天火明命

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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火明命の裔とされる海部氏(宮津・薦神社の社家)に伝わる勘注系図885--89・国宝)には、 「水主氏(ミヌシ)…

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  • 水主神社並衣縫大神略由緒

     水主神社(みずし)城陽市水主宮馬場1

     水主神社の祭神は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(天照大神の御孫にして天照御魂神とも申し奉る)をはじめ、其御子孫天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山脊大國魂命の十柱の神々と、大縫命、小縫命の二柱の比咩神にまします。
     天孫饒速日尊の第十世、山脊大國魂命は山脊(やましろ)の國造として国土経営に功あり其子孫代々此地に廟食して国土を統治す、この故に山脊大國魂命または山代根古命とも尊称す、大國魂とは国土経営を賛称し、根古とは其民統治の謂なり。
     人皇十代崇神天皇の御代、豊鋤入姫命をして大殿裏に奉祀の天照大神を倭笠縫邑に遷祀せしめ給ひしが、また別に淳名城入姫命をして、日本大国魂命ならびに山脊大國魂命を倭、山脊(やましろ)の二国に神籬を建て、齊き祭らしめ給う、水主神社はその一社なり、我国神社多しと雖も国土経営の功徳をもって上古以来子孫永くその土地に住み、祖神祭祀を営みたる当社の如きは稀なりと謂うべきなり。
     この故をもって仁明天皇の承和以来たびたび神位を進められ、延喜式によれば、朝廷より毎年四度幣帛を賜り、特に天照御魂神、山脊大國魂神の二座は相嘗祭に預れり、また加茂両神社、松尾神社、住吉神社とともに天災除疫五穀豊饒祈年祈雨等に就き朝廷より奉幣祈願ありしことしばしばなりき。 大縫命、小縫命の二柱の比咩神は、天香語山命の御子天村雲命九世の御孫にして人皇十三代成務天皇の御宇志賀高穴穂宮に仕え奉り、糸縫針の職を掌り給いしにより其子孫に衣縫の氏を給う(新撰姓氏録参照)、故に此神を衣縫の祖大神、衣縫の宮、衣縫大神として敬称し奉る。
     境内に樺井月神社あり、月読命を祭神とし古来より牛馬の神として参詣する者少なからず。
     以上
  •  山脊大國魂命は山代根古命とも言う。
    大國魂とは国土経営を意味し、根古とは其民統治を表すと言う。

    崇神天皇の時代、豊鋤入姫命をして天照大神を倭笠縫邑に遷し、また淳名城入姫命をして、倭大国魂命ならびに山脊大國魂命を倭、山脊の二国に祭らしめたとする。


     水主神社はその一社で、我国の神社は数多いが国土経営の功徳をもって上古以来子孫永くその土地に住み、祖神祭祀を継続した当社の如きは稀な存在と社では言う。
     加茂両神社、松尾神社、住吉神社とともに天災除疫五穀豊饒祈年祈雨等に就き朝廷より奉幣祈願があった。
  • 山背の水主神社

     境内に式内社である樺井月神社がある。
    月読命を祭神とし古来より牛馬の神として崇敬されている。綴喜郡の式内社である。
     元々京田辺市大住に鎮座していたが、木津川の氾濫によって1672年ここに遷座したと言う。 大住には月讀神社が鎮座しているが、この水主神社の敷地に遷座したのは、木津川の渡しの両岸にあり、渡しの神としての性格上の相方にきたものと思われる。
  • 火雷神社
    農業神である「火雷神」と櫂子の祖神である「天香山命」が同じ「葛木坐火雷神社」で祀られることとなったのであるが、「乙訓坐大雷神社」でも同様に祖神である「饒速日命」を「火雷神」と改名することを条件として祀ることが許されたものと考えられる。

    その理由は、乙訓坐大雷神社の神職が、笛吹氏同様「饒速日命」の子孫だからである。
    現在の神職六人部(むとべ)氏は饒速日命6世の孫「妙斗米命」の子孫で第95代である。また「妙斗米命」は笛吹連の祖・櫂子の大叔父にあたる人物でもある。
     この神職の血縁関係から考えても、乙訓坐大雷神社と葛木坐火雷神社は密接な関係にあることは明らかであり、さらには乙訓坐大雷神社の創建には櫂子のたてた武勲が大いにものをいったと考えられる。

    参考『饒速日命系図』2
      ①饒速日命――④天忍人―⑤天戸目―⑥建斗米―⑦建多乎利―⑧櫂子
                      +⑥妙斗米―――――――六人部氏
  • 向日神社

    祭神 向日神 配 火雷神、玉依姫命、神武天皇
    由緒
     式内社の山城国乙訓郡向神社と乙訓坐火雷神社(オトクニニマスホノイカヅチ)を合祀している。 両社は向日山に鎮座していたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
     向神社の創立についての神社の説明は以下の通り。
     大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
     また「日本の神々(白水社)」によれば、大歳神の子神は白日神であり、この神名を向日と(誤って)記したものであろうとの見方をしている。地名と神名の先陣争いである。
     五十猛命の別神名と推定した白日別命と大歳神の御子の白日神とは異なった神格であるとも思われるが、とりあえず五十猛命を祭る中へいれた。
     創祀については、養老二年(718)に六人部氏(むとべ)が当地を賜ったことに発し、同年に日向国から遷座して来たと言う。六人部氏については最後に記す。

    寛永二年造営の拝殿と舞殿
     『向日二所社鎮座記』には、神社の裏の峰(八尋矛長尾岬)を「朝日の直刺す地、夕日の日照る地、天離る向津日山」と書いている。 (『秦氏の研究』大和岩雄)。
  • 播磨国風土記は、大国主神の子の火明命が乱暴であったので、姫路の八丈岩山(注:姫路城の北西)に着いた時、水汲みに行かせて、帰らぬ前に船を出して置き去りにし、怒った火明命が波風を起こし、大国主神の船が難破し、積み荷の琴が落ちた所を琴神丘、蚕(ひめ)子が落ちたところを日女道(ひめじ)丘などと名付けたという地名説話が載っている。
     古事記では「ニニギ命の兄」、日本書紀では「ニニギ尊の三男」とされる火明命が登場するのであるが、記紀編集後に作成された播磨国風土記が「大国主神の子」としていることや、石棺制作に携わった各地の石作神が火明命の子孫と称し、印南の竜山石が天皇などの石棺に使われていることからみて、大国主神の御子の可能性が高い。

    向うーーー>武庫ーー>六甲
  • 天道日女とは

    「彦火明命」が天上(高天原?)にいたときに娶った妃がこの「天道日女」で、その父は対馬県主祖「天日神命(あまのひのかみ)」と先代旧事本紀に書かれている
    また、この「天日神命」の別名が「天照御魂神(あまてるみたま)」と呼ばれ「天御中主神」のことかもしれないということになっ
    た。    
    天日神命<天照御魂神>  
    天御中主神?             │             │           
    天道日女命 =========== 彦火明命  しかし、海部氏本系図の勘注系図によれば、「天道日女」は「大己貴神(おおなむち)」 の娘で海部氏の祖「彦火明命」の妃となり、「屋乎止女命(やおとめ)」とも「高光日女命 ( たこひめ ) 」また「祖母命(そぼのみこと)」とも呼ばれていた。
    一方、彦火明命の亦の名を「天火明命(あめのほあかり)」、「天照御魂神(あまてるみたま)」、「賀茂別雷神(かもわけいかずち)」、「饒速日命(にぎはやひ)」   とも呼ばれていたと記す。
    大己貴神<大国主>            │            
    │    
    天道日女<屋乎止女命 高光日女命 祖母>==== 天火明命
     《天照御魂神、賀茂別雷神、饒速日命》
       
    彦火明命の妻だったことには間違いがないようだ。
  • 天香語山命が倉部山(三国山)の尾上に神庫をつくって種々の神宝を収蔵した。そこへ、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、この地を「高橋郷」といった。今なお峰の頂に天蔵といわれる神祠(天藏神社)があって、天香語山命を祀っている。また、麓に祠があり、山口坐御衣知祖母祠という。天道日女命という神が年老いてこの地に来られ、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたのでそこに祀られた。

    天道日女は、三国山鎮座の祭神「天香語山命(あめのかごやま)」の母である。
  • 籠神社海部家の祖先神である彦火明命は豊受大神をお祀りになったと伝えられています。彦火明命には二方(ふたかた)の后があり、一方(ひとかた)は大己貴神の女(むすめ)である天道日女命(あめのみちひめのみこと)です。もう一方(ひとかた)は俗に「宗像三女神」と呼ばれている神の一方(ひとかた)で市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。
  • 一書に申す。初め火勹臼炎明るき時に生まれる兒、火明命。次に火炎盛むなる時に生まれる兒、火進命 または火酢芹命と申す。次に火炎避る時に生まれる兒、火折彦火火出見尊。凡てこの三の子、火害なふ能はず。また、母、少しも損ふところなし。時に竹刀をもって、その兒の臍を截る。その竹刀を棄てしところ、つひに竹林と成る。故に彼の地を號けて竹屋と申す。時に神吾田鹿葦津姫、もって田を卜定へ、號けて狹名田と申す。その田の稻をもって、天甜酒を釀みこれを嘗す。また、渟浪田の稻を用ひて、飯を爲きこれを嘗す。

    この書は竹屋の由来を述べるものである。三子の生まれる順については本文、前の書、この書バラバラである。火折彦火火出見尊のみ尊がつくことだけが共通している。長男でなく、次男あるいは末っ子に尊がついている。
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