真雅は親王生誕から貞観16年(874年)まで24年間、常に侍して聖体を護持したという。
    仁寿2年(853年)、惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。
    仁寿3年(854年)10月、少僧都に任ぜられる。
    斉衡3年(856年)10月、大僧都に任ぜられる。
    貞観元年(859年)3月、嘉祥寺西院に真言宗を学ぶ年分度者3人を認められる。
    貞観2年(860年)2月、真済が没したのにともない東寺一長者となる(先任二長者の真紹をさしおいて就任)[4]。
    貞観4年(862年)7月、嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
    貞観6年(864年)2月、真雅の奏請により僧綱を対象とする新たな僧位(僧正に法印大和尚位、僧都に法眼和上位、律師に法橋上人位)が制定され、真雅は法印大和尚位僧正に任ぜられる。また、僧として初めて輦車による参内を許される。
    貞観16年(874年)3月、清和天皇が貞観寺の新道場落成を祝って大斎会を催す。諸宗の百僧、親王公卿百官が列席。
            7月、上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)。
    貞観18年(876年)8月、奏請により貞観寺に座主職を置き僧綱の管轄外とする。
    元慶3年(879年)1月3日、貞観寺にて入滅。享年79。
    文政11年(1828年)6月26日、950回忌に際して法光大師の諡号が追贈される。
    弟子 編集

    元慶2年11月11日の真雅言上状[5]によれば、真雅の付法弟子は以下の5人。

    真然…空海に師事し、後に真雅の灌頂を受ける。僧正。
    真皎…真雅言上状に十禅師伝灯大法師位とある。伝不詳。
    源仁…はじめ興福寺護命の弟子。後に実恵に密教を学び、真雅の灌頂を受ける。さらに入唐した宗叡の灌頂も受ける。権少僧都。後世に続く真言宗の法統は真雅-源仁の系列のみ。
    載宝…真雅言上状に十禅師伝灯大法師位とある。伝不詳。
    恵宿…真雅言上状に伝灯大法師位とある。元慶9年(885年)、貞観寺座主となる。

    そのほか師弟関係が伝えられる者

    聖宝…はじめ真雅に随い出家。元興寺、東大寺で諸宗を学んだ後、真雅から無量寿法、真然から両部大法を受け、源仁の灌頂を受ける。醍醐寺の開基。僧正。
    観賢…はじめ真雅の弟子。後に聖宝の灌頂を受ける。権僧正。
  • 『物語日本史』の記述に戻りたい。「ヤマトタケルの東征に功のあった家臣」とは、日本書紀によると吉備武彦と大伴武日連である。

    ヤマトタケルは東国平定を終え、近畿に戻る途中の能褒野(現在の三重県鈴鹿郡)で病死する。実はヤマトタケルは東征の間、何人かの妃を娶るが、その中に吉備武彦の娘、吉備穴戸武媛をもらい受け、二人の子をもうけている。その中の一人に武卵王(たけかいごのみこ)というのがいて、彼は讃岐綾君の先祖だと日本書紀にある。

    ちなみに香川県には綾歌郡という地名が残っており、讃留霊王神社というのがある。そのわけありげな名前の神社の御祭神が「健貝児王」(タケカイコオウ)だという。
  • November 2018 編集されました
    空海の祖先


    佐伯氏というのはもともとは大和朝廷で権力を握った大伴氏の末裔。継体天皇の時代に外交政策で辣腕を振るった大伴金村の弟・御物がその祖とされる。大伴氏の家譜には御物が「佐伯連氏を負う」とあるらしい。しかし、大伴氏もしくは佐伯氏が讃岐国造になったという根拠はどこにもないことから、この説は懐疑的だとする考えが強い。


    景行天皇の皇子である稲背入彦皇子が播磨国造を賜り、その子孫が讃岐に流れて佐伯氏を名乗った、というもの。
    日本書紀を読むと稲背入彦皇子の兄に神櫛皇子というのがいて、彼が讃岐国造の先祖である、と書かれている。

    景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀が合致しません

    神櫛王の子孫が、大伴氏あるいは佐伯連を名乗ったかは、全く不明。
  • 応神天皇の祖先は、宇佐国造一族の支流で、火(肥)国造からでて四国に渡り、伊予・讃岐→播磨と遷って畿内に入ったことが推されます。
    この一族とみられる大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。
  • November 2019 編集されました
    三谷寺
     旧飯山町東坂元にある真言宗の寺で、天平年間に聖武天皇の勅願による行基の開創と伝えられます。その後、空海が整備し、四条天皇の母や後宇多天皇・北条政子の帰依を受けたといいます。
    弥谷寺
     聖武天皇の勅願によって行基菩薩により開創されたといわれています。空海が少年時代にこの岩窟で修行したといいます。さらに唐から帰国した空海が再度この山で修業中、空から五柄の剣が降る霊を感じたので剣五山と改め本尊を刻んで安置し弥谷寺と改号して第71番の霊場に定めたといいます。
    極楽寺
     旧長尾町亀鶴公園の北500mにあり、号を紫雲山宝蔵院といいます。天平元年(729年)行基により石田東(旧寒川町)に創建されましたが、その後焼失して弘仁12年(821年)弘法大師により鴨部東山(旧志度町)に再興され、それも14世紀兵火にかかり、現在地に再度再興されたといいます。元あった石田東の地には極楽寺の地名があるといいます。
    与田寺
     行基の開基といわれ、後に弘法大師が整備したといわれます。土佐の長宗我部元親の兵火にかかるまでは国内宗学の中心寺院として隆盛していたといわれています。
    大窪寺
     四国八十八ヶ所結願寺。行基が創建し、弘法大師が整備したといわれます。
    正花寺(しょうげじ)
     高松市西山崎町の堂山の山麓にある寺。天平年間に行基が香川郡山崎の地に建立した松慶寺(しゅけいじ)の塔頭(たつちゅう)で、16世紀に兵火にあい、その後再建されたといいます。本尊として祀られている木造菩薩立像(国重文)は、平安時代初期のもので、唐招提寺講堂の菩薩立像との類似性があるといわれています。
    香西寺
     奈良時代に行基により開創され、初め勝賀山のふもとにあり勝賀寺といい、平安初期に僧空海(弘法大師)が再建し現地に移したといわれています。鎌倉時代、この地の豪族香西左近将監資村香西氏の祖)が、堂塔を再建し香西寺と改称しました。
  • 大師和讃において「御歳七つのその時に衆生のために身を捨てて」と賞賛される空海は、15歳にして論語や孝経を習得、18歳の時には当時唯一の都の大学に入学して明経道を専攻し、儒学をマスターしました。そして空海の名声は親族である阿刀氏から法相宗の僧侶らを介して、桓武天皇にも知れ渡り、阿刀大足の働きを通じて皇室の側近としても活躍しはじめます。「弘法大師こそ、世界に誇り得る日本の英雄であり聖者である」と、湯川秀樹博士はおっしゃいましたが、まさにそのとおりです。
    ところが都の現状を目の当たりにした空海は、その栄華と仏教徒の世俗的衰退を危惧し、19歳で大学を退学してしまいます。空海が執筆した「三教指帰」には、「朝市の栄華念々にこれを厭い、巌藪(がんそう)の煙霞、日夕にこれをねがう」と書かれており、空海がどれほど都の虚栄と宗教の荒廃に嫌気がさしていたかを察することができます。空海の目に焼きついた都の姿とは、貧困に悩む庶民と病人に溢れた苦悩の世界であり、それを思うたびに空海は学問の追及よりも、むしろ真の道を説いて人々の魂を救うことを願ったのです。そして追い打ちをかけるように都の危機が訪れ、空海が大学を去る時期を早める結果となりました。長岡京が早良親王の祟りをはじめ、地理的要素に絡むさまざまな天変地異による危機に陥った際、南都六宗の仏教勢力との接触を嫌っていた桓武天皇は、これらの問題を解決する糸口をつかむために、宗教アドバイザーを必要としていたのです。そこで召集されたのが、奈良で勉学に励み、当時、奈良仏教界においても一番勢力を持っていた法相宗の僧侶らと縁故関係を持っていた空海ではないかと推測します。しかも空海は大陸通であり、梵語や中国語などの外国語だけでなく、仏教思想や日本古来の宗教についても熟知していました。そして出身は讃岐、今日の香川県であり、そこは剣山のお膝元であるだけに、桓武天皇にとっては願ってもない人材だったのです。
  • 両親や親族の期待を一身に担って、奈良の都の大学で立身出世のエリートコースを歩んでいたはずの19才の空海が、突如大学を出奔して姿をくらまし、20才の時に和泉の槇尾山寺で勤操大徳から沙弥戒を受け剃髪得度したことと、24才の時に『三教指帰』を著わすほかは、31才で渡唐する直前東大寺で具足戒を受けて官僧になるまで、全く消息がわからない空白の時期があるのは周知のとおりである。

     大学出奔から数えれば12年、『三教指帰』から数えれば7年、この時期に真魚を教海・如空と名を変えながら、いったいどこで何をしていたのか。

     思えば、渡唐の時には密法受法の準備万端を調え、入唐してわずか2年足らずで密教伝法の第八祖となることからして、この時期の空海がかなり濃密な仏教の勉強と過酷なまでの山林修行をたゆまず行っていたのではないかと想像するのが穏当であろう。
    この空白の期間については、研究者間においても諸説あるが、ここでは措く。
     筆者は、大学出奔後『三教指帰』を著わすまでの約5年は、止宿先の佐伯院の隣りにあった大安寺で仏教の基礎(例えば、釈尊の仏教や小乗)を学びながら、しかし6割から7割の時間は奈良の都からそう遠くない葛城・金剛の山中を歩き、吉野・大峯・熊野・高野の修験の行場で修行し、ところを選んでは求聞持法を修していたのではないかと推量している。

     その推量の背景となるひとつのきっかけが『三教指帰』にある。
     「仮名乞児」に仮託して、空海は、亀毛先生(儒家思想)と虚亡隠士(道教)を痛烈に批判する。亀毛先生は子供の頃から公私共にお世話になってきた伯父で経学者の阿刀大足であり、虚亡隠士は山林修行で親しい仲間の道術士たちだったりするのだが、にもかかわらず「仮名乞児」は遠慮会釈なく儒・道二教を価値のないものとして切り捨てる。
     この自信は、尋常ではない。戯曲の誇張だと言い切れないほどに、空海の内なるところでよほどの激越な精神革命が起きていなければここまでの論難はできない。
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