讃岐国造、鷲住王、海部氏、神櫛王

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  • October 2018 編集されました
    『先代旧事本紀』の『第十巻 国造本紀』に、讃岐の国造(くにのみやつこ=地方を治める官)として「応神朝の御世に、景行天皇の子である神櫛王(かんぐしおう)を始祖とする3世孫の須賣保禮命(すめほれのみこと)を定めた」とある。『先代旧事本紀』とは天地開闢から推古天皇の時代までを記す史書。富田茶臼山古墳の築造が5世紀前半と推定され、応神大王の在位は4世紀後半から5世紀初とされるので、被葬者を初代の讃岐国造とすることが可能である。
     江戸期の讃岐の史書に『全讃史』がある。1829(文政12)年に、中山城山が著わしたもの。同書の「仁徳帝陵」と題する項に「今は茶臼山というが、倭名抄にこの地を難波郷というのは、この陵があるためであろう。当時、帝徳に感じてこの陵を築いたのである。近ごろその名が失われて知るものがなかったが、あれこれと尋ねて情報を得た」との記述がある。仁徳大王は応神大王を継ぐ大王であり、仁徳帝の時代に先帝が任命した国造の墳墓(富田茶臼山古墳)を築いたと解することに無理がない。
     なお神櫛王については『続日本後紀』などが第12代景行天皇の第10皇子と伝えるが、事績などの記述はない。高松市牟礼町に「神櫛王墓」と治定された陵墓があり、宮内庁が管理する。

    父の景行天皇の陵は渋谷向山古墳(奈良県・天理市)に、母イナビノオオイラツメの陵は日岡陵(兵庫県・加古川市)に、実兄のオオウスの墓は大碓命墓(愛知県・豊田市)に、ヤマトタケルの墓は能褒野王塚古墳(三重県・亀山市)、大和琴弾原古墳(奈良県・御所市)、軽里大塚古墳(大阪府・羽曳野市)に、それぞれ治定されている。

    ヤマトタケルの異母兄弟である第十三代成務天皇の陵は佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)に、子である第十四代仲哀天皇の陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、それぞれ治定されている。

    最愛の叔母ヤマトヒメの墓は尾上御陵(三重県・伊勢市)が宮内庁によって管理されている。

    熱田神宮(愛知県・名古屋市)では、創祀者とも言うべき、ヤマトタケル妃ミヤズヒメの陵を、熱田神宮北西数百メートルにある断夫山古墳とし、また熱田神宮の西方、断夫山古墳の南方にある白鳥古墳をヤマトタケル陵としており、現在も毎年5月8日に御陵墓祭を行なっている。
  • 稲背入彦命については、『古事記』垂仁段に皇女阿邪美都比売命について、稲瀬毘古王に嫁したとありますが、稲瀬毘古王にせよ稲背入彦命にせよ、同書には景行天皇の皇子としては記されません(『旧事本紀』天皇本紀にも垂仁の皇子としてあげられていません)。一方、『書紀』垂仁段には、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)は池速別命・稚浅津姫命を生むとあり、後者が阿邪美都比売に当たりそうですが、嫁ぎ先は見えません。また、景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀が合致しません。
    これらも含めて、垂仁天皇及び景行天皇周辺の人物は、記・紀や『旧事本紀』で一致しないことが多く、その皇子・皇女について多くの矛盾する所伝が記載されています。この矛盾がなぜ生じたのかというと、結論的にいえば、本来別系であった応神天皇とその祖先の系譜を両天皇の周辺人物に取り込んだからだと推されます。
    稲背入彦命(稲瀬毘古命)については、記と紀とでは、記のほうが古伝であって、原型ではないかと考えられるところです。すなわち、稲瀬毘古命は本来王族ではなく、垂仁皇女との婚姻(垂仁女婿となること)により皇子として皇室系譜に取り込まれたと考えるものです。
  • 讃留霊王 坂出市
     景行天皇の御代に、讃岐の海で大魚が荒れ狂ひ、多くの船を沈めたので、皇子の神櫛かみくし王が讃岐国に派遣された。王は、多度津のあたりから櫛梨川(金蔵寺川)をのぼって船を櫛梨くしなし山に泊め、船磐ふないは大明神をまつって戦捷を祈った。海に戻って首尾良く大魚を退治した後、王は城山(坂出市府中町)に居城を築き、国造に任命された。王は、没後に国府の鎮守の城山神社にまつられ、讃留霊王とも呼ばれた。王の子孫が、讃岐氏、酒部氏である。王はまた櫛梨山に葬られたともいひ、櫛梨神社(仲多度郡琴平町下櫛梨)がある。櫛梨とは酒成くしなしの意味で、酒造の祖でもある。
  • 宇閇神社(うへじんじゃ・うのいじんじゃ)


    祭神 鵜羽葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

    丸亀市綾歌町栗熊西字宇ノ井上277番地

    由緒

    酒部益甲黒丸の創祀と傳へられ、延喜神名式に「讃岐国鵜足郡宇閇神社」とあるのは、當社なりとも云へり。三代物語、全讃史、生駒記等は此の説なり。 傳ふる所によれば、酒部益甲黒丸は武卵王の裔にして當地に住し酒を醸す。城山長者と称せられ其の家甚だ富む。 常に家に井泉なきを憂へしが、邸内に栗の樹あり、鵜樹上に集へるが、或る朝鵜群足を以て地をえがきしに其の處より清水湧出して流を為せり。夜は星影この水に映じて玉の如くなりしより玉の井と称す。 郡名鵜足はこれによって起る。又郷の名を栗隈又は玉隈と云う。この水の至る所五穀豊熟せり。依って其の地を富隈と云う。黒丸この水を以て酒を醸ししにその色黒く澄みて味甚だ甘味なり。以て允恭天皇に奉る。 天皇之を嘉し給ひて姓酒部を賜ふ。其の酒を称して黒丸酒と云へり。黒丸一祠を井のほとりに建つ、即ち當社なり云へり。後鵜井権現、鵜野邊の神等称せられ、更に降りては十二社権現とも称へられたり。黒丸の○跡を城山と云う。 今木山と誤れり。又玉井大明神と云う祠あり。栗樹の跡を栗野と云ひ、當社地を鵜之井免と云う。明治初年宇閇神社と改称し村社に列せられ、大正七年八月神選幣帛料供進神社に指定せらる。(香川県神社詩より抜粋)

    解説

    ①宇閇神社について
    鵜羽葺不合尊は、日本神話の神。古事記では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえずのもこと)、日本書記では彦波○武○○草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記されています。 「山幸彦・海幸彦の神話」はご存知だと思いますが、神話の記述によりますと、山幸彦(ホオリ)と海神(ワタツミ)の娘である豊玉毘売(トヨタマビメ)の子。 ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズノの三代は日向三代と呼ばれている。山幸彦と豊玉毘売が住んだ場所とされているのが宮崎県の青島神社、息子の鵜葦屋葺不合命の宮は鵜戸神宮です。 豊玉毘売は海の宮で懐妊したが天津神の御子は海の中で産むわけにはいかないとして、海辺の渚に産屋を作ろうとしたが、葦草がわりの鵜の羽を葺き終わらないうちに豊玉毘売が産気づいたため、「ウガヤフキアエズ」と名付けられることになった。 豊玉毘売は「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」とホオリに言う。 しかし、ホオリは産屋の中を覗いてしまい、そこには豊玉毘売が姿を変えた八尋和邇(ヤヒロワニ)が這い回っているのを見て逃げ出した。 豊玉毘売はホオリに覗かれたことを恥ずかしく思って、産まれた子を置いて海に帰ってしまい、代わりに妹の玉依毘売(タマヨリビメ)を遣わした。 豊玉毘売はホオリが覗いたことを恨みはしたが、やはり恋しくて、玉依毘売を通じてホオリと歌を読み交わした。ウガヤフキアエズは、育ての親である玉依毘売と結婚し、玉依毘売との間には五瀬命(イツセノミコト)・稲氷命(イナヒノミコト)・御毛沼命(ミケヌノミコト)・若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)の四子をもうけた。 ミケヌは常世の国(理想郷)へ渡り、イナヒは母のいる海原へいった。末子のワカミヌケが後にはカムヤマトイハレビコ、即ち神武天皇となる。 信仰的には、他の天皇につながる神と同様に農業の神として信仰されるほか、説話から夫婦の和合、安産などの神徳もあるとされています。

    ② 酒部益甲黒丸について
    讃留霊記に、讃留霊公の裔に酒部益甲黒丸という人物がおり、酒を造って允恭天皇へ奉ったとありますが、実態はよくわかっておりません。 この神社を初め飯山町の讃留霊王神社、土岐川周辺で黒丸創始の神社は多く見られます。
  • 南海治乱記
    ・・・
    安喜の東に野根山とて十里の大山を越て野根と云ふ所あり。阿波の海部宍咋に並ぶと云へども土佐の内也。此の領主を野根殿と云ふ。土州奈半利の城主、桑名丹後守調略を以て附城を構へ番代にして是を守らしむ。野根も城には常に住せずして土居構に居す。城は番持なり。土佐へは山中二十里も在なれば制する事有べからずと思へり。
      天正二年七月、野根の町にてうら盆の踊をなさせ毎夜男女集りて踊る。其声附城へも聞ゆる処に、同十六日の夜、附城の番兵の内に西内喜兵衛と云ふ者あり。其歳十八なるが傍輩に告て曰く、城兵も町へ出て踊やらん、声高く聞ゆる也。此踊に紛て城へ入り城内を見て帰るべし、其形勢に因て燧を揚ば外より攻入べしと云。各思ふには迚も行べからずとて応諾す。喜兵衛、山下に行て見れば城番の者ども長き刀を指し、頬かむりして踊る。夫れより城へ行て見れば城番四人門戸を開きて門樓の敷居を枕にして月の夜に並伏せり。寝入りたる所へ立寄り四人ともに伐殺す。家にも火を附け焼立しかば敵も喜兵衛一人して此の如しとは知らずして、香曽我部が兵将山寄せ忍入りて乗取たると心得て、野根も下人町人も皆阿波の海部宍咋へ迯去る。附城の兵、即時に走付て城を乗取て相守る。喜兵衛が一心の動(はたらき)を以て速功を得たり。是よりして土佐の国の東方の弓矢治まる。
      野根氏の来由を繹(たずね)るに、昔し人皇十八代履中天皇六年に方て鯽魚磯別王(ふなしわかれおう)の女姉妹二女を以て后宮に納て寵せしめ玉ふ。其二姫常に嘆息し玉ふことあり。天皇奇み玉ひて汝たち何をか歎や。対て曰く、妾が兄、鷲住王と云ふ其人となり強力にして軽捷(からわざ)なり、八尋の屋を馳越て遊行し遂に還らず、住吉の邊に居住す。其面会せざることを歎くとなり。天皇其強力を悦んで使を以て是を召す。鷲住王、卑賤に交り強力の者を友とする事を喜み、儀則を正し君長に対する事を喜(この)まず。此故に参来せず。重て使を以て召せども猶参来せず。其後は廃てて召し玉はず。鷲住北(にげ)て阿波国脚咋邑に匿る。脚咋は今の肉咋也。野根邑に相連れり。野根氏は其遠裔也。又鷲住王、讃岐の国に出て那珂郡に居住し強力の者を聚め力競を事とし壮勇の者を友として相嬉(たのし)めり。二姫の希に依て讃岐の国造となし玉ふ。鷲住王卒して後、馴致の豪友、其亡跡を慕ひ社を造つて之を祭る。今の飯山権現是也。其児孫相続いで其所を守る。其邑に喬木の有けるにや、高木を以て氏とす。是より大力の者の出る事今に絶えず。近世の高野山の常菩提院及び高木右馬助などと喚れし大力も其裔也。故に飯山を力山と云ふ。又野根の山邑は土佐の内と云へども阿波に近し。世々阿波に倚て武命を受け独立して爰に至る。時なるかな、時なるかな、今長曽我部氏に遂れて家を失ふ。野根の里人諷て曰く、野根のまねして阿波土佐まねな 身は程々の程を嬉めと也。昔人は野根も阿波土佐に並と思へり。 
      (東方野根城陥るの記;巻之九)


    長宗我部元親の土佐統一は、この野根山陥落をもって完了する。
    「元親記」も「長元物語」も大同小異の内容だが「長元物語」が最も詳細で「南海治乱記」もおそらくこの書を参考にしたのだろう。城主までもが城を出て踊りを見物していたために、西内喜兵衛という若造一人でまんまと城を乗っ取られてしまった訳で油断が招いた救いようのない過ちだったとしか言いようがない。祭礼の夜の老若男女が踊り狂う様と落城の阿鼻叫喚が重なって幻想的な絵巻の如く、その光景が脳裏に去来するのは小生だけであろうか?・・ところで、後半の鷲住王の話は南海治乱記のみに記載され、成資と同じ讃岐に関係の深い人物だけに非常に詳細である。後の「全讃史」には「・・阿に来りて肉咋郷に居り、人多く之に従ひき、里人の女を愛し一男をを生ましめ、野根命と曰ひき・・」と野根殿(惟宗国長)の由来が語られている。最後に著者の中山城山が「ああ、世に於て最も健羨すべき者は雄力なり。権勢を假らずして能く人急を脱し、一日の勤無くして其の名を朽たさず。予幼より斯道に志し、心を典籍に潜め、意を文苑に刻し、老の将に至らんとするを知らず。茲に遊岳を垂れ頗る道の一斑を得、又他郷に名を得たり。然れども未だ邦人の知を得ざるなり。若し我が学を以て彼の力に換へんか。必ず観るべきあらん。道の見え難きは命なるかな。」と鷲住王への限りなき憧れを感情の昂ぶりとともに吐露しているには、怜悧冷徹な彼の文章の中でも異例中の異例である。
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